フィレンツェだより番外篇
2011年10月2日



 





エスパーニュ通り
サン・ジャン・ピエ・ド・ポール



§巡礼街道の旅 - その2 (サン・ジャン・ピエ・ド・ポール)

サン・ジャン・ピエ・ド・ポールは,日本語版ウィキペディア「サン=ジャン=ピエ=ド=ポル」の表記に従えば,ドニバネ・ガラシというバスク語の別名を持つバスク人の町である.


 サン・ジャン・ピエ・ド・ポール(ウィキペディア英語版仏語版)という名称については,ポールを,ポーとする日本語表記もある.今回の旅行会社は,一貫してポーを採用していたが,一応,自分が習ったフランス語読みに従い,ポールとする.しかし,日本語版ウィキペディアのようにポルとするのが,あるいは一番近い発音かも知れない.

 バスク語を勉強したことがないので,全面的に日本語版ウィキペディアに依拠するが,ドニバネ・ガラシは「ガラシの聖ヨハネ」という意味で,ガラシはサンティアゴに向かう途中の一番近い山の名であるという.

 仏語版ウィキペディアにもほぼ同じ説明があるが,この名称はごく最近のものであり,もともとはスペイン語でサンタ・マリア・カボ・エル・ピエンテであったとしている.いずれにせよサン・ジャンが聖ヨハネの意味であるから,その点では共通しており,キリスト教の聖人の名を冠した町であることには,フランス語の場合もバスク語の場合も同じだ.

写真:
城砦からの風景
草をはむ羊がいる


 ピエは,フランス語で「足」だが,おそらく「足元」のような発想から「(山の)すそ.ふもと」(旺文社『ロワイヤル仏和中辞典』の当該語の6)という意味が派生し,ポール(ポル)は「港」だが,そこから「(ピレネー山脈の)峠」(同辞典当該語の4)という意味が出てきて,全体として,「ピレネー山脈の峠の麓にあるサン・ジャン」となる.

 ちなみに,同辞典のポール(ポル)の4の例として,ロンスヴォー峠が挙げられているが,この興味深い地については,次回に報告するつもりだ.

 英語版ウィキペディアでは,かつてサン・ジャン・ル・ヴュー(古サン・ジャンと言う意味だろうか.これが正規の名称だったとは思いにくい)という町があったが,1177年,獅子心王の通称を持つイングランド王リチャード1世によって壊滅し,住民たちは,ナヴァーラ王国の諸王が近傍に創ったサン・ジャン・ピエ・ド・ポールの町に移住したとしている.

 とすれば,現在の町の起源は12世紀後半ということになるが,仏語版ウィキペディアを参照すると,現在もサン・ジャン・ル・ヴューという町(人口は855人とあるので,小さな「村」であろう)が別に存在するようなので,あくまでも現代の名称と言うことだろう.



 地名に関しては,出典を挙げて,年代順に並べた,過剰なくらい丁寧な説明が仏語版ウィキペディアにあった.『皇帝アントニヌスの旅程』(イティネラーリウム・アントニーニー・アウグスティー)というラテン語の書物に,「ピレネーの麓」(イムス・ピュレナエウス)とあるのが最古の言及であろうと考えられている.

 この「皇帝」がアントニヌス・ピウスであれば,2世紀のローマ帝国を描いているが,実際には3世紀の終わり,ディオクレティアヌス治世下の頃のことであろうと推定されているようだ.いずれにせよ,作者も書かれた時代も不明だが.7世紀から15世紀までの20の写本が残っているとのことだ.ラティニストとして恥ずかしいが,私は初めて聞く作品だ.

 また仏語版ウィキペディアには,18世紀の仏語訳が出典として挙げられているが,12世紀の北アフリカで生まれ,コルドバで学んだアラブの旅行家で地理学者イドリースィー(日本語版ウィキペディアの表記)が「サン・ジャンは丘の上に建設された美しい町」と言っているそうだ.

 しかし,サン・ジャンはフランス語だ.これをアラビア語では何と言ったのだろうか.原語を尊重したとしても,当時のこの地方で現在の標準フランス語や標準スペイン語が話されていたわけではないだろうから,12世紀の書物に言及があるかも知れないくらいしか,今はわからない.

 種々挙げられている例のうち,13世紀のサンクトゥス・ヨハンネース・スブ・ペデ・ポルトゥース(最後の語は主格ではなく属格であることを示すために敢えて音引きを用いた)が目を引く.

