フィレンツェだより番外篇
2011年10月11日



 





スペイン第3の規模を持つ
ブルゴスのカテドラル



§巡礼街道の旅 - その5 (ブルゴス - 1)

パンプローナの回で触れたが,スペイン語のブルゴは,ドイツ語のブルク(「城」,「城市」)と共通の語源を持つ語のようだ.


 『小学館 西和中辞典』には重要度の低い語として登録されているが,「城.城内」は,古語として2番目に挙げられており,1番目の意味は「村落,集落」だ.

 スペイン語は英語やフランス語と同じく,複数形には-sが付くので,最初,ブルゴス(英語版西語版ウィキペディア)はブルゴの複数形であろうと思った.

 しかし,ブルゴスを建設したのは西ゴートの貴族の子孫を称する人々だ.西ゴート王国はイスラム教徒に滅ぼされた(711年)とはいえ,彼らがスペイン北部にキリスト教徒の王国を築き,その過程でブルゴスも建設されている.とすれば,ゴート語起源の語が,中世ラテン語でブルグスと称され,それが転訛してブルゴスになった可能性もある.おそらくこちらであろう.

 もっとも,ルイス&ショートの『羅英辞典』に拠れば,ラテン語のブルグスも,すでに4世紀のウェゲティウス・レナートゥスの『戦略論』に出てくるようだ.しかもギリシア語のピュルゴス「塔」への連想もあるので,もしかしたら,その語源はゲルマン語であることに変わりはなくても,西ローマ滅亡が476年であることを考えると,必ずしもゴート語が語源ではないかも知れない.

 ブルゴの複数形なのか,ゲルマン語語源の後期ラテン語ブルグスなのか不明だが,いずれにしてもブルゴスは「城」,「町」と言う意味の地名だ.

 もともと,この地域に人が住み始めたのは太古のことである.時代が進み,ローマ,西ゴートの領土となり,その後イスラム教徒の侵攻,支配を受けたが,レオン国王アルフォンソ3世がキリスト教圏に復帰させた.

 都市としてのブルゴスの起源は9世紀,アルフォンソ3世の命を受けたカスティーリャ伯爵ディエゴ・ロドリゲスによるとされる.11世紀に司教座の置かれる都市となり,カスティーリャ王国の首都となった.

写真:
ブルゴスの朝
夏時間で夜明けが遅い
町の外は野が広がる



大聖堂
 ブルゴスと言えば,セビリア,トレドに次いで,スペインで3番目に大きいと言われる大聖堂(英語版西語版ウィキペディア)で知られる.1221年から建設が始まった古い教会で,ゴシック様式の壮麗な外観を持っている.

 旅行3日目(9月12日),プエンテ・ラ・レイナから移動した夕方,まだ十分に日差しがあったので,チェクインしてから大聖堂を見に行った.

 ホテルは巡礼の道に面しており,出て,少し歩いたところで階段を降りると,大聖堂の前の広場に出た.この日は夕陽の中でポルターユなどの外観を中心に見て,翌朝再び,散歩がてら行ってみた.地元のガイドさんに案内されて,本格的な拝観をしたのは,その後のことだ

 アメリカ・アマゾンの古書店で入手していた,英語版の案内書,

Salvador Andres Ordax, Burgos Cathedral, Leon: Edilisa, n.d.(以下,オルダクス)

に拠って,ジャンピエトリーノの「マグダラのマリア」があることは知っていたので,それなりに胸の高鳴る拝観だった.前日の夕方も,ジャンピエトリーノとは別の,後述する美しいイタリア絵画を見ていたが,ジャンピエトリーノはまだ見ていなかった.

 矢野/田沼には,「カメラを持っての入堂が全面禁止」(p.136)とあったので,撮影は全く期待していなかったが,実際にはフラッシュ禁止とあるだけで,どうやら写真撮影は良いらしい.矢野/田沼が出版されたのが1997年で,すでに14年前であることを考えると,事情が変わったのかも知れない.世界遺産への登録は1984年とのことなので,それを契機としているわけではなさそうだ.

写真:
コロネリア門
もしくは
「使徒たちの門」


 さすがにスペインを代表するゴシック教会だけに,どの角度から見ても,見飽きない素晴らしい建造物である.

 今回の旅行が魅力的だったのは,サンティアゴ・デ・コンポステーラに行くこともあったが,ナバーラ王国の首都パンプローナ,カスティーリャ・レオン王国の首都ブルゴス,レオン王国の首都レオン,アストゥリアス王国の首都オビエドが全てコースに入っていたことだ.

