§巡礼街道の旅 - その11 (アストルガ)
橋(プエンテ・デル・パソ・オノロソ)は13世紀に架けられた中世の建造物で,プエンテ・デル・パソ・オノロソとは,プエンテは「橋」,パソは「通り道」,オノロソは「名誉の」と言う意味なので,直訳すると「名誉ある通り道の橋」になるであろうか.
橋の名前は,ひとつの伝説に由来している.とある女性に恋したレオンの貴族が,誓いを立て,この橋を通る300人の騎士から槍を奪ったと言うものらしい.正直なところ,あまり興味を感じない.むしろ,プエンテ・ラ・レイナが11世紀のロマネスクの橋なら,こちらは13世紀のゴシック期の橋で,その古さに感心する.
19のアーチを持つかなり長い橋で,見た目の美しさもまずまずだ.広い河原では,伝説に因むイベントが行われるらしい.
橋を渡り,オスピタル・デ・オルビゴの町に入ると,先に進む前にまず短い休憩をとることになった.私たちはその時間を利用して,教会をひとつ拝観した.
休憩時間が終わると,教会前の道を町はずれに向かって進んだ.人の気配はないが,小ぎれいな通りを,途中,巡礼宿の中庭を覗いたりしながら歩いているうちに,町はずれにたどり着いた.その先に広がるのは野原と畑だ.私たちも「巡礼の道」を少しだけ歩くことになっていた.
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写真:
帆立の道標(モホン)が巡礼を
サンティアゴへと導く |
「巡礼の道」の道標はモホンと呼ばれ,帆立貝の絵がついている.青地に黄色の帆立が描かれたものが多いが,必ずしもそうではない.写真のようなタイルを埋め込んだマイルストーン風のものは,野道に多く見られた.街中では,舗道に埋め込まれた金属レリーフタイプ,標識(看板)タイプなど,様々な道標が見られる.
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写真:
短い時間だが歩いてみた |
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当初の予定では,1時間ほど「巡礼の道」を歩くことになっていた.それが30分になったのは,朝,ホテル出発の際,現地ガイドさんが手違いで30分遅れて来て,スケジュールが遅れ気味になっていたせいだろう.いずれにしても短い時間で,体験と呼べるほど歩いた訳ではない.
ちょうど30分くらい進んだところで,野道が道路と交差するところに来て,待機していたバスに乗り込んだ.炎天下と言うほどではないが,晴天のもと歩いたので,わずか30分とは言え,少し汗をかいた.良い経験をしたと思う.
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写真:
広場の前の教会
サン・フアン・バウティスタ教会
(洗礼者ヨハネ教会)
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プエンテ・デ・オルビゴの村にも,教会があったが,拝観できなかっただけでなく,名前の確認も怠ってしまった.
オスピタル・デ・オルビゴの町で休憩時間に拝観した教会は,サン・フアン・デ・バウティスタ教会と言った.祭壇衝立も絵画もそれなりに立派だが,取り立てて目を引くものがあったわけではない.地元の人たちと巡礼のための教会であろう.ムリーリョの「無原罪の御宿り」を思わせる絵が印象に残る.
教会の前には小さな広場があり,木陰のベンチで地元の人たちが寛いでいた.堂内には年配の女性がおられ,私たちに記帳して行くようにとおっしゃった.巡礼ではないから,と少しためらったが言われた通り記帳して,しばらく拝観させてもらった.
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写真:
大小様々な祭壇衝立が並ぶ
堂内 |
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ささやかな喜捨をして,この教会を出た後,前述のとおり,町はずれまで行き,野中の道を歩き始めた.最初,少し先を行く数人の巡礼の背中が見えていたが,あっという間に小さくなり見えなくなった.30分後,バスは私たちを乗せて,アストルガに向けて走り出した.
アストルガ
アストルガ(英語版/西語版ウィキペディア)は,古名をラテン語でアストゥリカ・アウグスタと言う古代ローマ都市で,建設は紀元前14年,「皇帝」アウグストゥスの名を冠している.元来はケルト人の居住地であったようだ.