 本当にこのように記述されたのだとすれば,ほぼ現在のフランス語と同じということになる(ラテン語の方は,「麓に」もしくは「麓の」の「に」や「の」にあたる語が補われている).サン・フアン・(デル・)ピエ・デ・プエルト(ス)というスペイン語の名称と,もう一つはカタルーニャ語であろうか,同じような名称が付されていて,これを信じるならば,少なくとも13世紀には,間違いなく現代と同じ地名が使われていたことになる.

 13世紀の名称に関して,仏語版ウィキペディアはポール・レイモンという人のベアルンとペイ・バスクの地勢,地理に関する事典を挙げているが,その存在すら知らないので,私は今のところ,これ以上辿りようがない.

 たまたまラテン語の地名が出てきたので,脱線してしまったが,いずれにせよ,少なくとも近傍には古代から町が存在し,現在の町も中世から続いていることはわかる.


城砦と城壁
 9月10日,バスはルルドを出て山道を進み,サン・ジャン・ピエ・ド・ポールに着いた.この日は今回のツァーの中で最も天気が良い日で,強烈な日差しを浴びながら,町を散策することとなった.

 丘の上の城砦(シタデル)は17世紀に造られたそうだが,城壁はもっと古いものに思える.しかし,大砲を備えられるような構造になっており,城砦よりは古いが,16世紀のもので,中世にはなかったことになる.

写真:
日差しを浴びながら
城壁の上をぐるっと歩く


 城砦の麓に,サン・ジャック門があり,そこから石を敷き詰めた坂道を下ると,ノートルダム門に至る.この通りがシタデル通りだ.サン・ジャック門を覆っている城壁は15世紀のものだから,ギリギリ中世のものと言えるかも知れない.

 この門道の両脇には巡礼宿もあり,白い壁に,赤茶色の木の雨戸のついた窓があるバスク風の民家が見られ,これも学習項目となった.

 ピレネー山脈の山中からスペイン・バスク地方が始まる.スペイン側では,窓の雨戸は必ずしも赤茶色ではなかったように思うが,同じような構造の民家が多く,バスク文化について少しだけだが考えさせてくれた.


橋のたもとの聖母教会
 ノートル・ダム門は,同時に教会の鐘楼になっている.その教会をノートル・ダム・デュ・ブー・デュ・ポン教会と称するようだ.「橋のたもとの聖母教会」と訳すべきだろうか.

写真:
シタデル通りから見た
ノートルダム門と教会
門と教会の鐘楼が一体
壁龕には洗礼者ヨハネ


 もとは,ナバーラ王サンチョ7世剛勇王(「剛勇王」は日本語版ウィキペディア「サンチョ7世」の訳)が1212年にナバス・デ・トロサの戦いでイスラム軍を破った戦勝記念に建設された教会があったらしい.現在の建物は14世紀のゴシック様式で,材料は赤い結晶片岩だそうだ.これらの情報は英語版ウィキペディアから得られた.

 入口上部の半円形部分であるタンパン(テュンパヌム)は,宗教戦争(ユグノー戦争)もしくはフランス革命の際に破壊を蒙り,ポルターユの柱列上部は不適切な修復を施されているという情報は仏語版ウィキペディアから得られた.

 不適切な修復を経たものかも知れないが,今回の旅で初めて見る古い教会なので,ポルターユを何度も写真に収めないではいられなかった.細かく見れば,結構それなりにおもしろいかも知れない.下の写真に写っている部分は,ウィキメディア・コモンズで見られる反対側とともに,何を意味しているのかは,正直私にはわからない.いつかわかる日を気長に待つ.

写真:
ノートルダム教会の
ポルターユ


 堂内は,聳え立つ柱に区切られた三廊式で,天井は交差リブで支えられて,後陣にはステンドグラスがあり,こぢんまりとしてはいるが見た目にもゴシックの教会に見える.オルガンも19世紀の名のある製作者の作品らしいが,全く気づかなかった.

 バスク人の国ナバーラ(ナヴァール)の守護聖人フランシスコ・ザビエルの像があったらしいが,これにも全く気づかなかった.

写真:
ノートルダム教会
堂内


 なくしたと思っていた,現地でもらった観光地図が,この報告を書いている途中で,土産物の袋の中から出てきた.地図は貴重な資料だし,その裏側に町の見どころをきちんと整理して説明してくれている.この地図を見ながら,もう一度自分の歩いた道を確認した.

