フィレンツェだより番外篇
2011年4月30日



 




ロワールからノルマンディーへ
バスはひた走る



 4月21日,校務を終えた夕方,弟が借りて,運転もしてくれるレンタカーで,岩手に向かった.

 遺体安置所を回ったが,損傷が激しく,時間も相当たって腐敗も進行しているので,もう遺体は写真とデータで探す外は,ほとんど手段がない.よほどの確信がない限り,直接の確認は難しい.

 岩手県警が,不明者の遺体は順次,自治体に引渡し,自治体は火葬して,遺骨を保管することになるので,遺族の中で希望する人のDNAを採取し,長い時間かかっても,不明者のご遺体から採取,保存しているDNAと照合して行く作業をする,との情報があった.

 遺体安置所となっていた,祖父の母校でもある陸前高田市立矢作小学校は,125年の歴史に幕をおろし,4月からは旧・矢作小学校となった.統合先である下矢作小学校も3月は遺体安置所であったが,こちらは廃校とはならず,新学期が始まるので,遺体は旧・矢作小学校と,住田町下有住(しもありす)の生涯スポーツセンターの2箇所に安置されることになった.

 陸前高田市を含む2市1町は,以前は気仙郡と言う大きなまとまりであった.「気仙」(けせん)は,宮城県の気仙沼(けせんぬま)と語感も字面も似ているが,風土,文化,歴史を異にし,気仙沼は本吉郡に属していた.2つの安置所を叔父や弟が運転する車で回るだけでも,気仙の広さを実感する.

 今回,山間の住田町はほとんど無傷な状態なので,他の2市の復興に大きな助力を申し出てくれているようだ.私の遠い祖先の中にも,現在の住田町の主邑である世田米(せたまい)から嫁いで来た人もいる.

 しかし,下有住と矢作は遠い.直線距離ではそうでもなくても,川づたいに道路も集落もある気仙地方では,最後には私の故郷の高田町の手前で合流するとは言え,気仙川の上流にある住田町下有住と,矢作川の上流にある矢作町二又(ふたまた)の間には,北上山地の深い山と森が横たわっており,相当な時間がかかる.

 22日は,高田町の避難所に親族,知人を訪ね,下有住の安置所から,旧・矢作小学校に向い,そこで私のDNAを採取してもらった.「どのくらいかかるか分からないし,見つからない可能性も決して低くない」との説明を受けた.

 24日は,陸前高田市の仮市庁舎に行き,今後の対応に関する教示を求めたが,まだまだ五里霧中のようだ.この日は大雨だったが,気仙沼の親族が,関東在住の従妹の一家とともに,母の墓参をしてくれるというので,一緒に菩提寺の光照寺に行った.

 地震で一部の墓石は倒れたままだ.高度成長期は働くことだけに必死になっていた父が,50代になったとき,急に祖先に関心を持ち,墓を整備した.旧家なので,墓石がたくさんあるが,一つ一つ墓碑を読み取って,他の資料も用いて,父が家系を整理したが,そのメモも原資料も,もちろん流された.

 母の納骨の時に思ったが,墓も遺骨も,決して亡くなったその人と同じでは有り得ない.埋葬は生き残った者の死者への敬意であって,亡くなった人にとって,どういう意味があるかは私には判断ができない.しかし,少なくとも,先祖代々の墓所をこれだけ,父が丁寧に整備したのだ.何とか,父本人の遺骨も埋葬してやりたい.

 25日は,朝,盛町の叔父の家を出発して,また下有住と矢作をまわり,そこから気仙沼の叔母の家に寄って,関東に戻った.父の行方はまだわからない.



§フランスの旅 - その8 (モン・サン・ミッシェル)


同じ南フランスでも,東西の移動の途中に,全く風景が変わってしまうのを体感した.



 南からロワール渓谷に向かうと,これもまた全然違う景色が目の前に広がり,そこからさらにノルマンディーを目指して北上すると,風土も人々の姿もあまりに異なっていて驚いてしまう.「フランス」も多様であることに今更ながら目を見張る.

