フィレンツェだより番外篇
2011年3月21日



 




エスパス・ヴァン・ゴグ
アルル



§フランスの旅 - その4 (アルル)

 人生には,突如,予想もしていなかったことが起こる.宮城県の太平洋沖を震源とする巨大地震が起こり,それにともなって東北地方の太平洋岸で恐ろしい津波被害があり,私の故郷,陸前高田市は壊滅した.

 実家の両親の安否は全くわからない.宮古,釜石,大船渡,陸前高田,気仙沼とその周辺にいる親族,友人,知人の誰とも連絡がついていない.関東在住の親族たちと連絡を取り合っているが,鉄道,道路の復旧もどうなるかわからないので,心ははやるが,救援,復旧の邪魔にならないように,帰郷に関しては様子を見ている.

 言語に絶する大きな悲劇の中で,個々の悲嘆を語ることは控えたい.両親が80年の人生で積み上げたもの,私の50年の人生の思い出,陸前高田に300年続いた宮城家の歴史もすべて流された.しかし,命があることの幸運をかみしめずにはいられない.ともかく,今は,両親が地震と津波の20分の間に,避難してくれて,無事でいてくれていることを願う.たとえ,高齢の父母の余命が僅かであったとしても,今は何とか命をつないで,生きていてほしい.

 余震,原発事故,停電,経済活動の停滞,今,日本全体が置かれている状況を考えると,言ってみれば物見遊山の報告である,この雑文を綴り続けることには自分でも疑問に思う点もある.しかし,現在の状態で何かをしないではいられない心境であり,この報告の続きを綴っていくことにする.



 書き出してから,一週間以上経った.無事だった親族や知人を通じて,両親に関しては,ほぼ絶望というかなり詳しい情報が入ってきた.平静ではいられないが,今後,果たさなければならない子としての務めを考えると,ともかく向こう数ヶ月は自分を保たなければならない.




エクスからアルルに向かう途中,同じプロヴァンスでも風景が変わっていくことがバスの中からでも察せられた.


 アルルの南には地中海まで続く,カマルグ自然公園という巨大な湿地帯がある.これがローヌ川という大河の河口にあたるこの地域の独特の風土を作っているであろう.

 アルルは,現在でこそ人口が6万人に達しない小規模の地方都市だが,古代から栄え,ある時期にはマルセイユを経済的繁栄において凌駕したこともある.

 古代彫刻「アルルのヴィーナス」(英語版仏語版ウィキペディア)は,現在ルーヴル美術館にあるが,17世紀にこの地のローマ劇場で発掘されたものだ.紀元後2世紀のギリシア語作家パウサニアスが『ギリシア旅行記』でオリジナル作品の存在を証言しており,天才彫刻家プラクシテレスの「テスピアイのアプロディテ(ヴィーナス)」の模刻とされる.

 発見は1651年だが,おりからの古代趣味が高じてきた時代,1681年に絶対君主ルイ14世に献呈され,以来パリにある.

写真:
アルルのヴィーナス
その後方にミロのヴィーナス
ルーヴル美術館


 アルル(英語版仏語版ウィキペディア)の歴史に関しては,日本語版ウィキペディア「アルル」が詳しく,参考になる.英語版とは大分内容が異なり,それぞれの筆者の考えが反映されているようだ.主として,英語版を参考にしながらまとめると,紀元前800年くらいから,リグリア人が住み始め,ケルト人,フェニキア人が居住した.紀元前123年にローマ人が占領,カエサルとポンペイウスが争った内乱では前者を支持して,その後の繁栄の礎が築かれた.

 アルルという都市名は,カエサルの『内乱記』ではアレラーテという不変化名詞,紀元後4世紀ボルドー出身のラテン語詩人アウソニウスの作品ではアレラースという第3変化・女性名詞として知られているラテン語の地名に由来している.「沼近くに位置している場所」という意味の語源を仏語版ウィキペディアが考察も含めて紹介している.

 初期の司教たちの努力もあって,徐々にキリスト教が浸透したが,新来のゲルマン人が信奉するアリウス派と,正統派の葛藤があり,中世に異端とされる宗派が出てくる素地となる.

