フィレンツェだより番外篇 |
「グランド・オダリスク」 アングル |
§フランスの旅 - その9 ルーブル1 − 新古典主義〜ロマン主義
パリには4日滞在しただけだが,休館日を除く3日間ルーヴルに通い,夜は2日連続,コメディー・フランセーズの天井桟敷でモリエールの「気で病む男」を見た. 田舎から出てきて,田舎くさい大学で学んだので,都会的な文化に憧れがあった.今は田舎が好きだが,当時の私がヨーロッパで見たかったのは,世界的な大都会であるロンドンとパリだった.決して予定通りの行動ではなく,まったく行き当たりばったりではあったが,初日にルーヴルに行った衝撃で,結局ルーヴル通いが続いた. しかし,そのわりには,当時見たはずの作品で,記憶に鮮明に残っているのは,踊り場にあった古代彫刻「サモトラケのニケ」と,新古典派の巨匠ダヴィッドの大作「ホラティウス兄弟の誓い」だけだった.
今まで,たくさんの大学で,講義を聞いてくれたたくさんの学生さんたちに,余談の一つとして,ルーヴルで見たサモトラケのニケの素晴らしさを「熱く」語り,稀には共鳴してくれた人もいた. しかし,今回は前回ほどの興奮をこのヘレニズム彫刻から得ることはなかった.記憶の中の姿よりもずっと小さく,躍動感もそれほどには感じられなかった. ダヴィッド 「ホラティウス兄弟の誓い」を見た感動によって,30年前に,帰国後,リウィウスの記述をラテン語で読み,17世紀古典劇の大作家ピエール・コルネイユの悲劇『オラース』(ホラティウス)を翻訳で読んだ. 現在,日本語版ウィキペディアで「ホラティウス兄弟の誓い」を見ても,相当な情報が得られるが,私なりに整理して見る. 敵対する都市アルバ・ロンガのクリアトゥス兄弟と,ローマのホラティウス兄弟が対決する.両家はそれぞれに通婚する間柄でありながら,祖国のために私情を捨てて,決闘を行い,ホラティウス家の一人が最後に残り,ローマが勝利する.
クリアトゥス家の兄弟の1人と婚約していた妹が,おそらく向かって右端に描かれている.その左にいるのはクリアトゥス家から嫁いできた女性であろう. 中央で誓いを受けているのが,兄弟の父と思われる.ここには,父系制の家族のあり方,国家への忠誠を重んじる姿勢が現れ,ローマ時代にことよせて,作者の時代の社会思想が反映されているのだろう. ローマが暴君を追放して,市民が選んだ代表者が政治を行う共和国であったことは,フランス革命直前の時期にあって,ある種の理想が込められている.この絵を見て,感動することは,今の私にはない. 今回,この絵にさほどの感銘を受けなかったのは,他に見たい作品があまりにもたくさんあったし,時間に制約もあったので,今はただ大きくて綺麗な絵としか思えないこの絵を見ている心の余裕がなかった.
かつて,「ホラティウス兄弟の誓い」を見て,古典への憧憬が掻き立てられた訳だが,実は,これ以外にもギリシア,ローマの古典文学や歴史を題材とする多くの作品が,この周辺にあった.当時はそれに気づかなかったか,気づいたのに忘れてしまっていたらしい.多分,前者であろう. ![]()
この絵を実際に見た記憶が全く無かったし,ルーヴルにあることすらも意識したことはなかった.有名な画家が古典を題材にしてくれたおかげで,もしかしたら,学生さんがホメロスに興味を持ってくれる契機になるかも知れないと期待しただけである.罰当たりなことを言うようだが,実際に見てみると良く描けた絵だと思う. 高階秀爾(監修)『NHK ルーヴル美術館』I‐VII,日本放送出版協会,1985‐86(以下,『NHKルーヴル美術館』) ヒュー・オナー,白井秀和(訳)『新古典主義』中央公論美術出版,1996 を参考にしているが,この絵はルーヴルにあるにも関わらず,この浩瀚な大冊において,写真も紹介されていない.1788年の作品ということなので,「ホラティウス兄弟の誓い」の4年後,大革命の前年の作品と言うことになる. 英語版ウィキペディアでは,人物に焦点を当てた部分写真は掲載されているが,本文では言及がない.本文から分かる情報は,前年の87年に「ソクラテスの死」(ニューヨーク,メトロポリタン美術館)が描かれたことがわかるのみだ.