 711年に侵攻してきたイスラム勢力によって,西ゴート王国は滅びた.西ゴートの貴族ペラーヨは北に逃げて,718年アストゥリアス王国を建国し,722年のコパドンガの戦いで,イスラム勢力を破り,アストゥリアス王国がキリスト教勢力としてイベリア半島に残ったことが,後のレコンキスタ(再征服)の出発点となる.

 アストゥリアス王国はやがて首都をオビエドから南のレオンに移し(910年),レオン王国となったが,イスラム教徒との抗争の過程で,932年に統合されて,まとまりとなったカスティーリャ伯爵領は,レオン王国から事実上独立した.

 カスティーリャ伯爵領は,1029年に伯爵ガルシア・サンチェスが暗殺された後,その妹聟だったナバーラ王サンチョ3世に支配され,サンチョの4人の子のうち3人が,サンチョの支配したナバーラ,アラゴン,カスティーリャを引き継いだが,カスティーリャ伯爵領を継承したフェルナンドは王を称してカスティーリャ王フェルナンド1世となり(1035年),レオンの王位も獲得して同君連合カスティーリャ・レオン王国が成立(1037年)した.

 このカスティーリャ・レオン王国が紆余曲折を繰り返し,カスティーリャ王国となり,レコンキスタとスペイン統一の中核となっていく.



 ブルゴス出身(厳密には近郊の町ビバルの生まれ)で最も有名な人物は,レコンキスタの英雄エル・シドであろう.

 彼がキリスト教圏に回復したバレンシアは,彼の死後,イスラム教徒に奪還されたし,レコンキスタが完成(1492)したのは,彼の死(1099)から400年くらい経ってからのことだ.それでも,彼を英雄として,叙事詩『エル・シドの歌』(岩波文庫に邦訳)が作られ,17世紀の悲劇作家ピエール・コルネイユは『ル・シッド』(エルはスペイン語の定冠詞,ルはフランス語の定冠詞)を書いた.20世紀にもチャールトン・ヘストンとソフィア・ローレンが出演した映画『エル・シド』が制作されている.

 彼の颯爽と突進する騎馬像が,ブルゴスの市街地にある.

 バレンシア陥落の年に,妻ヒメナは彼の遺体とともにブルゴスに逃げ,エル・シドの遺体はサン・ペドロ・デ・カルデーニャ修道院に埋葬された.現在はブルゴス大聖堂の中心部に妻とともに眠っている.この改葬は1919年のことなので,新しい出来事だ.

写真:
南翼廊から見たタンブールとドーム
(この真下にエル・シドと
彼の妻ヒメナの墓がある)


 エル・シド夫妻の墓の真上に興味深い造形があった.ここは身廊と翼廊が十字に交差する部分で,天井は非常に高い.オルダクスの案内書では,この円天井部分を英語でタンブール(tambour)と呼んでいる.

 電子辞書の『リーダーズ英和辞典』でひくと,1番目に「タンブール(特に低音の太鼓);鼓手」とあり,様々な意味が掲載されているが,2のaに「(円形の)刺繍枠(で作った刺繍)」とあって,2のcに「《建》(円柱の太鼓石;《建》円天井を支える環状壁」,さらに3に「(キャビネットなどの)よろい戸;《建》(教会玄関の)天井と折戸のある通廊」の意味もある.

 この中から選ぶとすれば,「円天井を支える環状壁」が最も近いかと思われる.語源はフランス語の「太鼓」と書いてあるだけだ.馬杉宗夫『大聖堂のコスモロジー 中世の聖なる空間を読む』(講談社現代新書,1992)には,この教会の説明ではないが,「ドームとその下に続く高いタンブール(円筒形壁面)」と言う説明がある(p.22).

これがブルゴス大聖堂の中で,最も心魅かれた光景だ.


 幾何学的な造型で,イスラム芸術の影響を思わせるが,最初に作られたのが15世紀で,現在の姿は16世紀に完成したとのことだ.イスラムの直接の影響はあり得ないだろう.

 オルダクスは,「ゴシック風」の装飾という説明をしている.おそらくゴシック教会に,このような造形が他でも見られるのであろう.今回,大きなゴシック教会を複数見ることができたが,少なくとも私はブルゴス以外で見た記憶がない.フアン・デ・バジェホと言う作者の名前も挙げられている.

 採光に優れ,星形の上部の窓と,側面の窓から光が堂内に射し込む.

