フィレンツェだより番外篇
2010年9月10日



 




ローマ時代の水道橋
セゴビア



§スペインの旅 - その14 - セゴビア

プラド美術館のグレコ作品を集めた部屋は,素晴らしかった.


 1人の作家の作品をまとめて見られるメリットを実感した.グレコの魅力に「開眼」するまでは至らなかったが,ともかく偉大な芸術家であることは再認識した.

 主に美術館と闘牛に集約されていた今回のマドリッド観光だが,夕方の闘牛見物の前にセゴビアに足を伸ばすことになっていた.マドリッドからは約95キロ,標高約1000mの高地にある城壁に囲まれた古い町で,バスで片道1時間ちょっとの遠足だ.


ローマ水道橋
 セゴビアに関する知識は,ローマ水道橋があること,近郊のカウカ(現在のコカと推測)からローマ皇帝テオドシウス(1世)が出たこと以外に全く白紙だった.

 ローマ植民都市セゴウィアに関しては,紀元後2世紀活躍し,ギリシア語で著作を行なった天文学者,地理学者,数学者であるクラウディオス・プトレマイオスの著書にセグービアーというギリシア名が出てくる(英語版ウィキペディア).ケルト語で「要塞」もしくは「城」を意味する言葉が語源とされる(英語版ウィキペディアと日本語版ウィキペディア「セゴビア」).

 水道橋の建設は,紀元後1世紀から2世紀,皇帝ウェスパシアヌスもしくはネルウァの治世下のこととされる.膨張率の違う異なる素材を使うことを避けるために,接着のための材料を使わず,積み上げによって,構築されている.それが古代から現代まで残っているのは,地震の無い地域だからであろうか.

 均等な大きさの石を積み上げていくには,それを上に持ちあげる必要があるが,一個一個の石を掴んだ鉄の器具の跡がそれぞれの石に残っている.

写真:
ローマの水道橋
20世紀半ばまで
水が引かれていた


 ローマの文化はギリシア文化の亜流と言われる.フランス,スペインの文化の独自性を主張する人たちがいとも簡単に「亜流」という語を使うのには唖然としてしまう.

ローマはただ,政治と軍事と建築にのみ長けていたわけではない.ラテン語の普遍性は,確かにギリシア語から得た栄養で培ったものだが,成果を見る限り,決して「亜流」と片付けられるべきものではない.


 文化に対して文明という語をどう使うかは人によって違うと思うが,文化が個性的であるのに対し,文明がより利便性が高く,生活を向上させていくもので,民族の個性を超越して伝播していくものだとすれば,私たちも古くは中国文明の,新しくはアメリカ文明の傘の下にあってそれを謳歌してきたと言って良いであろう.

 その意味で,ローマは域外に文明をもたらすことで,その支配力を高めて行った国家であったと言って良いだろう.北アフリカに多く見られるローマ時代の都市遺跡はそのことを雄弁に語ってくれる.南フランスやスペインで,それほど多くはないが見られる水道橋や,ローマ劇場,円形闘技場なども,やはり,これらの地域がローマの支配を受け入れ,自分たちの生活に活かしていったことを示している.

 今回のスペイン旅行で少しでも見たローマ時代の遺構は,バルセロナの城壁跡,タラゴナの円形闘技場と属州の広場,水道橋,コルドバのローマ橋の土台部分などである.これらは,殆ど垣間見ただけというのに等しく,その意味ではセゴビアの水道橋見学は,唯一本格的な観光と言って良いだろう.

 古代の巨大な建造物であるから,それほど自分の身近に迫ってくるものではなく,歴史や考古学を専門に勉強しているわけではないので,「見ることができた」という以上の感想は持ちにくいが,見た目も均整が取れていて,美しいし,古代の遺構としては,またいつの日か見てみたいという気持ちを抱かせるものであった.

しかし,多くのヨーロッパ都市を訪れた時と同じように,セゴビアでも,最も興味深かったのは,中世,ルネサンス以降のキリスト教の文化的遺産であった.