 7世紀以降,イスラム教徒,フランク人,ノルマン人の侵入を受けたが,フランク王国から神聖ローマ帝国に組み込まれ,10世紀から14世紀まで「アルル王国」というものが存在した.近代的主権国家とは違い,言ってみれば封建領主の世襲財産なので,住民には「国民」としての自覚はなかったであろう.私たちが想定している「国」とは別物と考えて良いであろう.


サントロフィーム大聖堂
 サントロフィーム大聖堂(英語版仏語版ウィキペディア)は,セナンクのノートル・ダーム修道院,ル・トロネのサン・ローラン修道院とともに「プロヴァンスの三姉妹」と通称される有名なロマネスク建築で,市庁舎,現在は石碑・石棺博物館になっている旧サンタンヌ教会などに囲まれた共和国広場にある.

 ごく最近の修復を経て,一見して古いもののようには思えないが,12世紀の原型を今に伝えている.

写真:
サン・トロフィーム大聖堂


 正面(ファサード)扉(ポルターユ)の上にある半円形の部分はフランス語でタンパン(ラテン語でテュンパヌム,英語ではティンパナム)といい,ここに施された様々な浮彫彫刻が,ロマネスクの代表的芸術とされるが,この教会のタンパンには「最後の審判のキリスト」が彫り込まれ,4人の福音史家の象徴物に囲まれている.

 タンパンの下部の直線部分(日本語では「まぐさ」と言い,木偏に眉と書くようだが,日本語の「まぐさ」は横木なので,「まぐさ石」とも言うようだ)をフランス語ではラントー(英語ではリンテル)と言うが,そこには十二使徒の姿が彫られており,見事なものに思える.

 扉の左右に3本ずつある側柱の柱頭には,ギリシア風のアカンサス模様,基底部には,邪悪なものと戦う人間などが彫られ,柱の後の壁面には鍵を持ったペテロなどの使徒たちが,ローマ風のトガをまとった姿で立っている.

 このうち,向かって正面左手の一番右の司教の服装をした人物は,司教聖人トロフィムス(フランス語でトロフィーム)で,この教会の名前の由来となっている聖人だ.

写真:
(右)サン・トロフィーム
(下)ライオンを裂くサムソン


 言い伝えに拠れば,紀元後251年,当時のローマ教皇ファビアヌスは,ガリア(現在のフランス)に福音と伝えるために七人の司教を派遣したが,その中の一人がトロフィムスで,彼はアルルの初代司教となった.『使徒行伝』の中に,使徒パウロとともに伝導した同名の人物が登場するので,混同も起こったが,200年近い時代差があるので,明らかに別人であり,区別するために司教のトロフィムスは「アルルのトロフィムス」とも言われる.

 司教服をまとい,司教杖を持つ人物に天使が司教冠を被せている.断定して良いかどうか自信がないが,南仏の,しかもアルル周辺のローカル・セイントと言えるかも知れない.初期の古代教会であり,布教と信者組織の拠点としては長い間サンテティエンヌ(聖ステパノ)教会であった由緒ある場所に,12世紀以来,自分の名を冠した南仏を代表するロマネスク教会が立ち続けているのだ.実在の人物で,死後にも意識があり,なおかつ聖人にも多少の俗っぽい功名心が残っているなら,まさにもって瞑すべしであろう.

 堂内に,2.5ユーロで小冊子の案内書を売る自販機があった.英独仏伊の4カ国語の版があったので,英語版のボタンを押し,出てきた小冊子を手に,振り返ると,後ろには一人の青年が嬉しそうに待っていた.何人(なにじん)か判断はつかないが,やはりこれだけ立派な教会に関して,何かを知りたいという気持ちは共通するものがあるだろう.

 Albert Hari, Oliver Todd, tr., A Short Guide Primatial Church of Saint Trophime in Arles, Editions du Signe, 2002(アクサン記号省略)


 ロマネスク装飾に関しては,日本語の案内書,書籍が少なくないが,サン・トロフィーム聖堂そのものの情報は今のところ多くは得られていないので,有益に思える.