![]() 英語版ウィキペディアに,この賞の,毎年ではないが1663年以降の絵画部門の受賞者リストがあるが,私が知っている名前はワトー(ヴァトー)(1709年),ブーシェ(1720年),フラゴナール(1752年)で,その後は,ダヴィッド(1774年)まで,知っている名前はない.ダヴィッド以後では,アングル(1801年),ブーグロー(1848年)だけなのに驚く. 音楽部門でもメユール(1809年),ベルリオーズ(1830年),トマ(1832年),グノー(1839年),ビゼー(1857年),マスネ(1863年),ドビュッシー(1884年),ギュスターヴ・シャルパンティエ(1887年),フロラン・シュミット(1900年),アンドレ・カプレ(1901年,モーリス・ラヴェルは3位),ポール・ピエルネ(1904年),マルセル・デュプレ(1914年),ジャック・イベール(1919年),アンリ・デュティユー(1938年)あたりが馴染みの名前で,この後,1968年までの受賞者が挙げられているが,歴史に名を残すというのは難しいことなのだとつくづく思う. 彫刻家に至っては,1875年に受賞したジャン=バティスト・ユーグ以外に誰も知らないように感じたが,良く考えると,ユーグも初めて知る名前だ.ただ,このリストのリンクをたどり,それぞれの彫刻家のページで代表作の写真を見ると,どの作品も高水準に思える.これらの受賞者たちの中で,フランソワ・リュード(1812年)に関してだけは,『NHKルーヴル美術館』もページをさいて紹介している. 今まで知らなかったが,今回たまたまルーヴルの階段に2つのキケロ像を見ることができ,それぞれの作者ジャン=アントワーヌ・ウードンとフランソワ=フレデリック・ルモの名前を知った.両者とも1761年と1790年にローマ賞を獲得している.同じ階段の踊り場の作品がたまたまキケロ像でなければ,2人の名前を知ることはなかっただろう. 『NHKルーヴル美術館』VIには,見開きでウードンの作品を4点紹介したページがあった.ヴォルテールとルソーの胸像と子どもの胸像2点のモノクロ写真が掲載されている. ユーグの名前を知っていたと勘違いしたのも,似た名前の彫刻家ピエール・ピューグのホメロスの胸像(リヨン科学アカデミー)の写真が,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートにあったからだ. アングル 「ホメロスの戴冠」と言う絵がやはりルーヴルにある.ジャン=オギュスト・ドミニク・アングルが描いた.この作品も授業でよく紹介する. 高い所に展示してあったので,良く見えたわけではないが,今回実物をはっきりそれと意識して見ることができた(Webサイト「サルヴァスタイル」には「模写」とある).私は好きな絵だが,『NHKルーヴル美術館』にも『新古典主義』にも言及も写真もない(良く探すと『NHKルーヴル美術館』VII,p.101にモノクロの写真が掲載され,簡単だがp.100の本文に言及がある).(サルヴァスタイルにも解説) この絵は,構図的にも,ホメロスが登場することからも,おそらくラファエロがヴァティカンの教皇宮殿,署名の間に描いたフレスコ画「パルナッソス」の影響を受けているように思われる. ダヴィッドの弟子アングルもローマ賞を受賞し,ローマに遊学したが,彼はダヴィッドとは違い,ラファエロの作品に感銘を受けたとされる.受賞作品は「アキレウスの幕屋を訪れるアガメムノンの使者たち」で,やはりホメロスに取材したものだ. 英語版ウィキペディアに拠れば,エトルリアの壺絵にも影響を受けたとされ,非常に興味深く思われるが,今は立ち入るだけの材料を持っていない.
![]() それでも,この作品も実際に見てみると,題材を越えて訴えかけてくるものがあるように思える.『NHKルーヴル美術館』に拠れば,ローマ彫刻やエトルリアの壺絵の影響があるとのことだ. この作品は,もう一度じっくり見てみたい気がする.
