§巡礼街道の旅 - その7
サンタンデールからサンティジャーナ・デル・マール
9月12日,昼食を済ませてからブルゴスを出発,サンタンデールを目指した.内陸部のカスティーリャ・イ・レオン州から,海に面したカンタブリア州へ北上し,一旦,「巡礼の道」の主要コースを外れることになる. |
サンタンデール(英語版/西語版ウィキペディア)という地名の由来について,日本語版ウィキペディアでは,ポルトゥス・ウィクトリアエ・ユリオブリゲンシウムと言うラテン語名を挙げて,聖エメテリウスが,サンテメール,サンテンテール,サンタンデールと転訛したとしている.
この地名を最初に聞いたとき,聖アンデレ(アンドレアス)が訛ったのではないかと思ったが,英語版ウィキペディアは,それも選択肢の一つとしている.
中世にカスティーリャ王国の港として栄えたが,1941年の大火で,中世以来の町と,12世紀の創建でロマネスク教会だった大聖堂は焼失した.20世紀初頭には,王室の夏の滞在地として宮殿が建てられたが,一般国民にとっても,海水浴のためのリゾート地として,現在に至るまで人気を集めている.
各地の空港などで,その支店を幾つも見たスペイン最大の銀行の本拠地があることからも察せられるように,豊かな町に思えた.有名なサッカーのプロ・チームもあり,添乗員Tさんによれば,日本でレアル(「国王の」)と言うと,首都の有名チームのことだが,スペインではサンタンデールのチームを指す,とのことだ.スペイン・リーグの中でも,伝統と実績を誇るチームらしい.
サンタンデールの宿は,旧市街から離れたところに取られていたので,すぐ傍の海水浴場に行って,カンタブリア海を眺めた後は,部屋に戻り,休息を取ることにした.
アルタミラ国立博物館
翌朝,今回見学する最初のロマネスク教会のあるサンティジャーナを目指し,サンタンデールを出発,途中,壁画で有名なアルタミラ洞窟の側の博物館に寄った.
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写真:
アルタミラ国立博物館 |
数十年前までのブームのおかげで,保存に危機的状況がもたらされ,現在,一般の観光客は洞窟に入ることはできない.博物館で壁画のレプリカが見られるだけだ.
と思っていたら,単にレプリカが展示されているのではなく,洞窟そのものが再現されていて,洞窟の割れ目や隆起を巧みに利用した色鮮やかなレリーフのような壁画や,シンプルな線描きの壁画が天井一杯に広がっているのを見上げながら歩いて回れるようになっていた.レプリカとはいえ素晴らしい迫力だ.
描いた人が一人なのか,複数なのかはわからないが,描いた人もしくは人々は,天才に違いない.子供の頃,教科書の写真を見て,洞窟に一頭の牛だけが描かれているのかと思っていたが,牛は群像で,一頭一頭が生き生きとして,ただただ,素晴らしいとしか言えない.
最初は全く興味がなかったが,見学後,あわてて,写真掲載の英語版ガイドブックと,ゼミ合宿の幹事をしてくれる学生さんにお土産の絵葉書を購入した.
条件が整い,機会が得られれば,天才はどんな時代でも,その実力を発揮する.興奮を鎮めながら,再びバスに乗り込んだ.
サンティジャーナ(サンティリャーナ)・デル・マール
アルタミラ博物館を出て,少し走ると,じきにサンティジャーナ(サンティリャーナ)・デル・マールに着いた.(日本語による観光案内のページ/英語版/西語版ウィキペディア,日本語版ウィキペディアは「サンティリャーナデル・マル」).
バスが町に入ると,いかにも由緒有りげな修道院があって,教区博物館という説明板が目に入り,もう,それだけでワクワクしてきた.
駐車場でバスを降りると,この博物館の前を通って,旧市街に向かった.結局,時間がなくて,この博物館には行けなかったけれども,全体としては充実した観光ができた.