 この本で,他に堂内にあるものでフォーカスされているのが,

 フィンソニウス「受胎告知」カンヴァス油彩(1614)
 同「三王礼拝」同上(1614)
 トロフイーム・ビゴ「聖母被昇天」同上(1635)
 キリスト教徒の石棺(4世紀半ばごろ)
 紅海渡海の石棺(4世紀終わり)
 ゲミヌスの石棺(5世紀)
 タピスリー「牧人礼拝」(17世紀)

である.

 短時間での拝観だったので,全てをしっかり見られたわけではないが,「キリスト教徒の石棺」は見事なもので目をひいた.他にも少なくとも2つの石棺の写真が案内書に載っており,ウェブ上でも確認できる(仏語版ウィキペディア).

 タピスリーは上記の他にも見事なものが数点堂内に見られるが,色褪せも激しいこれらの作品を鑑賞するためには,専門的知識が要るかも知れない.

 それに比べれば,華やかな「受胎告知」の絵はわかりやすい.フランス語読みならファンソンに近い音になるなるだろうが,ラテン語名フィンスニウスは,ブリュージュ(ブルッヘ)の生まれであるから,フランドルの画家だ.

写真:
「受胎告知」
ルドウィクス・フィンソニウス
(ルイ・ファンソン)


 仏語版ウィキペディアの作品リストに拠れば,彼の作品はブルンスヴィック,オックスフォード,ナポリ,マルセイユ,エクサンプロヴァンスなどにあるようだ.

 エクスのサン・ソヴール聖堂に「トマスの不信」があり,アルルのサン・トロフィームにも他に「聖ステパノの殉教」があるとのことで,後者の写真は案内書に掲載されていたが,いずれも見ていない.パリのサン・ニコラ・デ・シャン教会には「キリストの割礼」があるとのことだ.

 このリストを見ていると「洗礼者ヨハネの斬首」とか「悔悟するマグダラのマリア」など伝統的な題材の宗教画が多く,1580年以前生まれの対抗宗教改革の余燼燻る時代の画家であることを感じさせるが,中には静物画や自画像もあり,やはりバロックになっていく時代の画家といえるだろう.

 ローマ,ナポリでカラヴァッジョの影響を受け,スペインにも行って,1613年から,マルセイユ,エクス,アルルで活動し,モンペリエ,トゥールーズ,ボルドー,パリを経て1617年にアムステルダムで亡くなった.40歳前後までの人生の中で,南仏での活躍は4年に満たない僅かな間だったが,南仏にある作品数を考えると,与えた影響は小さくないかも知れない.

 カラヴァッジェスキの1人として,北方に天才の画風を伝えたとされるが,上の写真の「受胎告知」はカラヴァッジョ風と言うよりも,やはり北方風の印象を受ける.現在ウィーン美術史美術館にあるカラヴァッジョ作「ロザリオの聖母」を所有していたとのことなので,カラヴァッジョの画風を愛したことは間違いないだろう.

 フィンソニウスは地元の画家とは言えないが,トロフィーム・ビゴはアルルで生まれ,エクスでも活躍し,アヴィニョンで亡くなった「南仏の画家」と言えるだろう.1579年の生まれなので,フィンソニウスとほぼ同世代の対抗宗教改革の時代からバロックの画家で,10年以上イタリアに滞在した.

 フィンソニウスのように明確にカラヴァッジョの影響を受けたかどうかは情報がないが,彼に帰せられている諸作品を写真で見ると,やはりキアーロ・スクーロの画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとの類似は想起させる.

 しかし,ジュルジュの方が20年近い後輩で,フランス北東部ロレーヌ地方の出身なので,その関係は考えにくい.ローマのドーリア・パンフィーリ美術館のある「ろうそくの明りで歌う少年」が本当に彼の作品であれば,カラヴァッジョの影響を受け,ラ・トゥールに似ている作品を先行して描いた画家と言えるかもしれない.

 上記の案内書では,ビゴの「聖母被昇天」をイタリア・マニエリスム的な作品として紹介している.同名で伝わってはいるが,カラヴァッジェスキ風の絵を描いた画家と,マニエリスム風の絵を書いた画家をそれぞれ別人と考える立場もあるかも知れない.イタリアの影響を受けた南仏の「地元の画家」と考えておこう.

