フィレンツェだより番外篇
2012年3月21日



 





ホテル・グランド・バリオーニ
眺めのよい食堂



§フィレンツェ再訪 - その1

4年ぶりにフィレンツェに行って来た.旅行会社が企画した旅(以下,ツァー)だ.


 観光コースに,未見の「ヴァザーリの回廊」の見学や,ピエロ・デッラ・フランチェスカの作品にフォーカスした,アレッツォ,サンセポルクロ,モンテルキへのバス・ツァーが組み込まれていることが魅力的だった.何よりも,フィレンツェの同じ宿に6連泊し,全くフリーの1日も含め,自由時間が比較的多かったことが選択の決め手になった.

 また,ウフィッツィ(ウッフィーツィ)美術館,アカデミア(アッカデーミア)美術館,ブランカッチ礼拝堂など,ヨーロッパの修学旅行のシーズンで混雑が予想される見所を全て予約しておいてもらえるのも有り難かった.

 この3つの見どころを時間調整しながら,自分で予約するのはそれなりに手間隙がかかる.これらに,予約の必要性はあまり感じたことがないパラティーナ美術館を加えると,一通りの「フィレンツェ美術散歩」ができる.

 学年末の業務と入試関係の仕事が全て終わり,卒業式とその関連行事,新学期に向けての諸々の仕事を調整して,エアポケットのように会議が全くない一週間と,ツァーの日程がピッタリ合っていたし,サンセポルクロは滞在中から是非行きたいと思っていた場所なので,この企画に飛びついた.



 サンセポルクロ,モンテルキは初めて行くわけだが,フィレンツェとアレッツォはそれぞれ3度目だ.特にフィレンツェには1年間滞在しているので,多少の土地勘と予備知識がある.今回の旅は,多少の知識を持っているフィレンツェに6連泊するので,心密かにテーマを考えていた.

 1.滞在中に,修復その他の理由で観ることができなかった美術館,博物館,教会を訪ねること

 2.前回までに,それほど注目しなかった芸術家,特に彫刻家のナンニ・ディ・バンコと画家のマリオット・ディ・ナルドに関して,ある程度の知見を得ること

 3.ピエロ・デッラ・フランチェスカの魅力の背景となる地域性を考察すること

の3点にほぼ集約される.

 フィレンツェに住んでいるわけではないので,「フィレンツェだより」は相変わらず羊頭狗肉だが,「続編」の一環として,今回も旅行とその見聞の報告をまとめてみる.


アカデミア美術館
 初日(3月13日)の観光は,旧サンタポロニア女子修道院食堂,アカデミア美術館,大聖堂,ウフィッツィ美術館,ヴァザーリの回廊で,移動の合間に街歩きをしながら,サン・ロレンツォ聖堂とそれに付随するメディチ家礼拝堂,メディチ・リッカルディ宮殿,サン・ジョヴァンニ洗礼堂の外観,シニョリーア広場を見学した.

 アカデミア美術館,ウフィッツィ美術館とも素晴らしい美術館であり,フィレンツェを訪れて,これらの美術館を全く無視することは考えにくいが,何分にも何かの理由で空いている時以外には,ほぼ毎日と言って良いほど,入館待ちの長い行列にうんざりさせられる.

 住んでいれば,しょっちゅう近くを通ってみて,ほとんど列ができていない僥倖に恵まれることもある.実際に1年間滞在した時はその恩恵を何度か被った.それでも今回のように旅行会社が予約してくれて,入館のストレスが少なくて済むことに憧れのような気持ちを持っていた.

 予約のおかげでスムーズに入館できたが,修学旅行のシーズンと言うこともあり,英語,ドイツ語,フランス語,イタリア語をそれぞれ話す若者たちや,高齢者たちの集団に圧倒されて,落ち着いた十分な鑑賞には程遠い状況だった.

 それに加え,記憶違いでなければ,アカデミアは4度目,ウフィッツィは5度目の見学となる私たちの側に,新鮮な驚きを得るには,若干ではあるが気持ちの慢性が生じていた.

 アカデミアの中世末期の金地板絵のコレクションは見もので,ジョッテスキ,オルカーニャ派,国際ゴシックの画家たちの作品をまとめて見られる.実際に私のゴシック絵画趣味もここから始まった.スピネッロ・アレティーノの作品が2点,マリオット・ディ・ナルドの祭壇画が1点見られ,今回の心密かなテーマとも合致していた.