 スペインの歴史は文化の本質にイスラム教徒が大きく影響したことは,知識としては多少は知っていたが,今回のスペイン旅行で,それを多少とも補強することができた.

 古代の遺構の場合,殆どが瓦礫の山となった中に,時として美しい構築物のまま残っていても,その存在が興味をひく以外は,ほとんど文献に拠ってしか,その一端にも触れることができない.古代は,現実に存在し,後世に大きな影響力を持っているが,やはり遠い過去の物語なのである.

 古代に比べれば,イスラム文化の影響は,まだしも近い時代の話である.被支配と支配のどちらかの形をとりながら,「共生」していた時代には,深く影響しあって,新しい文化を創り上げてきた.

 現在セゴビアで暮らす人の多くは,ローマ・カトリックのキリスト教を信じる人たち,またその社会の中で育った人たちである.セゴビアにイスラムやユダヤの影響が見られることは,少しの知識を得たし,またこれから興味を持ってその知識を増やしていくだろう.

写真:
水道橋
橋げたの真ん中に
聖母子像


 しかし,そうであっても,セゴビアの現代が,キリスト教が「全て」と言って良いほど優勢であることに変わりはない.イスラムやユダヤの影響を受けた中世もまた遠い時代の話なのである.

 ただ,他の西欧諸国から見て,スペインが異国情緒に溢れ,人々の興味を喚起するのは,イスラムやユダヤの影響が,今に残っており,それが僅かでも目に見えるからだろう.


セゴビアの「掻き絵」装飾
 セゴビアのツーリスト・インフォメーションにあった,売店で次の2冊を買った.

 Equipo de redaccion Lancia, Segovia: Patrimonio de la Humanidad, Leom: Ediciones Lancia, 2008(以下,『セゴビア』)
 Vicente Herbosa, El Romanico en Segovia, Leom: Ediciones Lancia, 2005(以下,『セゴビアのロマネスク』)
  (アクセント記号その他は省略)

だ.スペイン語版しかなかったが,写真が良いので購入した.他にもおもしろそうな本が数冊あり,その中に前に述べた,多分『セゴビアのユダヤ人文化』というようなタイトルの本もあったが,きりがないので,購入を見送った.後で,自由行動の時間に行った大聖堂の受付に日本語版の案内書もあって,食指が動いたが,急いでいたのであきらめた.

 ランシャ出版編集部の案内書『セゴビア』に「アリアス・ダビラの塔」が写真付きで紹介してある.下の写真はその塔の壁で,スペイン語ではエスグラフィアドと言うようだが,「掻き絵」が施されている.

写真:
漆喰の掻き絵装飾
(アリアス・ダビラの塔の壁面)


 水道橋から大聖堂へ向かう道で,この「掻き絵」を施した建物をいくつもみかけた.グーグルの画像検索でesgrafiadoを引いても,様々な写真が見られるし,「セゴビアの掻き絵」(esgrafiado segoviano)という名称で立項されたウェブページもあるようだ.

 アリアス・ダビラは家名で,このコンベルソの家系から何人かに有名人が出たようだ.高官や軍人,セゴビアの司教の他に,新大陸での植民地行政官として高い地位を得たペドロを出した.

 案内書『セゴビア』に拠れば,塔のある屋敷は,カスティーリャの王フアン2世エンリケ4世に仕えたディエゴ・アリアス・ダビラが住んでいたようだ(p.61).であれば,15世紀の建造物ということになる.


カテドラル(大聖堂)
 セゴビアのカテドラル(大聖堂)は,なかなかの見ものだった.旧カテドラルは,少し離れたアルカサル(宮殿)のところにあったらしいが,王権に対する市民の抵抗運動があった時に,民衆がたてこもって破壊され,16世紀になってから,新しいカテドラルが建てられ始めた.

 その優美な姿から,「大聖堂の貴婦人」という言い方があるそうだが,イタリアに比べると新しい教会が多いスペインの中でも,古くからの都市の大聖堂としては特に新しい.