 書架の隅にあった英語の旅行案内ロンリー・プラネットの『フランス』(2005年版)も開いて見た.分厚い本なので,そのまま旅行には持って歩く気にならないが,これにもサン・ジャン・ピエ・ド・ポールが要領良くまとめられていた.教会に関しては,「17世紀に徹底的に改築された」と言うのが唯一新しい情報だが,その他の諸点に関しては簡潔に良くまとまっていて感心する.


ナバーラ王国
 前述のサンチョ7世は,ピレネー山脈を挟んで,現在のスペイン北中部とフランス南西部にあたる地域を支配したバスク人の国ナバーラ王国のヒメノ朝の最後の君主である.彼の死後,王位は妹の子であるシャンパーニュ伯に引き継がれ,現在のスペインにあたる地域ではその勢力は衰退していった.

 シャンパーニュ伯爵であったブロワ家も男系が絶え,婚姻関係によって継承権を持っていたカペー朝フランス王太子がナバーラ(ナヴァール)王となり,翌年フランス王にも即位して,フランスとの同君連合が成立した(1285年).

 フランス王家でカペー朝が断絶し,ヴァロア朝になると,同君連合は解消され(1328年),フランス王族であるエヴルー伯爵がナバーラ王位を継承したが,エヴルー家も男系が絶えたので,アラゴン王国(トラスタマラ家)の王子に嫁いだ王女ブランカと夫フアンが王位を継承した(1425年).

 ブランカが死去した際,後にはアラゴン王になる夫フアンは,息子カルロスにナバーラ王位を譲らず,父子は相争った.カルロスは1461年に死去し,継承権は同母妹たちに移った.短期間女王となったレオノールの孫のフォア家のフランソワ(フランシスコ)が王となるも早世し,その妹カトリーヌ(カタリナ)が王位を継承した.

 カスティーリャ女王イサベルと結婚して,カトリック両王としてレコンキスタを完成したアラゴン王フルナンド2世(共同統治のカスティーリャ王としては5世)は,上述のアラゴン王フアン2世が再婚した相手との子だが,ナバーラ王国への領土的野心をむき出しにし,長男をこのカタリナと結婚させようとした.しかし,不調に終わると,今度は自身が,イサベルの死後,ナバーラの王位継承権を持つ可能性のあるフォア家のジェルメーヌ(アラゴン王妃としてはヘルマナ)と結婚した.ジェルメーヌは祖母の異母弟と結婚したことになる.

 2人の間に子どもは生まれたが夭折し,フェルナンドは妻の継承権を主張して,自らもナバーラ王位を宣言し,軍事行動を起こして,1515年に征服を完成し,ナバーラの女王カタリナと夫ジャン・ダルブレはフランスに亡命した.

 翌年フェルナンドは死去したが,スペイン側のナバーラ王国領は,イサベルとの娘フアナが継承して,事実上のカスティーリャ王国領となり,フアナの子カルロス1世(後に神聖ローマ皇帝カール5世)に継承される.正式にスペイン王国の領土に編入されるのは,1833年のことだが,16世紀からは事実上強大な「スペイン王国」の一部になっていたと行って良いだろう.



 一方,ピレネーの北側のナバーラ王国領は,カタリナとジャン・ダルブレ(フアン3世)から,アンリ2世(エンリケ2世),彼とフランス王フランソワ1世の姉マルグリットとの間に生まれたジャンヌ・ダルブレ(女王フアナ3世)に引き継がれた.

 ジャンヌがフランス貴族ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボン(女王の夫であるナバーラ王としてはアントニオ1世)と結婚して儲けた子アンリ(ナバーラ王としてはエンリケ3世)が,後にフランス王となりアンリ4世としてブルボン王朝を開く(1589年).

 すでにフランス王家との関係が濃密で,大きな影響を受けていたが,アンリ4世が即位したことによって,ピレネーの北側に残っていたバスク人の国であるナバーラ(ナヴァール)王国は,フランス王国に組み込まれた.

  簡単にまとめようとしても,複雑になってしまい,正直,これを要領よく理解するのは困難であると断ぜざるを得ないが,要するに,バスク人の王朝であったナバーラ王国は,ピレネー山脈の北と南,現在のフランス領とスペイン領にまたがる王国であったが,バスク人の男系の王統が絶えて,フランス側の貴族に継承権が渡ったことから,スペイン側ではアラゴン王国の侵略を受け,カスティーリャとの連合王国によってレコンキスタを完成させたアラゴン王フェルナンド2世がピレネー山脈の南側のナバーラ領を「スペイン」に組み込み,ピレネーの北側に残っていた王国も,ユグノー戦争,ナントの勅令で有名な,ブルボン朝の開祖アンリ4世によって「フランス」に吸収された,と言えようか.

