フィレンツェだより番外篇
2011年5月2日



 




「若い女性に贈り物を差し出すウェヌスと三美神」(部分)
サンドロ・ボッティチェリ



§フランスの旅 - その10
  ルーブル2 − イタリア絵画(その1)


フランスにある世界最高の美術館ルーヴルであっても,現在の私が見たかったは,主としてイタリア絵画だった.


 時代は,中世,ルネサンス,バロックだ.ルネサンスとバロックの間に,マニエリスムと言う用語を挿入しても良い.

 敢えて,奇を衒っていると思われるのを恐れずに言えば,最も見たかったのはギルランダイオの「老人と孫の肖像」である.見ることができて幸せだった.ギルランダイオの「エリザベト訪問」も素晴らしい作品だった.憫笑を受けるかもしれないが,私にとって,フィレンツェのルネサンスはギルランダイオとともにある.

 しかし,そのギルランダイオも独力で巨匠になったわけではない.銀細工職人の父,画匠アレッソ・バルドヴネッティから継承したフィレンツェ絵画の歴史,何よりも,商人と職人が主役だったフィレンツェという都市が彼を生み,育てたのだ.

 同時代人で,世評はギルランダイオと比較にならないほど高いボッティチェリも,職人の家に生まれ,フィリッポ・リッピ,ヴェロッキオの工房で修行して,親方として工房を率い,教会や権力者からの注文をこなし,その注文を受けるためにも市民たちの嗜好に敏感であった.

 ボッティチェリは,作品によって出来不出来の波があり,工房作品とされる場合は,作品の水準自体がプロの作品とは思えない.それでも彼の工房からは,ヤコポ・デル・セッライオ,フィリピーノ・リッピと言う俊秀が育った.

 少なくともルーヴルで見られる彼の作品は,剥離フレスコ画も,テンペラ画の板絵も,すべてすばらしい.フィレンツェ芸術の名を辱めない.


ルネサンスの曙
 自身も16世紀の総合芸術家であり,美術批評の嚆矢となる芸術家列伝を書いたジョルジョ・ヴァザーリは,こうしたフィレンツェ芸術のあり方を方向づけた鼻祖としてチマブーエの名を挙げている.

 チマブーエの「荘厳の聖母」はウフィッツィの作品が一層素晴らしい.しかし,ルーヴルの作品にも見惚れてしまう.玉座の聖母子と天使たちのバランスに心魅かれる.

写真:
「荘厳の聖母」
チマブーエ


 この祭壇画は,1270年代に描かれ,ピサのサン・フランチェスコ教会に有ったとされる.ウフィッツィにあるサンタ・トニリタ教会の祭壇画も,ルーヴルにあるピサの祭壇画も,ヴァザーリの「チマブーエ伝」に言及がある.

 ピサのドゥーモの後陣コンクのモザイクの「福音史家ヨハネ」も彼の作と言われる.



 ヴァザーリはチマブーエの弟子の一人としてジョットの名を挙げている.現在は,ジョットが単純にチマブーエの弟子と位置付けられているわけではないようだが,ともにアッシジのサン・フランチェスコ聖堂で仕事をしているので,全く影響関係が無いと言うことは有り得ないだろう.

写真:
「聖痕を受けるアッシジの
聖フランチェスコ」
ジョット


 ルーヴルで見られるジョットのこの祭壇画も,どうやらピサのサン・フランチェスコ聖堂にあったらしい.14世紀初頭頃の作品とすれば,上のチマブーエの作品に遅れること約30年,個性の違いを越えて,フィレンツェ絵画の技法や様式に決定的な革新が齎されていたことがわかる.

 同じ絵柄のジョットの作品は,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂上部教会の連作フレスコ画「聖フランチェスコの物語」を描いたのが彼であれば,その中にやはり「熾天使の姿のキリストから聖痕を受けるフランチェスコ」がある.

 ジョットの弟子タッデーオ・ガッディが,やはりフランチェスコ会の教会であるフィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂の食堂に描いたこの図像(リンクしたページの向かって左上)も見ている.同教会の説教壇の浮彫パネルにもベネデット・ダ・マイアーノの同主題の作品が見られる.

 サンタ・クローチェのバルディ家礼拝堂はジョットのフレスコ画で有名だが,その外壁上部にも「聖痕を受ける聖フランチェスコ」のフレスコ画がある.果たして,ジョットの作品であろうか(少なくとも,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートと,Norbert Worf, Giotto, Taschen, 2006には,ジョットの作品として掲載).

