フィレンツェだより |
![]() サン・バルナバ教会 |
§イタリア語の中のラテン語,ギリシア語
ヴァレリーの「海辺の墓地」のようにピンダロスが引用してあるとたじろぐが,簡単なギリシア語だと,わざわざギリシア語にしてあることの意味を考えながら,そこから考えが広がっていく.
カイは英語のandだし,エーガペーサンは「愛」(アガペー)という名詞から派生した「愛する」という動詞のアオリスト(単純な過去と一応考える)という時制の直説法・能動相・3人称・複数である. したがって,主語は「私」(1人称)でも,「あなた」(2人称)でもなく,それ以外のものが2つもしくは2人以上ということになる. ホイは男性・複数の定冠詞の主格形で,名詞アントローポイに付いている.アントローポイは英語の人類学の語源になったアントローポス(人間)の複数・主格なので,これが主語だろうなと,この時点でおおむね見当がつく. マーロン(マーッロンと表記すべきかどうか,λラムダが2つある)はエーと連動して,「マーロンAエーB」で,「BよりもむしろAを」という意味になる.しいて対応を求めるなら,マーロンはrather,エーはthanだろうか.トは中性・単数・対格の定冠詞で,スコトス「闇」に付き,ポースも中性名詞「光」の単数・対格なので,その前のトもそれに付されている定冠詞だ. 実はスコトスとポースの格変化を説明したり,中性名詞は主格と対格が同じ形になるとか,ここからさらに知識が必要になるが,単語を並べただけでも,「主語+動詞+目的語」が基本構造で,動詞が主語よりも先に来ているので,英語よりも語順が多少自由なのかなということがわかれば,多くの日本人は理解できる文章である.
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エは「そして」,リ・ウォーミニは定冠詞+男性名詞の複数で「人々」,ヴォッレロは「望む,欲する」という動詞ヴォレーレの「遠過去」という時制の3人称・複数,以下は「〜よりもむしろ・・」を加えて少し複雑になっているが,基本的に目的語であれば,「主語+動詞+目的語」という同じ構造の文であることがわかる. ピウットストがrather,ケがthanで,レ・テネブレは定冠詞+女性名詞の複数で「闇」,ラ・ルーチェは定冠詞+女性名詞の単数で「光」だから,文章構造はギリシア語と本当によく似ている. ![]() もちろん日本語はその語族に属していないので,違うところがたくさんある.日本語と比較すれば,このレヴェルの文章なら,古代ギリシア語,イタリア語,英語にはほとんど大差がないと言って良いだろう.
動詞の活用が複雑なのは古代ギリシア語とイタリア語はよく似ている.時制,人称,法で様々に語尾が変化する.それにくらべると英語はシンプルだ.英語にも時制も,人称も,法も数もあるが,形が単純化したからだ. 一方,名詞に関してはギリシア語も主格と対格が同じ中性名詞がでてきたから分りにくいが,たとえば,「人々が」がホイ・アントローポイだとすれば,「人々を」をトゥース・アントロープースになり,アクセントも主格では「アン」にあったのに,対格では「ロー」のところに移る. 主格,対格などと自明のように言っていたが,古代ギリシア語やラテン語,近代語でもロシア語やドイツ語では名詞も格変化をして,「〜が」と「〜の」や「〜を」では語尾の形が違うことが多い. ところが,イタリア語やフランス語では単数形が複数形になる変化は残っているが,名詞は格変化が,少なくとも見た目の形ではなくなっている.この点は英語とほぼ同じだ. 英語には基本的になくなってしまった名詞の「性」(gender)が,古代ギリシア語にもイタリア語にもあるが,「人々」がどちらも男性名詞なのは同じだが,「闇」と「光」は前者で中性名詞,後者では女性名詞で,しかも後者では「闇」は複数形になっている.
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となっている.宗教画でよく描かれている聖ヒエロニュモス(サン・ジローラモ)がギリシア語から訳したと言われる. 聖ヒエロニュモスを描いたギルランダイオのフレスコ画がオンニサンティ教会にあるが,その反対側にボッティチェルリの描いた聖アウグスティヌス(サンタゴスティーノ)のフレスコ画がある.アウグスティヌスはラテン語で著述をした人なので,聖書もラテン語で引用してある.2人は大体同時代(4世紀から5世紀)の人物だが,ヒエロニュモスのものとは違う訳があったことが分る. 語順通りに「そして」「愛した」「人々は」「むしろ」「闇を」「よりも」「光を」が逐語訳で,この語順はギリシア語原文に近い.意味が大体同じなら語順は同じである必要はないから,違う語順である可能性もあるわけだが,ここでは意識的に同じ語順にしているのかも知れない. 「愛した」はギリシア語ともイタリア語とも違うが,「そして」,「人々」,「闇」,「光」はイタリア語とよく似ている.
