§巡礼街道の旅 - その17 巡礼
高校の同期生で,関東の美術館に勤めておられる方から招待券をいただき,11月30日,校務は午後で,授業は夕方からだった午前中に,恵比寿の東京都写真美術館で「畠山直哉展 ナチュラル・ストーリーズ」を観た. |
同期生と言っても,高校時代は知り合いではなく,たまたま行った東京での同窓会で話す機会があり,帰宅方向も同じだった縁もあって,年賀状をやり取りをするようになった方だ.特に親しい間柄ではないが,今年は喪中なので年賀状を下さっている皆さんに一律,お知らせを出したところ,悔やみの言葉をかけてくださり,招待券を下さった.
畠山直哉と言う写真家が彼女の筑波大学時代の同級生で,私と同じ陸前高田市の出身であるかららしい.
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写真:
ベンチに銅像を残し
巡礼は腰をあげた
ブルゴスの大聖堂前 |
ヴェネツィア・ビエンナーレにも参加し,いくつもの賞を受賞している評価の高い芸術家であることは,様々な方面から情報が得られるが,同郷,同年生まれでありながら,小,中学校の学区が違うからであろう,私はこの写真家を個人的には存じ上げない.
私は高田町生まれで,高田小学校,高田一中出身,畠山氏は気仙町今泉のお生まれで,気仙小学校,気仙中学校出身である.また,私は個人的な事情で地元外の高校に通ったので,同じ時代に,きわめて近い地域で子供時代を過ごしながら,全く交わらない人生を歩んで来た.もちろん,畠山氏は私のことは全く知らない.
海外の鉱山や都市風景を鋭敏な感覚で,心打つ映像に収めているのであろうことは,この日観た特別展でも察することはできた.素人目にも時代をリードする芸術家であろうことは,容易に想像がつく.
もちろん,特別展本来の展示にも感動した.しかし,芸術作品として撮ったものではない,震災後の陸前高田の写真に目を奪われないではいられなかった.
偶然だが,高田小学校のプールの廃墟あたりから,私の実家があった方角を写した写真もあった.画面の向かって右側に写っている道を歩いて,毎日学校に通った.九割以上の写真は,どこの場所で,以前はどのような風景だったかがわかった.
それ以上に,私の目をとらえて離さなかったのは,「気仙川」と題する60点の写真のスライドショーだった.今回,被害を大きくする一つの要因となった気仙川だが,私たちにとっては母なる川である. |
この川の海から見て左岸(西側)が芸術家の故郷で,右岸(東側)を少し行ったところが私の父祖の地だ.
実際には右岸にも気仙町今泉に属している地域があるのだが,私の意識としては,子供の頃は,川向こうは別の町,大仰に言えば,異界であった.厳密には大伯母の夫で血縁もなく,写真で見るだけで会ったことがない家系上の曽祖父も今泉から婿入りしてきたし,その実家とはずっと親戚づきあいをしていた.
この2つの異界をつないでいるのが姉歯橋で,この橋を眺めながら川沿いを散歩するのが,高校から故郷を離れた私の帰省した際の楽しみだった.子供には遠い隣町であっても,大人の足ではわずかな距離だ.川沿いを北に向かって山間の村々を目指したり,南に歩いて河口から東にもどって高田松原を歩いた.
しかし,今は砂浜も松林も,子供時代には「万里の長城」のようで頼もしく思えた防潮堤も,氷上山の登山道から眺めた姿が美しい古川沼も全て無くなった.天変地異としか思えない.
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写真:
13世紀の橋を渡り
巡礼は次の町へ向かう
プエンテ・デ・オルビゴ |
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小学生の頃,飛来した白鳥を見に,凍てつく中を姉歯橋まで行ったことを昨日のことのように思い出す.
スライドショー「気仙川」の中にも,水際で子供に白鳥を見せている若い母親が写っており,そこに亡くなった母と私の姿をどうしても見てしまう.畠山氏の母堂も被災して亡くなられたそうだ.