中世にはイスラム教徒との抗争の中,緩衝地帯として,人の住まない時期が続いた.徐々に再入植の努力が続けられ,11世紀からはサンティアゴ巡礼の要地として再び繁栄期を迎える.
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写真:
カテドラルの後陣部分の
背後にローマの遺跡 |
カテドラル(大聖堂)(英語版/西語版ウィキペディア)は,11世紀創建のロマネスクの司教座教会を基礎に,1471年にゴシック様式の大聖堂建築が着手された.完成は18世紀も後半だったので,ゴシック,ルネサンス,バロック,新古典主義の様式が併存している.印象としても,ゴシックと言うよりは,バロック教会のように見える.
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写真:
カテドラル |
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スペインの遅いルネサンスの作品も堂内にはあるようだ.中央祭壇のレタブロはガスパル・ベセラ(英語版/西語版ウィキペディア)の作で,1558年に製作された.
ベセラは,1520年にアンダルシアのバエサで生まれ,1570年にマドリッドで亡くなった.絵画と彫刻の分野で活躍した芸術家だ.ローマでミケランジェロの影響を受け,画家としてジョルジョ・ヴァザーリの助手となり,スペイン階段の上のフランス人教会サンタ・トリニタ・デイ・モンテ教会の礼拝堂でダニエーレ・ダ・ヴォルテッラに協力した.
スペイン帰国後は,マドリッドで国王フェリペ2世に雇われ,1563年に宮廷画家となった.何人かの弟子の名前が挙げられ,中にはエル・エスコリアルで装飾壁画を描いた者もいるようなので,画家としても,師匠としても成功した人生を送り,スペインの芸術に多大な貢献をしたと言えよう.
ただ,彼の弟子として挙げられている画家を誰一人知らないし,アストルガの大聖堂でも堂内を拝観していないので,ベセラ作のレタブロも見ていない.
西語版ウィキペディアの写真を拡大して見ると,確かに中央の「聖母被昇天」の彫像は,同ページが挙げている,ミケランジェロの「教皇ユリウス2世の墓廟」(サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂)のラケル,セバスティアーノ・デル・ピオンボの「ピエタ」(ヴィテルボ市博物館)の聖母,ダニエーレ・ダ・ヴォルテッラの「聖母被昇天」(サンタ・トリニタ・デイ・モンテ教会,ルクレツィア・デッラ・ローヴェレ礼拝堂)の聖母と良く似ており,それだけで判断して良いなら,確かにミケランジェロの作った流れの中にいる芸術家であったろう.
どうしても実物を見たいかどうかは,今は判断できないが,アストルガを再訪する機会があり,大聖堂の堂内拝観が叶うなら,一度は見てみたいような気がする.スペインの教会の特徴であるレタブロにミケランジェロの影響が見られると言うのは,それだけで興味深い.
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写真:
ポルターユ |
ゴシック教会として建築が開始された時には,ブルゴス大聖堂の完成に関わったフアン・デ・コロニア,シモン・デ・コロニアが関係している可能性もあるようだが,深く立ち入らない.バロック様式のファサードも,ポルターユも製作者の名前が西語版ウィキペディアに挙げられているが,名前以上の情報はない.
Fernando Llamazares, Astorga y Maragateria, Leon: Ediciones Lancia, 1992
に掲載されている写真で,多くのことを確認できる.マラガテリアとは,マラガト人の住む地域と言う意味で,アストルガ周辺を指す.
マラガト人は,北アフリカから移住してきて,長い間スペイン人とは一線を画してきた人々のようだが,上記の本の写真で見ると,むしろ私たちのスペイン人のイメージに合致するようにも思える.やはり,スペイン人の基層のところで,北アフリカから来た人たちは重要な構成要素となっていたのだろうと想像する.
上記の本は,巡礼博物館の入っている司教館(英語版/西語版ウィキペディア)のブックショップで購入した.この建物を設計したのはガウディだが,司教は気に入らず,結局一度も住まないまま,現在は巡礼博物館になっている.