 この祭壇画のプレデッラ(裾絵)の三場面「傾いた教会を支えるフランチェスコの夢を見る教皇」,「教皇から修道会会則の認可を受けるフランチェスコ」,「小鳥に説教するフランチェスコ」と同じ絵柄が,アッシジのサン・フランチェスコ聖堂上部教会のフレスコ画に見られる.



 フランチェスコの図像としては,スビアーコのサクロ・スペーコ修道院のフレスコ画(1223年)が最古のもの(久保尋ニ『イタリア・ルネサンス』美術出版社,1997,p.7.久保に拠れば1228年)だが,ぺッシャのサン・フランチェスコ教会には,ボナヴェントゥーラ・ベルリンギエーリ作とされるフランチェスコの物語板絵(1235年)があり,フィレンツェのサンタ・クローチェ聖堂のバルディ家礼拝堂にある,作者不詳物語板絵(13世紀終わり)の中央には,実像を反映したかも知れない,フランチェスコの立ち姿の肖像がある.

 また,あるいはそれらを参考にした可能性もある,チマブーエ作のフレスコ画がアッシジのサン・フランチェスコ聖堂下部教会にある.

 チマブーエの貧相な若者とも思われるフランチェスコ像に比べると,スビアーコのフレスコ画は慈愛に満ちた宗教者,ぺッシャの板絵は堂々たる長身の求道者に思われる.私としてはチマブーエのフランチェスコ像が実像に近いと思いたいが,より古い作品とは似ていないということであれば,多分,違うのだろう.

 ジョットの描くフランチェスコは超人であり,英雄である.堂々たるフランチェスコは実像からは更に遠いかもしれないが,ジョットの作品は傑作以外の何物でもない.惚れ惚れする.



 フィレンツェのチマブーエ,ジョットと並び称されるシエナの大芸術家が,ドゥッチョ・ディ・ブォニンセーニャとシモーネ・マルティーニだ.

 今回の旅では,既にアヴィニョンの旧教皇庁宮殿でシモーネの剥離フレスコ画とシノピアに出会っている.ルーヴルの「十字架を担うキリスト」は,以前から写真で見て憧れていた.

写真:
「十字架を担うキリスト」
シモーネ・マルティーニ


 実際に見ると小さな絵で,折りたたみ式携帯用祭壇画の6枚の内の1枚で,他の部分はアントワープとベルリンにあるそうだ(野崎眞理子訳『作品案内ルーヴル 日本語版』パリ,国立美術館連合出版,1990,p.386).

 多くの人が言うように,やはり両手を広げて悲鳴を挙げているマグダラのマリアが印象に残る.上のジョットの祭壇画から,さらに30年くらい後に描かれた.この色彩が,国際ゴシックの華やかな画風を生んだのかも知れない.

フィレンツェの国際ゴシックを支えたシエナ出身のロレンツォ・モナコの弟子筋にあたるのが,ムジェッロの谷から出て,フィエーゾレの丘のドメニコ会の修道院で画業を始めたフラ・アンジェリコだ.


 彼の作品をルーヴルで少なくとも3点見た.ロレンツォの作品もルーヴルで少なくとも2点見られる(『NHKルーヴル美術館』IIIでもカラーで紹介され,「聖母子」は部分の拡大写真もある).

 フラ・アンジェリコの「聖母戴冠」は華やかな絵で,フィエーゾレのサン・ドメニコ教会の出自を示すように,プレデッラには聖ドメニコの生涯の6場面が描かれている.1430年代の制作であれば,既にシモーネの絵からも約100年の歳月を経ている.すでに十分にルネサンス絵画である.「天使の画家」の面目躍如とも言うべき作品だ.

 「コスマスとダミアヌスの殉教」は,彼がフィエーゾレの丘からおりて,フィレンツェのドメニコ会の新たな修道院とサン・マルコ教会のために描いた大祭壇画のプレデッラの一部で,コスマスとダミアヌスを守護聖人とするメディチ家の当主であった老コジモの依頼で描かれた.完成は1440年とされる.

 案内書,解説書等に言及がないうえ,今回は膨大な枚数の写真を撮ることが予想されたので,解説板の撮影を控えたため,詳細は今のところ不明だが,明らかにフラ・アンジェリコの作と思われる2枚の天使の板絵が向かい合うように展示されていた.

 ガラスケースに入っているので,光を反射した写真しか撮れておらず残念だが,それでも,いかにもフラ・アンジェリコという感じの天使の絵を予想外に見られたのは嬉しい.



