フィレンツェだより番外篇 |
ミモザの花が揺れる 南仏の春 |
§フランスの旅
順路は以下の通り, ニース → モナコ → エズ → ニース → エクサンプロヴァンス → アルル → アヴィニョン → カルカッソンヌ→ (トゥールーズ) → ロカマドゥール → (リモージュ) → モン・サン・ミッシェル → パリ トゥールーズとリモージュは食事,宿泊のために周辺に立ち寄っただけで観光はしていない. この順路に魅力を感じたのはアルルとアヴィニョンが入っていたからだが,個別の理由はそれぞれの報告箇所で述べる.モン・サン・ミッシェルも一度は行きたいと思っていた. ところが,そのモン・サン・ミッシェルで,宮城テコテコ隊メンバーの一人が転倒して,顔面を強打,負傷し,救急車で運ばれる事態が発生した. 両名とも日本でも救急車に乗ったことがなかったので,異国で稀有の体験をすることとなったが,ホテルのフロントの若い女性,救急士の中年男性,複数の看護士,医療助手,医師,経理担当者と多くの人の善意によって,すみやかに手術を受け,4時間後には無事,ツァーに復帰できた.もちろん,添乗員のHさんや旅行会社の皆さんのご対応にも支えられた. 不幸中の幸いの状況であったが,前日の夜景観光以外に,モン・サン・ミッシェルの聖堂観光はしていない.したがって,今回は夜景以外にモン・サン・ミッシェルの報告はない. それでも,時間の都合で見られないリスクを考慮してか,ツァーの募集広告では謳っていない多くの見どころを見学できて,メンバー1名の負傷を除けば,ツァーの途中の段階で既に満足以上の結果が得られていたので,無事帰国,帰宅して,既に校務などの日常生活に復帰できていることを考えると,大いに成果のあった旅だと思う.
![]() 『地球の歩き方 南仏 プロヴァンス コート・ダジュール モナコ '07〜'08』ダイヤモンド・ビッグ社,2007 『地球の歩き方 パリ&近郊の町 '10〜'11』ダイヤモンド・ビッグ社,2011 『ララチッタ ヨーロッパ03 パリ』JTBパブリッシング,2010 『阪急交通社のガイドブック フランス 改訂版』阪急交通社,2011 Nicola Williams et al., Lonely Planet: France, Lonely Planet, 2005 工藤進『南仏と南仏語の話』大学書林,1980 ここ数年のイタリアを中心とする南欧,地中海世界に対する興味の中で,南フランスは是非,視野の中に入れていきたい地域だった. 古代を学び,ルネサンスに関心を持ってから,その間というには,あまりにも長い時間と広い地域に渡る時代を一語で言ってしまうのは乱暴なことだとは思うが,「中世」と呼ばれる時代にも興味を覚え,その中でも,ロマネスク,ゴシックという用語を思い浮かべると,その中心となる,現在フランスと呼ばれる国に属している地域についての知見を得ることは望ましいように思われた. 今回は,その一端の,さらにごく一部しか見聞していないが,ともかく多くのことを学んだ.
![]() 「シエナ派」の画匠たちの中でもひときわ高くそびえ立つ巨峰シモーネは,南仏アヴィニョンに行き,彼の異郷での活躍が,後に「国際ゴシック」と呼ばれる14世紀後半の華やかな画風の流行に寄与したとされる. また,アレッツォで生まれた詩人は,父ペトラッコが当時アヴィニョンにあった教皇庁に職を得たことで,アヴィニョンで青春を迎え,南仏モンペリエの大学で最初の勉強を積み,イタリアの名門ボローニャ大学に学んだ.後にラテン語作家,俗語詩人,人文主義者として後世に多大な影響を遺した巨人の精神的揺籃がアヴィニョンにあったと言っても過言ではないだろう. ペトラルカを文学史に輝く大詩人としたイタリア語詩集『カンツォニエーレ』において,彼が想いを寄せたことになっているラウラとの衝撃の出会いもアヴィニョンであったろう. ペトラルカが所有していた,ウェルギリウス作品の写本にシモーネが挿絵を描いた.原本はミラノのアンブロジアーナ図書館にあるが,このことからも画匠と詩人には接点があった.数世代上のダンテとジョットに並ぶ,詩人と画家の交流の偉観と言うべきだろう. ペトラルカの痕跡に関しては,特に期待したものはなかったが,シモーネのフレスコ画断片は,アヴィニョンの旧・教皇庁宮殿で見られることは事前に知っていたので,シモーネ・マルティーニの作品をたとえ断片でも是非見たいと思った. こうした14世紀からルネサンスへの流れの他に,それ以前のロマネスク,ゴシックの芸術も南仏で多く見られるはずだ.「南仏」への憧れは日々に増していった.
![]() 小学校5年生か6年生の時に,リコーダーで,教科書に載っていたビゼーの劇付随音楽「アルルの女」から間奏曲を,友人と一緒に吹いた.そこからは既に40年がたとうとしている 高校の世界史で,「教皇のバビロン捕囚」(教皇庁のアヴィニョン移転)とそれに続く「教会大分裂」(シスマ)を習うずっと以前に,「アヴィニョンの橋の上で」という唄を覚えてから,多分50年近い歳月が流れて,「アヴィニョンの橋」も見ることができた.長生きはするものだ. パリで,ほぼ30年ぶりにルーヴル美術館を訪ねることも楽しみだった. §フランスの旅 - その1 (ニース) 旅はニースの空港に降り立つところから始まった.宿は旧市街に近いところにあり,スーツケースを部屋に置くと,すでに夜の8時を過ぎていたが,カーニヴァルの飾りがある広場を通り,旧市街を歩いてみた.
