フィレンツェだより番外篇
2011年11月1日



 





大聖堂のステンドグラス
レオン



§巡礼街道の旅 - その10 (レオン)

レオン大聖堂のステンドグラスは驚嘆に値する.


 アストゥリアス王国は,914年,オビエドからレオン(英語版西語版ウィキペディア)に首都を移してレオン王国となった.9月14日午後,私たちもオビエドからレオンに移動した.12日にブルゴスからカンタブリア海を目指して,一旦,「巡礼の道」の本道から外れていたが,レオンまで戻って,本道に復帰したことになる.

 レオンは首都であっただけに,巡礼街道の宿場町の規模をはるかに超えた大都会である.その大聖堂だ.相応のものであることは予想したが,これほど華やかであるとは思わなかった.

 レオンの起源は,紀元前1世紀にローマの第6軍団が設営した陣営(カストラ・レギオーニス)と,その後,紀元後67年に第7軍団が建設した恒久的要塞にあるとされる.

 ラテン語の「軍団」はレギオー(legio)と言い,英語のリージョン(legion)に見られるように,この語の斜格形(主語になる主格形と,呼びかけの呼格形以外の格変化形)には-nが現れるので,レギオンが転訛してレオンと言う地名になったと考えられている.

 スペイン語で「レオン」と言う同音異義語に「ライオン,獅子」の意味があり(※),混同されたか,意識的にそうしたのか,レオン王国の紋章はランパン(後ろ脚立ち)のライオンである.これは同君連合カスティーリャ・レオン王国の紋章の一部として引き継がれた.(※ラテン語ではレオーで,やはり斜格形に -n が現れるので,スペイン語のレオン,イタリア語のレオーネ,フランス語のリヨン,英語のライオンの語源)



 着いた時はまだ日が高く,暑いくらいだった.旧市街まで歩いて行って,翌日拝観予定の大聖堂(カテドラル)を,前以て見て来ようかとも思ったが,疲れていたので,やめた.

 宿は,旧サン・マルコス修道院のパラドールだった.チェックインを待つ間,古風な置物や重厚な調度品を眺めながら,由緒ありげな雰囲気を楽しんでいたが,鍵をもらうときに,旧修道院の回廊と付属教会を見ることができると教えてもらったので,行ってみることにした.

 一旦外に出て,パラドールの外壁の装飾(プラテレスコ様式)を眺めたりしながら,右端にある教会の入り口から入った.後から分かったのだが,もともと建物は一続きなので,パラドールから回廊に出て,そこから教会に入ることもできた.

 回廊,教会ともに拝観料はいらないが,一部が博物館になっていて,そこは僅かだが入場料がかかる.博物館内には彫刻作品と絵画があるが,格別著名な作家の作品はない.それでも,緑の美しい回廊や,手の込んだ装飾が施された広々とした空間をゆっくり歩くのは心地よかった.


大聖堂(サンタ・マリア・デ・レグラ)
 レオンの大聖堂(英語版西語版ウィキペディア)は,写真で見ても美しく,憧憬の念を抱いていた.陳腐な表現かも知れないが,「優美」と言う形容がこれほど似合う教会は他にないのではないだろうか.天を志向して,激しく自己主張するゴシック教会群の中で,控え目で安定感があり,私の好みで言わせてもらえば,ゴシック教会としては,ミラノのドゥオーモと双璧だ.

 今回,ブルゴス大聖堂で,様々なことを学ぶことができ,その姿の美しさにおいても,魅力を感じることができたので,今のところ,私の中での3大ゴシック教会と言っても良い.

写真:
カテドラル全景


 ブルゴスと違って,レオンの大聖堂は,ひたすらステンドグラスと言えよう.

 アレッツォのドゥオーモで,ギョーム・ド・マルシアの名を知って以来,ステンドグラスを意識的に見るようになり,イタリア滞在中も様々なステンドグラスを見たが,それ自体が教会の中で最も魅力的に思えたことはなかった.強いて言えば,ミラノのドゥオーモのステンドグラスには目を見張ったが,特にそれだけに注目するということはなかった.

 スペインでも,セビリアのカテドラルのステンドグラスが素晴らしかったが,再訪するとしたら,その動機はやはり,あまた見られた傑作絵画だろう.

 フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂,サンタ・クローチェ聖堂のステンドグラスも見事だが,そこで見られたギルランダイオやジョットの宗教画の魅力を超えるものではない.



写真:
総面積1700uにおよぶ
ステンドグラスが堂内を
照らす


 レオン遷都を敢行したアストゥリアス王オルドーニョ2世が,ローマ時代の浴場の跡に司教座教会を創建したのが,レオン大聖堂の始まりとされる.同じ10世紀にイスラムの英雄アルマンソールによって破壊され,11世紀初頭にロマネスク聖堂が再建された.

 13世紀半ば,カスティーリャ・レオン国王アルフォンソ10世(賢王)の治世下,当時ヨーロッパ中に流行したゴシック様式聖堂の建築が開始され,完成は16世紀までかかった.アルフォンソ10世の父,フェルナンド3世が,カスティーリャとレオンを統合(1230年)し,この後,スペイン統一とレコンキスタの中心はカスティーリャに移って行く時期だ.

 この時期のゴシック様式をレヨナン様式と言うようだ.レヨナンとは,英語の「光線」(ray)と語源を同じくするフランス語で,『ロワイヤル仏和中辞典』(旺文社,1984)に拠れば,「光を放つ,輝かしい,放射状の」と言う意味で,レヨナン[ゴシック]様式とは「中期ゴシック様式をいい,放射状のトレーサリー(窓の飾り格子)を特徴とする」と言う説明がある.アンリ・フォションとファルディナン・ド・ラステリーの命名に拠る用語とのことだ.

 これが盛期ゴシックで,この後の後期ゴシック様式としてフランボワイヤン様式が知られる.14世紀から16世紀にかけて流行したこの様式も,完成までに16世紀までの歳月を要したレオン大聖堂の一部に見られ,ブルゴス大聖堂でも見ることができる.

写真:
中央祭壇


 ステンドグラスの見事さに目と意識を奪われて,他のものは見落としてしまいがちだが,ロマネスク,ゴシックの彫刻にも見るべきものがある.

 中央祭壇のレタブロ(祭壇衝立)は,木彫ではなく絵画によって構成されていて目を引いた.ニコラス・フランセスという,フランス出身と考えられている15世紀の国際ゴシックの画家の作品だ.案内書の拡大写真で見ると,やはりフランドル絵画の影響があるように思えるが,どうだろうか.

 彼らの活躍によって,16世紀後半の中世からルネサンスへの移行過程にあるスペインの芸術に,イスパノ・フランメンコ様式が確立して行ったと考えて良いのだろうか.そうだとすると,スペインの芸術もまた,外国から異文化を受容して,それを自分たちのものに作り変えて行く過程で,花を咲かせたということになる.

写真:
「白い聖母」
ファサードにあるコピーの
オリジナル像(13世紀)


 たくさんある彫刻に関しては,残念ながら今回は勉強が足りず,ポイントを絞った鑑賞はできなかった.2つだけ作品を紹介しておく.

 西正面ファサードにある「白い聖母」のポルターユは有名だが,聖母像はコピーで,オリジナル(上の写真)は,堂内の礼拝堂(カピージャ・デ・ラ・ビルヘン・ブランカ)にある.「白い聖母」は13世紀の作品ということで,この教会のゴシック芸術の白眉とされる.

写真:
北側ファサードの
ダド(さいころ)の門


 北側のポルターユは,ダド(さいころ)の門と言われ,「さいころの聖母」と称される聖母像がある.向かって左には,左からパウロ,ペテロ,大ヤコブ,右側には左から受胎告知の天使と聖母,マタイが彫られている.タンパン中央はマンドルラの中にいるキリストで,それを天使たちが支えている.


サン・イシドロ聖堂
 セビリアのイシドルスは,古代末期のキリスト教文化が生んだ最大の知識人だが,その聖遺物は長くイスラム支配下の地にあった.

 1063年,レオン王国のフェルナンド1世(1230年の本格的統合の160年以上前に,彼1代に限り,カスティーリャとレオンの国王を兼ねた)が,交渉によってイスラム君主から聖遺物を譲り受け,従来修道院であった場所に,それを祀るサン・イシドロ聖堂(英語版西語版ウィキペディア)を創建した.