 これほど,大きなものではないし,光も射し込まないが,中央祭壇に向かって右側側廊の「奉献の礼拝堂」にも八菱星の幾何学的天井があり,イスラム芸術を思わせる.しかし,これも16世紀前半の造形だそうなので,遅いゴシックとルネサンスの芸術だ.

 さらに,後陣を囲む周廊の一番奥の「元帥(コンデスタブル)の礼拝堂」の天井も,2つの八菱星を組み合わせで,天井からも周囲のステンドグラスからも光が射し込む美しい光景を見せてくれる.これもまた16世紀に入って完成したものだ.ケルンのシモン(シモン・デ・コロニア)と言う作者の名前もわかっている.

写真:
シモン・デ・コロニアの
タンブールとドーム
元帥の礼拝堂


 アメリカ・アマゾンで古本が,スペイン・アマゾンで新刊書が入手できたおかげで,複数の案内書を参考にしているが,大聖堂でいただいた英語版のパンフレットも有益だ.堂内の平面図(西語版ウィキペディア「ブルゴス大聖堂」にもある)に,礼拝堂その他の名称が書かれていて,どこに何があるか簡潔に説明されている.

 今回はガイドさんに連れられて入場したので,拝観手続きをきちんと理解していないが,おそらくガイドさんが代表して入堂料を払って,人数分のパンフレットを貰ったのだと思う.前日に自分たちで行ったときも,ファサード裏と,右側廊のサルメンタル門を入ったあたりまでは入ることができた.入堂料なしで入れる部分と,入堂料を払って拝観する部分,信者のみが宗教儀式に参加できる部分の3つに分かれているのだろう.

 入堂料を払わなくても,見られるもの少なくないし,壮麗な堂内の雰囲気は味わえるが,博物館,回廊,内陣周辺と周廊の礼拝堂にすばらしいものがあるので,時間に余裕があれば,入堂料を払って丁寧に拝観した方が良い.『地球の歩き方』には5ユーロ,『ワールド・ガイド』には無料で美術館3ユーロとあるが,後者は少し前の出版なので,前者が新しい情報だろう.



 今回,地元ガイドさんが芸術への愛を感じさせる人だったので,様々なものをじっくりと鑑賞することができた.

 ブルゴスの大聖堂は1221年に国王フェルナンド1世とマウリシオ司教の手によって,創建が開始された.13世紀には教会として機能し始めたが,14世紀,15世紀,16世紀を通じて建設と改修が続き,1567年に現在の大聖堂が完成した.

 18世紀に増改築が行われ,ゴシック教会ではあるが,ルネサンス,バロックの時代の芸術作品も堂内に見られる.20世紀初頭にも,エル・シド夫妻の改葬が行われるなど,現在まで生き続けている教会だ.

写真:
聖ニコラス礼拝堂にある
13世紀の祭壇


 13世紀の造営に携わったのはフランス出身の工人たちだったので,基本はフランス・ゴシックの外観になっているが,14世紀のブルゴス司教が,コンスタンツ公会議(1414-18)に出席して,その際にフアン・デ・コロニア(ケルンのヨハン)と言う名匠を伴って帰ってきたと英語版ウィキペディアの「ブルゴス大聖堂」にある.

 しかし,同じ英語版ウィキペディアでも,フアンの紹介ページには,彼を招いたのは1435年にブルゴス司教になったアルフォンソ(アロンソ)・デ・カルタヘナであるとしており,オルダクスの案内書にもそのように記されている.

アルフォンソと言う人物は,色々な意味で興味深い.


 ユダヤ教のラビでありながら,後にカトリックに改宗したパブロ・デ・ブルゴスを父としてブルゴスで生まれた.本人も改宗ユダヤ人(コンベルソ)だ.サラマンカ大学で法学を学び,サンティアゴ・コンポステーラ,セゴビアで助祭を務め,1421年ブルゴスの教皇大使となった.

 カスティーリャ王フアン2世によってバーゼル公会議に派遣(1434年)され,その活躍を,のちに教皇ピウス2世となる人文主義者のエネーア・シルヴィオ・ピッコロミーニが高く評価し,教皇エウゲニウス2世はアルフォンソをブルゴスの司教に任命した.

 キケロ,悲劇を含むセネカの作品を翻訳し,ラテン語やカスティーリャ語による複数の著書を発表した人文主義者でもある.ブルゴス大聖堂の建築,改修を進め,学校を開くなどブルゴスの文化振興に大きく貢献した.60歳でサンティアゴ・デ・コンポストテーラ巡礼を敢行し,その帰途に亡くなった.

 このように見てくると,ブルゴス大聖堂の建築続行と改修をフアン・デ・コロニアに託したのは,コンスタンツ公会議の際の司教ではなくアルフォンソだと思いたい.