 ツァーとしては外観だけの観光で,「イサベル様式」についてBさんから学んだ.ルネサンス期の建築であるにも関わらず,ゴシック風の外観に,多くの尖塔があり,その尖塔に炎のような装飾が見える.

 その後,若干の自由行動の時間をもらったので,大聖堂の内部拝観を試みた.スペインの大聖堂は多くの場合,保存,修復の資金の一部にするためか,入堂料を取るようだ.1人3ユーロの料金を払って,時間的に十分な拝観ができないことはわかっていたが,ともかく10分程で拝観を試みた.

 大きな大聖堂,威厳のある中央祭壇,天上や柱のゴシック風の豪壮さ,ムリーリョ風の「聖母子」の祭壇画,バロック風の木彫や,衝立など,じっくり見れば,それなりの鑑賞ができたであろうが,時間がなかったので,ともかく堂内を一回りすることにして,回廊の先にあるらしい博物館の見学はあきらめた.

 最後に辿り着いた礼拝堂で,明らかにフランドル風の折りたたみ式三翼祭壇画に出会った.修復が成ったばかりなのか,詳細な解説板をつけて,フォーカスされていたように思う.作者は,ブリュッセル出身のアンブロシオ・ベンソンとある.初めてその名を聞く画家だ.

 (後日:ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに簡単な伝記メモを見つけた,おそらく1484年頃,ロンバルディア地方で生まれた,フェッラーラ出身の家系に属する,アンブロージョ・ベンツォーネというイタリア人で,ミラノを中心とするロンバルディアから,フランドルのブリュージュ(ブルッヘ)に移住し,その地の画家ゲラルド・ダーフィッドの影響を受けた.フランドルの女性と結婚して,ウィレムとヤンという2人の息子が芸術家になり,前者に関しても,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに紹介がある.オランダ語名はアンブロシウス・ベンソンで,彼の作品はスペインで多く見られ,「セゴビアの親方」と言われていたこともあるようだ.1550年にブリュージュで亡くなった.)

写真:
アンブロシオ・ベンソン作
三翼祭壇画


 スペイン語版ウィキペディアの「セゴビアの大聖堂」からのリンクも,まだ執筆予定項目のようで,詳細な情報は得られない.中央の上部が丸くなったパネルは「キリスト降架」,畳むと中央パネルを覆い隠すことになるだろう左右のパネルは,向かって左側は有翼の人物が龍を踏みしだいているので,大天使ミカエル,右側の聖人は,フランチェスコ会風の修道服を来て,癇癖があるような痩せぎすの人物で一見シエナのベルナルディーノにも見えるが,手のひらに幼児を乗せているので,パドヴァのアントニウスかと思われる.

 イタリア絵画は,独自の発展を遂げながら,その過程で15世紀からは,フランドル絵画の影響を受けて,画風や色彩に革新が齎されるのは間違いないと思われる.

しかし,スペイン芸術におけるフランドル文化の影響は,もっと本質的であり,おそらくこれなくしては,その展開も全く違った形のものになっていただろうと思われる.


 ベンソンという画家の作品は,世紀の大傑作という類のものではなく,修練を積み,基礎を師匠から受け継いだ職人が,それでも相当に持っていた天賦の才を活かして,注文主の理解も,相応の報酬も得ながら,誠心誠意完成させた,と想像させるような作品だと思わせられる.

 セゴビアの観光ポイントを英語で紹介したページに拠ると,市内のサンティシマ・トリニダー(至聖の三位一体)教会にも、ポントルモの作品とともにベンソンの作品があるとされている。また,マドリッドのラザロ・ガルディアノ博物館にも,彼の「聖母子」(ラ・ビルヘン・コン・エル・ニーニョ・デ・ラ・カミーサ)があるとされており,HPには小さいが写真も掲載されている.幼児キリストが「シャツ」(カミーサ)を着ているのがめずらしく思える.