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写真:
ガウディの設計した
司教館 |
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ガウディや,カタルーニャのモデルニスム(モデルニスモ)は,なるほどフランスのアール・ヌーヴォーと同時代の芸術運動だったと言うことを感じさせる.今まで観たガウディの建築(十指には足りないが,五指には余る)の中では,私は一番好きだ.
ステンドグラス,室内装飾も上品で,光溢れる空間に控え目な螺旋階段があり,司教は躊躇したそうだが,私は住みたい.ミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館のある邸宅を思わせるが,司教館だけに,ポルディ・ペッツォーリにはあった甲冑コレクションの類が皆無なところが一層良い.
バスはアストルガを出た後,カスティーリャ・イ・レオン州から,山道をたどってガリシア州に向かった.
『芸術新潮』19996年10月号「スペイン巡礼の旅」に,ガリシア州独特の穀物倉「オレオ」の写真が紹介されている.『小学館 西和辞典』でhorreoを引くと,「(スペインAsturias地方の)高床式倉庫;穀倉」とある.アストゥリアス州のみならず,ナバーラ,カンタブリアにも独特のオレオがあるようで,写真で見るとそれぞれに魅力的だ.『芸術新潮』を見たときは,ガリシア独特のものだと思っていたので,是非,実物を見たいと思っていた.バスの中から幾つか見ることはできたが,写真には収められなかった.
モンテ・ド・ゴゾ
サンティアゴ・デ・コンポステーラの手前に,サンティアゴの町を遥かに臨むモンテ・ド・ゴゾの丘があると聞いていた.
ゴゾは,スペイン語ではゴソ,ラテン語ではガウディウムで,「喜び」の意である,スペイン語の「デ」(前置詞)もしくは「デル」(前置詞+定冠詞)ではなく,「ド」(多分,スペイン語のデルにあたると推測.この推測は日本語版ウィキペディア「ガリシア語」で確認できる)になっているのは,ゴゾとともにガリシア語だからであろう.
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写真:
モンテ・ド・ゴゾ
丘の上で風に吹かれる |
ガリシア地方では,近隣のポルトガル語によく似たガリシア語が話され,カスティーリャ語をもとにしている標準スペイン語とは一線を画していることは知識としては知っている.しかも,レオンではレオン語,オビエドではアストゥリアス語が優勢ではなくても残っており,スペインの言語事情もカタルーニャやバスクばかりでなく,思ったより複雑であることを想像させる.
さらに,ガリシアには,ガイタと呼ばれるバグ・パイプがあるなど,ケルトの文化的特徴が色濃く残っていると言われているのを知っているが,ガリシア語はケルト語ではなく,カスティーリャ語やカタルーニャ語と同じく,ラテン語を祖先とするロマンス語であり,フランス,ブルターニュ半島のブルトン語,ウェールズやアイルランド,スコットランドのゲール語とは違う.
住民の意識も,
武部好伸『スペイン「ケルト」紀行 ガリシア地方を歩く』彩流社,2000
に拠ると,著者の「ケルト人だと思うか」と言う質問に対して,ケルト人の血を引いていることを意識はしているが,自分は「ガリシア人」だと言う答えが返ってきて,アイルランド人やウェールズ人とは違う(pp.48-50)とのことだ.
同書によれば,私たちがケルト的と考えるバグ・パイプも,古代ケルト人に起源を持つものではなく,全ヨーロッパおよび地中海地域に分布している楽器なので,それ自体がケルト独特のものとは言えないそうだ(pp.36-41).「文化」を考えるにあたり,私たちが先入観を免れることは難しいことだと思う.
丘の上の美しい場所で,雰囲気は良いものの,見えると思ったサンティアゴ遠景は見えず,新しいモニュメントしかないモンテ・ド・ゴゾを後にして,サンティアゴに向かった.
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ロマネスク風教会や草を食む羊を車窓に眺めながら
やがて眠りにおちた
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