フィレンツェだより番外篇
2011年10月5日



 





サンタ・マリア王立参事会教会の回廊
ロンセスバジェス



§巡礼街道の旅 - その3 (ロンセスバジェス)

フランスにおける「サンティアゴの道」(レ・シュマン・ド・サン・ジャック)は,大きく分けて4つの経路がある.


 そのうち3つは1つに合っした後,サン・ジャン・ピエ・ドポールからイバニェタ峠(シーズ峠)を通ってピレネー山脈を越え,もう1つの道は,ソンポルト峠(ソンポール峠)を通って,ピレネーを越える.

 イバニェタ峠を越えたスペイン側にあるのがロンセスバジェス(ロンセスバリェス)(英語版西語版ウィキペディア),フランス語名をロンスヴォーと言う宿駅だ.中世の武勲叙事詩『ロランの歌』で,英雄ロランがイスラム教徒との戦いで,騙し討ちにあって(と言うのはキリスト教徒側の伝承だが),壮絶な死を遂げた場所として知られる.



 9月11日,美味しい朝食を食べて,サン・ジャン・ピエ・ドポールを出発した.バスは,しばらく走って,ロンセスバジェスで休憩時間を取った.

 前述のロランはカール大帝の甥にあたるが,ここで,ロマネスク風のサンティアゴ(聖ヤコブ)教会(イグレシア・デ・サンティアーゴ)と,聖霊礼拝堂もしくは「カール大帝(シャルルマーニュ)の倉庫(シーロ)」と言う古い建築物を見ることができた.教会はロマネスク風に見えるが,13世紀のゴシック教会とのことだ.聖霊礼拝堂は,その起源は12世紀まで遡るようだが,もちろん修復が施されているであろう.

写真:
聖ヤコブ教会
(サンティアゴ教会)
右は聖霊礼拝堂あるいは
シャルルマーニュの倉庫


 この報告を書き始めようとした時は,まだ手持ちの資料が少なく,最も詳しい資料は西語版ウィキペディアという場合が多かった.これに言及がないとなると,一旦お手上げになってしまうことも少なくなかった.

 しかし,この状況は急速に改善された.帰国してすぐに,古本が手に入ることが多いアメリカのアマゾンで資料を何冊か注文したが,その時,スペインにもアマゾンができたことに気づいたからだ.これで,今まで購入に困難が伴っていたスペイン語の新刊本も,在庫があるものは容易に入手できるようになった.

 昨年,イタリア・アマゾンが開店した時に,喜んで本を買いすぎ,何度か家計に重大な危機をもたらした事実がある.慎重にならざるを得ないのは言うまでもないが,手始めに数冊注文してみた.すると,どういう仕組みになっているのか,注文して一週間も経たない内に本が届いた.その中の1冊,

 Fermin Miranda Garcia / Eloisa Ramirez Vaquero, Roncesvalles, Govierno de Navarra, 2010(以下,『ロンセスバジェス』)(アクセント記号等省略)


によって,西語版ウィキペディアにもない情報を得ることができた.

 この本に載っている昔の白黒写真を見ると,サンティアゴ教会は,鐘楼(鐘架?)の十字架付きの先端が欠けていて,聖霊礼拝堂も安手の素材に見える屋根に覆われていて,現在の何かロマネスクの雰囲気を湛えた外観とは,少し前まで随分違った姿だったことがわかる(p.30).

 しかし,現地で見たときは,サン・ジャン・ピエ・ド・ポールの教会がゴシック風(後陣の土台はロマネスクらしい)だったので,見るからにロマネスクの雰囲気を湛えた(実際はゴシック)教会を初めて見ることができて,心が踊った.

 聖ヤコブ教会の扉は固く閉まっていた.木製の扉の小さな窓から中を覗くと,中央祭壇に彫像があり,その背後の窓から,ガラスの代わりに薄い板にして嵌め込まれたアラバスターを通して,光が微かに差し込んでいるのが見えた.しばらく目を凝らして見つめたが,それ以上のものは見えなかった.

写真:
サンタ・マリア王立参事会教会


 聖ヤコブ教会の前の道を少し進んだ先にあるサンタ・マリア王立参事会教会(上の写真の中央)は,それよりもずっと大きな,現役の教会だ.ナバーラ王サンチョ7世によって創建された13世紀のゴシック教会である.もちろん,大幅な修復,改築が行われているので,バロックなど新しい時代の様式も探せば見つかるように思える.

