§巡礼街道の旅 - その16 ロマネスク
今回の最大の学習項目は「ロマネスク」だが,サンティアゴ大聖堂が基本的にロマネスク建築であることを,なかなか理解できずにいた. |
これまでイタリアで見たロマネスク教会,もしくは宗教施設を指折り数えてみる.
フィレンツェ |
サン・ミニアート・アル・モンテ聖堂
サンティ・アポストリ教会
サン・ジョヴァンニ洗礼堂
サン・サルヴァトーレ・アル・ヴェスコーヴォ教会(ファサードのみ)
旧サント・ステーファノ・アル・ポンテ教会(ファサードのみ) |
ピサ |
ドゥオーモ
サン・ジョヴァンニ洗礼堂 |
ルッカ |
サン・マルティーノ大聖堂
サン・ミケーレ・イン・フォーロ聖堂
サン・フレディアーノ聖堂
サンティ・ジョヴァンニ・エ・レパラータ教会(ポルターユの装飾)
サン・サルヴァトーレ教会(アーキトレイヴの浮彫)
サン・ジュスト教会(ファサードの装飾) |
ピストイア |
ドゥオーモ
サン・ジョヴァンニ洗礼堂
サンタンドレーア教会(ポルターユと堂内) |
アッシジ |
サン・ピエトロ教会の堂内 |
ミラノ |
サンタンブロージョ聖堂 |
ヴェローナ |
サン・ゼーノ聖堂
サン・ロレンツォ教会
大聖堂のポルターユ
大聖堂に付随するサン・ジョヴァンニ・イン・フォンテ教会の洗礼井戸 |
オトラント |
カテドラーレ |
くらいだろうか.思いつく限り,根拠を示せそうなものを挙げてみた.プラート,ヴォルテッラの大聖堂,エンポリの参事会教会にもそれぞれ,ロマネスクの遺産,痕跡が残っている.
様々な参考書が手に入った今は,ロンバルディアやトスカーナの田舎だけでなく,イタリア各地にロマネスク教会があることを知っている.さらに,イタリア独自のロマネスクがロンバルディア,ピサ,ルッカ周辺,プーリア州に顕著に見られることも,おぼろげながら理解している.
池田健二『イタリア・ロマネスクへの旅』(カラー版中公新書)中央公論新社,2009
などの紹介書に拠って,ヴェネツィアでも,ムラーノ島やトルチェッロ島にロマネスクの素晴らしい遺産があることを確認できる.
しかし,上記の諸教会のほとんどは,フランスやスペインの場合と異なって,その地方の中心となっている中規模以上の都市にあって,山間僻村まで行って観たわけではないので,実際に見たロマネスク教会はそう多くない.
以前に撮った写真を確認してみると,堂内の柱,天井,外壁が,もしかしたらロマネスクの時代のものか,それを意識した修復,改築と思われるものも少なくないが,その頃はほとんど注目しなかった.
今は魅力的に思うサン・ゼーノ聖堂(ヴェローナ)のファサードの扉とその周辺の彫刻も,最初に見た時は古拙で,後世のルネサンス芸術に克服されるべきものに思えた.それでも魅かれるものがあって記憶に留まり,その後,案内書や自分たちが撮った写真で確認するたびに,憧憬の念を掻き立てられた.
サン・ミニアート・アル・モンテの説教壇,ルッカ大聖堂のファサードの彫刻群,ピサ大聖堂のファサードの柱列なども印象に残っている.同じトスカーナでも,ピサとルッカはロマネスク,シエナはゴシック,フィレンツェはルネサンスの傑作が多い.
だが,それぞれの都市は,それらだけに拠ってすばらしいのではない.古代から連綿と続くイタリアの芸術は,特定の時期によって特徴づけられはしない.
プレロマネスク
今回の旅行の大きな成果の一つは,近傍のサンタ・マリア・デル・ナランコ教会とともにサン・ミゲル・デ・リーリョ教会というプレロマネスクの遺産を見ることができたことだ.
