フィレンツェだより番外篇
2012年4月1日



 





アンドレア・デル・カスターニョの「最後の晩餐」
サンタポロニア女子修道院食堂



§フィレンツェ再訪 - その7

修道院(コンヴェント)の「食堂」(チェナーコロ)に描かれた「最後の晩餐」(ウルティマ・チェーナ)で最も有名なのは,ミラノのサンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ修道院のレオナルド・ダ・ヴィンチの作品であることは言うまでもない.


 「最後の晩餐」と聞いて1番先に思い出すのはレオナルドの作品で,多くの人にとって2番目はないかも知れない.

 ところで,「食堂」の「最後の晩餐」はミラノで他にあったのだろうか.そもそも「食堂」以外でも,レオナルド以前の「最後の晩餐」はどこで見られるのだろうか.


写真:
タッデーオ・ガッディ
「最後の晩餐」
サンタ・クローチェ聖堂


 フィレンツェの複数の「食堂」に「最後の晩餐」が残っているのは,何度か言及した.

 現存する最古の作品はタッデーオ・ガッディのフレスコ画がサンタ・クローチェ聖堂のフランチェスコ会修道院の食堂に残っている.見事な作品だ.他の11人の弟子たちがイエスと同じ側にいて,裏切者のユダだけがテーブルの反対側の座っている.この「不自然さ」を革新して,人間ドラマを描いたのがレオナルドだとされる.

 タッデーオの次に古い,サント・スピリト聖堂のアゴスティーノ(アウグスティヌス)会修道院食堂のオルカーニャの「最後の晩餐」は殆どが失われてしまい,全体としてどんな構図だったかも今はわからない.何らかの記録が残っていれば別だが,少なくとも私は知らない.タッデーオの作品が1340年頃,オルカーニャの作品が1370年頃とされるので,フィレンツェ周辺で多くの死者を出した有名なペスト(1348年)を挟んで,30年くらいの時代差があることになる.

 次に古いのは,サンタポロニア女子修道院食堂のアンドレア・デル・カスターニョの作品(トップの写真)で,これも様々な意味で革新性を備えた傑作だが,ユダは反対側にいる.1447年の作品とされる.一見して古臭い感じがするが,先行する2つの「最後の晩餐」が14世紀に描かれたの対し,15世紀も半ば近い,初期ルネサンスも終盤を迎える頃の「新しい」作品なのだ.



 レオナルドの「最後の晩餐」は1494年に着手され,1498年に完成したとされる.

 レオナルドは1452年,カスターニョの作品が描かれた5年後に生まれた.伝記的事実として確認できないが,少年時代にフィレンツェに出てきたレオナルドは,少なくとも3点の食堂の「最後の晩餐」を見た可能性がある.最も,修道院の食堂が今のように観光客にも解放されている時代とは違うので,本当に参照できたかどうかはわからない.

 しかし,革新すると言うことは,革新すべき先行作品があることを前提にしている.少なくとも使徒たちの表情に豊かな感情が見られるカスターニョの作品はレオナルドの「最後の晩餐」に多くの点で似ているように思われる.「遠近法」の確立以降の作品だ.しかし,相違点も多い.劇的なレオナルド作品に対して,カスターニョの静謐さは全く対照的だ.

 レオナルドでは背景に窓が開いていて,遠景が奥に展開しているが,カスターニョでは背後は壁に閉ざされ,光は向かって右側の窓から入ってくる.壁の化粧大理石は多分,作者が芸術家としての誇りをかけて描いたものだろう.

 カスターニョの作品はキリストと使徒たちの顔が一見コミカルに見えて,厳しい状況の緊張感に欠けるようにも思えるが,大理石の冷たい質感と,幾何学的な画面構成に溢れる静謐感は,決してレオナルドに乗り越えられた時代遅れの芸術とは思えない.

