フィレンツェだより番外篇
2011年3月10日



 




港とモンテカルロ地区
モナコ公国



§フランスの旅 - その2 (モナコ,エズ)


2日目(2月24日)は,ニースで「朝市」見学の後,モナコに行った.



 石灰岩が剥き出しの海岸,有名人が多く住むという別荘群,入り江には豪華なヨットが無数に繋留されている.私たちが,ニース,カンヌ,モナコなどに抱くイメージそのままだ.モナコ公国は世界で2番目に小さな国だそうだ.1番小さいのはヴァティカン市国だ.

 コースに入っていたからと言う以外に,モナコに行く動機はなかったし,特に感銘を受ける出会いがあったわけではないが,有名な都市であり,国なので,一度訪ねることができて良かったと思う.


モナコの語源
 モナコという国名は,「修道士」と言うイタリア語を思わせる.イタリア語でモナコ公国はプリンチパート・ディ・モーナコ(以下,すべて「モナコ」と表記)で,イタリア語で,モナコ(・ディ・バヴィエーラ)というドイツの都市もある.ミュンヘンのことだ.

 普通名詞でモナコは,上記のように修道士であり,通称ロレンツォ・モナコというカマルドリ会の修道士だった画家もいる.シエナ出身だが,14世紀後半のフィレンツェの芸術を支え,国際ゴシックの画風を天才フラ・アンジェリコ(ドメニコ会修道士)に引き継いだ.

 モナコ公爵家はグリマルディ家というが,これは語感から言ってもイタリア人の家名だ.実際に祖先はジェノヴァから来た.神聖ローマ皇帝ハインリッヒ6世が,1191年にジェノヴァにこの地を下賜し,1215年にその植民都市が建設された.

 ジェノヴァ人で「狡猾な奴」(イル・マリツィーア:女性名詞「悪意,悪知恵」に男性の定冠詞をつけたあだ名)と言われたフランチェスコ・グリマルディが,仲間と共にこの地を占領して割拠したのが1297年とのことなので,モナコ公爵家は13世紀から続く君主(「公爵」は17世紀のオノレ2世から)ということになる.

 家祖フランチェスコは,「モナコの岩」を占拠した際,フランチェスコ会修道士の扮装をしていたとされる.モナコの大公宮殿の前に修道士の格好をした像があり,街路の壁画にもグリマルディ家の家紋の楯と剣を持った修道士姿の人物が描かれている.

写真:
旧市街の通りの壁画
新しい絵だが「マリツィーア」とある
公爵家家祖フランチェスコであろう


 この故事から「モナコ」と言う国名がついたのだとずっと思っていた.しかし,どうも違うようだ.

 日本語版ウィキペディア「モナコ」は簡潔で分かり易く有益だ.国名の由来に関して,「修道士」とは違う説明があった.念のため,英語版ウィキペディアを見ると,ほぼ同じ話が書いてあったが,これでもまだもう少し,確実な情報がほしかった.

 英語版ウィキペディアには脚注があり,「ヘラクレス伝説」に言及している箇所につけられた注の典拠は,紀元前1世紀から紀元後1世紀,ローマ帝国成立時を生きたギリシア人作家ストラボンの『ギリシア・ローマ 世界地誌』(飯尾都人訳の邦題)であった.

 該当箇所(4巻6章3節)に次のようにある


モノイコス(一軒家)の港は舟着き場としては大型船向きでもなく多くも入れない.港に「モノイコスに坐すヘラクレス」の神域.港の名から見てマッサリア領の沿岸航路はこの港まで伸びている.
 (ストラボン,飯尾都人訳『ギリシア・ローマ 世界地誌』広島,龍渓書舎,1994)



 マッサリアはやはりフランス地中海岸のギリシア人植民都市に起源を持つマルセイユである.マルセイユもモナコも現在トルコ共和国のある小アジアの沿岸部で,北部のアイオリス地方に隣接するイオニア地方の北部にあったギリシア人都市国家フォカイア(ポーカイア)の植民都市だった.

