フィレンツェだより番外篇
2011年10月26日



 





ナランコ山の中腹
サンタ・マリア・デル・ナランコ教会



§巡礼街道の旅 - その9 (オビエド - 2)

オビエド近郊のナランコ山に,プレロマネスク(ロマネスク以前)建築とされる2つの教会がある.その一つ,サンタ・マリア・デル・ナランコ教会(以下,ナランコ教会)を観光する予定になっていて,大いに期待していた.


 9月14日の朝,バスで市内を出て,ナランコ山(634m)へ向かった.少し上ったところで降車,中腹あたりにある教会を目指して,ゆっくり坂道を登る.小雨のぱらつく,湿った空気の中をしばらく歩くと,ナランコ教会(英語版西語版ウィキペディア)の姿が見えてきた.


サンタ・マリア・デル・ナランコ教会
 『地球の歩き方』には,開いている時間と料金3ユーロの情報があるが,果たして,個人観光客がふらりと行って見られるのか,「料金」とは入場料のことなのか,その他の経費(案内料)を含んでいるのか,それをどこで払うのか,そのあたりの情報はない.

 曜日にもよる(『地球の歩き方』には「月曜無料」とある)のかも知れないが,私たちが経験したのは,鍵を持っている地元ガイドに案内されて,集団ごとに堂内を拝観する方式だった.私たちに続いて,2人の個人ツーリスト(英語話者とは限らないが,英語を話していた)が入ろうとしたが,ガイドに断られていた.入堂の方法についても,別段,指示を受けていたようには見えなかった.

 いずれにせよ,私たちは地元ガイドさんに案内されて,堂内を拝観することができた.ナランコ教会は,期待に違わぬ素晴らしい建造物だった.

写真:
サンタ・マリア・デル・
ナランコ教会


 写真は事前に見ていたが,実物を見るメリットは何と言っても大きさを実感できることだ.

 (英語版ウィキペディア「アストゥリアス建築」/西語版ウィキペディア「アストゥリアスの芸術」)

 この建物は,アストゥリアス王ラミロ1世が建設を命じ,848年に完成した離宮が元になっているとされる.ラミロ1世は,聖ヤコブの幻が現れて,イスラム教徒と戦うキリスト教徒を助けたという伝説のあるクラビホの戦いの時の国王だ.

 教会になったのは12世紀のことだが,ロマネスクはすでに11世紀から始まっているので,その時代に建築されたのであれば,プレロマネスク(スペイン語ではプレロマニコ)とは言えない.しかし,9世紀中ごろにその原型が造られたのであれば,逆に信じ難いほど古いものだと言うことになる.

 2層構造で,1階部分が地下祭室のようになっており,上階へ行くには,前後方から昇降できる外階段を使う.階段を登ると木製の扉があり,鍵をあけてもらって中に入る.上階が,おそらく礼拝のための空間であろう.

写真:
2階のベランダ部分
祭壇は後に置かれたもの


 堂内は撮影禁止なので,写真は全て外から撮ったものだが,外から撮影できる部分も十分に魅力的だ.

 あまりにも,心魅かれる建造物を見ることができたので,思わずアマゾンで,

  Enciclopedia del Preromanico en Asturias, Palencia: Aduilar de Campo, 2006(以下,『プレロマネスク百科』)

という2冊本を買ってしまった.

 ウィキペディアには,堂内の写真が殆ど無かったが,この本と,

 A.Bonet Correa, Arte Pre-Romanico Asturiano, Barcelona: Ediciones Poligrafa, 1987(以下,コレア)

に,豊富ではないが,堂内の写真があり,多少の知識は得ることができた.アーチを支えている柱の上部に見えている,アーチとアーチの間のメダイオン(円形飾り模様)が,実は外壁や筒型穹窿天井(バレル・ヴォールト)を支える重要な構造の1つであることを知った.

写真:
優美な彫刻の残る柱頭


 メダイオンにも,柱頭にも浮彫模様があり,植物のモティーフが美しい.

 コレアの本の古いカラー写真を見ると,外壁全体が苔などで黒っぽく見えるので,現在の外観は,大規模な洗浄が施されたのであろう.


サン・ミゲル・デ・リーリョ教会
 ナランコ教会の少し先に,サン・ミゲル・デ・リーリョ教会(英語版西語版ウィキペディア)という,やはりプレロマネスク建築とされる教会がある.ツァーの旅程表には入ってなかったが,ごく近いと言うことなので,これも見ることができるのではないかと,内心期待していた.

 期待に違わず,こちらにも寄ってもらえ,堂内に入ることもできた.

写真:
サン・ミゲル・デ・リーリョ教会


 サン・ミゲル・デ・リーリョ教会は,ナランコ教会の前身である離宮の礼拝堂として造られた.もともとはバシリカ型(長方形)の平面構成だったようだが,現在見られるのは,ギリシア十字架形の集中型の教会だ.堂内は,やはり筒型穹窿天井と,アーチ型の柱の組合わせによる建造物だが,窓による採光に工夫が施されている.

