フィレンツェだより番外篇
2012年3月23日



 




新市場のロッジャ(1551年完成)
職人の権利を主張した人物の像(1895年作成)が壁龕に立つ(左手前の柱の右側)
(1378年チョンピの乱で指導者となった羊毛梳き職人ミケーレ・ディ・ランド
(左は銀行家でフィレンツェの年代記を書いたジョヴァンニ・ヴィッラーニ
(別の場所に,フィレンツェで最初に活版印刷の本を出版したベルナルド・チェンニーニ



§フィレンツェ再訪 - その2

ウフィッツィで一つ不満があった.


 ジョヴァンニ・ベッリーニの有名な寓意画を見て驚いた.絵と額の間にかなりの隙間がある.購入時からそういう状態で,元の形を尊重しているのだとしても,やはり何とかするのが,世界有数の美術館の使命ではなかろうか.私は,この絵は好きではない.しかし,ヴェネツィア派興隆の礎を築いた巨匠の作品だ.大切にしてほしい.

 華やかなウフィッツィでも,北方美術と北イタリアのルネサンスの部屋は地味だ.収集としても地味だが,それでもアンドレーア・マンテーニャ,コスメ・トゥーラ,ヴィンチェンツォ・フォッパ,イル・フランチャなどの巨匠の作品もあり,中でもマンテーニャの作品は傑作だ.しかし,じっくり見る環境としては,それが掲げられている部屋は地味すぎる.

 レオナルデスキの作品もあった.ウフィッツィとパラティーナに関して複数の案内書を参照するが,基本的に,大冊

 Mina Gregori, Painting in the Uffizi & Pitti Galleries, Boston: Little, Brown Company, 1994(以下,グレゴーリ)

を基準にする.

 イタリア語原著からの英訳本だが,殆どの作品の写真を掲載し,簡潔な解説を付している.美術館はボルトラッフィオ「ナルキッソス」としている作品を,グレゴーリはレオナルドの様式で作画した無名の画家の作品とし,伝統的にボルトラッフィオ作とされてきたと解説している.私はこの作品に今まで気づかなかったが,レオナルデスキが気になっている今,結構美しい作品に思えた.

 ベルナルディーノ・ルイーニの「サロメ」は美しい絵だったが,グレゴーリの分厚い本には掲載されていない.美術館はメルツィ作とし,グレゴーリはレオナルド派とする「レダと白鳥」は今回,修復中なのか外されていた.ジャンピエトリーノの「聖カタリナ」は別の案内書の写真で確認できたが,気づかなかった.


パラティーナ美術館
 アカデミア美術館とウフィッツィ美術館では,今回そう大きな満足感は得られなかったが,6度目にして初めて入場料を払って行った(ただし,ツァーの一環なので自分で直接は払っていない)パラティーナ美術館で,自分はこのコレクションとは相性が良いとの確信を得た.

 ここには私が好きなゴシック絵画はないが,盛期ルネサンス,マニエリスム,バロック,(新)古典主義の傑作に溢れている.特に,盛期ルネサンス,マニエリスムのトスカーナ絵画に関しては,ウフィッツィを凌駕して,おそらく世界で一番ではないかと思っている.

 ローマで活躍したボローニャの画家たち,ナポリやミラノで活躍したバロック以降のイタリア絵画に関しては,イタリア国内でもパラティーナ以上のコレクションは複数あるだろうが,フィレンツェ,トスカーナのルネサンス,マニエリスム,対抗宗教改革時代の絵画に関しては,その充実度は並ぶものがないであろう.

 ラファエロとアンドレア・デル・サルトの収蔵点数は立派だと思う.この2人はほぼ同世代だが,ラファエロが3歳年長で,37歳になる年に亡くなり,デル・サルトは45歳まで生きたので,ラファエロの死んだ1520年をイタリア・ルネサンスの区切りの年と考えるなら,デル・サルトはマニエリスムの時代まで生きた,イタリア・ルネサンス絵画最後の巨匠と言えるかも知れない.