畠山氏が陸前高田の出身だということは高校の同期生からの手紙で教示されていたし,新聞の文化面の記事や,写真を趣味とする同僚の社会学者のブログにもその言及はあったが,陸前高田のどこの町かの情報はなかった.
高田町内にも畠山姓は少なくないが,同年でありながら,小・中学校の同級生でない以上,高田町の出身ではなく,やはり畠山姓が多いように思える広田町の出身であろうと推測して,太平洋に突き出た半島にある広田町も大きな被害があったから,特別展にさらに特別展示された故郷の写真はその姿であろうと想像していた.
だから,自分が良く知っている,しかし,子供時代には畠山氏とは対岸から別の眺めを見ていた気仙川の写真群には,意表をつかれ,心を奪われないではいられなかった.
七夕祭も今泉は「喧嘩七夕」,高田は「動く七夕」で,差別化が図られているとは言え,基本的に同じように装飾された山車が町を練り歩く.若者が太鼓を叩き,子供たちが笛で囃子を奏でる.その光景が活き活きと映し出され,涙がこぼれてきた.
私が好きだった気仙川を,対岸から見つめ続けていた人は,現代を代表する芸術家になった.ずばり,私の故郷と言うわけではないが,隣町の震災以前の光景をスライドショーで見ることができて,さまざまな思いが去来したが,校務の時間が迫っていたので,後ろ髪をひかれながら恵比須を後にした.
信仰に支えられて,目的地に向かって旅を続けることを「巡礼」と言うなら,サンティアゴ巡礼も四国巡礼も,共通点があるだろう. |
震災後,最初に帰郷し,大船渡市盛町にある母の実家で世話になっていた時,盛川の対岸にある猪川町の,郊外型書店で,
佐々木克孝『祈りの道 気仙三十三観音霊場巡礼』東海新報社,2010年
を買った.以前にも述べたが「気仙」(けせん)とは,現在の行政区分で言うと,大船渡市,陸前高田市,住田町の2市1町に,釜石市唐丹(とうに)地区を加えた旧・気仙郡を指し,県境を越えた気仙沼(けせんぬま)とは全く違う歴史を負った文化圏の属する地域だ.
地域内の陸前高田市には,畠山直哉氏の故郷,「気仙町」(けせんちょう)もあるが,これは旧・今泉村と旧・長部(おさべ)村の合併による,便宜的な名称であろう.
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写真:
長い旅路で,巡礼は
すっかり日焼けしている
サンティジャーナ・デル・
マール |
著者の佐々木氏は大船渡市盛町の出身で,早稲田大学卒業なので,私とは共通点がある.1955年生まれだから,58年生まれの私とは中学,高校のサイクルは違うが,同世代の方だ.残念ながら,面識はない.
震災前に出た本で,震災が無くても買っていたかも知れないが,津波で故郷の姿が一変し,実家が流出したことにより,祖父や父の蔵書だった郷土史本も,写真も全部無くなっただけでなく,風景そのものが多く失われたので,この種の本が何か欲しかった.著者や内容に興味があったわけではない.
著者も佐々木氏だが,この本の囲み記事「メモ」には,「気仙郡高田村の佐々木三郎左エ門知則は,父母の安楽追善供養のため,郡内で観音像のある三十三カ所を訪ね歩いて巡礼した」(p.142)のが,この「巡礼」の最初と書かれており,それは享保3年(1718年)としている.
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写真:
ガイドに率いられて
団体で大聖堂に向かう |
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家伝(家系図など古文書があったが今回の津波で全て流失した)によると,宮城家が高田に住み始めたのは享保年間で,初代は米谷(まいや)留右衛門昌基と言う人だったとされる.当時は宮城郡に属していた仙台から来たので,「宮城」と言う姓を名乗ったのだと聞いている.
文書化されているにせよ,言い伝えがどこまで本当なのかは今となってはわからないが,今回の震災の際のネット上の情報で,宮城県沿岸に宮城姓の人が意外なほどいることを知り,気仙では稀姓に属する「宮城」も南下するとそれほどはめずらしくもないことがわかった.