 しかし,アカデミアのスピネッロとマリオットの作品は,彼らの最上の力が発揮されたものではない.特に,マリオットの三翼祭壇画は3面の板のそれぞれの上部の絵と下部の裾絵(プレデッラ)まで完璧に残っており,旧サン・ガッジョ教会のためにコルシーニ家の依頼で書かれた由緒までわかっているし,評価も高いようなので,マリオットに関して学ぶには最良の作品と言えるかも知れないが,私は魅力を感じなかった.

 同じく華やかで,ほぼ完璧に残っている祭壇画としてはジョヴァンニ・デル・ビオンドの「受胎告知」の多翼祭壇画がずっと良い.

 アカデミア美術館所蔵のルネサンス以降の作品として,フラ・バルトロメオ,マリオット・アルベルティネッリ,アレッサンドロ・アッローリなど15世末から16世紀の画家たちのものが良い.

 ルネサンスの作品としては,ボッティチェリもペルジーノもあるが,ギルランダイオの「大ヤコブとペテロに囲まれた聖ステパノ」が傑作と思われ,ロレンツォ・ディ・クレーディの「嬰児キリスト礼拝」が予想外に良かった.

 この2人の画家に関しては,今までも注目してきたが,今回特に印象に残った芸術家として,後に少しまとめてみたい.

 それでもやはり,アカデミア美術館の最大の見ものはミケランジェロの「ダヴィデ」であることは間違いがない.何度見ても圧倒される思いがする.奇跡の傑作としか言いようがない.


ウフィッツィ美術館
 ウフィッツィでヴァザーリの回廊を見学する場合,一旦回廊に入ると本来は一方通行で,最後はピッティ宮殿近くの出口で出なければいけないが,状況によってはもう一度美術館まで戻って,引き続き鑑賞を許してくれることもあるらしい.

 今回は,後続の見学者がなかったためか,回廊を引き返すことが許された.ヴァザーリの回廊見学後の自由時間は,サンティッシマ・アヌンツィアータ広場に急いで,その周辺の諸施設を見る予定だったが,美術館に戻れたので,それらの予定を後日に回して,もう一度初めから見ることにした.



 いつものことながら,ウフィッツィ美術館見学には体力が必要だ.チマブーエ,ドゥッチョ,ジョットの3人の「マエスタ」(荘厳の聖母)から始まって,シモーネ・マルティーニとリッポ・メンミ共作の「受胎告知」,マゾリーノの「謙譲の聖母」,マザッチョの「聖母子と聖アンナ」,ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノの「三王礼拝」と「4人の聖人たち」,ピエロ・デッラ・フランチェスカの「フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻の肖像」,フィリッポ・リッピ,ボッティチェリ,ギルランダイオ,フィリピーノ・リッピといった「フィレンツェのルネサンス」を体現した画家たち,ロレンツォ・ディ・クレーディの「受胎告知」,ピエロ・ディ・コジモの「無原罪の御宿り」などの何度見ても飽きない作品を見たあたりで,既に体力を消耗し尽くす.

 しかし,私にとってはこのあたりまでがウフィッツィ美術館の真の価値であり,これに付け加えるものとしては,ジョッテスキとオルカーニャ派,ロレンツォ・モナコ,フラ・アンジェリコの祭壇画,パオロ・ウッチェッロ,ポッライオーロ兄弟の作品,ペルジーノとルーカ・シニョレッリ,トリブーナの諸絵画,ミケランジェロのトンド・ドーニ,アンドレア・デル・サルト,フラ・バルトロメオ,ラファエロ,ポントルモ,ロッソ,ブロンズィーノなどルネサンスからマニエリスムのフィレンツェを中心とするイタリア絵画であろう.ヴェネツィア派やカラヴァッジェスキもまぎれもなくイタリアで生まれた芸術である.

 ウフィッツィがルーヴルやプラドと最も違うのは,その規模が両者にくらべて小さいこともさることながら,世界性を内包しつつも,イタリア,特にフィレンツェ・ローカルなコレクションが特徴となっている点であろう.

ルネサンスは世界性,普遍性を帯びた文化現象だが,フィレンツェで生まれ,そこで育まれたと言うローカル性を見逃すことはできない.ウフィッツィでしか見られないものは,ローカル性に根差したルネサンスの精神であり,極論すれば「それのみ」と言っても良いだろう.