 そう断言するには,彼らより先に生まれ,ずっと後になって1564年に89歳で逝去したミケランジェロと言う巨人の存在が大きな壁となって立ちはだかるが,ミケランジェロを除いて考えれば,フィレンツェでマニエリスムが始まり,ティツィアーノを先駆けとしてヴェネツィアの画家たちが活躍する以前の最後の時代をこの2人は生きたと言って良いだろう.

 もちろん,この2人の重要な作品はウフィッツィにも,世界中の大美術館にもある.

 アンドレア・デル・サルト(1486-1531)の工房にポントルモ(1494-1556)がいた.ポントルモの工房にブロンズィーノ(1503-1572)とジョヴァンニ・バッティスタ・ナルディーニ(1532-1591)がおり,前者の門下からアレッサンドロ・アッローリ(1535-1607)が,後者の門下からフランチェスコ・クッラーディ(1570-1661)が出た.さらにアレッサンドロ・アッローリの弟子にチーゴリ(1559-1613)がいる.

 サンティ・ディ・ティート(1536-1603)もブロンズィーノの影響を受け,グレゴリオ・パガーニ(1552-1605)を指導した.パガーニはチーゴリの工房にもおり,門下からマッテーオ・ロッセッリ(1578-1650)とクリストファノ・アッローリ(1577-1621)が出て,クリストファノはアレッサンドロの息子で,父の弟子のチーゴリからも指導を受けた.

 マッテーオ・ロッセッリの工房にヤコポ・ヴィニャーリ(1592-1664)がいたし,ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ(1592-1636),ロレンツォ・リッピ(1606-1665),フランチェスコ・フリーニ(1603-1646)が門下から育った.カルロ・ドルチ(1616-86)はヴィニャーリの工房にいたので,これらの画家たちの系譜はすべてデル・サルトに遡ることになる.

 さらに,私たちがフィレンツェで出会った,エンポリことヤコポ・キメンティ(1551-1640)の師匠がマーゾ・ダ・サンフリアーノ(1531-1571)で,ヴァザーリに拠ればマーゾはピエール・フランチェスコ・フォスキ(1502-1567)に学び,フォスキもまたデル・サルトの弟子で,ポントルモの助手を務めたとされる.

 もちろん自分で調べたわけではなく,伊語版ウィキペディアの説明をまとめただけで,正確ではないかも知れないし,本人が選ぶにせよ,親が勧めるにせよ,なるべく有名な売れっ子の画家に弟子入りしたいのは人情だから,以前も同様のことを述べたが,画家に関して師弟の系譜をたどることにどれだけ意味があるかどうかわからない.

 しかし,これにヴェローナ出身のヤコポ・リゴッツィ(1547-1627),父がマーストリヒト出身で,本人はフィレンツェで生まれ,シエナの画家アレッサンドロ・カゾラーニの工房にいたジョヴァンニ・ビリヴェール(ビリヴェルティ)(1576-1644)を加えると,1600年前後のフィレンツェを中心活躍して,現在まで名前も作品も伝わっている画家をほぼ網羅することになり,これらの画家は,イタリア絵画の最先端ではなくなったフィレンツェの芸術を支えたと想像される.

 彼らは,美術史の主流には成り得ないであろうが,工房で鍛えられ,職人の技を磨き,貴族の邸宅や,教会の壁を彼らの絵で飾り,天井をフレスコ画で装飾した.これが今に続く,フィレンツェの美的環境の下地となったであろう.

 パラティーナ美術館の「ヴィーナスの間」には,アントーニオ・カノーヴァの「イタリアのヴィーナス」が置かれ,ルーベンスの作品もティツィアーノの絵もある.しかし,現在の順路に従ってこの部屋に入ると,すぐ右側の壁の上部にフランチェスコ・クッラーディの「ナルキッソス」,その遠い向かい側にマッテーオ・ロッセッリの「ダヴィデの凱旋」がそれなりの存在感を伴って掲げられており,ルネサンスが遠ざかって行く16世紀後半から17世紀前半のフィレンツェ画壇の流行を教えてくれるように思える.