しかし,『新古典主義』は,アングルの作品で唯一これを取り上げて,「アングルはロマン主義のドラクロワと対置されて,新古典主義の最後の人物と見られることがしばしばある」とした上で,この作品に関しては,「彼がダヴィッドの新古典主義的な理想からどれほど遠くに位置しているかを示している」と断じている. その理由として,この作品と題材は,「高潔さ」,「普遍的な有効性が,あるいは,人々が期待するような場面に応じた適応性が持つ真理」を示しておらず,むしろ,「神秘的な曖昧さ」を備えているからだとしている.それは「ヴィンケルマンによって記述され,ダヴィッドによって描かれた,自由と理性の冷徹で静隠な世界とはまったく異なったもの」としている.その後に続く「暗黒の不合理な神々が,もう一度近づきつつある」という表現も含めて,わかりにくい説明だが,要するに,ギリシア・ローマを理想とする明晰な表現から,暗い情念を内包したロマン主義的な要素を濃厚に持つ作品となっていると言うことであろうか. オナーの考えでは,アングルは既に,古代都市ヘルクラネウム(1709年)とポンペイ(1748年)の発掘を受けて,ヴィンケルマンが理論化したギリシア,ローマの「古典」への憧憬に支えられ,絵画でダヴィッドが,彫刻でアントニオ・カノーヴァが行った表現とは,違う方向を示した芸術家ということになるのだろう. そうした考えもあろうが,それでもアングルの絵は古典的主題を多く扱っていることもまた事実だ.
![]() 英雄は騎士の姿であり,その意味では中世を思わせるロマンティックな要素も内包している.やはり,アングルは私にとって興味深い画家だ. 高校時代,盛岡の第一書店で買った画集で見た「ベルタン氏の肖像」も見ることができた.30年前にも気になっていた絵なのに,どうして覚えていないのかは定かではない.地味な作品とも言えるが,見ることができて,胸のつかえがおりたような気がする. ![]() 今回,2人の巨匠に関しては,どちらかと言えばダヴィッドよりアングルに魅力を感じた.しかし,評価の高い「息子たちの遺体を自宅に迎える執政官ブルトゥス」(1789年)も,授業でやはりよく使わせてもらう「サビーニー族の女たちの戦闘仲裁」(1814年)と言う大作も比較的じっくり見ることができたので,ダヴィッドに関しても自分の中での再評価を試みたい. 「ヘクトルの死を嘆くアンドロマケ」(1783年)はホメロス,「テルモピュライのスパルタ王レオニダス」(1814年)はヘロドトスに取材した作品だが,これも比較的じっくり鑑賞した.前者は特に,「ヘレネとパリスの恋」と対比して見たい. 「古典」的主題が,それぞれの時代にどう評価されていったか,時代をリードした天才たち,巨匠たちの作品を見るだけでは十分ではないだろうが,背景にある時代精神のようなものを感じ取ることは不可能ではないだろう. 現地では,さほどにも思わなかったが,記憶の反芻を繰り返すと,やはり,ルーヴル恐るべし,の感を深くした. プリュドン ピエール=ポール・プリュドン(『NHKルーヴル美術館』はプリュードン)と言う画家について予備知識がなかったが,主題も画風も人生も興味深く思えた.彼はローマ賞は受賞していないが,イタリアに行き,そこでレオナルド,ラファエロ,コレッジョの作品の影響を受けたと言われる. ダヴィッドがナポレオンに仕えたの対し,彼は皇后ジョゼフィーヌに仕え,その肖像画(1805年頃)を書き,その絵は今ルーヴルに飾られている.ルーヴルには,古典題材の作品としては「ヴィーナスの入浴」(1810年頃)があるようだが,よく覚えていない.ウェブ上に写真がある絵では「ヴィーナスとアドーニス」が美しい. ただ,「キリスト磔刑」(1822年)には目を見張った.メッスの大聖堂に飾られていた作品だそうだが,この絵は飾られている位置に恵まれていないが,もう少し評価されても良いのではないかと思った.