 とても全部は見ていられないが,グーグルでAmbrosio Bensonを検索すると,キリル文字によるセゴビア観光記も含めて,かなりの件数ヒットする.決して,歴史に埋もれてしまった画家ではないようだ.

(その後:Ambrosius Bensonで検索すると,ウィキメディア・コモンズに複数の絵の写真があり,スペイン語版ウィキペディアドイツ語版ウィキペディアにもこの画家の比較的詳細な情報がある.)



 大聖堂から,バスが駐車している城外に出る途中,旧ユダヤ人街を通った.途中,何らかの文化財であることを示す,看板を見つけた.15世紀前半から,コルプス・クリスティー女子修道院としてキリスト教の宗教施設になったが,それ以前はユダヤ人教会(シナゴガ)であった建物らしい.中は見ていないが,窓の下にラテン語でコルプス・クリスティー(キリストの体)とあり,その周辺の壁に掻き絵装飾が施されている.

写真:
旧ユダヤ人教会


 セゴビアもまた,この地方自体の歴史としても,統一スペイン王国との関わりにおいても,ユダヤ人やコンベルソとの関係が深いことを想像させる.


アルカサル
 旧ユダヤ人街の小路から,小さな城門を出て,バスに乗り,ぐるりと大回りして,川(エレスマ川)向こうに出て,アルカサル(宮殿)を下から見上げられる公園に行った.

 ディズニーが,アニメ映画「白雪姫」に出てくる城のイメージをそこから得たというセゴビアのアルカサルは確かに端整な姿で一つの見ものだ.遠景もなかなかだが,『セゴビア』の写真を見ると,やはり掻き絵装飾が壁面に施されており,近くで見るのも良いのであろうと想像された.

写真:
アルカサル
内部も公開されている


 草地が緩やかに傾斜しながら広がる先に,木々がこんもりとした姿を見せる,きれいな公園だった.高地であるし,南スペインに比べれば,だいぶ涼しい.少しゆったりした気分になれた.緑の上に腰を下ろして,くつろいでいる人たちもいた.

 その時,公園の左手奥に,小さな教会があるのが目に入った.遊具が置いてある場所を突っ切って近づくと,木立を回り込んだところに文化財であることを示す看板が出ていた.

 後で,『セゴビアのロマネスク』でも確認できたし,ツーリスト・インフォメーションでもらった英語版の地図によっても情報を得ることができるが,サン・マルコス教会というロマネスク教会のようだ.身廊と後陣は12世紀,鐘楼は13世紀ということで,現在残っているスペインの教会としては相当古い建造物に属している.

 カタルーニャ北部もそうだし,サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼路になっている北スペインには,小さなロマネスク教会がたくさんあるようで,それらの教会の写真を見ると,憧憬の念を掻き立てられる.

 どうして,巡礼路の途上にないセゴビア周辺にこれだけロマネスク教会があるのか,まだ調べていない.サンティアゴ・デ・コンポステーラへの巡礼というと,どうしてもパリなど北の町から出発して,南フランスを通り,北スペインを進むコースだけが思い起こされるが,あるいはセゴビア以南のカスティーリャ地方から,サンティアゴを目指す順路になっていたのかも知れないと想像する.

写真:
大聖堂と
アルカサル
(バスの車窓
から)


 いずれ,写真が美しい『セゴビアのロマネスク』を読んで,じっくり勉強を始めよう.その前にまず,読解のためにスペイン語の勉強が先だが.


闘牛
 セゴビア観光を終えて,バスでマドリッドに戻った.夕方だが,夏時間なので,まだ日差しが強い中,闘牛(タウロマキアというスペイン語は,タウロス「牡牛」,マケー「戦い」というギリシア語が語源)を見た.闘牛に夢中になる人もいるし,残酷だと言って嫌う人もいる.私の個人的感想は,後者に近いが,民族の伝統を異邦人が簡単に切り捨てることはできない.

 もう闘牛自体を見ることは生涯ないかも知れないが,ゴヤとかヘミングウェーのような過去の「偉人」だけでなく,現代でも,スペイン人はもとより,日本も含め,遠いアジアから来た人たちの中でも,これに思い入れる人たちが絶えないのは,なぜなのかは考えてみたい.

