フィレンツェだより番外篇
2011年10月8日



 




アルガ川にかかる王妃の橋
プエンテ・ラ・レイナ



§巡礼街道の旅 - その4 (パンプローナ,プエンテ・ラ・レイナ)

パンプローナ(英語版西語版ウィキペディア)は,ナバーラ王国の首都のあった町だ.


 ローマ時代のギリシア語作家ストラボン(c.64 B.C.-c.A.D. 23)の『ギリシア・ローマ世界地誌』※において,

 「道はタラコから出てその先は,大洋オケアノスに接して(イベリア地方の)最果てに住む人びとの市ポンペロと当の大洋に臨むオエアソ市方面へ向かう」

 「イアッケタニ族の地方は皆セルトリウスがポンペイウスと戦い,その後,後者の息子セクストゥスがカエサル支配下の将軍たちと戦ったところである.イアッケタニア地方より北側の上の方にウァスコネス族とその市ポンペロ.市の名はポンペイウス市を意味させるもののようである」

とある(訳書1巻のp.279).

※『ギリシア・ローマ世界地誌』:龍渓書舎から出ている飯尾都人による訳名で,上掲の箇所は,第3巻(イベリア)第4章(地中海沿岸と内陸)第2節(内陸の地形と住民)の10と言う番号で分類される箇所(このうち「節」は訳者の考えに拠る)で,伝統的に付される,18世紀初頭フランスの古典学者カソボンによる刊本のページ数で言うと161ページの最後にあたる部分(英語版ウィキペディアには出典として,ストラボン3巻161とあり,これによって該当箇所を確認できる)

 ギリシア語著作の訳書ではあるが,この地域はローマの影響が強いので,固有名詞に関してはラテン語に近い読みを訳者は採用しているようだが,希英対訳のロウブ古典叢書の原文を参照するとポンペローンと読むのがストラボンの記述のようである.「ポンペイウス市」と言う説明はポンペーイオポリスとある.

 セルトリウス戦争の終結が前72年,ポンペイウスがカエサルと戦って敗れたパルサロス(ファルサロス)の戦いが前48年であるから,ストラボンが亡くなったのが紀元後とは言え,まだ23年頃とすれば,ポンペイウスがそれほど昔の人でもない時代なのに,ストラボンの説明が既に推測のニュアンスがあることが気になる(原文でも推測を意味する小辞を使った分詞構文で説明されている).

 英語版と西語版のウィキペディアには,ローマ字読みするとポンパエローナとなる地名が挙げられているが,英語版はプトレマイオスとストラボンを出典とし,西語版は出典を挙げていない.今,さしあたってプトレマイオスは参照できていないので,あるいは彼のギリシア語著作から,ポンパエローナと言うラテン語名への示唆が得られるのも知れない.

 西語版ウィキペディアは,歴史とは別に「地名」と言う項目で,かなり詳しい説明を施し,少なくと14の同系の名称を挙げている.長い歴史の中で,変遷があったことが察せられる.ここでは注でストラボンの原文を挙げた上で,正しくポンペローンと言う形を示し,その他の形についても18世紀にフィレンツェで出版されたの地名研究書,20世紀初頭出版の地名事典を典拠にしているので,信頼できると思われる.その中にポンパエローナもある.

 フェリックス・ガフィオの『羅仏辞典』旧版には,形容詞形のポンペーローネンシス(音引き保持)のみが登録されており,説明は「ポンペローナの」とあり,男性・複数形が名詞化して,ポンペローナの住人たちの意味になるとしている.その出典は大プリニウスの『博物誌』3巻24節である.「ポンペローナ」と言う固有名詞の辞書登録はない.

 西語版ウィキペディアでは,バスク語名のイルーニャに関しても,幾つかのヴァリエーションと,ベンゴダと言う別名も挙げられている.

 いずれにせよ,現在は,スペイン語ではパンプローナ,バスク語ではイルーニャと呼ばれている,人口約20万人の都会だ.



 パンプローナはナバーラ自治州の首都であるが,ナバーラとは別にバスク自治州があり,その中心都市ビルバオ(首都はビトリアで,バスク語のガスティスと併記されビトリア・ガスティスと称される.ビトリアも人口ではパンプローナを2万人ほど上回っている)が,人口35万人の規模の都市なので,現在はスペイン・バスク最大の町ではない.それでも,9月11日,ロンセスバジェスから山道をくだって,平地(パンプローナ盆地)に出てから,人跡まばらな地域を通って,人口20万の都市に着くと,大都会に見えた.