古典題材である「プシュケの誘拐」は,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートには写真がないが,『NHKルーヴル美術館』VIIの高階秀爾と鈴木杜畿子(『画家ダヴィッド 革命の表現者から皇帝の主席画家へ』晶文社,1991の著者.この本は,実家の書架にあったが津波で流された)の美術史解説に取り上げられ,モノクロ写真が掲載されている. この作品は,コレッジョの影響が濃厚であるように思われる.しかし,時代を反映して幻想的な雰囲気も加味され,同時代のフュースリ(フューズリ)の絵も想起させる.100年以上も前の作品だが,フィレンツェのパラティーナ美術館にあるグイド・カニャッチの「天使たちに支えられたマグダラのマリアの被昇天」などの影響はないのだろうか. いずれにせよ,ダヴィッドからアングルへというメインストリームでなくても,時代の流行はロマン主義に向かっていく印象をこの絵からも受ける. ジロデ=トリオゾン アンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾン(以下,ジロデ)の「アタラの埋葬」(1808年)に関しては,サルヴァスタイルに詳しい解説がある.新大陸に物語の舞台を設定したシャトーブリアンの小説に題材を取っており,その意味では古典題材の作品ではないが,中世,ルネサンス期に数多く書かれた「キリスト埋葬」の図像的影響は明らかだろうから,西洋絵画の伝統を踏まえた作品と言えるだろう.
ジロデの古典題材の作品としては,「エンデュミオンの眠り」(1793年)があるが,ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館にある,バロック期のナポリ派の巨匠ルーカ・ジョルダーノの「エンデュミオンの眠り」と対比すると,やはりロマンティックな色合いの強い絵だと思う人は多いだろう. カノーヴァ オナー『新古典主義』において,ダヴィッドと並んで,新古典主義の立役者の1人と考えられているのが,イタリア人の彫刻家アントニオ・カノーヴァである. カノーヴァの彫刻は,今までに,フィレンツェのパラティーナ美術館(「イタリアのヴィーナス」),サンタ・クローチェ教会(悲劇作家アルファーニの墓碑),ローマのボルゲーゼ美術館(「万物の母ヴィーナスの姿のポーリーヌ・ボナパルト」),ミラノのブレラ美術館(中庭のナポレオン像),ヴェネツィアのコッレル美術館(作品多数)で見ている.世界の有名な美術館で,名を挙げると,ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館,ウィーンの芸術史美術館,サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館にその作品が展示されている. 19世紀まで生きたイタリアの芸術家としては,例外的と言えるほど,世界的な名声を得ている.ヴェネツィア共和国のポッサーニョに生まれ,ヴェネツィアで亡くなり,遺体は故郷に,心臓はヴェネツィアのサンタ・マリーア・グローリオーサ・デイ・フラーリ教会にある,彼自身がティツィアーノの記念碑のために作案したモニュメントに葬られている.栄光に包まれた人生と言えるだろう. 今回は特に,感想を抱くほど勉強はしていないが,有名な「アモルとプシュケ」(1786-93年)を見ることができたのは良かった.
この作品は紀元後2世紀のローマの作家の散文作品『変身物語』(通称『黄金の驢馬』)に題材を取っている.上述のジロデの作品,また新古典主義の画家に分類されるフランソワ・ジェラールの「アモルとプシュケ」(1798年)もルーヴルにある. ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに拠れば,カノーヴァの「アモルとプシュケ」がもう1点(1796-1800年)あるようだが,これは見た記憶がない.大理石彫刻の「アモルとプシュケ」はローマ時代の傑作を見ている. 「アモルとプシュケ」の系譜を辿って ダヴィッドにも「アモルとプシュケ」という作品(1817年,クリーヴランド美術館)があるようだが,特に魅力的な作品ではない.しかし,この題材の作品の系譜を辿って見ることには,意味があるだろう. ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートで写真を見る以外に今は手段がない,16世紀のラファエロのフレスコ画(ローマ,ファルネジーナ荘),その弟子のジュリオ・ロマーノのフレスコ画(マントヴァ,パラッツォ・テ),17世紀のオラツィオ・ジェンティレスキ(1628-30年,エルミタージュ美術館)とアンソニー・ヴァン・ダイク(1639-40年,ウィンザー王室コレクション)のカンヴァス油彩画,同世紀末から18世紀の初めにルーカ・ジョルダーノの銅版油彩による一連の物語画(1692-1702年,ウィンザー王室コレクション),18世紀にはフラゴナール(1753年,ロンドン・ナショナル・ギャラリー),ポンペーオ・バトーニ(「アモルとプシュケの結婚」1756年,ベルリン国立美術館)などが思いつくところだ. こうして並べて見ると,ルネサンス,マニエリスム,カラヴァッジェスキ,バロックの画家たちの後,ロココの画家フラゴナールが続くが,新古典主義の画家たちに先立つルッカ生まれの画家ポンペーオ・バトーニは,どのように位置付けられるのだろうか. 19世紀の作品では,バトーニと同じ主題のパラージョ・パラージ「アモルとプシュケの結婚」(1808年,デトロイト芸術院)の他に,フランソワ=エドゥアール・ピコの作品(1817年頃)があり,後者をルーヴルで見ることができた. サルヴァスタイルでロココのイタリア画家に分類されているボローニャの画家,ジュゼッペ・マリーア・クレスピの「アモルとプシュケ」の写真が掲載されているが,クレスピの死が1747年であるから,明らかにバトーニの方が後進である.新古典派の項目にはイタリアの画家を挙げていないので,このページの制作者がバトーニをどう評価しているかはわからないが,ルッカ,ミラノで鑑賞したこの画家の画風は十分に新古典主義と言えないだろうか. オナー『新古典主義』には,わずかに本文で一箇所,注で一箇所の肖像画の画家としての言及があるだけだが,訳者がつけた索引には,この画家を立項しており,ヴィンケルマンとの関係と,新古典主義への志向が簡潔に説明されている.また英語版ウィキペディアは,ロココとボローニャ古典主義の要素を体現した画家,生まれつつある新古典主義のさきがけと位置づけているようだ. サルヴァスタイルでフランス新古典主義に分類されている画家の中で,最も最初に挙げられているジャン=バティスト=マリー・ピエールが1714年生まれ,ポンペーオが1708年の生まれだから,確かに,新古典主義の画家たちより僅かに上の世代の人ということになる,ダヴィッドの師ヴィアンはピエールよりさらに2歳若い. Edgar Peters Bowron & Peter Bjorn Kerber, Pompeo Batoni: Prince of Painters in Eighteenth Century Rome, New Haven: Yale University Press, 2007 という本が書架にあるが,「君公たちの画家,画家たちの中の君公」とまで言われた芸術家の現在の評価はどうなのだろうか.綺麗でわかりやすいと言われたらその通りだが,フランスに圧倒されるようになってからマッキアイオーリ派までのイタリアの画家で,アイエツ(サルヴァスタイルで「ロマン主義」にイタリアの画家でただ一人取り上げられている)とともに好きな芸術家なので,少し気になった.こだわると話が進まないので,このくらいにして,今後の課題とする. ロマン主義 話の順番から行くと,新古典主義の次の時代の主潮は,ロマン主義ということになるが,その代表的な画匠がユジェーヌ・ドラクロワであろう.新古典主義の画家ピエール=ナルシス・ゲランの門下に学び,7歳年長のテオドール・ジェリコーの影響を受ける. ジェリコーの影響は,ルーヴルの同じ部屋に展示されている「メデュース号の筏」(1818-19年)と,ドラクロワの「ダンテの小舟」(1822年)(ダンテに地獄を案内するウェルギリウス)を比べると,明らかだろう.参考書ではむしろ「キオス島の虐殺」(1824年)への影響が指摘されているが,私は,ウェルギリウスが描き込まれていると言う理由が大きいが,「ダンテの小舟」の方が好きだ.
『神曲』の「地獄篇」と,叙事詩『アエネイス』6巻の影響関係を想起させるこの絵は,立派に古典主題の絵であると言えよう.ルーヴル美術館のドラクロワの作品では,実は天井装飾画(カンヴァス油彩)「ピュトンを射殺すアポロン」を見たかったのだが,これは今回は見ていない. 見た絵も,見られなかった絵も多すぎて,とても全て言及できない.今回ルーヴルで最も見たかったイタリア絵画に関しては,「続く」とする. |
おなじみの傑作を見上げながら ルーヴル美術館 |
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