 フレスコ画や彩色の痕跡もあった.じっくり時間をかけて見たいところだが,現役の教会ではないし,オビエドの重要な観光資源として,こう厳重な管理がなされていては,調査に行く専門家でなければ,難しいだろう.もちろん,厳重な管理ゆえに,後世に遺産として引き継がれていくことが期待できるのであって,その点はやむを得ない,と言う以上に,望ましいというべきだろう.

 コレアの写真で思い出しても,入り口のところの浮彫彫刻が見事だった.私たちが行くことできなかった階上のアーチに施された浮彫彫刻,外側が色ガラスで保護されている格子窓の写真を見ると,これがイスラムの影響を受けたキリスト教芸術であるモサラベ様式なのかと想像してしまう.

 緑の空間に古色蒼然とポツンと立っているこの教会には,どこか幻想的な雰囲気があって,写真で見ても,実物を見ても,何度も訪ねたいという気持ちになる.

 後ろ髪引かれながら,ナランコ山を後にした.


オビエド市内観光
 オビエド(英語版西語版ウィキペディア)はスペインの歴史上重要な都市だ.レコンキスタの出発点であるアストゥリアス王国の拠点として,761年に建都されたが,人が住んだ歴史はさらに古い.

 都市名の語源は,中世にはウルプス・ウェトゥス(古くからの町)というラテン語に擬せられたことがあり,ケルト語説もあるようだが,バスク語であったと考えられているようだ.

 アストゥリアス王国が,首都をレオンに移してレオン王国となって,首都の地位は失ったが,アストゥリアス地方の中心であり続けた.海の方に向かうと,港湾都市ヒホンも大きな都市だが,現在もアストゥリアス州の州都はオビエドだ.

 古く伝統のある町だが,1934年のアストゥリアス10月革命,スペイン内戦の際のフランコ軍によるオビエド攻囲(1936)によって,歴史的遺産は破壊され,再建された大聖堂(カテドラル)などを除いて,概ね町の風景は近代的だ.

 泊まった宿のあるオビエド駅の周辺は,言われなければ歴史と伝統のある町とは思えないほど新しい.それでも,アストゥリアス美術館や大聖堂のある旧市街まで行くと,そのあたりは道が入り組んでいて,中世を感じさせる.

 現在のスペイン王国の故地であることに鑑み,スペインの王太子は「アストゥリアスの君主」(プリンシペ・デ・アストゥリアス)と称するようで,連合王国(イギリス)のプリンス・オヴ・ウェールズを連想させる.

 スペイン王太子にちなんだ賞があり,今年,日本の福島の原発事故で現場で対処にあたった人たちが平和部門で受賞して話題になった.授賞式の場もマドリッドではなく,オビエドだ.偶然だが,王太子妃(プリンシペサ・デ・アストゥリアス)の出身地もオビエドだそうだ.

写真:
カテドラル


 大聖堂(英語版西語版ウィキペディア)は,再建や修復の手がかなり入っているとは言え,1388年に建設が開始されたゴシック教会である.司教座教会(大聖堂)としての歴史は8世紀まで遡るが,現在の姿の原型は14世紀のものだ.

 正面の鐘楼の完成は16世紀で,当初多くのゴシック教会に倣って,双塔形式になるはずだったが,現在のようになった.この方が独自性があって,私は良いと思う.双塔だったら,ブルゴスやレオンの大聖堂のあまりにも立派な外観の記憶に挟まれて,なかなか思い出せないかも知れない.

写真:
サン・ミゲルの古塔(右)
左は正面の鐘楼


 実はオビエド大聖堂には,もう一つ塔がある.「古塔」(『プレロマネスク百科』には「サン・ミゲルの古塔」とある)と呼ばれる塔で,創建は11世紀とされる.ゴシックの大聖堂以前の司教座教会の鐘楼の役割を果たしていた.これも様々な時代の修復を経ているではあろうが,ロマネスクの遺産であろう.

 西語版ウィキペディアの拡大写真を見ると,古塔上部のアーチの柱にロマネスクの柱頭彫刻がある.さすがにこれは肉眼では確認できなかったが,ゴシック教会としても新しい方であり,戦災を蒙って再建されたオビエド大聖堂に残る貴重な中世の遺産であるのは間違いないだろう.



 堂内は,やはり新しく感じられた.写真厳禁だったこともあり,この大聖堂の内部に関しては,あまり記憶がない.それでも,超弩級の,プレロマネスクからロマネスクの遺産もあった.カマラ・サンタ(聖なる部屋)(英語版西語版ウィキペディア)である.

 カマラ・サンタは,現在は大聖堂に付随する形になっているが,もとは独立した建物だ.建築としては,やはりプレロマネスクに属するものらしく,その古さは相当のものである.イスラム教徒に追われて,西ゴート王国の首都だったトレドから逃げる際に携えてきたと言う宝物と,やや新しいがロマネスクからゴシックへの移行期の人柱型の彫刻がここにある.

