フィレンツェだより番外篇
2011年3月11日



 




サント・ヴィクトワール山
バスの車窓から



§フランスの旅 - その3 (エクサンプロヴァンス)


ニースの歴史は,その起源は不明だが,ギリシア人やフェニキア人が地中海沿岸の港湾に良い入り江を見逃すはずもなく,少なくとも古代のある時期,ニカイアというギリシア語の地名で呼ばれ,これが現在のニースの名のもととなった.



 さらにローマ時代に,丘の上の植民都市ケメネルムなどがあった周辺地域をあわせて,現在は,パリ,マルセイユ,リヨン,トゥールーズに続くフランスで5番目の人口を要する都市となっている.2007年で35万人弱(英語版ウィキペディア)という人口で,日本人の感覚からすると「大都市」というには躊躇するが,経済的に栄えている近代都市の側面を持っている.



 中世のニースについて詳しく学ぶ機会は,今後もないかもしれないが,おぼろげながら,ランゴバルド族の来襲(6世紀),ジェノヴァを中心とするリグリア諸都市の同盟への参加(7世紀),イスラム教徒の侵略(9世紀から10世紀),ピサとの同盟によるジェノヴァへの対抗と,フランス王や神聖ローマ皇帝からの自立,時にはプロヴァンス伯に支配されながら,最終的には14世紀末までは独立した都市であり続けた,という風に整理できるかも知れない(英語版ウィキペディア).

 しかし,1388年,当時のサヴォア伯爵の保護下に入る.このサヴォア(サヴォイア)伯爵家の君主が公爵となって,後にイタリアを統一するサルデーニャ王国を作るので,これらの経緯を見ると,1860年までのニースは,「南仏」的な歴史を加味しながらも,概ね,現在イタリア共和国に属している地域との関係が深かったことがわかる.

 19世紀の後半になって「イタリア王国」という統一国家ができたが,高校の世界史でもそれに大きく貢献した3人の人物を習う.青年イタリア党などを指導した革命家ジュゼッペ・マッツィーニ,サルデーニャ王国の宰相カミッロ・ベンソ・ディ・カヴール伯爵,さらに軍事的にイタリア統一に貢献したジュゼッペ・ガリバルディである.

 このうちガリバルディはニースの生まれである.ニース(イタリア語ではニッツァ)がフランスに割譲されたと聞いて,赤シャツ隊の英雄は激怒したとのことだが,それ以来,ニースはずっとフランスの重要な都市であり続け,現在では住民もフランス語話者がほとんどであろう.申し訳のように,ニースにはガリバルディ広場があり,イタリア統一の英雄の大きな銅像が建てられているが,これはバスの中から垣間見ただけだ.



 北緯43度42分12秒のニースの位置をイタリア諸都市と比べると,ピサ(43度43分),フィレンツェ(43度47分)とほぼ同じであり,エミリア・ロマーニャ州以北のイタリア諸都市よりも南に位置していることがわかる.

 かつて住んでいたフィレンツェを基点に考えると,北イタリアへ進み,さらにアルプスを越えて北へ行くという思い込みがあるので,「南仏」と言っても,イタリアより北にあると勘違いしそうだが,ミラノやヴェネツィアにはない南国のイメージを「南仏」に抱くのは位置関係から言ってもそれほど的外れではないように思う.

 一年間イタリアで暮らした経験から言うと,夏は暑いが,秋から冬はかなり寒かったので,フィレンツェやピサに対して,私は「南国」という印象を持っていない.トスカーナは南イタリアと対比され,コートダジュールは北フランスと比べられるということもあろうが,それにしても2月末のニースは,すでに春の陽気だった.山にはミモザやアーモンドの花が咲き乱れ,海辺の街道の棕櫚の大木とともに,視覚的にも「南国」という印象を持った.

写真:
ミモザの花で覆われた丘


 3日目(2月25日)の朝,出発直後にちょっとしたトラブルがあった.