 ヴェローナでピサ出身の父から生まれたとされる,国際ゴシックの画家ピザネッロ(ピサネッロ)は,残っている絵画作品が極めて少なく,その意味でフェッラーラのエステ家から,リミニのマラテスタ家に嫁いだジネヴラの肖像画は貴重な作例と言えよう.

写真:
「ジネヴラ・デステ」
ピザネッロ


 彼女は,夫シジスモンドに毒殺されたと言われるが,そのシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタの肖像をトスカーナ西部サンセポルクロ出身の画家ピエロ・デッラ・フランチェスカが描いており,この作品もルーヴルで見られる.

 2007年のフィレンツェ滞在で,アレッツォに行った際に,ピエロの絵をフィレンツェ,ウルビーノ,パリから借りてきた特別展を見る機会があったが.それ以来の再会と言うことになる.

 ジネヴラの父ニッコロ・デステ3世,兄弟であるレオネッロ・デステ,ボルソ・デステ,エルコレ・デステ1世,夫であるシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ,やはりピエロ・デッラ・フランチェスカが肖像画を描いたウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ,これらの人々はそれぞれにルネサンスを支えた開明君主だが,狂気,流血,戦争に明け暮れた人生を送った人々でもあるように思える.

 ピザネッロが描いた美しい肖像画を見ても,平静な気持ちではいられない.


ギルランダイオとルネサンス
 フィリッポ・リッピ,アレッソ・バルドヴィネッティ,ボッティチェリの傑作絵画を鑑賞しながら,ようやく目当ての作品に辿り着いた.

写真:
「老人と孫」
ドメニコ・デル・ギルランダイオ


 今まで,写真で見ていたよりも,相当状態が良く,明らかに修復を経たようだが,ともかくギルランダイオの作品に出会えた.

 『NHKルーヴル美術館』IIIに拠れば,老人の顔は,現在はストックホルム国立美術館に所蔵されている死に顔のデッサンから再構成されたものとのことであるが,そうした由来を越えて,幸せな人生を送った老人と可愛い孫の姿に心打たれる.

 窓から見える風景にもあるいは深い意味があるのかも知れないが,この絵を鑑賞できた幸福感に比べれば,小さなことに思われる.



 ギルランダイオが生まれたのは1449年であるから,マザッチョやフラ・アンジェリコとは50歳くらいの年齢差がある.この50年前の芸術家たちの中に,ミケランジェロ登場以前のフィレンツェ最高の彫刻家ドナテッロ(c.1386-1466)がいる.

 ドナテッロは招かれて,パドヴァのサンタントーニオ聖堂(イル・サント)でブロンズの祭壇彫刻と,堂外に同じくブロンズのガッタメラータの騎馬像を製作した.この高い芸術性が,パドヴァと北イタリアのルネサンスを呼び起こしたと言われる.

 パドヴァのスクアルチョーネ工房に,ヴェネツィアのカルロ・クロヴェッリ,フェッラーラのコスメ・トゥーラ,ブレーシャとミラノで活躍したヴィンチェンツォ・フォッパ,ボローニャのマルコ・ゾッポ,ダルマティア出身のジョルジョ・スキアヴォーネがいて,そこで彼らがその天才を発揮する技法や様式を学んだとすれば,やはりドナテッロがイタリア芸術に持つ意味は計り知れないくらい大きいと言えよう(塚本博『イタリア・ルネサンス美術の水脈』三元社,1994,pp.69-73など参照)

そのスクアルチョーネ工房出身の最大の芸術家がアンドレーア・マンテーニャである.


 彼は,スクアルチョーネの養子として活躍していながら,ヴェネツィアの新興の工房の指導者で,国際ゴシックの流れを組むヤコポ・ベッリーニの娘婿となり,ヤコポの息子ジェンティーレと後の巨匠ジョヴァンニの義兄弟となった.

 また宮廷画家としてゴンザーガ家に迎えられ,マントヴァのルネサンスを現出した.

写真:
「聖セバスティアヌスの殉教」
マンテーニャ


 ルーヴルには,「聖セバスティアヌスの殉教」,「勝利の聖母子」,ヴェローナのサン・ゼーノ・マッジョーレ聖堂の傑作祭壇画のプレデッラである「ゴルゴタの丘」と言った宗教画の他に,「パルナッソス」(マルスとヴィーナス),「悪徳を追い払うミネルウァ」と言うギリシア神話に取材した寓意画がある.

 マンテーニャ・ファン必見の諸作だが,今回はミラノのブレラ美術館やスフルツェスコ絵画館の宗教画,マントヴァの公爵宮殿「新婚夫婦の間」のフレスコ画からで得られたような感銘は得られず,次回に持ち越した.