写真:
ギルランダイオ
「最後の晩餐」(部分)
オンニサンティ教会食堂


 レオナルドが参照できた可能性のある「最後の晩餐」はこれらだけではないかも知れない.ギルランダイオは1449年生まれで,フィレンツェ周辺に少なくとも3つの「最後の晩餐」を描いている.資料によって,一定ではないが大体,1476(バディア・パッシニャーノ),1480(オンニサンティ),1482/86(サン・マルコ)年がそれぞれの製作年代と考えらている.だとすれば,これらの作品はレオナルドの「最後の晩餐」に全て先行している.

 1476年にレオナルドは24歳,同性愛の疑いで告発されたが,証拠不十分で罪には問われなかった.またこの年に父ピエロに初めて嫡出の男子が生まれ,婚外子であるレオナルドの公証人の相続人としての地位が決定的に不利なものとなった(シャーウィン・B・ヌーランド,菱川英一訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』岩波書店,2003,p.29).

 芸術家として独立し,後援者を求めていたレオナルドは29歳の年に,ミラノを実質的に支配していたルドヴィーコ・スフォルツァに自薦書を送り,召し抱えられることとなり,翌1482年にミラノに向かい,ルドヴィーコが失脚するまで17年間ミラノを活躍の場とした.

 それ以前の1470年に20歳で,当時画家の祖と考えられ,その守護聖人であった福音史家ルカの名を冠した同業組合に登録し,芸術家として独立する資格を得たが,76年まではヴェロッキオの工房に所属していたようだ(ケネス・クラーク,丸山修吉/大河内賢治訳『レオナルド・ダ・ヴィンチ』法政大学出版局,1974,p.6).

 この時代のレオナルドは徒弟としての修業を終え,親方から有能な助手としての役割を期待され,ヴェロッキオの本領である彫刻にも多大な貢献をし,ウフィッツィに現在はある「キリストの洗礼」の左側の天使でその実力を知られるようになり,やはりウフィッツィ所蔵の『受胎告知』などの初期作品を完成させた.

 その実力を買われたレオナルドは,サン・ドナート修道院から「三王礼拝」の絵を注文され,1481年に正式な契約を結んだが,中途のままその仕事を放棄して,ミラノに去った.未完成のその絵もウフィッツィにある.わずか3歳違いだが,工房を率いて多くの注文をこなし始めていたギルランダイオや,7歳年上でメディチ家の愛顧を受けていたボッティチェリの姿を横目に,フィレンツェを後にしたことになる.

 フィリッポ・リッピの弟子であるボッティチェリ,ピエロ・デッラ・フランチェスカのもとで修業したこともあると言われるペルジーノも,レオナルドの先輩としてヴェロッキオ工房にいたとされる.ペルジーノは1446年の生まれだから,ボッティチェリ,ペルジーノ,ギルランダイオ,レオナルドの順で7歳の年齢差の中に4人の偉大な芸術家が収まることになる.

 ケネス・クラークはレオナルドの「最後の晩餐」に関して,

「レオナルド創意がいかにすぐれたものであるかは,この題材の彼の扱い方と彼以前の画家の扱い方と彼以前の画家の扱い方を比較すれば容易にわかる.そのわずか一年か二年前にギルランダイオとペルジーノがそれぞれ最後の晩餐図を描いたが,彼らの構図は一〇〇〇年も前から信心深い人々を満足させてきた構図と根本的には同じで,およそ次の通りだ.使徒一一人はテーブルの向こう側にきちんと一人一人静かに座っている.ときには互いに話をしている場合もあるし,ぼどう酒を飲んでいる場合もある.キリストは中央に座っていて,聖ヨハネは窮屈そうにキリストの膝に顔を伏せている.ユダはただ一人テーブルのこちら側にいる」(前掲書,p.136)

と述べている.

 果てしてそうだろうか.レオナルドの卓越性に関しては何の異論もない.もちろん,現在の修復された作品が本当に原形をとどめているのかという問題もある.クラークも言っているように,多くの不適切な修復を経たであろうこの「最後の晩餐」の劇的効果を生んでいるのは,「頭部の表情ではなく,まさに人物の配置と人物の全身の動きに違いない」(前掲書,p.135)ので,現在の姿が原形と違っていても,レオナルドが意図して,人々の目を引き,心を揺さぶる効果は十分に生きている.