 訳語調でちょっと読みにくいが,日本語版ウィキペディア「パンプローナ」で,かなり詳しい情報が得られる.そこでもほぼ最初に言及されているのが,ヘミングウェイ『日はまた昇る』で,物語の重要な背景となったサン・フェルミン祭の牛追い祭りである.

 『地球の歩き方』には囲み記事で詳述され,『ワールド・ガイド』には「アーネスト・ヘミングウェー」と言う囲み記事で取り上げられ,地元の土産物屋で購入した,

 Antonio Iturralde, Pamplona / Iruna, Leon: Editorial Everest, 2006(アクセント記号,Irunaのnの上に突くティルダ記号省略)(以下,イトゥラルデ)

でも,10ページを割き,大きな写真を掲載して紹介されている.地元ガイドさんも,牛が駆け抜ける道筋を示しながら,熱弁を振るっておられた.

 しかし,実際にその場に居合わせたことがなく,多分日本のTVでも何度も紹介されているのであろうが,その映像も見ていないので,実感がない.むしろ,スタート地点となっている,市庁舎のバロック風の建物が記憶に残った.

写真:
市庁舎
「牛追い祭り」の牛は
左手奥の道をスタートする


 入口のアーチ型の枠には,ラテン語で,簡潔過ぎて正確に意味が取れているかどうか自信がないが,「扉は全ての人に開かれている,心はさらに開かれている」(パテト・オムニブス・ヤヌア,コル・ウァルデー・マギス)と言う意味であろう句が刻まれていた.

 現在のスペインとフランスにあたる地域を結び,地中海に面したカタルーニャとその内陸のアラゴンと,ビスケー湾から大西洋に連なる北部スペインを結ぶ要衝の地にあるナバーラ王国の首都であった自信と自覚を前提に選ばれた標語であろうか.あるいは,市民に対するサーヴィス精神を表現したものだろうか.

写真:
市庁舎前の広場を出て
緩やかな登りの坂道を
カテドラルに向かって歩く


 市庁舎前の広場から,中世以来の旧市街の街路を通って緩やかな坂道を登って,大聖堂(カテドラル)(英語版西語版ウィキペディア))に向かう.街路には,中世の服装をした売り子が露店を開いていて,観光客を集めていたが,街並みは多分,中世と言うよりバロック以降のヨーロッパ都市の雰囲気を湛えていた.


大聖堂(カテドラル)
 大聖堂の創建は12世紀のロマネスクの時代まで遡るが,全体としては13世紀から15世紀のゴシック様式の教会だ.ファサードは建築家ベントゥラ・ロドリゲスによって1783年に完成した新古典様式で,簡素な外観にコリント式のギリシア神殿のような柱頭を持っている.立派だが,ゴシック教会のファサードとしては違和感がある.

 堂内には,カルロス3世夫妻の墓もあり,隣接する回廊は,イトゥラルデに「ヨーロッパで最も美しい回廊」と紹介されていて,大変興味深いが,私たちが行った時は,ちょうど午前中の宗教儀式の最中だった.

 堂内に入るには入ったが,一番後ろにしばらく佇んで全体を見て,そのまま退出した.普段は写真もフラッシュを焚かなければOKだそうだが,それも控えた.スペイン各地で見られる祭壇衝立(レタブロ)が複数あって,サンティアゴ・マタモロスの像を最上部に持つものもあり,写真に収めたいと思ったが,叶わなかった.

 しかし,その種の祭壇衝立は,これ以後,たくさん見ることができたし,サンティアゴ・マタモロスの像もあちこちで見ることができたので,今は,パンプローナのゴシック芸術の花とも言うべき,回廊を見られなかったことの方を残念に思う.

 イトゥラルデの案内書掲載の航空写真を見ると,新しいのはファサードだけで,全体としては中世の雰囲気を色濃く残した外観で,是非,じっくり拝観したい教会だったと思う.5分くらいいた堂内で見回して気づいたのは,祭壇衝立くらいだが,これはおそらく16世紀以降の新しいものだろう.