 バスの車窓からモン・サン・ミッシェルの修道院の遠景が見えたとき,歓声があがった.多くの人がこの城砦のような教会と修道院を見るために,このツァーに参加したようだ.私たちの主目的は南フランス,特にアルルとアヴィニョンであったが,TVなどの映像でよく取り上げられるモン・サン・ミッシェルを観光したいと言う気持ちは人後に落ちないつもりだ.

 ちょっと不便な点もあったが,宿も食事もまずまずだった.スタッフの優秀さ,誠実さは,翌日よくわかった.

 夕食後,添乗員のHさんの唱導で有志が,モン・サン・ミッシェルの夜景を見に行くことになった.夜道は暗いので,蛍光塗料のついたジャケットを宿から借りて,暗がりを黙々と歩いた.夜景は素晴らしかった.

写真:
迷子にならないように
全員,反射素材のついた
ジャケットを着用


 城外から見て,すぐ帰るはずだったが,参加者も多かったので,城門(「王の門」ポルト・デュ・ロワ)をくぐって麓の街路を歩くことになった.土産物屋やレストランが立ち並ぶ街路グランド・リュを歩いて,教区教会である小さなサン・ピエール教会の前まで行くと,ジャンヌ・ダルクの銅像が有った.

 ジャンヌは15世紀の人物だが,銅像は新しい.「フランス」という近代国家のナショナリズムを支える象徴のような存在で,その意味ではナポレオンとも共通する.敬虔な村娘ジャンヌが,大天使ミカエル(サン・ミッシェル)の幻視を見て,「フランスを救え」という神のお告げを聞いたときに,彼女の念頭にあった「フランス」は今のフランスと同じものだったかどうかは分らない.

写真:
メインストリート
グランド・リュ


 モン・サン・ミッシェルは,バス・ノルマンディー(低地ノルマンディー)地域に属しているが,ジャンヌが異端の判決を受けて,火刑に処せられたルーアンオート・ノルマンディー(高地ノルマンディー)地域に属していて,モン・サン・ミッシェルからパリに向かう途中にある.1431年,異端として処刑されたジャンヌの名誉は15世紀のうちに同じルーアンで回復され,1920年に教皇ベネディクト15世が列聖し,「聖人」となった.

 彼女自身は,ノルマンディーの出身ではなく,ドイツ領だったこともあるロレーヌ(ロートリンゲン)地方のドンレミ(現在のドンレミ・ラ・ピュセル)とされる.ジャンヌの当時はフランス王権の支配も受けていたので,近代的な意味での「愛国者」と考えても間違いではないかも知れない.

 城壁の上の通り路を歩いて,城門の所に降り,場外に出た.下から尖塔の上の大天使ミカエル(サン・ミッシェル)の像を見上げながら,翌日,ゴシックの堂々たる修道院,回廊,教会などを拝観できることを確信した.しかし,そうはならなかった.

写真:
モン・サン・ミッシェル



アヴランシュ
 翌朝,ホテルを出て,バスに乗り込もうというところで,テコテコ隊メンバー1名は,もう1名の出遅れを気にしながら,貧血を起こして転倒し,顔面を殴打して,流血の惨事となって,救急車で運ばれた.

 ホテルのフロントの女性の果断で誠実な対応が,怪我の後遺症を最小限のものとしてくれた.救急士の男性たちも善意に溢れていた.決して大きい病院ではないが,安心しろと言っていたように思えたが,実際に運ばれた病院は大きな病院だった.

 複数の医師,看護師,医療助手の機敏な対応で,手術は行われた.救急車に乗って病院へ向かったのは私たち2人だけだったが,添乗員のHさんと旅行会社のパリ支店の担当の方が,携帯電話で,必要に応じて対応するからと支えてくださった.病院のスタッフの手際が良かったので,事なきを得た.

 後で旅行保険でカヴァーされるであろうとは言え,外国人だし,どのくらいの医療費がかかるのか不安だったが,クレジットカードで支払いができ,しかも手術までしたのに81ユーロと低額だったので驚いた.

 多分,医療助手だと思うが,コミュニケーションのサポートをしてくれた若い女性に,保険請求に必要なので,診断書がほしいと言うと,すでに別の仕事に向かった医師の所に行って,解読不能な手書きの署名のある診断書をもらって来てくれた.これはただだった.救急車ももちろん無料だった.フランスが苦手の私も,さすがにフランスは先進国だなあと有り難く思った.