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写真:
サン・ミゲル・デ・リーリョ教会
アストゥリアス建築 |
『地球の歩き方』に掲載されている紹介写真を見て,サン・ミゲル・デ・リーリョ教会は,森閑とした山中に偶然できた光が射し込む空間に,神秘的に存在しているようなイメージを抱いていた.
実際には舗装道路も駐車場も近くにあり,麓にあるオビエドの町も決して遠くないが,その昔,町を少し離れた見晴しの良い丘は離宮を立てるにふさわしい場所だったのであろう.
今回入手した本に載っている1916年時のサンタ・マリア・デル・ナランコ教会の写真を見ると,現在の姿とはだいぶ違う.それは近代まで現役の宗教施設であったことの証明であろうし,今の姿は,古い時代のオリジナルな姿を求めて,復元作業が施された結果であることが想像される.
ロマネスクの天井
ロマネスク教会の堂内と言えば,アーチ型の構造によって支えられた壁や天井が思い起こされる.トップに掲げたサンティアゴ・コンポステーラ大聖堂の連続するアーチを見てほしい.
下の写真のプエンテ・ラ・レイナのクルシフィホ教会の堂内は,後世にゴシックの磔刑像を迎えて,付加された可能性があるとしても,私たちが「ロマネスク」と言う語に抱くイメージに溢れている.こんな小さな教会と,巨大なサンティアゴ・コンポステーラ大聖堂が,かまぼこのような半円筒型穹窿天井が共通しているところがおかしい.
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写真:
プエンテ・ラ・レイナ
クルシフィホ教会 |
それに対して,イタリアのロマネスク教会では,木製の天井が多いように思われる.下の写真のサン・ミニアート・アル・モンテの天井は,堂内の壁面装飾と相俟って,フィレンツェに多く見られるルネサンス,バロックの教会とは一線を画している.
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写真:
サンミニアート・アル・モンテ聖堂
フィレンツェ |
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新しい時代のものであるのは一目瞭然だが,ピサ大聖堂のような巨大な教会も,天井は木製だ.フィレンツェのドゥオーモは写真で確認すると,交差リブのある天井なので,基本構造がゴシック(クーポラはルネサンス,ファサードはネオ・ゴシック)であることがわかる.
ピサ大聖堂のような格子天井は,ルネサンス,バロックのフィレンツェの諸教会,ローマの諸教会でも見られ,やはり新しいものであるとの印象は免れないので,サン・ミニアート・アル・モンテの天井は,貴重な遺産に思われる.
今,家にある案内書,紹介書の類を紐解いて,写真を確認すると,イタリアの教会はやはり木の天井が多く,以前はそう感じなかったが,木の持つ魅力は,石が持っている魅力とはまた別のものだなと感じる.
イタリア・アマゾンで買った諸書の写真を見ながら,イタリアの人里離れた場所にあるロマネスク教会への憧れの念を抱いている.
ロマネスク・ファサード
今回観ることができたロマネスクの遺産としては,サンティジャーナ・デル・マールの参事会教会がやはり貴重に思われる.
多くの拝観者が最初に目にするのは南翼廊の入り口で,それだけに最も印象的に作られているが,ロマネスクのオリジナルだけではなく,ルネサンス,バロック期の多くの付加が施されている.
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写真:
サンティジャーナ・デル・マール
サンタ・フリアナ参事会教会
ロマネスク・ファサード |
ポルターユ上部の三角屋根の下の壁龕に聖ユリアナ(サンタ・フリアナ)の像があるが,この部分とその向こうに見える柱廊はロマネスクの時代のものではない.
壁龕とポルターユの間の浮彫はどうやらオリジナルらしく,マンドルラの中の栄光のキリストを両側から天使が支え,その左右に聖人たちが並んでいるのがわかるが,フランスのロマネスク教会のように人目をひくようなものではなく,長い時間の中で消え行く過程にあるもののように見える.材質と経年にも原因があるのではあろうが,そもそも完成したものだったかどうかも疑わしいように思われる.しかし,それもまた神秘性を付与している.