 ゴシックはルネサンスにつながり,マニエリスム,バロック,(新)古典主義は全てその淵源をルネサンスに発する.

 今回は団体見学なので,それほど充実した鑑賞ができるとは期待していなかったのに,結果的に自由時間を使って3時間ほど比較的じっくりと作品を眺めることができたのは意味が有った.これからの人生で,あと何回ウフィッツィに行けるかわからないが,今後,フィレンツェで十分な時間が取れないときは,ウフィッツィを最優先に考えなくても良くなったかも知れない.フィレンツェには見たいものが有り過ぎる.

 八角形の部屋トリブーナは修復中で,古代彫刻「メディチのヴィーナス」は見られなかったが,通常この部屋に収蔵されている絵画は,対抗宗教改革時代の絵画の部屋に置かれていたので,大方見ることができた.フランチャビージョの「井戸の聖母」が,写真で見ても何が良かったか思い出せないのに,実物はやはり独特の魅力を持っているように思えた.

 滞在中はずっと修復中で見られなかったラファエロの「鶸の聖母子」を見ることができ,胸のつかえが下りた.もちろん素晴らしい作品だ.

写真:
ヴァザーリの回廊から
アルノ川を眺める
(外の風景は撮影可)


 ヴァザーリの回廊は,画家の自画像のコレクションが有名だが,一つ一つ思い出すことはできないし,そもそもたくさん有り過ぎてじっくり観ることは限られた時間では無理だ.幸いに,一昨年の秋,新宿の損保ジャパン東郷青児美術館であった「ウフィツィ美術館自画像コレクション」展を見ており,その図録を購入していたのと,イタリア・アマゾンで,

 Caterina Caneva, ed., Il Corridoio Vasariano agli Uffizi, Cinisello Balsamo, Milano: Silvana Editoriale, 2002(以下,カネーヴァ)

を入手しているので,完全ではないが,大体何があったのかはメモと照らし合わせながら,確認できるし,有名なものは,かなりの情報も得られる.

アンドレア・デル・サルト,イル・チーゴリ,アンニーバレ・カッラッチ,ジョルジョ・ヴァザーリ,ティントレッタ(ティントレットの娘),ヴェントゥーラ・サリンベーニとフランチェスコ・ヴァンニ,グイド・レーニ,ドメニキーノ,ラヴィニア・フォンターナ,ピエトロ・ダ・コルトーナ,ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(彫刻家),サッソフェッラート,カルロ・ドルチ,ルーカ・ジョルダーノ,バチッチョ(もしくはバチッチャ),アンドレーア・ポッツォ,ジュゼッペ・マリーア・クレスピ,ポンペーオ・バトーニ,ルイージ・クレスピ,アントーニオ・カノーヴァ(彫刻家),フランチェスコ・アイエツ,ジョヴァンニ・ファットーリ,シルヴェストロ・レーガ,ジョルジョ・モランディ,ジャーコモ・マンズー

が,カネーヴァに載っていて,少しでも作品を見て記憶に残っているイタリアの画家であり,イタリア人以外でもルーベンス,ヴァン・ダイク,ベラスケス,レンブラント,シュステルマンス,レ(イ)ノルズ,ダヴィッド,アングル,コロー,ドラクロワ,レイトン,アルマ=タデマ,ドニ,シャガールの自画像を確認できる.

 東郷青児美術館の特別展で,フォーカスされていたヴィジェ=ルブランの自画像も見ることができた.またカネーヴァに載っていないが,特別展図録で確認できるものに,プリマティッチョ,フェデリコ・バロッチ,ジョルジョ・デ・キリコ,マリーノ・マリーニがあるが,自分で見ることができたのはキリコだけだと思う.図録にはあるが,藤田嗣治,草間弥生,横尾忠則は飾っていなかった.

 どちらの本にも掲載されていないが,自分で見てメモした,既知のイタリア画家は,バッチョ・バンディネッリ(彫刻家),チェッキーノ(フランチェスコ)・デル・サルヴィアーティ,アレッサンドロ・アッローリ,サンティ・ディ・ティート,エンポリ,グレゴリオ・パガーニ,イル・パッシニャーノ,ベルナルディーノ・ポッチェッティ,クリストファノ・アッローリ,ジョヴァンニ・ダ・サン・ジョヴァンニ,ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニ,ピエール・ダンディーニ,フランチェスコ・カイロ,ジョヴァン・バッティスタ・モローニ,ピエトロ・パオリーニ,カルロ・チニャーニ,ジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(イル・チェラーノ),サルヴァトール・ローザ,フランチェスコ・ソリメーナ,マッティア・プレーティで,カネーヴァの本はけっこう大きなものだが,重要なイタリアの画家でも掲載されていない者があることがわかる.