 多くの案内書で称揚されている,この教会の回廊は見られなかった.いつの日かまたアルルに行くときがあれば,是非,回廊も含めてじっくりと時間をかけてサン・トロフィームは拝観したい.


アリスカン
 このロマネスク教会の建設にあたり,トロフィムスの聖遺物をここに移したとされるが,元来あった場所は古代からの墓地で,現在はアリスカン(英語版仏語版ウィキペディア)と呼ばれているところだ.

 アリスカンは,ローマ時代からの,ネクロポリス(死者の町)と称される巨大墓場で,語源は古代ギリシアの死者たちの楽園「エーリュシオンの野」をラテン語でエーリュスィイー・カンプス(もしくは順番を反対にしてカンプス・エーリュスィイーでもよく,この語順でフランス語読みするとシャンゼリゼになる)が訛った地名とされる.英語版ウィキペディアに拠れば,ダンテ『神曲』の「地獄篇」,アリオストの『狂えるオルランド』にも言及されているとのことだ.

 ネクロポリスとしてはエトルリアの遺跡が有名であり,古代墓地としてはアテネのケラメイコス,中世以来の墓地としては,ピサのカンポ・サントに行ったことがあり,それぞれ深い印象が記憶に刻まれた.アリスカンはカンポ・サントのような芸術的な空間ではないが,ゴッホやゴーギャンのインスピレーションを喚起したところをみても,訪れる者に何らかの感慨を与える場所といえるだろう.

写真:
石棺が並ぶアリスカン
(ローマ墓地)


 ゴッホの絵にもあるように,通り道の両脇に古代の石棺が並んでいる,これらを飾っていた浮彫り彫刻は外されて,中心部から離れた県立アルル・プロヴァンス古代博物館に陳列されているはずであるが,今回,自由時間はすべてアリスカンを見ることに使ったので見ていない.仏語版ウィキペディアには「アルルの石棺」という充実したページもあるほどで,見事な古代遺産と思われているようだ.

 このページに「パイドラとヒッポリュトスの悲劇」の浮き彫りの写真があった.この図柄はピサのカンポ・サントで見ているし,この後にルーヴル美術館でも見ることになる.この物語がどうして人を弔うことと関係があるのかわからないが,あるいはエウリピデスの悲劇『ヒッポリュトス』の機械仕掛けの神アルテミスが語る縁起譚が鎮魂を想起させるからだろうか.

 古代石棺の魅力に目覚めたのは,マントヴァのパラッツォ・ドゥカーレ(公爵宮殿)に行ったときだった.その後,ピサのカンポ・サント,再訪したフィレンツェの大聖堂付属博物館でその魅力を確認した.フィレンツェ,オルヴィエート,コルトーナ,ヴォルテッラの考古学博物館で見たエトルリアの骨灰棺の浮き彫り彫刻,棺の蓋部分の人物彫刻も見事だった.キリスト教の勢力が大きくなって行く古代末期の様々な様式の石棺も興味深い.ラヴェンナの石棺が印象に残るが,シラクーザの考古学博物館のものも見事だった.

 今回の旅行では,ルーヴル美術館でも見事な古代石棺の浮彫り彫刻を見ることができたが,その報告は後日とする.

 アリスカンの最奥部には,サントノラ・デ・アリスカン教会の廃墟がある.堂内は暗く湿っぽいので,ずっといたい場所ではないが,一見がらんどうのように見える空間に,かつて信仰に託した思いが残り続けているように思われる.



 19世紀後半を代表する画家フィンセント・ファン・ゴッホ(フランス語ではヴァンサン・ヴァン・ゴグとなるが,本稿では一貫してゴッホと称する)がアルルで一時過ごしていたことはよく知られている.古代から有名人を輩出し続けたアルルの関係著名人リストに必ずゴッホの名前があり,『地球の歩き方 南仏』にも「ゴッホのアルル」という項目がある.