この浮彫にくらべれば,西側の入り口から入って,聖堂内に行く途中の回廊で見られる柱頭の彫刻群は見事で,今回観たロマネスクの遺産では,これが最高のものであったように思う.
不思議なものもあった.
プエンテ・ラ・レイナのサンティアゴ教会のポルターユの,柱頭を持つ下部円柱部分の隙間にさらに細い円柱があり,その先端には生首のような装飾があった(下の写真).
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写真:
プエンテ・ラ・レイナ
サンティアゴ教会 |
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これについても,馬杉宗夫『ロマネスク美術紀行 スペインの光と影』に言及(pp.132-134)がある.呪術的要素を持った魔除けの人面装飾であろうと多くの人が考えるところだが,馬杉はここにケルト文化の影響を見ている.この教会のような「晒し首」型ではないようだが,アイルランドのロマネスク美術には人頭表現が多く見られるとして,「中部アイルランド,クロンフォート修道院のファサードには,人間の頭のみが三角形に枠取られた形の中にはめ込まれ,まさに奇妙な正面部と言わざるを得ない」としている.
どのようなものなのか興味を持ったが,たまたま古書で入手できた,
Robert Th. Stoll / Jean Roubier, Britania Romanica: Die hohe Kunst der
romanischen Epoche in England, Schottland und Irland, Wien & Munchen:
Verlag Anton Schroll & Co., 1977(ウムラウト記号省略)(以下,引用する場合は『ブリタニア・ロマニカ』)
に写真が掲載されている(写真部分にページが打っていないので,写真番号を挙げると,136から138).
この本で英語綴りを見ると,クロンファ(ー)ト(Clonfert)に見えるが,あるいは特別な読み方なのかも知れない.この修道院の後進である教会に関しては,英語版ウィキペディアに情報があり,ファサードの写真も掲載されている.拡大もできるので参考になる.キャシードラルとあるので,カトリック国であるアイルランドの地方の司教座教会なのであろう.
サンティアゴ教会のポルターユはタンパンのない,完全なアーチ型で,馬杉の言葉を借りると「イスラム建築に多用されている多葉形アーチ」になっていて,「こんなところにまで,イスラムの影響の跡が見られる」とのことだ.
中世に栄えた巡礼の道の要衝なのだから,「こんなところ」は言い過ぎだろうが,専門家によってケルトとイスラムの影響が指摘されているわけだから,安心して良いもの見たという満足感が得られた.
サン・イシドーロ教会の南側にある2つの門のタンパンには,ロマネスク芸術を代表する浮彫彫刻が見られる.このうち「仔羊の門」の「イサクの犠牲」は,今回修復の足場が組まれ覆いがかけられていたので観られなかった.
もうひとつの,翼廊の南端にある「免罪の門」のタンパンは,明らかに3場面からなっており,中央は「キリスト降架」,向かって左側は「キリスト昇天」,右側は「キリストの墓の前の3人のマリアと天使」(天使は棺が空であることを示し,キリストの復活をである.
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写真:
サン・イシドーロ教会
「免罪の門」のタンパン
レオン |
タンパンの下の犬(向かって左)とライオン(右)の首がまるで狛犬のようだ.特に,犬の表情が角度と相俟って,愛嬌があり,おもしろい.
この教会のブックショップで買った英訳案内書,
Antonio Vinayo Gonzalez, tr., Gordon Keitch, St Isidore's Basilica: The
Treasure of Leon, Edilisa, 2000(アクセント記号等省略)(以下,ゴンサレス)
に拠れば,作者はエステバン親方と言う人物で,サンティアゴ大聖堂のプラテリアス門の彫刻も手掛けており,パンプローナ,トゥールーズにも作品を残しているともことだ.
福音史家の象徴
今年2月に行ったアルルのサン・トロフィーム教会のファサードと回廊には,すばらしいロマネスクの遺産がある.回廊は見られなかったし,ファサードの彫刻の方も,全容を理解しているわけではないが,じっくり見て,写真に収めることもできた.