ミゼリコルド礼拝堂 『地球の歩き方 南仏』に見どころとしてあげられているが,翌日の市内観光では回る予定がないミゼリコルド礼拝堂に行ってみた.時間も遅いので,扉は開いておらず,「見事なバロック装飾」は見られなかったが,ファサードは見られた. 翌朝の「朝市」観光の自由時間と,夕方の自由時間にもこの礼拝堂まで足を運び,都合3回,外観だけを見て,結局,内部の拝観は果たせなかった. 扉には午後から夕方まで開いているとあったが,地元在住の日本人ガイドさんの話では,このところずっと閉まっていて,見られる保証はないので,勧めなかったとのことだった.
サント・レパラット聖堂 ![]() その時はサント・レパラットと言う聖人(イタリア語ならサンタ・レパラータになり,フィレンツェの守護聖人の1人でもある)名を冠していることしか確認できなかったが,翌日の夕方の自由時間に,司教座聖堂(カテドラル)であることがわかり,内部も拝観できた. この地方の教会の内部装飾の特徴を備えていると思われる興味深く見応えのある堂内であったが,写真撮影は禁止だったので,紹介できないし,メモも取っていないので,記憶も薄れていくだろう.聖レパラータ(ラテン語ではサンクタ・レパラータ)を記念した大聖堂であることはよくわかった.新しいがバロック様式の味わい深い堂内だ. やはり,教会を拝観できると,大いに旅のモティヴェーションが増大する.
サン・フランソワ・ド・ポール教会 翌朝の「朝市」観光の自由時間に,オペラ座の外観を見に行くと,その向かいには扉の開いた教会があった. 堂内を拝観すると,絵画や彩色木彫の聖母や聖人像が相当数あり,その組み合わせが興味深かった.絵画には黒衣に白い大きな衿の修道士が描かれているので,ドメニコ会系の教会に思えたが,明らかにパドヴァのアントニウスと思われる聖人像もあり,さらにファサードにはラテン語の「聖フランチェスコ」の名前があって,これらの要素からはフランチェスコ会系も考えられ,その場では断定できなかった. フランス語版ウィキペディアに「ニースの宗教建築一覧」というページがあり,そこで旧市街の教会を探すと「エグリーズ・サン・フランソワ・ド・ポール・ド・ニース」とある.いわゆる「パオラの聖フランチェスコ」(仏語版/英語版)という,フランチェスコ会の開祖「アッシジの聖フランチェスコ」とは別の聖人を記念した教会であることがわかる.
![]() フランチェスコ会修道士の影響下に育ち,同修道会に入会.後に,ミニモ会を開き(1435年),宗教的カリスマと,奇跡や予言の評判によって影響力を持つようになった. シチリア島に渡るべくメッシーナ海峡に行ったとき,船乗りに乗船を拒否され,外套を海に敷き,杖を帆の代わりにして海を渡り,1480年のオスマン・トルコによるオトラント占領を予言したとのことだ.サヴォナローラがフランス軍のフィレンツェ進駐を予言した12年前だ.宗教者のそのような神秘的能力が信じられ,人々が心の拠り所を求めていた時代なのだろう. フランス王ルイ11世は病に倒れた時,彼の来訪を要請し,パオラのフランチェスコは教皇の許可を得て,渡仏,フランスのプレシ(ス)・レ・トウール城館に招かれた.ルイの後継者シャルル8世が彼を尊敬して,宮廷の側に住まわせ,ミニモ会の修道院を建てたとのことだ.彼はその地(現在のアンドル・エ・ロワール県ラ・ロッシュ)の修道院で1507年に亡くなった.フランスの宗教界にも影響を与えたようである. だから,ニースにこの人の名を冠した教会があるのかと納得するのはおそらく早計だろう.ニースがフランス領になったのは19世紀である. この教会が後期ピエモンテ・バロック様式と新古典主義様式で建てられているというウィキペディアの説明の中の,ピエモンテという語がヒントになる.北イタリアのピエモンテ地方には,その首邑トリノを中心とするサルデーニャ王国があり,この国が後にイタリアを統一する. ニースはフランス領になる前は,サヴォア(サヴォイア)公国領,サルデーニャ王国領であったので,パオラのフランチェスコの時代には,ニースはフランスではなかった. この教会もドメニコ会ではなく,ミニモ会の教会のようだ.ニースでも,たとえごく一部であっても,教会を拝観できてこそ,その地域の歴史を学ぶ契機になるとの思いを深くした. 「朝市」 「朝市」はあまり人はいなかったが,ミモザをはじめとする花々や,アーティチョークなどの新鮮そうな野菜,多種多様な香辛料など,イタリアが近い「南仏」を思わせるもので満ちていた.
「イギリス人の散歩道」(プロムナード・デザングレ)と名付けられた海沿いの道を歩き,アメリカ合衆国海岸通りから,門をくぐって,朝市が開かれているサレヤ歩道の広場に出た. 朝の海の風景は,私たちのイメージの中にある「南仏」を想起させてくれるものだった.場所が異なり,状況も違うのに,他に知識がないので,「風起ちぬ,いざ,生きめやも」と口ずさんでみたいような気持ちになった. |
プロムナード・デザングレ 朝の散歩 |
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