血縁の有無にかかわらず,私の祖先の縁者たちが,気仙を含む三陸海岸に根を張って生きて来た人たちであることを改めて感じた.米谷姓も少なくない.
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写真:
入口前のテラスで
大聖堂のファサードを
しばし見上げる |
家祖が高田に土着した頃に「気仙三十三観音巡礼」は始まっているようだが,坂上田村麻呂の東北遠征に関連する「気仙三観音」の伝説を持つほど,気仙地方の観音信仰は古くからあるようだ.
婿入りしてきた祖父の実家がある矢作町の観音寺,遠縁の親族が多い小友町の常膳寺,母の実家から歩いて行ける猪川町の長谷寺(ちょうこくじ)が,平安時代初期から続くとされる「三観音」だそうだ.
金野静一『気仙風土記 民俗百話』高田活版,1967
に短いが,「気仙三観音」と田村麻呂伝説に関する小考察がある.
この本は祖父の蔵書にあり,宮城家にわずかだが触れているので,子供の頃,読んだことがあった.関西在住の頃,梅田の古書店で見つけて自分でも持っていたが,茅屋が手狭になったので,実家に送った,多分1万冊を越えるであろう本の中に入っていて,津波で流された.
古書価が高かったので躊躇していたが,「日本の古本屋」に足立区の古書店が手頃な価格で出品したので,再入手した.
地元出身の岩手県を代表する知識人が,陸前高田市の広報誌に連載した文章をまとめたもので,出版した「高田活版」も遠縁の親族の会社で,当時若かった経営者は東北大学に学び,銀行員になっていたが,家業を継いで,後に陸前高田の市長になった.今回もちろん被災されたが,幸いなことにご本人,ご家族とも無事だったようだ.
「気仙三観音」は,田村麻呂に「征伐」され,悪鬼になぞらえられた地元豪族たちの鎮魂の意味が大きかっただろうと想像する.田村麻呂も清水寺の観音信仰と縁が深い.サンティアゴ・デ・コンポステーラや,そこに至る巡礼の道のような立派な遺産はないが,気仙の観音信仰は,聖ヤコブ崇敬と同じくらいの歴史を持っていることになる.
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写真:
巡礼杖などを売る土産
物屋でオレオの置物を
買った |
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一方,「巡礼」の伝統は新しく,かつ地元でも,多くの人が関心を寄せていたわけではないので,その点はサンティアゴとは全く違うが,人が何かに縋って救済を希求する心は共通していると言えよう.
三十三番札所は高田町の浄土寺で,実家の物干し場から仰ぎ見ることができ,小高い所にあると言う印象があったのに,今回被災した.この寺が経営する幼稚園に通い,現住職の瑞秋ちゃんは,幼稚園,小学校,中学校の同級生だ.高田幼稚園は廃園になるそうだ.
写真で見ると浄土寺は立派な寺で,子供の頃は鐘楼も兼ねる山門が堂々としており,森閑とした山のお寺のイメージがあったが,まさかそこまで波が行くとは思っても見なかった.
三十三観音には数えられていないが,実家により近く,田んぼの中のほのぼのとしたお寺と言う印象があり,夕暮れの中の光景が,胸が痛くなるほど美しかった本称寺は,土塀と鐘楼が立派だったのに,それらも池のある庭や本堂とともに跡形もなく流された.
墓所のある光照寺だけが,本当に山中の寺なので被災を免れた.光照寺の山の登り口にある「坂口観音堂」は,子供の頃の遊び場の近くだが,三十二番札所となっているそうだ.このお堂も今回被災したはずだが,確認していない.名前があることもこの本で知った.本に言及のある川原会館と言う公民館に地域の子供たちが集められ,七夕の山車の飾りを作った.
その他にも私が知っている,もしくは見たことがある寺やお堂が札所の中に含まれているが,そもそも私は,巡礼の対象になる三十三もの宗教施設があることも,それを支える観音信仰があることすらも,ほとんど知らなかった.おそらく,地元の多くの人も知らないであろう.