 ヴェネツィア派の中では,ジョヴァンニ・ベッリーニの「キリストの磔刑」,「祝福を与えるキリスト」より,ヴィットーレ・カルパッチョの「エルサレムで説教する聖ステパノ」が良かった.

 ヴェネツィア派に影響を与えた,シチリア出身のアントネッロ・ダ・メッシーナの「ある男の肖像」にも憧れを抱いていたので,じっくりとは言えないが,見ることができ嬉しかった.

フィレンツェ出身でありながら,イタリアの他の都市で活躍した芸術家として,アンドレア・デル・ヴェロッキオ(1435-88)が挙げられる.


 彼の前世代のアンドレア・デル・カスターニョ(1421-57)もヴェネツィアの教会にフレスコ画を描いているので,ヴェネツィアの芸術も,その揺籃期にはフィレンツェの影響を受けていた面があると言えるだろう.

 ドナテッロのガッタメラータの騎馬像を意識したかもしれない,傭兵隊長コッレオーニの騎馬像をサンティ・パオロ・エ・ジョヴァンニ聖堂の前の広場に制作したのはヴェロッキオだ.

 正確には,像が未完成のままヴェネツィアで亡くなり,弟子のロレンツォ・ディ・クレーディがフィレンツェまで遺体を運び,ヴェロッキオの家の菩提寺であるサンタンブロージョ教会の堂内に葬った.この墓も私たちは偶然に参ることができた.

 そのロレンツォ・ディ・クレーディの作と考えられている小さな「受胎告知」も今回,ルーヴルで見ることができた.彼の作品では「聖母子と2聖人」が美しい絵だった.ピエロ・ディ・コジモ(1462-1521)の個性的な「聖母子」と並んで,盛期ルネサンス以降のフィレンツェ派絵画の実力を示してくれる作品群に出会えたことになる.



 ヴェロッキオの弟子としてロレンツォ・ディ・クレーディより遥かに有名な芸術家としてレオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)の名を挙げるのを躊躇する人はいないだろう.彼は,ボッティチェリ(1445-1510)もペルジーノ(1446-1523)も働いたことのある,フィレンツェ一の工房で修行した.

 30年前同様,今回も「モナ・リザ」(ラ・ジョコンダ)の魅力に開眼することはできなかった.レオナルドは未だに私にとって遠い所にいる天才芸術家だ.しかし,さすがに「岩窟の聖母」と,本人の作品かどうかはともかく「洗礼者ヨハネ」は傑作に思えた.

写真:
「岩窟の聖母」
レオナルド・ダ・ヴィンチ


 写真で見ても,「見たい」という気持ちにさせてくれる「聖母子と聖アンナ」は,今回は見ていない.どこかの特別展に出張していたのだろうか.レオナルドの本当の魅力をまだ全く理解出来ていないが,いつかは,と思わせる何かがある(ような気がする)作品だ.

 レオナルドの影響を受けた,いわゆるレオナルデスキの画家たちの作品も複数見られた.ベルナルディーノ・ルイーニの剥離フレスコ画断片が,最も私の好みに合った.

 同じくフィレンツェに根を持つ芸術家であるミケランジェロはローマに,そしてレオナルドはミラノに,フィレンツェの芸術を伝えた.レオナルドの影響は更に北に向かって,フランスの少し遅いルネサンスに滋養を与え,現在まで続く,芸術大国フランスの土台となった.



 同僚の藤本陽子さんの訃報があった.東京の有名女子校を出て,東京外国語大学で学び,傑出した英語力を持っていた.私とはおよそ対照的な背景を持つ人だが,縁有って,同じ大学院の同じ先生の指導下に学んだ.同じ1958年の生まれで,先輩でやはり今は同僚の村田薫さんとともに,私に多大な影響を与え,率直に物を言い合える仲間であった.

 京都で非常勤講師をしながら,まだ大学院で学んでいた時,既に東京の有力大学の専任教員だった彼女が西日本に学会出張のついでに,京都に寄ってくれて,食事をおごってくれた.村田さんが訪ねてくれた時と同じように,東寺の講堂に案内した.あれから,20年の歳月が流れた.

 彼女の研究室には,シモーネ・マルティーニとリッポ・メンミ共作の「受胎告知」の絵葉書が飾ってあった.多くの違いを越えて,共感し合える友人だった.今はただ,冥福を祈るのみだ.悲しみが溢れる春だが,それでも花は美しく咲き,木々は新緑の衣を纏う.





「ピエタ」
コスメ・トゥーラ