 モノスは「ただ一つの」という形容詞で,オイコスは「家」という意味の古代ギリシア語である.「修道士」を意味するイタリアのモナコ,英語のマンクも古代ギリシア語のモナコス(「単独の,単身の」)で,遡れば同じ語源に辿りつくが,ストラボンに当時の地名があげられている以上,フランチェスコ・グリマルディの故事の少なくとも1300年くらい前の話だから,国名「モナコ」の起源は「修道士」ではないことになる.


モナコ大聖堂
 大公宮殿や大聖堂のある丘の上まで,麓から階段,エスカレーター,エレベーターを使って昇ることができるが,混んでいたので,立派な刑務所を横目に見ながら,階段で昇った.断崖に咲く花々が多彩で美しかった.

 モナコの人口は3万人強(英語版ウィキペディア)で,1500人くらいのユダヤ人がいでユダヤ人教会(シナゴーグ)もあり,英国国教会の教会もあるようだが,やはりカトリック圏の地域である.モナコ大聖堂には大司教がおられるとのことだ.

写真:
モナコ大聖堂


 モナコ大聖堂は美しいが,何分新しい.教区教会は1252年にできていたが,大聖堂としての献堂は1875年だ.先代のモナコ公爵と有名な映画女優が結婚式を挙げたことも常に言及される話題だろう.

 この聖堂は聖ニコラスを記念したもののようだが,モナコとグリマルディ家の守護聖人はサント・デヴォート(聖デーウォータ)とのことだ.初めて聞く女性聖人だが,モナコだけでなく,出身地とされることもあるコルシカ島と船乗りたちの守護聖人でもあるようだ.


鷲の巣村 エズ
 モナコを後にして,ニースに戻る途中,地中海に迫る山塊からせり出した,切り立つ断崖の上の小邑(「鷲の巣村」と言うそうだ)エズに寄った.

 それより前に,よく知られたフラゴナール香水工場の見学と買い物時間があった.工場の庭から見上げると,教会の建物が見え,さらに上部に砦の廃墟が見える.そのあたりがエズの集落と容易に察せられた.

写真:
エズ庭園から
コートダジュールを見る


 南仏と言っても,後日整理するように,いくつか良く知られた地域名が存在する.プロヴァンス,ラングドック,アキテーヌ,ミディ,その他である.プロヴァンスが良く知られている.これらについては,別途整理するが,コートダジュールという語も人口に膾炙しているだろう.

 コートは英語のコースト,ドはオヴ,アジュールはペルシア語語源,アラビア語経由の「明るい青」を意味するフランス語で,英語にも存在するし,イタリア語にもアッズッロという形容詞があり,この男性・複数形はサッカーのイタリア代表チームの代名詞となる.コートダジュールは「紺碧海岸」と訳しても良いだろう.イタリアから続くリヴィエラ(リヴィエーラ)という言い方もあり,そのフランス側ということになる.

 ニースも,モナコも,カンヌもコートダジュールにある.

 この「紺碧海岸」を見下ろす断崖の上にエズはある.「鷲の巣村」に関しては,『地球の歩き方 南仏』に小特集があり,その中で,エズがフォーカスされていた.



 エズは紀元前2000年頃から人々が居住し,ローマ人,ムーア人の支配を受け,10世紀にプロヴァンス伯,14世紀にサヴォイア家の領土に組み込まれた.ここに要塞を築いたのはサヴォイア家のようだが,18世紀初頭,スペイン継承戦争の際にルイ14世が城壁を破壊,最終的に1860年にフランス領となった.

 消滅の危機に瀕しているが,モナコ方言(イタリア語のジェノヴァを中心とするリグリア方言の一派)に似た地域語が残っているので,元来はイタリア語圏だったかもしれないが,その言語はオック語の影響もあるそうなので,「南仏」の要素も昔から十分だったと言うことだろう(英語版ウィキペディアを参照.日本語版ウィキペディア「エズ」にも英語版に基づいたと思われるかなりの情報がある).