 また,コンスタンツ公会議の際の開始時の司教は別人だが,開催中の司教(大司教)は,アルフォンソの父パブロであった.彼もまたパリ大学で学位を取り,カルタヘナの司教,ブルゴスの大司教を歴任した改宗ユダヤ人中のエリートである.息子のアルフォンソともども,当時のユダヤ人が置かれた状況を考える上で,大変興味深いし,様々な問題が論じられているようだが,それは後日の課題とする.

 いずれにせよ,おそらく司教アルフォンソ・デ・カルタヘナに招かれたのであろうフアン・デ・コロニアとその一族(シモンフランシスコ)が,15世紀にそれまでのフランス・ゴシックの様式に,ドイツ・ゴシックの流行を取り入れる増改築を行い,その時,堂内の装飾をヒル・デ・シロエなどの彫刻家が担当した.

 ヒル・デ・シロエと,その息子とされるディエゴ・デ・シロエに関しては,次回に触れる.父がゴシック,息子がルネサンスの芸術家として,当時のスペインの文化状況を考える格好の材料になるだろう.

写真:
ペドロ・フェルナンデス・
デ・ベラスコと妻の墓


 この報告を書くにあたって幾つかの資料を読み,先に言及した「元帥の礼拝堂」は,おそらくスペインのゴシックからルネサンスへの移行を考える上で,大変重要な空間であることが,今にして分かった.

 しかし,私は,この礼拝堂に入った瞬間にジャンピエトリーノの「マグダラのマリア」が見えたので,それに気を取られ,ガイドさんの説明もろくに聞かずに,三流のイタリア・ルネサンス絵画ばかりを見つめていた.

 この「元帥」とは,ペドロ・フェルナンデス・デ・ベラスコという人物であり,彼と妻ドニャ・メンシア・デ・メンドーサ・イ・フィゲロアのが,礼拝堂の中央に置かれている(上の写真).見事な彫刻だが,作者は不明で,アロンソ・ベルゲーテ,フアン・デ・ルガーノ,フェリペ・デ・ビガルニ(英語版西語版ウィキペディア)(フェリペ・デ・ボルゴーニャ)の名前が挙げられている.

 アロンソ・ベルゲーテは,フィレンツェで出会ったスペイン・ルネサンスの芸術家であり,フェリペ・デ・ビガルニは,トレド大聖堂の祭壇衝立の制作に加わった彫刻家だ.フアン・デ・ルガーノに関しては,今のところ情報がない.いずれにしても16世紀になってからの作品だ.

 少なくともアロンソとフェリペはサラゴサでフアン・セルバヒオ枢機卿の墓を共作(1519年)し,グラナダの王室礼拝堂でもこの協力関係が継続したとのことだ(英語版ウィキペディア).下で述べるように,フェリペもまたスペインのルネサンスを推進した芸術家であり,この彫刻は仮に,彼らの作品でないとしても,スペイン・ルネサンス草創期を代表する作品と言えるであろう.

写真:
中央祭壇衝立


 「元帥の礼拝堂」の造営にはシモン・デ・コロニア,フランシスコ・デ・コロニアが関わっており,他にヒル・デ・シロエ,ディエゴ・デ・シロエが手がけた祭壇衝立その他が見られる.

 この礼拝堂の彫刻群の中で,特に中央祭壇衝立の制作の際に,ディエゴ・デ・シロエに協力したのが,フランスのブルゴーニュ(ボルゴーニャ)出身のフェリペ・デ・ビガルニで,彼が,後陣の周りの周廊の進行方向に左側で,後陣から見ると右後ろ側壁に3面の浮彫彫刻を創作した.

 1475年頃,ブルゴーニュのラングル(18世紀の思想家ディドロの出身地)で生まれ,若い頃ローマなどイタリアに滞在し,イタリア・ルネサンスの影響を受けたとされる.

 下の写真右側に見えるのが,十字架を担うキリストがゴルゴタの丘に向かう「カルバリオへの道」で,オルダクスに拠れば,1498年にフェリペがこの制作を依頼され,翌年それが完成すると,「キリスト磔刑」と「キリスト降架と復活」も追加依頼され,1503年に最後の浮彫が完成する.

 他の芸術家,職人たちに深い印象を与え,ゴシックの遺風が残るスペインの芸術がルネサンスへと移行していく一つの契機となった.