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写真:
共通の撮影ポイントで
シャッターを切る |
『祈りの道 気仙三十三観音霊場巡礼』は,大船渡に本社のある地方紙「東海新報」に連載された文章を本にしたもので,ここ数年の帰省の際に,実家がとっていたこの新聞の紙面でごく一部だが読んでいた.
一番札所は写真家畠山氏の故郷の今泉の泉増寺観音堂で,ここは,大船渡線の車窓からも見えた小高い所にあるお堂かと思っていたが,この本によれば,上にあるのは本堂で,観音堂は本堂にあがる長い階段の麓にあるらしく,であれば,今回被災したかも知れない.このお寺にある霊泉が「今泉」の名の起源だそうだ.
果たして残っているかどうかわからないが,お堂の前の「鬼燈」像は,旧・今泉村中井の大工さんが作ったもので,上述のスライドショー「気仙川」の中に,「中井」集落に関係すると思われる写真が数葉あったので,もしかしたら,写真家の実家があったところかも知れない.
二番札所の金剛寺は,真言宗の古刹で,瓦葺の大屋根が川向うから見ても印象に残る寺で,今泉がかつて栄えた町だったことを思わせる.震災直後に帰省した時,叔父が運転する車の中から,この大屋根が無残に,屋根の形のまま近くに流されていて,暗澹として写真に収める気力もなかった.
いずれにせよ,気仙三十三観音霊場巡礼は,今泉から始まって,高田市内の長部,矢作,竹駒,横田,住田町に入り,世田米(せたまい),下有住(しもありす),上有住,山を越えて,大船渡市の猪川,盛,末崎(まっさき),再び高田市内に入り,小友,広田,米崎とまわって,最後は高田町で終わる.
多くが被災地域なので,これらの霊場の寺やお堂はどうなったか危惧されるが,もともと火事や天災で,法隆寺のような例外を除いては,古いものが残りにくい日本の有形文化遺産だから,人が生きていて,記憶が伝えられて行きさえすれば,これらの霊場に,寺やお堂が再建され,少ないながらも,人々が巡礼する日も,また来るであろう.
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写真:
デジカメ,携帯, 撮影は手軽になった |
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イスラム教徒だけを悪者にする気持ちは私には全くないが,サンティアゴや,後に巡礼の道沿いとなる諸都市も異教徒に征服された歴史があり,サンティアゴはキリスト教徒の反転攻勢の精神的支柱としての役割を果たした.
純粋に宗教的かと言えば,そうではないだろうが,宗教も人間の営みである以上,人間たちが織り成す様々な歴史や物語に影響される.
エル・エスコリアル
いつの日か,フェリペ2世が造らせた,エル・エスコリアルを訪ねたいと思っていた.今回の旅行のオプショナル・ツァーに入っていたが,前以て旅行会社から成立は望み薄だと言われていた.しかし,催行人数には足りなかったようだが,連れて行ってもらえることになった.
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写真:
エル・エスコリアル
サン・ロレンソ修道院の
聖堂(バシリカ)
ファサード |
主として,建築よりも,絵を観たかった.絵画が展示されているコーナーは撮影禁止なので,紹介できないが,見たいと思っていた,エル・グレコの「聖マウリティウスの殉教」とリベーラの「聖痕を受けるフランチェスコ」の両方を見ることができた.
前者は,グレコが宮廷画家に採用されることを希望して描いた作品だ.しかし,フェリペ2世の気に入らず,トレドへと去ったグレコは,そこに活躍の場を見出す.
作品の題材は,エジプトのテーベから軍団を率いて,皇帝マクシミアヌスを助けるために,ガリアへと向かったが,キリスト教徒で構成されていた軍団兵とともに殉教した指揮官だ.スペイン語ではマウリシオ,イタリア語ではマウリツィオ,英語,仏語ではモーリスに近い発音になり,ラテン語名を英語読みすると,モーリシャスと言う国名になる.写真で見て想像していたよりもずっと良い作品だったが,後者により感銘を受けた.