 上に名前が挙げられなかった画家として,ベルナルディーノ・ポッチェッティ(1548-1612),イル・パッシニャーノことドメニコ・クレスティ(1559-1638),ジローラモ・マッキエッティ(1535/41-92)がいるが,少なくともポッチェッティ,マッキエッティの修行の場は,3代目ギルランダイオことミケーレ・トジーニ(1503-77)の工房に求められる.ミケランジェロもいたことのある伝統あるギルランダイオ工房である.

 決して単線ではない幾つかの系譜をどう関係づけるかは,正直なところ全くお手上げである.ギルランダイオ工房にしても,巨匠ドメニコの死が1494年,その時「2代目」リドルフォはデル・サルトと同年生まれで11歳だから,父の弟子とは言えないだろう.叔父のダヴィデは工房を支え,リドルフォに訓練を施したが,偉大な兄の代役はできなかった.

 ダヴィデ・ギルランダイオの幾つか見られる作品は,いずれも興味を持っている者にとって佳品に思えるが,特にルネサンスを代表する芸術家と言う世評はない.彼は1525年と言うのでラファエロの死後まで生きているが,革新性はなく,主にモザイクの技術を評価された職人として,フィレンツェ,オルヴィエート,ローマで仕事をした.


写真:
リドルフォ・デル・ギルランダイオ
「聖母子と聖人たち」
サン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会

(ヴァザーリは,この教会にリドルフォが
ミケーレと共作で「聖母子と聖人たち」を
描いたとしているが,この作品とは絵柄
が違う)


 リドルフォは,かつて父の工房を飛び出たミケランジェロの下絵を研究し,フラ・バルトロメオの工房で鍛えられ,ラファエロの友人となり,売れっ子の画家に成長して行った.ヴァザーリの『芸術家列伝』のエヴりマンズ・ライブラリー版の英訳第4冊の冒頭は「リドルフォ,ダヴィデ,ベネデット・ギルランダイオ伝」になっており,これを読むと,ラファエロはリドルフォをローマに連れて行きたかったが,リドルフォは「ドゥオーモのクーポラの見えない所に住んだことがなく,フィレンツェを離れるのは耐えられない」と言う理由でフィレンツェに留まったらしい.

 トジーニと言う姓への言及はないが,売れっ子の工房主となったリドルフォの複数の有能な弟子たちの中で,最も気に入られていたミケーレと言う人物への言及もある.彼はリドルフォを父のように慕い,ミケーレ・ディ・リドルフォ(リドルフォの子ミケーレ)と称し,ギルランダイオの名乗りを許された.ヴァザーリはそこまで言っていないが,ミケーレ・トジーニ(1503-77)は伝統ある工房を率いるミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオとなり,リドルフォ同様,多くの作品をトスカーナの各地に遺した.

 ヴァザーリには,リドルフォがどのような結婚をしたかの記述はないが,娘たちを嫁がせ,息子たちがフランスやフェッラーラでの仕事に成功したのを見ることができた幸福な老年を過ごしたと言っているので,家庭があって,家族がいたのであろう.巨匠ドメニコの血筋は少なくとも16世紀時点では残ったことになるが,画家の家系としてはリドルフォまでで,血縁のないミケーレがギルランダイオの名乗りを引き継いだ.

 ヴァザーリ(1511-74)は,ミケーレよりも若いが,彼を自分が請け負った仕事に雇用したことも含め,ミケーレがいかに誠実に仕事をこなし,弟子たちを教育したかを賞賛している.「ギルランダイオ工房」は,単純に巨匠ドメニコから,弟ダヴィデ,息子リドルフォを経てその弟子ミケーレに直線的に引き継がれたものではないが,多くの注文を受け,必ず一定以上の水準の仕事を成し遂げたことは間違いなく,フィレンツェのルネサンス芸術の精神を体現していることが理解できる.

フィレンツェ・ルネサンスの精神は,需要に応えて才能を発揮する職人魂であると,私は信じて疑わない.


 ジョット工房,ガッディ工房,オルカーニャ兄弟の工房,ギベルティ工房,ロレンツォ・ディ・ビッチから孫のネーリ・ディ・ビッチまで続いた工房,ロッビア工房,ヴェロッキオ工房,ギルランダイオ工房の繁栄と成果はそれを端的に物語っている.






ポンテ・ヴェッキオの壁龕の「聖母子」
ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニに帰属