 診断書に印刷された病院名によって,運ばれた病院がアヴランシュ(英語版仏語版ウィキペディア)という自治体にあることがわかった.

 会計で少し待たされたとき,待合になっている空間に,町の文化財を紹介した大きなパネルがあるのを見て,もしかしたら,相当に私たちの興味を引く町なのではないかと思うに至った.この時点では,診断書も貰える見込みがたち,会計を残すのみだったので,若干心に余裕が甦っていた.

 添乗員のHさんに,携帯で現在地を知らせた後,バスが迎えに来てくれた時に備えて,位置関係をはっきりさせておこうと思い,外に出た.近代的な大病院の外には,鐘楼のある大きな教会のような由緒あり気な建物があった.

写真:
アヴランシュの病院の前庭


 この病院と,近傍の建造物に関する情報は今のところ得られていないが,英語版,仏語版のウィキペディアを参考にして,この町の情報を整理すると,次のようになる.

 大プリニウスの『博物誌』にアブリンカトゥイー族と言うガリア人の部族に言及があり,511年に司教座が置かれ,それは18世紀まで続いた.周辺地域は9世紀にノルマン人に割譲され,あたり一帯はノルマンディーと称されるようになる.

 カペー朝のフランス国王から封建されたノルマン人はノルマンディー伯爵,後にノルマンディー公爵を頭にいただき,公国がこの地域に栄えた.11世紀の公爵ギョームがイングランドに侵攻し,征服王ウィリアム1世としてイングランド国王となり,ノルマン王朝を開いた.

 1066年の「ノルマン人の征服」はイングランドの歴史,文化,言語に大きな影響を与え,西ゲルマン語に属し,ドイツ語やオランダ語と親戚関係が近かった英語は,ノルマン・フランス語の影響で,その語彙に多大な変化があって,現在に至っている.現代英語にフランス語を通じてラテン語語源の語が多いのは,主としてこの事件に起因している.

 イングランド国王となり,現在も英国王の資格の主要な要素は征服王の血筋であることであるにも係わらず,ウィリアム1世は,低地ノルマンディーのカーン修道院に葬られた.

 ノルマンディーには歴史を背負った興味深い宗教建築などの建造物が数多く見られるが,アヴロンシュにも,様々な見どころがあるようだ.

 「アヴランシュの城塔(ドンジョン)」は,10世紀のノルマンディー公リシャール1世無怖公の庶子でアヴランシュ伯爵ロベールが11世紀に建造,大司教館は12世紀の建築とのことだ.サンタンドレ大聖堂も11世紀創建のロマネスク教会であったが,フランス革命で教区教会に格下げされ,19世紀には破却されたようである.

 しかし,ウェブページの写真で見る限りノートル・ダム・デ・シャン教会は,壮麗なゴシック教会だが,これは19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの流れを受けた,ネオ・ゴシック様式の建物のようだ.サン・ジェルヴェ聖堂も写真で見ると,魅力的な教会に見えるが,こちらは19世紀の新古典主義による新しい建築のようだ.しかし,ここには「聖オベールの頭骨」と言う聖遺物が保管されている.

 この聖人は8世紀の司教で,大天使ミカエルのお告げを聞いて,モン・サン・ミッシェルに最初の教会を築いたとされる.その後,ノルマンディー公リシャール1世が,最初の修道院を創設したのが,現在のモン・サン・ミッシェルの修道院の始まりとされる.

 もともと,ケルト語で「トゥン」が小高い所を意味し,これがラテン語のトゥンバ(墓)を想起させ,現在のモン・サン・ミッシェルの丘は,現代フランス語風の発音ではモン・トンブ(墳墓の丘)と言われるようになる.聖オベールが大天使ミカエルのお告げにより,教会を建設したという伝説に拠って,モン・サン・ミシェルと呼ばれるようになったのは9世紀のことだ.聖オベール以前から,イタリアのサン・ガルガーノを中心とするミカエルへの崇敬の流行を受けたものらしい.