 堂内の写真は全く撮っていないが,柱,天井,合唱隊席,ステンドグラス,祭壇衝立,墓碑,回廊の見事な写真が西語版ウィキペディアに豊富に掲載されている.写真を眺めていると,多分,多くの人がパンプローナのカテドラルに行ってみたいと思うだろう.

写真:
カテドラル左壁面の
「サン・ホセ門」15世紀
タンパンは「聖母戴冠」


 今回,パンプローナのカテドラルで唯一撮ることができた中世風の写真が,上のサン・ホセ(聖ヨセフ)門だ.これも,随分古いものに思えたが,実際には1425年の作のようだ.フィレンツェではドナテッロが活躍し始めた時代だ.作者も特定されている.固有名詞の読み方がわからないので,カタカナ表記は控えるが,フランスのトゥルネー出身と推測され,1449年にナバーラ王国領のビアナで死んだ彫刻家だ.堂内にあるカルロス3世と王妃トラスタマラ家のレオノールの墓碑の作者でもある.


バスクの統治
 ナバーラ王カルロス3世は,最後のバスク人の王サンチョ7世(1234年死去)から,王統がシャンパーニュ伯爵家(1234-1305),フランス王カペー家(1305-49)を経て,フランス・ノルマンディー地方のエヴルー伯爵家に移って3代目の王(1387-1425)だ.

 彼の母方の祖父はフランス国王ジャン2世(ヴァロア朝)であり,エヴルー伯爵家自体もカペー朝フランス王家の分家にあたるので,当然フランスと縁が深い.それでも,彼の父カルロス2世はフランスのエヴルーの生まれでも,パンプローナで亡くなっており,カルロス3世もパンプローナに君臨して,大聖堂完成させるなど,パンプローナの文化を保護,育成した.

 ヘミングウェー所縁のカフェ・イルーニャ,ペルラ・ホテルなどがあるカスティージョ広場には,ナバーラ州政府などの公共建築もあり,現代のパンプローナの中心と言えるが,この広場の真ん中にあるモダンな感じの大きなあずまや(キオスコ)の南側の入口には,王冠を被り,文書を手にしたカルロス3世の立像がある.

 中世のパンプローナに,ナバーラ人ばかりでなく,南仏から移住してきた商人や職人たちもブルゴ(ドイツ語のブルク「城,町」にあたるゲルマン語語源の名称.フィレンツェでも中世の新移住者が城壁周辺に作った集落をボルゴと称し,その名を冠した地域が現在も複数残っている)という集落を形成した.サン・セルニン(サトゥルニオ)教会を中心とする地区,サン・ニコラス教会を中心とする地区,そして従来からの市街(ナバレリア)を一つに統合して,新しいパンプローナの基礎を築いた(1423年)のがカルロス3世である.



 カルロス3世には男子がなく,娘のブランカ(ナバーラ女王としてはブランカ1世)は,アラゴンの王子フアン(後にアラゴン王フアン2世)に嫁いだ.

 フアンは妻の世襲権によりナバーラ王も兼ねたが,ブランカの死(1441年)の後も,正当な継承者であるはずの,2人の間の子カルロスにナバーラ王位を譲らず,この時点ではまだアラゴン王ではなかった彼は,ナバーラの王位に居座った.フアンがアラゴン王となるのは1458年のことで,それまでは兄のアルフォンソ5世が王位にあった.

 ただし,アルフォンソが1442年にナポリ王位を獲得すると,ナポリに常住した兄の代わりにアラゴン王国を事実上統治し,正嫡の継嗣のない兄の死後,アラゴン,バレンシア,マヨルカ,サルデーニャとコルシカ,シチリアの王位,バルセロナ伯など重要な爵位を継承した.ナポリ王位のみは,アルフォンソの庶子フェルナンド(イタリア語名でフェルディナンド1世)が継承した.

 複雑に近親結婚を繰り返して,継承関係がわかり憎いが,日本の天皇家や,フランス国王は男子のみに継承権があるのに対し,ヨーロッパのほとんどの王室,貴族は女子にも継承権があり,ただし結婚によって,子供は嫁ぎ先の家名を名乗るので,王統,王朝の交代が起こる.

 アラゴンの王位を継承したアルフォンソ,フアンの兄弟の父フェルナンド1世は,カスティーリャ王フアン1世の王子だが,母レオノールがアラゴン王ペドロ4世の娘で,ペドロ4世の2人の男子,フアン1世マルティン1世が継嗣のない状態で死去したので,伯父の王位であるアラゴン王を継いだ.