 フェルナンドの男の子は,イサベルとの子も,ジェルメーヌとの子も子孫を残さず死に,アラゴンの王位もイサベルとの間に生まれた娘フアナを通じて,カスティーリャの王位とともにハプスブルク家のカルロスに引きつがれた.

 後にスペイン・ハプスブルク家が絶えた時,スペイン継承戦争を経て,スペイン王位を得たのが,現在まで続くブルボン家であるのは,皮肉な感じもするが,婚姻関係が錯綜し,個人のレヴェルとしては親族間の争いにも見える.

写真:
エスパーニュ通りから見た
ノートルダム門(教会鐘楼)
壁龕には聖母子
美しいニーヴ川にかかる橋上



バスクの文化
 いずれにせよ,バスク人の国ナバーラ(ナヴァール)は,大きな歴史の流れの中で,ピレネー山脈を挟んでスペイン,フランスという大国に分割されたが,バスクの文化は根強く残り,その独自な言語も滅びてはいない.

 トゥールーズからサン・ジャン・ピエ・ド・ポールに向かう途中,目的地が近づくにつれ,地名を表示した標識にフランス語名の下に,バスク語の地名が加わる.

 中世ナバーラ王国の王統がバスク人のものであったとは言え,国王の名前や地名は通常スペイン語で言われるように,国や地域においてバスク語がどのような地位を持っていたのか,今後学んで行かねばならない.民衆レヴェルで主要言語だったとしても,スペイン側ですら,バスク以外のフランスから移住してきた人たちも多く,ナバーラでバスク語だけが使われていたとは考えにくい.

 近現代に様々な要因で,フランスでもスペインでもバスク地方が豊かになり,時代の流れもあってナショナリズムが台頭して来て,バスク語が彼らの民族的自尊心を支える大きな要因としてフォーカスされて来たのだと思う.

 現在はスペイン側はもちろん,フランス側でも観光案内にはバスク語での説明が併記されている.サン・ジャン・ピエ・ド・ポールの町で見かける名所案内の看板にも,フランス語,スペイン語,英語とともにバスク語の説明が必ず見られた.

 他にも,バスク風民家,バスク・ベレーが,目に見えるところで分かりやすいバスクの特徴だ.



 バスク料理に関しては,矢野/田沼は,「フランス料理の中でもバスク料理が最高だというのはグルメなら知っている」,「フランス・バスクだけではなく,スペインのバスク料理もスペインで最も美味しい料理であることに変わりはない」と絶賛している.

 グルメではない私はバスク料理の素晴らしさに気づくことができなかったが,ロンリー・プラネットも褒め言葉を連ね,ミシュランの星も獲得しているオテル・デ・ピレネーに泊まり,食事をする機会を得た.豪華な夕食は,淡白志向の日本人の私には少し過剰な感じもしたが,翌朝の,簡素だが,十分に吟味された食材で作られていると感じられる朝食が素晴らしかった.

 部屋も快適で,従業員の応対も好感が持て,この宿には機会があればまた泊まりたいと思わせる以上のものがあった.

写真:
バスク土産の布バッグ
裏はコーティングしてあって
強度も十分


 もう一つ特筆すべきものに,ヴィヴィッドな色彩を使って,丈夫に織り込まれたバスク・リネンがある.デザイナーがいて,商品として流通しているから実際より洗練されて見えることもあるのだろうが,エスニックな特産品というよりは,デザイン性が高く,それでいながら忘れ難い個性的な特徴を感じさせ,大いに魅かれた.

 旧市街のはずれにあったジャン・ヴィエという店は,サン・ジャン・ピエ・ド・ポールが本店ではないようだが,購入して自分も使いたい,人にも紹介したいと思わせるものが多かった.

 初めて触れるバスクの世界だが,魅力的だった.今回,観光客はそれほど多くはなかったが,暑かったし,交通量が多く,旧市街と郊外をわける道を横断するとき,危うく自動車やバイクに轢かれそうになった程だ.

 サン・ジャン・ピエ・ド・ポールは,ロンリー・プラネットに拠れば,「夏は恐ろしいほど混んでいる」そうなので,できれば温暖な春か,涼しい秋にもう一度訪れて,のんびりと旧市街と,周囲の景観を楽しみたい.可能なら,オテル・デ・ピレネーに泊まれれば最高だが,生涯一度でも泊まれて良かったと思える宿だった.






結婚式が終わったノートルダム教会
紅白の花びらを掃き集める人がいる