 リシャールが,クリュニー修道院の影響下に,ベネディクト会の修道院を創建したのは,910年のことと言うので,もしその時代の建造物が残っていれば,ロマネスク以前の古建築ということになる.しかし,現存の修道院は,外観がゴシック風であり,最古の部分にもロマネスク風の名残があるだけなので,創建時の痕跡はおそらく残っていないのだと思う.

 Jean-Paul Benoit, Mount Saint-Michel. English Version, Editions Jean-Paul Gisserot, 1991(アクサン記号省略)

を,モン・サン・ミッシェルに向かう途中のサーヴィス・ステーションの売店で買った.この写真解説に拠ると,10世紀までは遡れる痕跡もあるようだ.カロリング様式,ノルマン様式,ロマネスク,ゴシックと様々な要素が混在し,最終的に今の姿になるのが13世紀(日本語版ウィキペディア)であれば,やはり全体としてゴシック風に見えるのは当然だろう.

 いずれにせよ,今回は,修道院,教会の堂内や地下教会,回廊などは拝観していない.遠くない将来に,観光,見学,拝観の機会があるだろう.



 1時頃,昼食を済ませてモン・サン・ミッシェルを出発した一行と無事に合流し,パリに向かった.セーヌ川沿いの北フランスの田園風景を見ながら,風土,天候を越えて,フランスの農地の広大さを思った.この豊かな大地が,この国の経済と文化を支えて来たのだ.

 ノルマンディーで出会った人々が印象に残った.うまく言えないが,色が透き通るように肌が白く,吸い込まれるような青い眼の人たちを見ていると,北方から到来したノルマン人の血筋であろうかと想像してしまうが,よく考えると,ノルマン人は少数の支配者に過ぎなかったわけだから,この地方の住民たちの基層部分を成しているであろう,ケルト人(ガリア人)の特徴なのではないかと思う.

 身体的特徴で,民族の違いを云々するのは意味がないかも知れないが,南フランスやイタリアと圧倒的に違う見た目の印象に,ヨーロッパの多様性を思わないではいられない.北イタリアにも,北スペインにも,南フランスにもローマ時代にはケルト人がいたのだから,私の想像には矛盾があるが,北フランスの民家の特徴は,私がイギリスの民家に思い描いている外観に似ているように思われた.季節によっては寒冷であるという風土の共通性もあってのことであろうが,イングランドも,単純にゲルマン人であるアングロ・サクソン的要素ばかりではなく,ケルト人であるブリトン人が基層にいて,だからこそブリタニアであり,グレート・ブリテンという呼称があることを思うと,ヨーロッパ文化におけるケルト人の役割を思わずにはいられない.

 ノルマンディーのほど近くの,大きな半島ブルターニュはブリテン島の「大ブリテン」に対して,「小ブリテン」を形成し,ブリテン島のウェールズとともに,ケルト人の居住地域として,言語の面からも,遅くまでケルト語系統の言語が残り,現在も民族のアイデンティティーとして,祖先から言葉を大事にしようという動きもある.

 古代のラテン文学を考える上でも,ローマ人の,ゲルマン人,ケルト人との葛藤を考慮に入れないことは考えにくい.イタリアの場合は,これにエトルリア人やギリシア人,中世以降ならアルバニア人などの要素を考えなければならないし,本当はもっと複雑で多様な民族構成であったとは思う.

写真:
30年ぶりのルーヴル
ガラスのピラミッドは
昔は無かった


 パリもまた,古くはケルト人の町だった,パリシー族のルテティア(ルテティア・パリシオールム)がパリのローマ時代の名称で,パリシー族はケルト人(ガリア人)だった. しかし,現在のパリは,そこに居住者の民族的特徴を読み取るには,巨大過ぎる.

 今回,パリの街でしたことといえば,食事をして,病院でもらった処方箋を持って薬屋で塗り薬を購入しただけだ.次の日は,最初のルーヴルのガイド付き案内の後,自由時間はそのままルーヴルに残り,巨大な美術館でひたすら目当ての芸術作品を鑑賞.

 30年ぶりのルーヴルに,心踊る思いだった.





傑作に囲まれて立ちつくす
ルーヴル美術館