下の写真でもわかるように,マンドルラ(アーモンド型光背)の中の人物はおそらくキリストで,周囲にいる羽の生えた造形は4福音史家の象徴で,向かって左上から反時計回りに,人はマタイ,ライオンはマルコ,牛はルカ,鷲はヨハネを表す.
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写真:
サン・トロフィーム教会
アルル |
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これらの象徴物はあちらこちらで見られるが,最初に意識して観たのは,フィレンツェのサン・ミニアート・アル・モンテ聖堂の後陣のモザイクであったかと思う.古いものとしては,ラヴェンナのガッラ・プラキディア霊廟のモザイク,ローマのサンタ・プデンツィアーナ聖堂の後陣のモザイクが印象に残る.
今回,サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂の「栄光の門」は修復中で観ていないが,案内書の写真で見ると,聖ヤコブの彫刻の上のタンパンには,キリストがいて,その周りに,私たちから見て反時計回りに左上からヨハネ,ルカ,マルコ,マタイの4人の福音史家が彫り込まれていて,天使または有翼の人間はいないが,鷲,牛,ライオンがいる.
レオンのサン・イシドーロに付随する王家の墓所(パンテオン)の天井フレスコ画でも,マンドルラの中の栄光のキリストの周囲に,キリストの右肩から反時計回りに,有翼の鷲,ライオン,牛,人が描かれている.
ゴシックの芸術だが,ブルゴス大聖堂のサルメンタル門のタンパンでも,玉座のキリストのまわりに,キリストの右肩(向かって左上)から反時計回りに,鷲,ライオン,牛,人間と有翼の象徴が彫られている.レオンのパンテオンと同じ配置だ.何らかの決まりがあるかどうかわからないが,サン・ミニアートの後陣モザイクも同じ順番だ.
私たちが見た中では最も古いと思われるラヴェンナのガッラ・プラキディア霊廟の天井モザイクでは,キリストを人の姿で現さず,十字架の周りに,向かって左上から人間,鷲,ライオン,牛の順番になっている.
主題と形象の継承 サンティアゴ大聖堂のロマネスク,ゴシックの遺産には,興味深く思えるものはたくさんあるが,中でも,足を交差したダヴィデの浮彫は特に印象深い.これもまた他の場所が改築されるときに,ここに移されたもののようだが,向かい側にやはり足を交差して,羊を抱いている女性像の浮彫がある.
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写真:
サンティアゴ・デ・コンポステーラ
大聖堂 プラテリアス門
ダヴィデ王 |
馬杉宗夫『ロマネスク美術紀行 スペインの光と影』は,トゥールーズの美術館にあるライオンを抱く女性と並んで,羊を抱いた女性像があり,それと比較して,その類似性から,巡礼の道を通じての影響関係を指摘している.
馬杉の本に掲載された写真を見ると,2人の女性像の背後には,「獅子座のしるし(シグヌム・レオーニス)/牡羊座のしるし(シグヌム・アリエーティス)」とラテン語が刻まれており,キリスト教主題の作品ではないことがわかる.ローマ時代の作品とされる円環形の黄道十二宮の浮彫をルーヴルで見ている.古代以来の主題だ.
サンティアゴの女性像はわからないが,トゥールーズの作品は,黄道十二宮を表していたことは明白だろう.馬杉はこのことには言及していないが,「巡礼路彫刻」と呼んで,その影響関係を強調している.ダヴィデは旧約の登場人物ではあるが,明らかにキリスト教主題であり,足を交差した女性との関係はどのように説明されるのだろうか.
また,上記のゴンサレスのサン・イシドーロの案内書にある「エステバン親方」はどう関係するのだろうか.女性像よりほっそりとしたダヴィデ像の方が,写真で見る限りトゥールーズの獅子座,牡羊座を現しているであろう女性像によく似ているように思われる.