 ゴッホは1882年に一人でアルルに来て,同年中にゴーギャンと共同生活を始めるが,共同生活は破綻して,ゴーギャンが出て行ったとき,ゴッホは自分の耳を切る事件を起こす.現在のエスパス・ヴァン・ゴグ(ファン・ゴッホ)にあった病院に収容され,翌年サン・レミ・ド・プロヴァンスの精神病院に入り,1890年パリ近郊の町で自殺した.

 アルル滞在はごく短い期間にすぎないが,ここで多くの傑作が生み出された.ゴーギャンがアルルにいたのはさらに短いが,それでも2人の画家がそれぞれアリスカンを絵の題材に選んだことは,偶然であっても,強調されて良いだろう.

 入場料を払って散歩するアリスカンは,かつての雰囲気は薄れているかも知れないが,墓地にはその地方の文化と歴史を凝縮した表情があるように思える.アルルに行ったら,アリスカンは是非訪ねた方が良い.

 ゴッホが入院した病院は,様々な催し物や文化活動が行われる施設エスパス・ヴァン・ゴグ(エスパスは英語のスペースにあたる語だから,「ゴッホの場所」とでも訳せば良いのだろうか)として観光客を集めている.

 「夜のカフェテラス」に描かれた黄色いカフェも現存する.その前の広場には,中央にノーベル賞詩人で,プロヴァンス語で作品を書いたことでも知られるミストラルの銅像が立ち,一角には古代ローマの神殿の柱と屋根の一部が残っているというのに,やはり観光客のお目当てはゴッホの絵に書かれたカフェであろう.

 アルル郊外の運河にかかる跳ね橋をゴッホが絵に描いているが,別の場所に橋を再現したものが一つの観光ポイントになっている.自由時間ではなく,ツァーの旅程に組み込まれたものなので,特に見たいと思ったわけではないが,空,水,空気,風景のすべてがすばらしかった.時間と交通手段があれば(徒歩なら1時間かかるそうだ),まだ日の高いうちに行って見ると良いと思う,

写真:
復元された「跳ね橋」
アルル



古代のアルル
 共和国広場の中央にはオベリスクが立っている.原材料は小アジア産の花崗岩ということであればエジプト由来のものではないだろうが,後期とは言え,古代のものである.4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス2世が建造し,6世紀に放棄され,14世紀に発見,17世紀に再びそこに聳え立つようになり,19世紀にライオンの噴水装飾と台座が付加され(ブロンズのライオンは名を遺した彫刻家の作)たとのことで,アルルの歴史のかなりの部分を物語ってくれている.

 アルルは古代から栄えた都市なので,古代ローマの遺跡や遺物が相当残っている.これほ以上に残っているのはイタリア以外では,同じプロヴァンス地方のニームくらいではないかと思われる.

 共和国広場もローマの円形競技場(キルクス)の跡地で,ここから少し歩いたところには円形闘技場(アレーナ/アンピテアトルム)がある.

 円形闘技場の大きく立派な姿には驚く.ヴェローナのアレーナに勝るとも劣らない.最古の部分は紀元前1世紀の建造なので,その意味では紀元後72年に着工されたローマのコロッセオよりも古い.しかし,改築にあたっては既に完成した(ティトゥス帝治下の紀元後80年)コロッセオの影響は見られるようだ.

 古代劇場も広い空間だ.紀元前1世紀後半の着工,完成で,神殿の一部のような大きな二本の柱や,塔のような建物もある.これを回り込んで,アリスカンに向かう途中にローマ時代の城壁の一部も残っている.

 古代劇場のすみ南の「夏の庭園」(ジャルダン・デテ)には,耳を切ったゴッホの浮彫りのあるモニュメントもあった.

 ミストラルの銅像と黄色いカフェのある広場は,ローマ時代の公共広場(フォルム)で前述のように神殿のような建物の柱と屋根の一部が残っているが,少し離れた所に地下回廊(「地下回廊」とは)があり,これがアルル最古の遺跡とされる.さらに,広場から北に向いローヌ川の沿岸に着くと,コンスタンティヌス大帝が建造した大浴場が残っているが,地下回廊と大浴場は今回は見ていない.近郊にローマ水道の遺跡もあるが,これも見ていない.

 アルルにもう一度行きたいだろうか.もちろん行きたい.





円形闘技場のある道で
アルル