 団体旅行において,添乗員さんの統率力は極めて重要な要素であり,その点,Hさんは申し分のない方であったが,40名弱の一行に,これから向かう観光地の説明をし,連絡を周知徹底させるのにバスのマイクは必須アイテムであった.それなのに,どうも私たちの乗ったバスのマイクは壊れていたようだ.

 おかげで,予定外の場所に寄って,バスを2度乗り換えるという手間があり,出発が1時間ほど遅れた.ツァーの皆さんから,この時点ではだいぶ不満が出たようだ.乗り心地は最初のバスが1番良かったし,時間も無駄に費やしたので無理もないと思う.それでも,その後の道中で,不満は解消していったようだった.

 私たちもバスは良いに越したことはないし,出発がこんなに遅れてどうなるのだろうという不安もないではなかったが,そもそも旅行会社にほとんどを委ねている旅なので,結果に関しては楽観的だった.

 偶然ではあるが,このトラブルがあったことが,私たちには結果的に幸いした.

 最初の予定では,ニースからアルルに向い,その後にエクサンプロヴァンス(英語版フランス語版ウィキペディア)(以下,本文ではエクス)に寄って,宿泊地のアヴィニョン近郊に着くはずだった.

 しかし,遅れを解消するための方策として,運転手さんから,アルルよりもエクスの方がニースに近いのだから,エクスを先にして,次にアルル,アヴィニョンと言う順番にしてはどうかと言う提案があり,Hさんの決断により,運転手さんのお考えは受け入れらた.

 その結果,午後に行くはずだったエクスに午前中に到着したおかげで,サン・ソヴール大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)の扉が開いていて,予定のなかった入場拝観を果たすことができた.Hさんが,「普段はあいていないことが多いんですけど」とおっしゃったが,『地球の歩き方 南仏』にもあるように,昼休みがあるからだろう.

写真:
サン・ソヴール大聖堂
エクサンプロヴァンス



サン・ソヴール大聖堂
 この教会の鐘楼とファサードは,ゴシック風に見えるが,その右側にはロマネススク風の建物があり,こちらのローマ時代の柱が両脇にある扉が入場口になる.それぞれ様々な時代の修復や追加があるようで,全体として一概に中世の教会とは言えないようだ.この後,何度か言及するかもしれないが,「フランス革命の際の破壊」も蒙っているようだ.

 中に入ると,16世紀末までは洗礼堂部分への拝廊だった空間がある.現在は「聖コスマスとダミアヌスの礼拝堂」(シャペル・サン・コーム・エ・ダミアン)とされているが,そこにキリストと十二使徒の浮彫彫刻を施した石棺が置かれていた.ギリシアのテッサロニケで5世紀に生まれた,エクスで亡くなった聖ミトル(フランス語読みのままだが,英語版ウィキペディアでもラテン語その他の名称が確認できないので,このままとする)の石棺とされる.

写真:
聖コスマスとダミアヌス礼拝堂
「聖ミトルの石棺」


 この聖人に関しては,生きたまま首を切られ,その首を持って歩いた奇跡を行ったという以外に,詳しいことはわからない.

 仏語版ウィキペディアに拠れば,テッサロニケの裕福な家に生まれ,24歳の時プロヴァンスに来て,エクス在住のローマ高官の家僕となったが,彼の謹厳な態度に嫌気がさした主人が,彼を陥れるために,郊外の葡萄園に送り,他の召使いたちに命じて,彼の失態となるように画策させた.召使いたちは葡萄の実を摘んでしまい,瓶の中に入れて,ミトルがそれを貧者に施していると誣告した.高官は現場を押さえるために葡萄園に行ったが,瓶は空で,高官はミトルが魔術を使ったとして告発した.ミトルは斬首されたが,首を拾って歩き出し,ノートル・ダーム・ド・セド教会(と読むのだろうか)の祭壇まで運び,そこで息絶え,その教会の守護者となった.