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この文章で比べると,ピウットスト〜ケ・・は,マギス〜クァム・・で,かなり違うが,これは大した問題ではない.ラテン語には定冠詞がない. 「人々」のホミネースはウォーミニの語源だが,複数形のウォーミニは辞書に載っている単数形のウォーモ以外に変化形はない.しかし,ラテン語の場合まず,「人」は辞書には単数・主格の「ホモー」homoで出ている.「ホモ・サピエンス」で有名な語だ. ラテン語の辞書で名詞をひくと「性」の記載ともに,必ず単数・属格の形が出ている.この場合はホミニスhominisで,この単数・属格の形をヒントにして,その他の変化形がわかる. 「人に」ホミニーhomini,「人を」ホミネムhominem,「人から」ホミネhomine,「人よ」ホモーhomo,「人々が」ホミネースhomines,「人々の」ホミヌムhominum,「人々に」ホミニブスhominibus,「人々を」ホミネースhomines,「人々から」ホミニブスhominibu,「人々よ」ホミネースhomines,とよく見ると同じ形も散見するが,基本的に単数と複数でそれぞれ6つずつの格があるから,一つの名詞で12通りに語尾変化(格変化)することがわかる.
「闇」はラテン語でもイタリア語でも女性名詞で単数形のテネブラで辞書に出ているが,両方とも複数形で使われることが多い.イタリア語は複数形はテネブレだけだが,ラテン語は主格ならテネブラエ,対格ならテネブラースとなる.したがって,「闇が」でも「闇を」でもイタリア語は形が同じだが,ラテン語では語尾が変化する. 「光」はラテン語はルックスluxで辞書に載っている.女性名詞だ.併記されている単数・属格はルーキスlucisで,これによって,変化語幹がluc-であることがわかる.「光を」はルーケムlucemになる.イタリア語のルーチェはこの形からきたと考えられている.曰く,対格はよく前置詞に支配される格なので,lucemが代表的な形になり,最後のmは落ちやすい(実際にラテン詩では--em,-amなどはよくエリジョンされる)ので,luceという形が残ったということだ. しかし,それなら,「人」はイタリア語ではたとえば,ウォーミネでも良いはずなのに,実際にはラテン語の主格ホモーに近い,ウォーモだ.「習慣」を意味するイタリア語にアビトゥーディネabitudineがあるが,この語源はラテン語のハビトゥードーhabitudoで,この語の対格がハビトゥーディネムhabitudinemで,ここからイタリア語の「習慣」が来ているのは「光」の場合と似ている. イタリア語で都市はチッタcitta(最後の-aにはアクセント記号が本当はある)だが,この語源は明らかにラテン語のキーウィタースcivitasだろう.だが,この対格はキーウィターテムcivitatemだから,上の原則どおりなら,イタリア語はチヴィターテになっても良いはずだが,実際には違う. 大体,イタリア語で最後にアクセント(アッチェント)のある「ア」で終わる名詞はこのパターンが多い.昨日の「アンティゴネー」も頻出したピエタ(ピエタース)もそうだし,「人間性」ウマニタ(フーマーニタース),「有用性」ウティリタ(ウーティリタース),「慎ましさ」ウミリタ(フミリタース),「空しさ」ヴァニタ(ウァニタース)などがそうだ.ラテン語の第3変化・女性名詞で,主格がタース,属格がターティスで終わるタイプの抽象名詞が多い,フランス語ではテ,英語ではティ(-ty)で終わる名詞が大体対応するだろう.
![]() 現代ギリシア語はじめ,その他の言語ではphにあたる語は発音的にfと同じになる.イタリア語ではそもそも表記もfになってしまう.哲学は英語ではphilosophyと表記されるのに,イタリア語ではfilosofiaフィロソフィーアだ. で,イタリア語で写真をfotoと言うが,もともとfotografiaの省略なので,女性名詞で無変化になる.単数形はラ・フォート,複数形はレ・フォートだ.fotografiaは英語ならphotographyになるのも哲学の場合と似ている.したがって語源はギリシア語だ. 「光」を意味する中性名詞ポースphosは,ラテン語と同じく格変化する.単数・属格が変化形の目安になるのもラテン語と同じで,ポートスphotosになって,ここで変化語幹に-t-がでてきて,イタリア語のfotoの語源になった.古代ギリシアには「写真」はないが,「光を記録すること」という意味で,ギリシア語から造語したものだ.「動くものを記録する」場合はキーネーマトグラピアーになって,これがcinematographyになり,日本語のシネマやイタリア語のチーネマcinemaの語源になった.