 残念ながら,内戦の際の1934年の爆撃で,カマラ・サンタは大きく破壊された.現在の姿は再建によるものだ.後で入手したカマラ・サンタの案内書や,コレアの本の白黒写真で見ると,その悲惨さに思わず目を覆う.

 現在,カマラ・サンタの最大の呼び物として展示されている宝物も,同じく爆撃の被害を受けた.金色に輝く,宝石が散りばめられた「天使たちの十字架」が,瓦礫の中に転がった無残な姿の写真が残っている.

 失われた多くの人命のことを思えば,歴史的至宝と言えども,単純な悲嘆の対象とはならないかも知れないが,修復後の見事な姿に心奪われる体験をしただけに,無念の思いを禁じ得ない.だが,たとえ修復を経たものであっても,カマラ・サンタの人柱型彫刻群の印象は,夢に見るほど深く心に刻まれた.

写真:
サン・ティルソ教会
壁面の列柱


 大聖堂の南側の通りを挟んだところから,大聖堂前の広場にかけて,サン・ティルソ教会がある.この建物の,多分現在は後陣部分の裏側にあたるであろう外壁に,3連アーチ型の列柱がはめ込まれているのを見つけ,気になって写真に撮っていた.

 調べたところ,やはり古いもののようだ.『プレロマネスク百科』に紹介があり,西語版ウィキペディアでも取り上げられている.9世紀のものと言うのが本当であれば,ロマネスク以前の建築の遺産であり,見られて良かったと思う.素人目には,ローマとイスラムの両方の影響があるように思われるが,どうなのだろうか.教会自体は,16世紀に火災にあっており,おそらく新しいのだと思うが,3連アーチは貴重な宝だと信じたい.

 今回,見ることができなかったし,予備知識もなかったが,オビエド市内で見られるプレロマネスク教会として他に,サン・フリアン・デ・ロス・プラドス教会(英語版西語版ウィキペディア)もあり,オビエドは,ゴシック以前のキリスト教芸術に興味がある人にとっては,垂涎の訪問地と言えよう.

写真:
市庁舎前の広場
左はサン・イシドロ教会


 一方,近代都市でもあるオビエドには,ルネサンス,バロック,近現代の遺産も見られる.市庁舎は1780年の建設なので.バロックよりも新しいし,内戦の際に被害を受け,修復されているが,好感の持てるスッキリした古典的な外観に見える.

 オビエド大学(英語版西語版ウィキペディア)は16世紀後半もしくは17世紀初頭(※)の創建で,回廊のある歴史的建造物である本部棟の中庭には,創設者フェルナンド・バルデス・サラスの銅像がある.(※英語版ウィキペディア1574年,西語版ウィキペディアは1603年,地元で買った案内書は1566年となっており,それぞれ根拠があるようだ.実質的活動は1603年からと言うのは共通している)

 ルネサンスの芸術に関しては,今のところ,アストゥリアス美術館の作品群と,見た目はゴシック風だが,16世紀初頭の作品である大聖堂中央祭壇のレタブロくらいしか思い浮かばないが,探せば他にもあるだろう.

写真:
横に市場がある
サン・イシドロ教会


 市庁舎広場にあるサン・イシドロ教会は,外観,堂内ともにバロック教会と言って良いのではないだろうか.イエズス会の教会として16世紀末に創建され,18世紀末に教区教会となった.

 堂内は自由時間に拝観することができた.フィレンツェではサン・ガエターノ教会くらいしか思いつかない,バロックの大教会で,スペインの教会の特徴であるレタブロも大きなものがあった.

 三廊式で階上廊(トリブーナ)のある構造(自分が撮って来た写真ではそう見えるが,西語版ウィキペディアに「ラテン十字型の単身廊」とあり,この点に関しては確認の必要があるし,階上廊も登ったわけではないので,あるように見えるだけかも知れない)は,めずらしいのかどうかわからないが,私はあまり見たことがない.今回の旅行では,サン・ジャン・ピエ・ド・ポールのゴシック教会が,三廊式で階上廊があった.

 今のところ,情報がないし,短時間しか拝観していないので,大きく華やかなバロック教会だったという以上の印象はない.

写真:
シードルの独特の注ぎ方
昼食を採ったシドレリアで


 オビエドで予定されていた観光を全て終えて,シードル(林檎酒)の店(シドレリア)で昼食となった.石焼ステーキがうまかった.こちらに来て連日,普段の倍以上の蛋白質を摂取しているので,肉はもう入らないような気がしていたが,何のことはない,ペロリと食べられた.

 満腹のお腹を抱えて,再びバスに乗り込み,巡礼の道の主要な拠点であるレオンへと向かった.






ナランコ山からオビエドの市街を見渡す
サンタ・マリア・デル・ナランコ教会(左)