 しかし,レオナルドがいかに優れているからと言って,ギルランダイオやペルジーノが彼の引き立て役に過ぎないとは思えない.

 ペルジーノが下絵を描き,弟子たちが完成させたと言われる「最後の晩餐」は,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ駅からナツィオナーレ通りを北上し,左に曲がってファエンツァ通りを進むと,すぐ右側に入り口があるフランチェスコ会の旧フリーニョ女子修道院の食堂に描かれている.

 完成したのが1495年頃であれば,レオナルド作品とほぼ同時期であり,描き始められたのが1493年(伊語版ウィキペディア)だとすれば,レオナルドはミラノにおり,フィレンツェでペルジーノ下絵の「最後の晩餐」を見た可能性はあるのだろうか.ヨハネは伏し,ユダは反対側に1人で座っているのはクラークの言うとおりだが,背景は柱廊の向こう側に「ゲッセマネの祈り」の場面が描かれていて,少なくとも私が知る限り類例はないように思える.

 ミケランジェロが天井画を描く以前のシスティーナ礼拝堂に,フィレンツェを中心に活躍していたトスカーナ,ウンブリアの画家たちが呼ばれて,一連のフレスコ画を描いた.1481年から82年のこととされる.既に,独立した画家として「ジネヴラ・ベンチの肖像」も「受胎告知」も描いていたレオナルドはこのとき呼ばれなかった.

 現在のレオナルドの名声には比べるべくもないが,当時のフィレンツェで一流の画家として評価されていたコジモ・ロッセッリは,システィーナの壁面に「最後の晩餐」を描いている.背景に3つの場面が描かれていて,向かって左から「ゲッセマネの祈り」,「ユダの接吻」,「キリスト磔刑」になっていて,こちらの方がペルジーノよりも前だし,同じ場所(システィーナ礼拝堂)で同時期に仕事をしていたのだから,ペルジーノはほぼ間違いなくこの作品を知っていただろう.

 ギルランダイオの3つの「最後の晩餐」のうち,市外にあるものと82年以降に描かれたものを除く,オンニサンティの作品はレオナルドが見た可能性がないとは言えない.3つの「最後の晩餐」はいずれも,クラークが言うように,ヨハネは伏し,ユダは反対側に座っている.オンニサンティとサンマルコの作品は,背景に鳥と植物によって楽園のイメージが描かれている.これも類例があるのだろうか.ないのならば,十分に独創的に思える.鳥は出てこないが,強いて言えば,やはり今回も観ることができたサン・マルコ修道院美術館のフラ・アンジェリコのキリストの生涯を描いた諸場面のパネル画の一面であろうか.



 ユダが反対側にいる図像は確かにタッデーオ・ガッディまで遡ることができる.ヨハネがキリストに身を委ねて伏しているのはさらに古くまで遡ることができる.そもそも,ヨハネとはっきり言っているわけではないが,「愛された弟子」がイエスに寄りかかっていることは聖書に典拠がある.

 ユダが反対側に座ったとは聖書には書かれていないし,図像としてもタッデーオ以前に存在するのだろうか.啓蒙的紹介書ではあるが,便利で手軽な

 Last Supper, London: Phaidon Press, 2000

を参照すると,私の疑問に反して,意外に古くから存在するようだ.この本に出てくる,ユダが反対側に1人で座っている図像で最も古いのは,ミュンヘンのバイエルン州立図書館の所蔵されている彩色写本の挿絵のようだ.1007年か1009年の作品とされていて,11世紀には,これ以後,この本に載っている限り1作あり,12世紀は5作ある.ユダが半円形のテーブルの左端に孤立しているものはより古い図像があるので,もしかしたら,こちらが原形かも知れない.

 ヴェネツィアのサン・マルコ聖堂のモザイクの「最後の晩餐」は半円形のテーブルではなく,長い方形のものだが,左端にユダがおり,半円形のテーブルの左端にユダがいるタイプと,長方形のテーブルの反対側にユダが1人いるタイプの中間形と言えるかも知れない.サン・マルコのモザイクは12世紀後半の作とされる.