プラテレスコ様式
スペインで,芸術作品や建築を観るとき,イタリアなどでは聞かない「〜様式」と言う用語を耳にし,目にする.
イスラム勢力化のキリスト教徒が育んだモサラベ様式,逆にレコンキスタの過程でキリスト教支配圏に入ったイスラム教徒たちが持ち込んだムデハル様式,北方ルネサンスの影響を受けたイスパノ・フランメンコ様式,末期ゴシックのイサベル様式,ルネサンス期に銀(プラタ)細工のような緻密さ,繊細さを見せたプラテレスコ様式,イタリア・ルネサンスの古典主義的シンプルさを引き継いだエレーラ様式,その豪華さ,壮麗さで人目を引くバロックの中でも,ひと際目立つチュリゲラ様式などだ.
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写真:
ブルゴスの大聖堂
プラテレスコ様式のドームと
タンブール |
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こうした独創性は「スペイン」と言う国名で一括して良いかどうかは別にして,おそらくモンタネールやガウディのモデルニスムにも継承されているであろう.
今回ブルゴス大聖堂で複数観ることができた,八菱星型のドーム装飾とタンブールは,16世紀に完成した新しいものだが,コルドバのメスキータのミフラブ天井に見られるような幾何学的装飾の影響なしには生まれなかったように思われる.時代と文化を超えた影響と言える.
そのイスラム建築にもローマ,ビザンティン,西ゴートの影響が見られるわけで,文化伝播と受容のダイナミズムはまことに壮大で,ロマンティックだ.
「黒い聖母」
「黒い聖母」は,古代以来の地母神信仰に起源を持つかも知れないが,ある時代からは間違いなくキリスト教信仰の中に組み込まれている.現存する「黒い聖母」の像は,古くてもロマネスク期のもので,あまり地母神信仰との関係が強調されるべきではないように思っていた.
馬杉宗夫『黒い聖母と悪魔の謎』(講談社学術文庫)講談社,2007(講談社現代新書,1998)
は,ロカマドゥール(著者はロカマドールと記述)の黒い聖母を取り上げている.
『ロマネスクへの旅 中世フランス美術探訪』日本経済新聞社,1982
にも,分量は多いが,ほぼ同趣旨の記述がある,
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写真:
「黒い聖母」
ロカマドゥール |
この像を「ロマネスク時代の代表的木造彫刻の一つ」とした上で,「黒い聖母」の分布がかつてケルト人の居住地で,その伝統を色濃く残したところであることから,アニミズムであるドルイド(本人の表記はドリュイド)教を信じていた彼らが,聖樹,聖水,聖石などを崇拝した場所と一致するとしている.
馬杉は,今までに何度か参照している『ロマネスク美術紀行 スペインの光と影』の前半でカタルーニャのロマネスクを紹介しているが,その中で9世紀に洞窟で発見されたとされるモンセラット(著者はモンセラ)の「黒い聖母」を「十二世紀,いわゆるロマネスク時代の一メートル足らずの≪黒い聖母≫像(木造彩色)」とした上で,カタルーニャ地方に散在しているロマネスク時代の極彩色の聖母子像との違いを指摘し,「スペイン的な聖母と言うより,むしろフランス的な洗練さを示している」と述べている.
この「黒い聖母」を見たとき,何かの解説書で,この聖母は通常の「黒い聖母」とは違うものなのだと言う説明を見たような気がして,それ以来,フランスに多く存在する「黒い聖母」とは違うものなのかと思っていたが,馬杉は,「フランスの地で,もしくはフランスから来た彫刻家によって制作されたのであろう」としているので,あるいはモンセラットの「黒い聖母」もフランス的な多くの類例の中に位置づけられるものなのであろう.
ロカマドゥールの「黒い聖母」は今年2月,モンセラットの「黒い聖母」は昨年8月に見る機会があった.ロマネスクの遺産である黒い聖母を二つ観ることができたので,以後,聖母崇敬,大地母神信仰,西ヨーロッパの基層に確固として存在するケルト的特質を考える端緒としたい.