![]() ユダヤ教会は,英語ではシナゴーグsynagogue,イタリア語ではシナゴーガsinagogaだが,ギリシア語の集会所シュナゴーゲーが語源だ.
イタリア語でyをイ・グレーコ(ギリシア語のイ)と言い,フランス語のイ・グレックと同じ発想だが,イタリア語ではこの文字はほとんど使われない.スーパーなどで見るのは固有名詞かヨーグルトくらいだろう.ラテン語でもこの文字が出てきたときは大体ギリシア語からの外来語だ.ギリシア語のユープシーロンという文字を転写するときに使われた.イタリア語でもイ・グレーコの他にイプシロンという名称もある.
![]() ラテン語で「薬」はメディカーメンmedicamenとかメディカーメントゥムmedicamentumというが,これは「治療」メディキーナmedicinaに由来する.「癒す」はメディコル(メディカーリー),「投薬する」はメディコー(メディカーレ),「医者」はメディクス(形容詞もあり)で,同じ語根から派生している.これはイタリア語では「医者」メーディコmedico(形容詞もあり),「薬」メディチーナmedicinaに残っている. メディチーナには医学と言う意味が,ファルマチーアには薬学という意味があり,これらは英語のmedicine,pharmacyに対応する.「薬学」の綴りは哲学などの場合と同じように,イタリア語ではfが,英語ではphが使われている. 「医者」の複数形がメーディチになり,メディチ家の祖先は医者だったとか,薬屋だったとか言われることもああるが,家名以外には証拠はないらしい. 街路を歩いていると,ともかく「薬屋」が多い.日用雑貨も買えるようだが,専門の薬剤師がいるのがファルマチーアだろうから,誰でも開業できるわけではないだろう.
ラテン語ではthが出てきたら,これはもともとはギリシア文字のΘθ(テータ/シータ)を転写したもので,まず間違いなく外来語である. 英語の神学のことをtheology,理論のことをtheory,劇場のことをtheater (theatre) というが,神学は「神」(テオス),理論と劇場は「見る」(テアオマイ)というギリシア語が語源だ.古代ギリシア語ではそれぞれテオロギアー,テオーリアー,テアートロンになる.イタリア語ではそれぞれ,teologiaテオロジーア,teoriaテオリーア,teatroテアートロになり,やはりthも使われないことがわかる. K kも,もともとはギリシア語のカッパで,ラテン語ではカ行を表すのにC cを使うので,この文字を使うことはまずない.その影響だろうかイタリア語やフランス語でもほとんどKという文字を見ることはないか,外来語か固有名詞にしか使われないのではないだろうか.
イタリア語でほとんど使われないthやkをわざわざ使っているのだから,ギリシア語であることを意識して使っているのだろう.大きな辞書を確かめないと分らないが,少なくとも小学館の『伊和中辞典』の第一版にはこの語はない. ただし英語の辞書を引くとたとえば,apothecaryには役者薬種屋,薬剤師という意味があり,イギリスの法律では薬剤師協会(Society of Apothecaries)から認定を受けた薬剤師を言うそうで,薬店や薬局という意味もある(電子辞書『リーダーズ英和辞典』研究社)ようなので,イタリア語でも詳しい辞書には薬局という意味があるかもし知れない.
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サン・バルナバ教会の看板には,英語の方にGuild of Physicians and Apothecaries「医師・薬種商組合」という文字が見え,実はここにアポテーケーの子孫にあたる語が出てきていた.イタリア語の説明ではArte dei Medici e Speziali(アルテ・デーイ・メーディチ・エ・スペチアーリ)とあり,薬種業者はスペチアーレという語が使われている.これは確か,フィレンツェでは政治に参加するためにはアルテ(ギルド)に属していないといけないので,医者でも薬屋でもないダンテが加入していた組合ではなかっただろうか. この組合がこの教会の後援者だったらしい.もっとも,この教会の創設が聖バルナバの祝祭日の戦勝記念によるものらしく,1322年のことだそうなので,1321年に亡命先で死んだダンテは関係していないのは明らかだ.
![]() この語の語源がギリシア語と聞いて驚いた.マカリオス「幸福な」に由来する語だそうだ.『マタイ伝』にある,「心の貧しき者らは幸いである.天の王国は彼らのものだからだ」とあるとき,前半の句はマカリオイ・ホイ・プトーコイ・トー・プネウマティで,このマカリオイはマカリオスという形容詞の男性・複数・主格である.ラテン語訳ではベアーティー・パウペレース・スピーリトゥーで,「幸い」は形容詞ベアートゥスが使われている. 現在のイタリア語にもベアートという語があり,「至福の」という意味で使われるらしく,たとえば「うらやましい!」という意味で,「ベアータ・テ」(相手が女性だから女性形か)と言うそうだ. |
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