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写真:
こじんまりとして
居心地の良い町 |
サンティジャーナに関する資料としては,アルタミラ博物館で,洞窟の英語版ガイドブックと一緒に購入した,
Enrique Campuszano / Jose A. Lasheras, Santillana and Altamira, Leon:
Editorial Everest, 2011(アクセント記号省略)(以下,カンプサーノ)
と,地元ガイドさんが配布した英語版と日本語版の観光案内冊子
Santillana del Mar: Endless Cantabria, Gobierno de Cantabria, 2010
『観光情報ガイド 尽きない魅力のカンタブリア』, Gobierno de Cantabria,
2004
を入手している.
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写真:
マヨール広場にて
左手はドン・ボルハの塔
右側にメリノの塔 |
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市内観光は,小さいけれども由緒有りげな建物が並んでいるサント・ドミンゴ通りから始まった.少し歩くと,フアン・インファンテ通りに変わったが,それもすぐにマヨール広場に出て終わった.
マヨール広場(ラモン・ペラーヨ広場)は,ドン・ボルハの塔(15世紀),メリノの塔(14世紀)といった歴史的建造物に囲まれている.後で昼食を取ったパラドール(国営ホテル)も,ここにあった.
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写真:
参事会教会への道
巡礼が歩いている |
マヨール広場からメリノの塔の横の小道を抜けて,左折すると,カントン通り(上の写真)に出る.このあたりは土産物屋も多い.参事会教会へ向かうのだろうか,巡礼の姿もあった.オビエドを通る海側のルートを辿る巡礼だろう.
大きな家紋の浮彫をつけた家が幾つかあるのを見ながら,古い水場の前を通ると,参事会教会のある広場に出る.
カンプサーノに拠れば,カスティーリャ王フアン2世が,高名な詩人イニゴ・ロペス・デ・メンドーサをサンティジャーナ侯爵にした.イスラム教徒と戦ったオルメドの戦い(1445年)の戦功によってのことだ.以来,この地は貴族の領地となった.イダルゴという名称の郷紳が多く住み,民衆にかけられる税を免除された.彼らは国王に忠誠を尽くす下級領主貴族で,小説の主人公だがドン・キホーテもこの階級に属した.少なくとも,イスラム教徒との戦争がある間は,機能した制度であろう.
イダルゴが居住したせいか,誇らしげに家紋を掲げた小ぶりな邸宅が目立つ.その中ではビジャ家とベラルデ(もしくはタグレ)家の紋章が立派だ.
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写真:
ビジャ家の住居
ファサードの紋章 |
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実物を見ても,写真で見ても読み取れないし,ラテン語かスペイン語かわからないが,前者には「良い死は,全生涯に名誉を齎す」との銘文があるそうだ(カンプサーノ,p.31).イダルゴの立場と気概を示しているだろう.(村田栄一『石も夢見るスペインロマネスク』社会評論社,2007,p.342に引用があった.スペイン語のようだ.)
サンタ・フリアナ参事会教会
何と言っても,小アジア,ビテュニア地方のニコメディア出身で,ディオクレティアヌス帝の時代(3世紀)に殉教した聖ユリアナ(サンタ・フリアナ)の名を冠した参事会教会である.この町の起源もベネディクト会の修道院の周辺に人が住み始めたところから始まる.地名のサンティジャーナもサンタ・フリアナ(ラテン語ならサンクタ・ユリアーナ)のようだ.
聖女の聖遺物を修道士がもたらし,それにちなんで,修道院,教会,集落に名前が付けられた.海に面していないのに,「海の」(デル・マル)と呼ばれるのは,同じ聖人にちなんだ別の町と区別するためらしい.
修道院は9世紀には存在した記録があるそうだが,現在の教会と回廊は12世紀のものとされる.
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写真:
サンタ・フリアナ参事会教会 |
回廊の柱頭は,夢にまで見たロマネスクの浮彫に満ちている.