別の回で紹介した,
田中仁彦『黒マリアの謎』岩波書店,1993
は以前から書架にあった本だが,この機会に通勤の電車の中で読了した.どうしても論考に推測が交えられるので,完全とは言えないが説得力を持っている.名著だと私は思う.
「むすび」で,「黒マリアの起源がガリヤ(ママ)の地母信仰であり,その信仰もまたこの古代ガリヤの信仰を引き継いだものであったこと,そして,キリスト教化したガリヤにおいてなお地下水脈のごとく生きつづけていたこの信仰が,教会も阻止できないような激しい流れとなって地表に噴出したのがゴシック信仰に他ならないことを明らかににようとつとめてきた」と述べている.
ゴシックとロマネスクでは,ゴシックの方が技術も進み,洗練度が高いように思われ,古拙感が好きな私としては,ロマネスクに素朴さを感じ,より好感を持っていたが,実はロマネスクの方が,リゴリスティックなキリスト教イデオロギーに支配されており,ゴシックは抑えられていた民衆感情の噴出であると言う側面を持っていることが,この本を読んだおかげで,理解できたような気がした.
以前,読んだ
酒井健『ゴシックとは何か』(講談社現代新書)講談社,2000
にも,ゴシック期の地母神崇拝と結びつけられた「マリア崇敬」(著者の用語では「聖母信仰」)が強調され,印象に残ったが,完全には理解していなかった.この著書から得た最大の知見は,イタリアがすべてに先行していたわけではなく,南フランスだけではなく北フランスの農業革新,経済発展,文化運動が西欧に文化史において重要な意味があり,ゴシックの母胎となったことだった.
酒井と田中では,「ガリア」(田中は「ガリヤ」)が指す地域に若干ズレがあるように思えるが,西ヨーロッパにおけるケルトの重要性はどちらからも良く理解できた.
ロマネスクのイデオロギー性と,ゴシックの地母神崇拝の復興と言う考え方は,今後私がロマネスク,ゴシックを考える際に避けて通れぬ知見となったように思う.
しかし,フランスの影響を受けたかも知れないが,それぞれに独自性を持ったスペインとイタリアのロマネスク,ゴシックを考える際には,また別の要素も色濃いのではないかと思われる.それに関しては,もう少し見聞を広め,様々な先行研究を参照して,少しずつ考えて行きたい.
同僚の飯嶋一泰さんの訃報があった.学生時代に,ホメロス『イリアス』24巻を講読する授業に出席していたが,大学院生だった飯嶋さんが時々参加なさった.こちらが辞書を引き,単語を調べるのに汲々としていた頃,叙事詩の韻律を完全に理解し,軽々と解釈をする飯嶋さんは,才能に溢れ,輝いて見えた.
ゲルマン語学を専攻し,古ドイツ語,古ノルド語を学んで,ドイツ語史を研究されていた.「古高ドイツ語」(古期高地ドイツ語)を勉強しているとおっしゃったので,うっかり「古代ドイツ語」とはどういうものか尋ねたところ,「宮城君,ドイツ語や英語は古代には存在していなかったのです」とたしなめられ,その後,私も専門とは別に古英語(古期英語)を独習して,友人と『ベオウルフ』を生涯たった1度だけだが,読了したので,飯嶋さんの教えのおかげで,「古代英語」と言うような,不正確な言い方はしなくなった.
現在,同じ学部の同じ論系(と言う名前のコース)に所属して,一緒に仕事をするようになっていたので,若い頃,こちらが仰ぎ見る先輩として,有益な教えを授けて下さった,たった3歳年上の同僚の早すぎる死に,動揺を禁じ得ない.震災で私の両親が亡くなったことに対し,抗癌剤による癌との戦いで消耗しておられるのに,いち早く悔やみの言葉をかけて下さった.万難を排して葬儀に参列させてもらい,今は冥福を祈るのみだ.
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念願のロマネスクを前に感慨も新た
サンタ・フリアナ参事会教会回廊
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