写真:
被昇天の聖母教会の堂内


 教会に関してはドイツ語版ウィキペディア「エズ」にあるディー・キルヒェという写真からたどって,「被昇天の聖母」(ノートル・ダーム・ド・ラソンプション)教会という名称であること,18世紀にアントニオ・スピネッリと言う建築家の設計で建てられた建物であることがわかった.撮って来た写真を確認すると,ほぼ同じ情報が教会の前にあった説明板にもフランス語と英語で書かれていた.

 中央祭壇の木彫は被昇天の聖母で,堂内にはコートダジュールで見た他の教会と同じように,シャンデリアが飾られ,多くの絵画,彩色木彫があったが,パドヴァのアントニウスの木彫,サン・ダミアーノの十字架のコピーがあるので,あるいはフランチェスコ会と縁が深いのかもしれない.「無原罪の御宿り」の絵もあったが,これも「黙示録」をもとに,フランチェスコ会の主張が活かされた図像である.他に詳しい情報がないので,あくまでも私の推測に過ぎない.

 『地球の歩き方 南仏』に,エズには「ニーチェの道」と呼ばれる道があり,フリードリッヒ・ニーチェはここで『ツァラトゥストラはかく語りき』の構想を練ったとあった.その道の丘の出口のところをほんの少しだけ歩いてみた.


シミエ地区
 エズからニースに向かうバスの中で,地元在住の日本人ガイドの男性から,比較的時間に余裕があるので,バスをおりて地中海とニースの遠景を写真に収める時間を取り,さらに予定になかったシミエ地区に寄るとの案内があった.

 『地球の歩き方 南仏』のニースのページに,シミエ地区の紹介があり,そこで言及されている「シミエ・フランシスコ会修道院」を,見られるものなら見たいと思っていた.しかし,実際にニースに来てみると,市内とは言え,シミエ地区は丘の上にあって,宿のある旧市街からは大分距離があり,独力で短時間の滞在中に行けないことがわかった.

 思いがけず,シミエ地区に行けたことは大変幸運だった.

写真:
シミエの丘にある
フランチェスコ会修道院
被昇天の聖母教会


 修道院は9世紀のベネディクト会によるサン・ポンス修道院が起源だが,16世紀からはフランチェスコ会がそれを引継ぎ,上の写真の教会はエズと同じレグリーズ・ノートル・ダーム・ド・ラソンプション(被昇天の聖母教会)と言うようだ.

 修道院教会には16世紀にニースで活躍したルイ・ブレアの祭壇画(ピエタ/磔刑/降架)があるとのことで,写真を見ると,できれば見たいと思わせるものだったが,結論から言うと堂内に入らなかったので,これらの絵は見られなかった.

 この教会に隣接する庭園を散策した後,自由時間がもらえることになり,なおかつ教会の扉は開いていたのだが,近くにあるローマ時代の円形闘技場に興味を示した方が多かったため,そちらをまず案内してもらうことになり,そこを見ている間に教会を拝観する時間はなくなってしまったからだ.

 しかし,一応,帝政初期のローマ時代を中心に古代を勉強しているので,これはこれで見ることができて良かった.

写真:
ローマの円形闘技場


 シミエというフランス語の地名もローマ時代のケメネルムという古代都市に由来している.ケメネルムとシミエでは音の印象が全く違うし,どのような音韻変化を経て,そうなったかを学問的に,立板に水で説明することは私にはできないが,ラテン語とフランス語で発音が違うとはいえ,文字で書くとCで始まり,途中にMが出てくる共通点から,時を経て,ケメネルムという都市名がシミエという地名になったのだろうと一応納得できる.

 この時期にまとまった休みが取れるのであるから,ツァーの参加者の皆さんは,卒業旅行の学生さんを除くと,少数の例外以外は,ほぼ団塊の世代以前の比較的年齢の高い皆さん(50代の私たちが,何度も「まだお若いから」と言われた)が多いのだが,皆さんの知識欲の旺盛なことと,古代遺跡への関心の高さに驚いた.