Miguel Angel / Garcia Guinea, Romanico en Cantabria, Santander: Ediciones
de Libreria Estvdio, 1996(以下,『カンタブリアのロマネスク』)(アクセント記号省略)
に拠れば,下に掲げた写真の先頭は,「ライオンの穴に投げ込まれたダニエル」のようだ(pp.
136-138).
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写真:
サンタ・フリアナ参事会
教会の回廊 |
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教会の堂内にも柱頭の彫刻があった.主祭壇には15世紀のゴシック風の聖ユリアナ像(木彫)をはめ込んだレタブロがあり,周囲は磔刑と聖母被昇天の木彫とフランドル風のパネル画(キリストの物語と聖ユリアナの物語)で装飾されていた.
他に,12世紀のロマネスク彫刻「玉座のキリスト」,やはりロマネスクの「聖アンナと幼い聖母」(カンプサーノはそう言っているが,『カンタブリアのロマネスク』は「聖母子」としている)の浮彫彫刻があって,ロマネスク,ゴシック,ルネサンス,バロックの芸術を見ることができた.
残念ながら堂内は撮影厳禁だったので,これらは本などの写真で思い出す他はない.この教会は3ユーロの入堂料が必要だったが,チケット売り場には,この教会に特化した案内書はなかったので,代わりに絵はがきを買って来た.
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写真:
サンタ・フリアナ
参事会教会の回廊 |
「ルネサンスの都」フィレンツェで,ロマネスクを意識することはあまり無かった.そもそも,それに関して,知識も興味も無かった.しかし,振り返って見ると,
サン・ジョヴァンニ洗礼堂
サン・ミニアート・アル・モンテ教会
は基本的にロマネスクの建造物と言って良く,
サンティ・アポストリ教会
の創建は11世紀以前に遡る.
古代の建造物に使われていた柱が再利用されているサンティ・アポストリ教会は,暗い堂内の雰囲気や,「リンボ」(地獄の周縁)と言う通称を持つ周囲の環境と相まって,「いかにも古い」と言う印象を私に与えた.
しかし,堂内に満ちているのは後期ゴシック,ルネサンス,マニエリスム,バロックの遺産だ.外観以外に「ロマネスク」を思わせるものはないように思うし,その古風な外観すら,通常の「ロマネスク」のイメージとはかけ離れている.あくまでも「フィレンツェの」という限定付きのロマネスクだ.
フィレンツェで最も由緒ある教会の1つであるバディア・フィオレンティーナの創建は10世紀で,聖堂の当初の姿はロマネスク調であったことが,平面構成から察せられるが,現在の姿は13世紀のゴシックの大芸術家アルノルフォ・ディ・カンビオによって大改築が施されたものだ.遠くから見てもバディアのそれとわかる高い鐘楼も古いものだが,尖塔になっていて,ゴシックのイメージだ.
過去にイタリア各地で見たロマネスクとゴシックの芸術と,昨年から今年にかけて見ることができた,スペイン,フランスの歴史的芸術を比較考察して,自分なりに思ったことは,別の回で報告したい.
サンティジャーナは「中世の町」(『地球の歩き方』)と言っても,本当に古いのは参事会教会だけで,外にはメリノの塔の建設開始が14世紀と推定される以外は,15世紀以降の建物が殆どで,フィレンツェなら既にルネサンスの時代のものだ.
巡礼と観光客に溢れる季節もあるが,こじんまりとして,上品で,静かな環境の中にあるので,ここに何度も行きたいと思う人がいるのは理解できる.私も,できることなら,何度でも行きたい.だが,人生の時間は有限だし,しなければならないことも多い.最初で最後のサンティジャーナ体験になるかも知れない.
しかし,あちこちに修復,改変,増築が施され,堂内にもゴシック,ルネサンス,バロックの作品があるとしても,これだけのロマネスク教会を見られたことは,貴重な体験としか言いようがない.
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カンタブリア海はまだ夏だった
サンタンデール
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