 しかし,上記の本で,半円形のテーブルの左端にユダがいるタイプの「最後の晩餐」の最古のものは,以前このページでも紹介したことのあるラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌォーヴォ聖堂のモザイクだ.6世紀前半ということであれば,現存するキリスト教絵画としても相当古いと思われる.もしかしたら,今は失われたこれ以前の「最後の晩餐」を継承しているかもしれず,その意味では,私がクラークの「彼らの構図は一〇〇〇年も前から信心深い人々を満足させてきた構図と根本的には同じ」と言う言い方に反発を感じたのは的外れで,クラークの言っていることは正しいのかも知れない.

 しかし,それでもなお,フィレンツェでタッデーオ・ガッディ,アンドレア・デル・カスターニョ,ドメニコ・デル・ギルランダイオ,ピエトロ・ペルジーノの「最後の晩餐」を見て,彼らの作品がレオナルドの革新によって乗り越えられて,陳腐化してしまった(とまでクラークは言っていないが)とは思えない.それぞれに魅力的な作品であり,レオナルドの作品も確かに卓越した革新性を備えているとはいえ,そうした魅力的な作品群の中の一つなのだと,少なくとも私は思いたい.

 レオナルド以降でも,アンドレア・デル・サルトとフランチャビージョの「最後の晩餐」は魅力的だ.これだけ素晴らしい作品を生み出したフィレンツェで最古の「最後の晩餐」はどこにあるのだろうか.

 これもきちんと調べたわけではないので,断言はできないが,少なくとも今までに私が見た中では,サン・ジョヴァンニ洗礼堂(伊語版英語版ウィキペディア)の天井に描かれたモザイクの「最後の晩餐」がその候補ではなかろうか.


写真:
モザイクの「最後の晩餐」
サン・ジョヴァンニ洗礼堂


 ユダがテーブルの下方に這いつくばって,キリストからパンを貰うタイプの図像は今までに,ヴォルテッラ大聖堂の説教壇の浮彫彫刻で見ているので,あまり奇異な感じはしない.上掲書では,向かい側に腰かけてパンを受け取るもの,地べたに座ってパンを受け取るものは見られるが,ユダが這いつくばっているものは見られない.多分,探せばどこかにはあるのだろう.

 ユダがこの格好でイエスからパンを受け取れば,他の弟子たちが裏切者がユダであることに気づかないはずはないので,テクストに忠実と言うよりは,あくまでも見ている人にユダが裏切者であることを明示するためのものであろう.その意味では,ユダが反対側に1人で座っているタイプも,不自然で,あくまでも見ている人に裏切者が誰かをわかりやすくする効果が優先されていることになる.

 円形(ピエトロ・ロレンゼッティなど),または方形(ドゥッチョなど)のテーブルを全員で囲んでいるものも少なくないと思われるが,ユダが1人反対側の座っているタイプの「最後の晩餐」に見られる横長のテーブルに,ユダも同じ側の左端ではない位置に座っているのは,確かにレオナルド以前には見られないのかも知れない.

 しかし,これも,やはり絵を見ている人の都合が優先されているであろうことは,このような会食形式が通常有りうるかどうかどうか考えたら,わかるように思える.決して自然な姿ではないだろう.

 洗礼堂の天井モザイクは,13世紀後半に制作が開始され,ヴェネツィアからビザンティン風モザイクの職人が招かれたが,これをトスカーナの芸術家たちが引き継いだようだ.その中には,メリオーレマッダレーナの親方コッポ・ディ・マルコヴァルド,後にチマブーエが関わったらしく,それぞれが担当した場面も報告されている(Gabriella Di Cagno, Il Duomo, il Battistero e il Campanile,
Firenze:Mandolagora, 2001, p.32).さらに,15世紀にギルランダイオの師匠とされるアレッソ・バルドヴィネッティが修復したことは以前も言及した.しかし,「最後の晩餐」を誰が担当したかは今の所,情報がない.

 次回は,洗礼堂の感想から,フィレンツェのロマネスクを考えてみたい.






カスターニョの「キリスト受難」のうち「イエスの復活」と「磔刑」
サンタポロニア女子修道院食堂「最後の晩餐」の上部