 荒唐無稽な聖人譚で,現代人の私たちがここから汲み取る教訓はないように思われるが,ローカル・セイントの物語として地元で大事にされたのであろう.14世紀に聖人ゆかりの遺物は,上記のセド教会から,サン・ソヴールに移された.エミール・ゾラの小説にもこの聖人への言及があるとのことだ.

 ゾラはイタリア人の父とフランス人の母の間にパリで生まれ,エクスで少年時代を過ごし,後に偉大な画家となるポール・セザンヌの友人だったそうだ.セザンヌのインスピレーションの源泉の一つとなったサント・ヴィクトワール山は有名だが,町からは私たちは見ることができず,エクスに向かう途中のバスの中から見ただけだが,素晴らしい眺めだった.

 ミトルの石棺のある礼拝堂から,6世紀のメロヴィング朝時代の遺構と言われている旧・洗礼堂のあった空間に行くと,その時代のものかどうかは情報がないが,古い床モザイクの断片があり,さらに時代はだいぶ降るであろうが,中世の古拙なフレスコ画も見られた.新しいカンヴァス画も複数あったが,それらをじっくり見ている時間はなかった.

写真:
メロヴィング朝時代の洗礼堂


 『地球の歩き方 南仏』などのガイドブックやウェブページで必ずと言って良いほど紹介されているニコラ・フロマンの三翼祭壇画「燃ゆる茨」は,おそらく修復中で,かわりに写真や解説が堂内にあった.ニコラに関しては詳しい情報がないが,南仏出身かもしれないし,フランス北部の可能性もあるらしい.画風から言うと,北方風なので,後者であれば理解できるように思うが,アヴィニョン派絵画の流れの中にいて,アヴィニョン派自体が北方の影響があると思われるので,南仏(ガール県ニーム郡ユゼ(ス))だとしても説明はつく.

 ウフィッツィ美術館にも,ルーヴル美術館にも彼の作品があるようだが,どちらも記憶にない.やはり,地元にあってこそ映える作品なのかとは思うが,エクスでも現物を見ていないので,何とも言えない.いずれにせよアヴィニョンで活躍し,同地で亡くなった南仏の地元の画家だ.

 ニコラの作品は,もう一つ上記の聖人「聖ミトルの奇跡」がサン・ソヴール聖堂にあると紹介されている(仏語版ウィキペディア)が,グーグルの画像検索でも絵そのものはたった1つしかヒットしない(いつまでウェブ上にあるかどうかわからない当該ページにとりあえずリンクしておく).

 それを参考に,撮ってきた写真を細かくチェックしてみたが,堂内にこの絵があったようには思われない.上の石棺を紹介した写真の中で,石棺の上方に,拡大して見るとそれと同じ絵柄のように見える小さな絵があるが,情報によれば,実物は160×157センチの大きさなので,たぶん紹介写真だ.実物は見逃したか,公開していないか,修復中か,どこかの美術館に移したか,いずれかである.


 西野嘉章『十五世紀プロヴァンス絵画研究 祭壇画の図像プログラムをめぐる一試論』
岩波書店,1994


と言う大著がある.たまたま神田の源喜堂で買って,書架にあった.全く読んでいなかったが,今のところ,これ以上に「プロヴァンス絵画」の情報を与えてくれる資料はない.啓蒙書ではなく,研究書なので,門外漢には敷居が高いが,著者の学識と文才が私たちを導いてくれて,読めばわかって,引き込まれる部分も少なくない.ニコラ・フロマンに関しても,少なくとも私たちに現状では十全に近い情報がある.白黒だが,聖ミトルの絵の写真もある.

 「燃ゆる茨」(「燃える柴」が西野の訳語)に関しても,四章からなる充実した考究がなされ,こちらは研究論文なので,私たちが情報を得るために読む類のものではないが,後半でニコラに関して四章からなる論考をまとめており,その第四章が「聖ミトル伝の祭壇画」に関する考察で,技法や様式に関しては飛ばし読みになってしまうが,書架にあるだけで心強い.