写真:
聖フィルミヌスの殉教
サンタ・マリア王立参事会
教会のステンドグラス


 堂内のステンドグラスは,1940年代にミュンヘンで作製された新しいものだが,ゴシック風の堂内に彩りを添えており,その中では,聖フィルミヌスの殉教の場面が印象に残った.スペイン語ではサン・フェルミンとなり,パンプローナの守護聖人として,その名を冠した牛追い祭りが有名だ.

 サン・フェルミンはパンプローナで生まれ,トゥールーズで叙階され,パンプローナに帰り,初代の司教となったが,フランスのアミアンで殉教したと言われる.ステンドグラスには斬首される聖人が描かれていた.

写真:
中央祭壇


 美しいステンドグラスもさることながら,中央祭壇前の,簡素だが存在感のある天蓋が,印象に残った.

 下の写真の石棺は随分古いものに思われ,「これがロマネスクか」と勇んで写真に収めたが,上記の本,『ロンセスバジェス』に拠れば,15世紀末から16世紀初頭のものとのことだった.

写真:
古風に見える石棺


 サン・ジャン・ピエ・ド・ポールからサンティアゴ・デ・コンポステーラへ行くには,ロンセスバジェスを通らなければならない.通過は当然予定されていたことだったにせよ,ここで休憩時間をとってもらえたのは嬉しかった.おかげで,見るからに古風な聖ヤコブ教会を外観だけでも見ることができたし,参事会教会は堂内拝観を果たすことができた.

 ただ,上掲3番目の写真で,参事会教会の右手に見えるアウグスティヌス礼拝堂(カピージャ・デ・サン・アグスティン)と興味深い絵画作品などを蔵した博物館は見ることができなかった.回廊は歩かなかったが,入口から見ることができたので,写真をとった(トップの写真).



 『ロンセスバジェス』に掲載されている写真を見ると,博物館にはスペイン各地に見られるフランドルの画家による折り畳み式三翼祭壇画,ルイス・デ・モラーレス(英語版西語版ウィキペディア)の「聖家族と幼児の洗礼者ヨハネ」,ペドロ・オレンテ(英語版西語版ウィキペディア)作の可能性があるとされる「聖ラウレンティスの殉教」があることがわかる.

 モラーレスは現在のエストレマドゥーラ州のバダホスで1509年(もしくは1515年)に生まれ,1585年に同地で亡くなった画家だ.イタリア絵画の影響を受けた時期と,北方絵画の影響を受けた時期があるとのことだが,ロンセスバジェスの「聖家族」は両方の影響を折衷したように思える.美しい絵だと思う.

 彼はセビリアで,ムリーリョも後に影響を受けたとされるフランドルの画家ペドロ・デ・カンパーニャの教えを受けたと言われる.影響を受けた可能性のあるイタリアの画家として,ピオンボ,ベッカフーミ,ソラーリオ,チェーザレ・ダ・セスト,フラ・バルトロメオの名前が挙げられている(西語版ウィキペディア).

 そうだとすると,彼はルネサンスからマニエリスムに移行する時期のイタリア絵画とレオナルデスキの影響を受けたことになる.そういえば,「聖家族」には,フランドル絵画,ピオンボ,ベッカフーミ,レオナルデスキの影響を受けているように思われるが,そう言われたから,そう思っているだけかも知れない.

 この画家は,探し求めているスペイン・ルネサンスの画家と言って良いのではないかと思う.後日,オビエドのアストゥリアス美術館で「聖ステパノ」を見ることができた.同美術館の図録に拠れば,ほぼ同じ絵柄の作品「聖ステパノ」がプラドにもあるようだ.ルーヴルには「ピエタ」があるようだが,見たかどうか思い出せない.美術館公式ホームページのデータベースの写真で見ると,魅力に欠ける作品で,それに比べれば,ロンセスバジェスの「聖家族」は見事な絵に思える.

 ペドロ・(デ・)オレンテは現在のムルシア州に生まれ,トレドでエル・グレコに学び,イタリアのレアンドロ・バッサーノの影響を受け,マドリッドやバレンシアで仕事を,1645年バレンシアで亡くなったバロックの画家だ.モラーレスは,彼が5歳くらいの時に死んでいる.写真で見る限り,劇的な構成の立派な絵だ.

 多分,もうロンセスバジェスに行くことはないと思うが,縁があって再訪することができたら,是非,博物館を訪ね,上記の絵画作品と美しい工芸作品を観てみたい.

 充実した休憩時間を終え,バスは山中の道を下って,一路パンプローナへと向かった.






聖ヤコブ教会の前で
英雄ロランが討死したイバニェタ峠を
越える道は巡礼の道