 スペインという主権国家に属していても,独自の文化を持つバルセロナにも,大きな闘牛場が2つあるが,1つは既に闘牛場としては使われておらず,バルセロナは来年から公営の闘牛をやめるそうだ.

 英語版ウィキペディアで,セビリアから出た有名人として,何人もの闘牛士が挙げられていたり,コルドバにも旧ユダヤ人街に闘牛博物館があったり,ミハスのような小さな観光の町にも,闘牛場があったり,とまだまだスペインの文化に深く根ざしたものであることは想像がつく.

写真:
入場行進
ラス・ベンタス闘牛場
マドリッド


 一方,ヴァカンスの時期とはいえ,首都マドリッドの大きな,一流の闘牛場に訪れる観客のかなりが外国人観光客で,それでも空席が目立つ状況は,あるいはこのスペインの伝統をとりまく環境もかなり厳しくなっているのかも知れない.

 いずれにしても,死んだ牛は気の毒だったが,闘牛を一度でも見たことは,私個人としては意味のある体験だったように思う.


スペイン旅行を終えて
 今回のスペイン旅行は実り多いものだった.バルセロナもマドリッドも魅力を持った町であるのは間違いないが,やはり,バレンシア,セビリア,トレド,セゴビアなど,大聖堂を拝観できた町が,私にとっては心惹かれる存在だった.

 イスラム教徒と一言で言っても,大きく分類するだけで,少数の支配階級だったアラブ人もあり,北アフリカから来た人々もいた.北アフリカ人でも,王朝や豪族領の支配者となった人もおり,アンダルシアやラ・マンチャで農民として土着した人々もいた.

 改宗した人も,従来の信仰を保持した人も,単純な2分類では理解できず,時代や地方,個人個人によって事情も,結果も大きく異なる.

 モーリス・バレスの『グレコ トレドの秘密』は,エル・グレコこと,ドメニコス・テオトコプーロスという,クレタ島出身で,ヴェネツィアで修業したとされる芸術家の入門書としてもおもしろいが,個人的にはトレドの描写がおもしろかった.生粋のスペイン人で,ローマ・カトリックの敬虔な信者と自他ともに思っている人でも,その根は北アフリカや,アラブ,ユダヤに求められる場合もある.人々の容貌や,町に溢れる文化的な遺産を見ても,それは容易に想像がつくはずだ.

 今回,皮相な知識としては知っていたイスラムの影響だけではなく,ユダヤ人や,コンベルソ(キリスト教に改宗した異教徒,主としてユダヤ人)とその子孫たちが,スペインの文化だけでなく,政治や,軍事,植民地獲得とその支配にも,大きな役割を果たしていたことを学んだ.

 カトリックの聖人の中にも,ユダヤ人虐殺を扇動した人物もおり,「再征服」以後の異教徒弾圧政策は,プロテスタントへの危機感につながり,スペインの歴史における暗い色調を拭い難いものしている.

 それでも,今回,見ることができたスペイン諸都市の文化は,私にとって非常に魅力的に思えた.多様性の中の統一,統一性の中の多様さ,という意味ではイタリアも良く似ているが,イタリアとスペインの間には本質的な違い,それも圧倒的な相違が見られるように思う.そうした感想を,少しずつ,確かめていける様に,一歩一歩勉強を深めていきたい.

 今は,とりあえず,スペイン語を学びたいと思っている.字面はよく似ているのに,耳で聞くと全く違う,イタリア語とスペイン語,これにカタルーニャ語を加えても良い.人生は時間が限られているし,自分の能力が乏しいものであることは,生きていれば日々思い知らされる.しかし,少なくとも,今の私にとって,イタリア語,スペイン語,カタルーニャ語,そしてできることなら,ポルトガル語も少しずつ学んでいきたいという気持ちは抑えられない.





大聖堂の見学を終えて
セゴビア