写真:
サン・イシドロ教会
「免償の門」
(プエルタ・デル・ペルドン)


 フェルナンド王の時代は,ロマネスク建築の時代であり,その痕跡は,現在の聖堂にも見られる.しかし,何と言ってもロマネスク最大の遺産は,「歴代国王の墓所」(パンテオン・デ・ロス・レイエス)に残されている天井やアーチのフレスコ画と,柱頭の浮彫彫刻だ.これは素晴らしい.墓所は聖堂と壁を接してあるが,直接の行き来はできない.私たちはまず,墓所の方に入場した.

 撮影は厳禁だったので,ウェブ上の写真や案内書を見て思い出すしかないが,それでは全然物足りない.自分の撮ったものであれば,まだ容易に細部を思い出す手がかりになると思うが,いずれにしても写真は写真でしかない.その空間に身を置いて,全体の雰囲気と細部の両方をじっくり味わうことができてこそ,真の鑑賞をしたという気持ちになれるのだろう.

 ここに来るまでは,古拙で珍奇な絵と言う先入観しかなかった.実際に墓所に入り,天井一面に広がる絵に囲まれて,感動に打ち震えた.生命力が横溢していて圧倒される思いだった.

 「誕生」(受胎告知/エリザベト訪問/公現/牧人へのお告げ/エジプト退避/割礼/嬰児虐殺)から,「受難」(最後の晩餐/受難と磔刑),「復活」(黙示録に拠るキリストの栄光,など)までのキリストの物語が描かれている.農事暦に基づく庶民の生活を描いた月別の絵も興味深かった.

写真:
中央祭壇


 墓所の見学を終えて,次に聖堂を見学した.堂内はゴシック風だが,ロマネスク,ルネサンス様式の部分もあるようだ.建築では多分,翼廊を境に後陣の反対側は,ルネサンス以降の新しいものとの印象があるが,詳しくは確かめていない.

 中央祭壇のレタブロは,大聖堂と同じく絵画で構成されていたが,24面の板絵がはめ込まれた,初めて見るタイプのものだった.作者は,16世紀に長期に渡って活躍したロレンソ・デ・アビラという画家で,フアン・デ・ボルゴーニャの追随者とされる.

 後者は,イタリアでギルランダイオの影響を受けた可能性が指摘されており,フランドルの影響が色濃いスペインの後期ゴシック芸術が,イタリアの影響でルネサンスを開花させて行く時代の芸術家と言えるだろうか.残念ながら,心魅かれるほどじっくりは見ていない.

 ロマネスクの遺産としては他に,免償の門,仔羊の門(プエルタ・デル・コルデロ)の浮彫彫刻,鐘楼があるようだ.

 仔羊の門は修復中で,遠くから見えたのは,最上部にある,「馬に跨って疾駆する聖イシドルス」の彫刻だけだった.タンパンの上に帯状に彫られた黄道十二宮のシンボルの浮彫は面白そうだが,これも見えなかった.鐘楼に関しても予備知識がなかったので見ていない.

写真:
ガウディが設計した
カサ・デ・ロス・ボディネス
ベンチにガウディの像


 上の写真は,ガウディが設計した建物カサ・デ・ロス・ボティネス(英語版西語版ウィキペディア)で,大聖堂に向かう途中に見ることができた.現在は銀行が入っているということで,内部の見学は難しいが,雨が降ったこともあり,風情のある姿に見えた.外観だけで十分だ.

 パラドールは素晴らしかった.もともとはサンティアゴ騎士団修道会が運営したサン・マルコス修道院で,サンティアゴ巡礼者に対して便宜を図っていた.

 現在の建物は,16世紀のプラテレスコ様式の建築で,付属教会はフアン・デ・オロスコ,ファサードはマルティン・デ・ヴィジャレアル,回廊と聖具室はフアン・デ・バダホス・エル・モソと設計者の名前は伝わっているが,最後のフアンが,同名のフアン・デ・バダホス・エル・ビエホ(1522年に亡くなったゴシックからルネサンスの彫刻家)の子であると言う以外に情報はない.






パラドール・デ・レオンの正面入口で
上部にサンティアゴ