エル・グレコの作品が他に3点(「フェリペ2世の夢」,「聖イルデフォンソ」,「聖ペテロ」)があり,ティツィアーノ,ティントレット,ヴェロネーゼ,バッサーノなどの作品もあるが,イタリアの巨匠たちが必ずしもその実力を発揮したとは思えない作品よりは,ナバレーテなどスペインのルネサンス絵画を見たいと思っていた.
たった1作あったベラスケスの旧約に取材した「ヤコブにもたらされるヨセフの血染めの外套」はさすがに緊迫感のある傑作だったが,その他のスペインの画家としては,
ディエゴ・デ・ウルビナ(1516-c.1594)
フアン・フェルナンデス・デ・ナバレーテ(1526-1579)
アロンソ・サンチェス・コエーリョ(c.1531-1588)
の作品が多く見られたように思う.
このうち,ナバレーテは「スペインのティツィアーノ」と称され,実際にティツィアーノの工房でも仕事をしたらしい.古代ギリシアの有名な画家に例えた「スペインのアペレス」と言う賞賛もあるようだ.バロック期以降に比べて,人材が乏しいとされるスペインのルネサンス絵画を支えた画家であることを以前に聞きかじったので,ぜひ,実作を見たいと思っていた.
ヴェネツィアの画家と生年を比べると,ナバレーテはティントレット(1518年生まれ)とヴェロネーゼ(1528年生まれ)の間の,ヴェロネーゼ寄りになる.フィレンツェの画家と比べた場合は,ブロンズィーノが1503年生まれなので,イタリアのマニエリスムの画家たちよりも,だいぶ遅く生まれことになる.パルミジャニーノも1503年の生まれだ.パルミジャニーノとロッソ・フィオレンティーノが死んだ1540年には,ナバレーテはまだ少年だったことになる.
イタリアのマニエリスムをスペインで花咲かせたエル・グレコ(1541-1614)は,それぞれ世代差のある上記の3人よりさらに後進と言うことになる.マニエリスムに位置づけられるグレコを境に,前をルネサンス,後をバロックとするなら,やはり上記の3人はルネサンスの芸術家と言うことになるだろう.
西語版ウィキペディアにも写真が掲載されている「聖ヤコブの殉教」は,残念ながら見た記憶がない.絵画館と聖堂(バシリカ)で,多くの絵画が見られたが,写真が撮れないので,見たものは作者と題名のメモを取った.事前にナバレーテを見たいと思っていたので,彼の名前を見逃すとは思えないが,メモにない以上,飾られている部屋に行かなかったか,見落としたかしか考えられない.
この修道院に関して,
司馬遼太郎『街道をゆく 23 南蛮の道 II』(朝日文庫)朝日新聞社,1988
に言及がある.もともと『街道をゆく』は好きなエッセーで,学生時代から読んでおり,実家には,文庫版だが,ほとんど揃えていたが,今回の津波で亡失した.
パンプローナについて,日本語で書かれたバスク関係の本を読んでいて,早い時期のバスク紹介として『街道をゆく』への言及があった.文庫本では『街道をゆく 22 南蛮の道
I』に司馬のバスクに対する考察があり,戦後日本の多くの知識人に影響を与えたカンドウ神父の出身地としてサン・ジャン・ピエ・ド・ポールを取り上げているのが興味深い.
司馬は,エル・エスコリアルを,世界に君臨しながら,王国を没落させたフェリペ2世の心象風景への興味から是非訪ねたいと思っていたようだ.
この修道院,教会,宮殿を「単調」,「無装飾」と形容して,装飾過剰なスペインの建築の中にあって,あえてスペイン(カスティーリャ)の伝統に反する様式を選択した背景には,フェリペ2世の美意識があると推測する.「造形そのものが反風土的である」とまで言っている.
司馬は建築家フアン・バウチスタ(バウティスタ)の名前を挙げ,イタリアから呼んだと言っている.フアン・バウチティスタ・デ・トレドはトレド,もしくはマドリッドで1515年頃生まれ,1567年にマドリッドで亡くなった.もしマドリード生まれとすれば,フェリペ2世が宮廷をトレドからマドリードに移したのが1561年であり,この後マドリードは「首都」に成長していくので,1515年と1567年では,同じマドリードでも意味がまったく違う存在になっている.