 地元の青少年たちも,熱心に闘技場を見つめていた.考古学の専門家なら,幾つも鑑賞のポイントがあるだろうが,情けないことに,私には,いつものように,多少の義務感から確かめておきたい,大きな「古代の廃墟」として意識されるだけだ.

 今回の旅行で,自由時間に幾つかの博物館で,石棺の浮彫彫刻への興味は改めて確認できた.古代の絵壺,絵皿には従来から関心がある.次は,遺跡と碑文が課題だと思っている.古代,中世の研究には写本資料がとても大事だが,心底から見たい,学びたいと思って写本に接するまでには,まだまだ時間がかかりそうだ.

 ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』エンタープレイン,2009,2010

という古代ローマと現代日本を「浴場」という視点から結びつけた劇画が話題を呼んでいるが,シミエにもローマ浴場跡が残っている.

 シミエの丘には,考古学博物館の他にマティス美術館があるが,今回はどちら見ていない.上記の教会の墓地には画家アンリ・マティス,ラウル・デュフィ,ノーベル賞作家ロジェ・マルタン=デュ=ガールの墓もあるそうだが,お参りはしていない.

 公園に有名なジャズ奏者たちの胸像が複数あるのは,ニース・ジャズ・フェスティヴァルと関係があるかも知れない.ルイ・アームストロングの胸像を見たとき,ローマの考古学遺跡や,修道院教会の側に近くなので,奇異な感じがしたが,ウェブ情報をたどって行って,若干の納得を得ることができた.


古代ギリシアの遺産
 ニース市内の一地区にローマ時代の古代都市があったわけであるから,遺構,遺物はたくさん残っている.しかし,ニースの起源に深く関わったかも知れない古代ギリシア人を思わせるものは,全くなかった.少なくとも私は見ていない.

 しかし,ギリシア人が遺したと思われる最大の遺産を私たちは容易に察することができる.地名だ.

 フランス語の地名であるニースは,オック語のニース方言で,綴りをフランス語風に発音すすればニソワ(本当はニセのように発音するのではないかと思うが,確信はない),19世紀まで現在のイタリアにあったサルデーニャ王国領だったので,イタリア語ではニッツァ,ラテン語ではエラスムス式ならニカエア(ニーカエア)だが,これらはすべて古代ギリシア語のニケ(ニーケー)「勝利(の女神)」を語源としていると推測される.

 当然古代ギリシア語ではニカイア(ニーカイア)という地名であったろう.フェリックス・ガフィオ編『羅仏辞典』旧版で,ニカエをひくと,ビテュニア地方の都市,リグリア地方の都市,ロクリス地方の都市,インドの都市,女性の個人名,の5項目が挙げられている.1番目は高校の世界史で習う「ニケーアの公会議」の舞台だ.2番目が多分,現在のニースを指している.出典は大プリニウスの『博物誌』のみだ.

 では,古代ギリシア語文献ではどうかと思い,固有名詞の情報もあるバイー(編)『希仏辞典』をひくと,「テッサリアの町」としてデモステネス,アイスキネスを出典として挙げているだけで,現在のニースの情報はない.モナコの古代名の典拠だったストラボンを探しても,見当たらない(邦訳に付された地図にはニカイアという地名が,現在のニースの場所に記されている).

 マルセイユやモナコだけではなく,ピカソやペイネの美術館がある(『地球の歩き方 南仏』pp.202-203)アンティーブは,ストラボンが言及しているギリシア人都市アンティポリスであろうから,コートダジュールにギリシア人が植民都市を複数建設し,その中の一つがニースだったと考えて間違いないだろう.

 古代ギリシア人が起源に,少なくとも地名の由来に深く関わったと思われるニースの旧市街を,夜の8時過ぎに歩いていて,この街は,比較的治安が良い,上品な街ではないかとの感想を持った.決して,いかにも観光地というようなイメージで片付けられる街ではない.ニースには自分でも意外なほど好感を抱いた.





鷲の巣村 エズの
ニーチェの道で