 ただし,私も絵を見た記憶がある画家の名前をメモしただけで,どんな顔だったかはほとんど覚えていない.カネーヴァと図録によって,幾つかは鮮明に,他のものはかろうじて思い出すことができる程度だ.

 その中で,アンドレア・デル・サルトの自画像(確か2点あったと思うが,カネーヴァでは1点しか確認できない)と,ヴァザーリのものは有名なので,深く印象に残ったが,アーニョロ・ガッディが描いたガッディ家3代(ガッド,タッデーオ,アーニョロ)の肖像には目を見張った.

 この一族以外で,最年長と思われるアンドレア・デル・サルトが生まれたのが1486年,アーニョロ・ガッディの死が1396年であるので,その圧倒的な古さには驚く.

 アーニョロは現在修復中のサンタ・クローチェ聖堂の中央礼拝堂の連作フレスコ画「真の十字架の物語」の一場面に自画像を描き込んでいる.ヴァザーリの回廊の絵はサンタ・クローチェの自画像と若干印象が異なるが,祖父と父が無骨で頑固な職人という印象に描かれているのに対し,理知的な優男に自分を描いている点で共通している.創業の初代,発展の2代目に比して,育ちが良く,おそらく祖母,母の美貌を引き継いだのであろう優美な物腰の,守成の3代目と言う感じに見える.

 兄のジョヴァンニ,弟のニッコロも画家,寡聞にして4代目が画家になったかどうかはわからないが,工房からは国際ゴシックの画風をフィレンツェに広め,ルネサンスの基盤を創ったロレンツォ・モナコ,著書『絵画術の書』によって後世に名を残したチェンニーノ・チェンニーニが出ているし,やはりサンタ・クローチェ聖堂のカステッラーニ礼拝堂の連作フレスコ画をゲラルド・スタルニーナとともに担当し,プラート大聖堂に「聖なる腰帯」の連作フレスコ画を描いた画家なので,決して父祖から引き継いだ工房を衰退させたわけではない.先入観のなせる技かも知れないが,自信に満ちた風貌にも思える.

(後日:以下の特別展図録を入手した.

 Ada Labriola, ed., Beato Angelico a Pontassieve: Dipinti e Sculture del Rinascimento Fiorentino, Firenze: Mandolagora, 2010

これに,ガッディ家3代の肖像画が掲載(pp.156-157)されており,1425年から35年の間に描かれた,フラ・アンジェリコ工房の作品としている.また,画家ではないがアーニョロの兄弟ザノービの家系が長く栄えたとの情報もあった.厳密には「自画像」ではないことは確かなようだ.3代目のアーニョロ逝去後,少なくとも30年くらいは経ってからの肖像だが,ヴァザーリの回廊で圧倒的に古い作品であることに変わりがないだろう.)

 ヴァザーリの回廊からは,ポンテ・ヴェッキオやアルノ川など外の風景,また大公家の教区教会であるサンタ・フェリチタ教会の堂内が見える窓も覗くことができたが,私にとっては,その芸術的価値はともかく「ガッディ家3代の肖像」を見られたことが一番嬉しかった.

 と,言い切ってしまえれば,潔いのだが,実は,ヴァザーリの回廊は自画像ばかりが飾られているわけではなく,自画像コレクションに至るまでに,傑作絵画が目白押しだった.その一部はカネーヴァにも写真が掲載されている.大体バロックから新古典主義の作品で,大公家のコレクションであれば,やはり集めた人の趣味を大いに反映しているであろう.綺麗で繊細で官能的な作品が多いように思えた.

 以前,日本でボルゲーゼ美術館展を見た感想をこのページに書いた時,マッティア・プレーティの「虚栄」がウフィッツィ美術館に所蔵されているという情報を本から得たが,見た記憶がないと書いた.この作品もヴァザーリの回廊にあった.特に優れた作品と言う印象はないが,気になっていたので,懸案が一つ解決したような小さな満足感を得た.





感慨も新た,再び佇む
シニョリーア広場