写真:
豪華な装飾壁(柱)が
続く左周廊


 ちなみにフェリペがスペインで活躍するようになったのは,サンティアゴ巡礼の途中にブルゴスに立ち寄ったからであり,ここで上述の3面の浮彫を制作し,それが高い評価を受けたことが,彼がスペイン美術史に大きな足跡を残す経歴の開始と言うことになるようだ.スペインの遅いルネサンスはこうして一つの重要な契機を得たのである.

 フェリペはまもなくマドリッドに首都の地位を譲るトレドで亡くなった.遅く始まって,短い期間だけ栄えたスペインのルネサンスを物語るような人生だ.



 スペインの大聖堂に必ずと言って良いほど見られる身廊の中央部に存在する見事な合唱隊席,中央祭壇の衝立や,ゴシックの回廊,フランドル風の宗教画に満ちた博物館など,語るべきことはたくさんあるが,自分の力に余る.よって,ブルゴスの大聖堂で見られたイタリアのルネサンス絵画に言及して,終わりにする.

写真:
ピオンボ作「聖家族」
神殿奉献の礼拝堂


 左側廊の前から2番目の「神殿奉献の礼拝堂」(もしくは聖ヨセフ礼拝堂)は,上述のように幾何学的な八菱星の天井も見事だし,複数の墓碑彫刻も立派だ.

 この礼拝堂を建築家フアン・デ・マティエンソに注文したゴンサロ・ディエス・デ・レルマの石棺の上の彫刻はフェリペ・デ・ビガルニの作で,やはり見事なものだ.八菱星の天井装飾は1534年,クリストバル・デ・アンディノの設計とのことだ.

 ここで,前日の夕方にも見たし,それ以前にもどこかで見たような絵に再び目が行った.入場の際にもらったパンフレットを急いで確認すると,セバスティアーノ・ルチアーニ(イル・ピオンボ)と懐かしい名前が見えた.(この作品は,ローマの特別展で見ていたことは,図録で確認した)

ピオンボの絵に関しては,全く予備知識が無かったので,見られて嬉しかった.


 彼はマニエリスムの傾向が出てくる時代の画家で,イタリア・ルネサンスの最後の画家の1人であり,ヴェネツィア派から出て,ミケランジェロの影響でフィレンツェの芸術を引継ぎ,さらにラファエロのライヴァルとしてローマで活躍する.

 ピオンボが亡くなったのは1547年.ラファエロが死んだ1520年をもってイタリア・ルネサンスの終わりと考える人も多いようなので,その後,27年も活動したピオンボは,まさにルネサンス(イタリアのと言う限定付き)の終焉を生きた画家と言えるだろう.

 スペインの遅いルネサンスの萌芽が随所に見られるブルゴスの大聖堂に,その彼の絵があるのはふさわしいように思った.年長で影響を与えたミケランジェロは1564年まで生き,旺盛な活動を続ける.彼はルネサンスを超越した芸術家だが,ピオンボはやはりイタリア・ルネサンス最後の画家と思いたい.

写真:
ジャンピエトリーノ
「マグダラのマリア」


 ジャンピエトリーノの「マグダラのマリア」は様々な案内書に言及があり,写真も紹介されているので,彼の作品として高水準のものでないことは予想していた.同じ人物を描いたミラノのスフォルツァ城絵画館の作品の方が圧倒的にすばらしい.それでも,見られるかどうか最後まで不安だったので,見られて嬉しかった.

 たくましい農婦のようなマグダラのマリアだ.裸体を毛髪が覆っている姿なので,荒野で修行していたはずだが,痩せ衰えるどころか肉感的でたくましい.実物を一度見て,その後,写真を何度か見ているうちに,また見たくなる(確かめたくなる)作品のように思えてきたが,今のところ,これを見るためにブルゴスを再訪する予定はない.



 左翼廊に,ディエゴ・デ・シロエ作の黄金の階段があり,その後ろには現在は使われていないコロネリア門(上から3つ目の写真)がある.

 周廊の最初の礼拝堂が,その翼廊に面した入口を持っている大聖堂最古の聖ニコラウスの礼拝堂(カピージャ・デ・サン・ニコラス)だ.1240年に造られたものなので,大聖堂の創建開始から20年に満たない時から存在している.ゴシック様式の礼拝堂でその当時の13世紀の祭壇彫刻(上から6番目の写真)とロマネスクの石棺がある.

 とても,語り尽くせないが,スペインのゴシックからルネサンスの芸術に興味を持って見ると,この大聖堂は何度見ても見飽きることがないだろう.ブルゴスのカテドラルを見ることができたことは,生涯の思い出になることは間違いない.






ブルゴスの大聖堂
サルメンタル門