 その結論部分で,

 北方絵画における聖人伝主題の流行,異次同図法による物語表現の展開を考えるなら,『聖ミトル伝』は多くの点で,十五世紀の第四・四半世紀に入ってからのネーデルラント美術の動向に呼応していると言わざるを得ない.(同書,p.277)

と断じて,制作年代の上限を推定している.門外漢の私たちがここから読み取るべきなのは,やはり北方絵画の影響と言うことだろう.専門家の考察に依らずとも,プロヴァンス絵画に分類される諸作品が北方絵画の影響を受けているのは,素人目にも明らかだろうが,技法や様式から制作年代や影響関係を分析していくことは私たちにはできないので,このような論考を目にすることによって,一定以上の示唆を得ることができるかも知れない.

 この後,アルル,アヴィニョン,パリで,プロヴァンス絵画について何らかの感想を抱く可能性があったわけだが,エクスでそのスタートを切ることができたと言って良いだろう.ニコラ・フロマンの作品の現物を見ることはできなかったのだが.

 サン・ソヴールには,他にも北方風の絵画が少なくとも2点あり,17世紀以降の新しいフランスの画家たちの作品もある.ステンドグラスもおそらく新しいものだろうが,それでもそれを通って堂内に指す陽光は美しい光景を生み出す.

 さらに,今回見られていないが,1時間おきに案内付きで見せてくれるという12世紀ロマネスクの回廊も是非いつの日か見てみたい.しかし,ないはずだった堂内拝観が実現したので,今回はとても大きな満足が得られた.

写真:
市庁舎前の広場


  エクスは紀元前123年に,共和制ローマの前年の執政官セクスティウス・カルウィヌスが建設した植民都市に起源を持つ.泉が多く,鉱泉があったことがその名のもとであろうか,アクアエ・セクスティアエ(セクスティウスの鉱泉地)と名付けられた.紀元前102年には,民衆派の巨頭ガイウス・マリウスがこの地で,ゲルマン人(キンブリー族とテウトネース族)と戦い大勝利を収めた.

 帝政期には属州の州都となったこともあり,ランゴバルド人の侵入を蒙り,8世紀にはイスラム教徒に占領されたこともあった.中世を通じてプロヴァンス地方の中心地であり,アラゴン王家やアンジュー家の支配を受けたが,1487年にフランス王国の領土となる.

 17世紀から18世紀に活躍したアンドレ・カンプラ,20世紀のダリウス・ミヨーという2人の偉大な作曲家を輩出している.エクス国際音楽祭もよく知られており,セザンヌを生み,ゾラを育てたことともに,文化都市エクスを象徴的に物語っているだろう.

 昔,エクスに親友が留学していて,彼がくれた絵葉書には,オレンジ色の屋根が一面に広がっている町並みが写っていたので,中世の町並みを持った都市のように思え,やはり地中海が近い南仏の町なのだとわかったようなつもりになって,憧れの思いを抱いた.

 しかし,実際に来てみると,人口の多い(2008年で15万人弱)近代的な都市で,旧市街ですら,鄙びた中世の町並みには見えなかった.あるいは友人の絵葉書は別の町のものだったのかも知れない.

 そう思うほど,たとえばミラボー通り(クール)は,近代的な目抜き通りで,瀟洒な地方都市という雰囲気を感じさせた.19世紀的な都会の雰囲気はパレルモのリベルタ通りを思わせ,時間帯によっては絵になる風景を提供してくれるのではないかと思った.

写真:
ミラボー通り


 今回見ることはできなかったが,サン・ソヴール(救世主イエス:イタリア語ならサン・サルヴァトーレ)聖堂の他にも,マルタ騎士団の聖ヨハネ教会(エグリーズ・サン・ジャン・ドマルト)が,ウェブページの紹介を見る限り,見事なゴシック教会のようだし,旧市街に見られる建造物の装飾などにも興味深いものがあった.いつの日かエクスを再び,時間の余裕を持って訪れてみたい.そのときは,是非,セザンヌの生きた跡も垣間見てみたい.




サン・ソヴール大聖堂の入口扉
両脇にローマ時代の建造物の柱