 アラゴン王フェルナンド1世の兄が,カスティーリャ王エンリケ3世で,その子がフアン2世エンリケ4世と父子継承が続いたが,エンリケ4世が早世し,妹のイサベル1世が王位を継承した.

 後にカトリック両王となるアラゴンのフェルナンドは,カスティーリャ王フアン1世の曾孫,カスティーリャのイサベルは同じフアン1世のやはり曾孫で,又従兄妹の関係だったことになる.王朝の家名で言うと,その時点ではアラゴンも,カスティーリャもトラスタマラ家であったことになる.

 アラゴン王弟フアンはカスティーリャ(カスティージャ)王国の貴族の娘フアナ・エンリケスと再婚し,その結婚から,後にカトリック両王の1人となって,レコンキスタを実現したアラゴン王フェルナンド2世が生まれる.フアンはアラゴン王位はもとより,ナバーラ王位をもフェルナンドに譲ることを目論見,実の子であるカルロスと対立した.

 「ナバーラ王国の内乱」(1451-55)(英語版西語版ウィキペディア)をフアン,カルロス父子は戦ったが,カルロスが正嫡の子を残さず(非嫡出子の一人はシチリアのパレルモの大司教まで出世した)バルセロナで死去したので,血統上の継承権はカルロスの同母妹ブランカ2世に移ったが,少なくとも現在のスペイン領内では,アラゴン側が圧倒的に優勢で,最終的に1512年に軍事侵攻を開始したアラゴンのフェルナンド2世がナバーラ王国のピレネー山脈以南を完全に掌握した.

 ローマ人も,西ゴート族も,イスラム教徒も完全に従わせることができなかったスペイン・バスクの王国は,「スペイン」に完全に組み込まれることになる.名目的には1833年まで副王領で,正式に「スペイン」王国領となるのはそれ以後だが,16世紀にその路線は既定のものとなっていたと考えて良いのだろう.

 同じくバスク人の住む地域であっても,ビルバオなどのように,ナバーラ王国とは別にカスティーリャ王国と深い関係があった所もあり,それが,現在,ナバーラ自治州,バスク自治州と2つに別れていることの歴史的淵源と言えるであろう.

 「バスク」を考えるときに,フエロスという名の地方特殊法に支えられた自治と特権が,近現代に至るまで重要なようだが,それについては,

 渡辺哲郎『バスクとバスク人』平凡社新書,2004

が参考になる.

 この本はパンプローナの起源を語って,ポンペイウスをローマ帝国皇帝としている(p.17)点のみ「?」と思ったが,カサレスと言う「家」組織や,古代から信仰,習俗,中世から勃興して統一「スペイン」の中心となったカスティーリャ王国との関係,近現代における産業の発達と伝統技術の継承,「バスク」内の地域差,多様性,海外移民,植民地活動,サビーノ・アラナ,ミゲール・デ・ウナムーノと言った思想的支柱,など随所に有益な情報があり,スペイン継承戦争,ナポレオン戦争,カルリスタ戦争,スペイン内戦と言った歴史的事件との関連についても分かり易く整理がなされている.

 今回,「バスク」と言う時にすぐに連想されるビルバオやゲルニカには行っていないが,サン・ジャン・ピエ・ド・ポールに行くことによってフランス・バスク,パンプローナに行くことによってスペイン・バスクについて学び始める端緒となった.端緒が多すぎて,どれを継続的に学習するか悩ましい所だが,少なくとも「バスク」に関しては,今後も学び続けて行きたい.



 見残したものも数知れず,後ろ髪引かれる思いで,パンプローナを後にし,バスに乗ってプエンテ・ラ・レイナに向かった.ここでピレネー越えに際して2つに集約された「サンティアゴ巡礼の道」は1つになる.


プエンテ・ラ・レイナ
 プエンテは,ラテン語のポンス,イタリア語のポンテにあたり「橋」の意で,ラは女性・単数の定冠詞,レイナはラテン語ではレーギーナ,イタリア語ではレジーナで,「女王,王妃」を意味する.全体として「王妃の橋」となり,橋の名前と同名が町の名前になっている.