また,フアン・バウティスタは,フィレンツェ,ローマで,ジャン・バッティスタ・デ・アルフォンシスとして知られ,ローマのサン・ピエトロ大聖堂建設に参加し,ミケランジェロの影響を受けた可能性がある.ナポリに活躍の場を移した彼を,フェリペ2世が高給で招聘したのが,1559年である.確かに彼を,「イタリアから呼んだ」のは間違いない.
司馬には言及がないが,エル・エスコリアルは,フアン・バウティスタが完成を見ずに亡くなり,その後を引き継いだのは,フアン・デ・エレーラであり,この修道院,教会,王宮の建築様式をエレーラ様式と言うようだ.
エレーラ様式は,装飾に対して禁欲的な古典主義様式で,スペインでは例外的なルネサンス芸術と言って良いだろう.なるほど,イタリアのルネサンス建築の影響を受けているかも知れないが,大きすぎて繊細さには欠ける印象を受けた.司馬ほどフェリペ2世に関心を抱いていないので,特に異様さも感じなかったが,帰国後,司馬のエッセーを読み直して,その洞察の鋭さに驚いたので,今後様々学んでみたい.再訪するかどうかは,わからないが,他にも観たいところが多く,優先順位は低い.
どうしてももう一度見たいのは,リベーラの「聖痕を受けるフランチェスコ」だ.
オレオ
事前に予習のために見ていた『芸術新潮』のサンティアゴ巡礼特集号には,ガリシアのオレオ(高床式倉庫)の写真が掲載されていた.今見ると,十分以上に魅力的に思えるが,そのときは熱心に見なかったせいか,すっかり失念していて,サンティアゴに向かう途中に休憩に立ち寄ったドライブインでオレオの置物の土産品を見て,いきなりその魅力に目覚めた.
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写真:
これもオレオの一種
アストゥリアス地方の
高床式倉庫パネラ
(4本以上の支柱が特徴) |
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なんとか実物を見ようと目を皿のようにして,バスの車窓からオレオを探し,二,三見ることができたが,写真は撮れなかった.したがって,ガリシアのオレオの写真は,大聖堂の前の売店で買った土産物のものしかない(最後の写真).
飾ろうとして屋根の両端の十字架の片方が壊れているのに気づいたが,これもまた味わいだろう.形と色が好きで,立派な店を構えた土産物屋にたくさんみられたものではなく,あえて大聖堂前の露店に売れ残っていたものを買った.ずっと大切にしたい.サンティアゴ巡礼の旅で買った,唯一の自分のための土産物だ.
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写真:
氷上神社の五年祭で
行列と神輿が行く
陸前高田の商店街
2010年10月23日
(前日の授業終了後,
夜行バスで帰省,参加) |
妻が高田の町を歩いて,「蔵」が印象に残ると言っていた.私は生まれた時から見ていた風景なので,特に気づかなかったが,よく考えると確かにそうだ.高田から今泉には古風な土蔵が多かった.
震災前の高田に関しては,進行していた過疎ばかりが強調されるが,確かに高田も今泉も近郷近在の村々を商圏として,間違いなく栄えた町だったのだ.
スペイン北部の巡礼の道をたどった旅行の報告は,同年生まれ,同郷出身の芸術家の特別展を見たことで,考えても見なかった最終回になった.
3月には,校務の合間を縫ってフィレンツェに行ってくる.「合間を縫って」も行くことができるわけだから,恵まれたことだと思う.心はすでにトスカーナの早い春にあるが,そのためにも健康に気を付け,仕事も穴を開けないようにしよう.一週間に満たないごく短い滞在だが,またフィレンツェの街を歩けると思うと,そのことに関してはワクワクする.
関東在住だが,仙台に長期出張している弟から,陸前高田市役所に父の死亡届を出したとの報告があった.父はまだ行方不明のままだが,これで両親ともに法的にも故人となった.心が痛い.
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露店で買った小さなオレオの置物
ガリシアの思い出
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