 この「王妃」については,ナバーラ王サンチョ3世の妃カスティーリャのムニアドナ(ドニャ・マジョル)もしくはガルシア(・サンチェス)3世の妃ドニャ・エステファニアなど,諸説あるそうだが,2人のいずれかであれば,橋の建設は11世紀と言うことになる.

 石造とは言え,11世紀の建造であれば,昔のままとは考えにくいが,誰もがロマネスクの遺産と認める建造物にやっと出会えたことになる.

写真:
町の入口に立つ
キリスト磔刑教会
(イグレシア・デル・クルシフィホ)


 プエンテ・ラ・レイナの町にパンプローナ側から入ると,最初に,鐘楼は新しい様式に思えるが,本体はもしかしたら相当古いのではないかと思わせる教会があった.クルシフィホ(磔刑のキリスト,キリスト磔刑像)の名を冠した教会で,ロマネスク風に見えるポルターユのある入口から入ることできた.

 14世紀前半にドイツで作成されたと考えられる,ゴシック時代の木彫キリスト磔刑像があることから,現在の名前になったのかも知れないが,本来は,12世紀終わりから13世紀初頭にかけて聖母マリアに奉献された教会で,15世紀に聖ヨハネ騎士団修道会に管理が移管された.道を挟んで,修道院があるが,現在は別の修道会(「イエスの聖なる心臓の司祭たち」と言う団体なのだろうか,教会の堂内でいただいたパンフレットにそうある)のようである.

 橋に向かってさらに歩みを進め,町の中入ると,通りに右側にに大きな教会があった.サンティアゴ教区教会(イグレシア・パロキアル・デ・サンティアーゴ)だ.その少し手前には,「全能の神」の浮彫彫刻や,扉の上と左右に,守護天使,ヴァロアの聖フェリックス,メタの聖ヨハネの彫刻の入った壁龕のある旧「聖三位一体修道士たちの修道院」の建物もあり,何も分からぬまま,写真だけ撮ってきたが,その名称はスペイン・アマゾンで入手した,

 Jose Maria Jimeno Jurio, Puenta La Reina: Confuencia de Rutas Jacobeas, Gobierno de Navarra, 1999(アクセント記号省略)(以下,フリオ)

に拠って知ることができた.

写真:
サンティアゴ(聖ヤコブ)教会
ポルターユ


 この教会も,起源は古く,12世紀創建のロマネスク教会だったらしいが,その雰囲気を残しているのは,ポルターユだけのようだ.立派な鐘楼の外観も,堂内に複数見られる祭壇衝立や,そこに見られる木彫同様,彩色と装飾を施された巡礼姿の大ヤコブ(サンティアゴ・ペレグリノ)や聖バルトロマイの木彫も,全てバロック風に見える.

 ポルターユも本当に古いのかどうかの情報は,西語版ウィキペディアにも,フリオの案内書にもない.とは言え,わざわざ,これだけ古風に擬装する必要もないであろうから,年代の特定はできないにせよ,中世の制作と考えることにする.

 「橋」と,キリスト磔刑教会の一部,サンティアゴ教会のポルターユと,ロマネスクからゴシックの遺産に会えたものと信じたい.「橋」のたもとには,案内板があり,スペイン語とバスク語で「ロマネスクの橋」と紹介されている(バスク語の方は,スペイン語と同じ内容であろうという根拠に基づく推測だが).

写真:
王妃の橋を一人の
巡礼が渡って行った


 「王妃の橋」は,大河エブロ川の支流,美しいアルガ川に掛かっている大きな石造の橋である.橋の両側には,古風ではあるが,まぎれもなく現代人が住んでいる集落があり,自動車などは通れないが,多くの巡礼者や観光客が渡る現役の橋だ.

 想像したり,写真や映像で見たより,曖昧な言い方だが,現実感があると言うか,これを見たことにより,中世とは劇的に様変わりしているとは言え,「サンティアゴ巡礼」を現実的なものとして感じることができた.

 映像で確かに見たことがあるはずなのに,自分の中にイメージとしてあった,人里離れた流れの上に架けられた緑の中の石橋と言う先入観がどこから来たのか,不思議でならない.少し上流には,自動車が通れる現代の橋もあった.

 観光的な要素が大きいとは言え,今も暮らしの中にあって,生活感と決して無縁ではないことが,現代にも「巡礼」が意味あるものと受け止められている一因になっているように思えた.






マジョール通りとサンティアゴ教会
プエンテ・ラ・レイナ