フィレンツェだより番外篇
2010年9月6日



 




タホ川に囲まれた天然の城塞
トレド



§スペインの旅 - その12 - トレド

「スペインで,一日しか時間がなければ,迷わずに訪れよ」,と言われる古都トレドを,短時間ではあったが観光することができた.


 三方をタホ川に囲まれた,天然の要害で,タホ川はポルトガルまで流れて,リスボンで大西洋に注ぐ,イベリア半島一の大河だ.ポルトガル語ではテージョ川,ラテン語ではタグス川で,セネカの悲劇『テュエステス』にもこの名前は登場する.

 トレドはラテン語でトレトゥム(トレートゥム)と呼ばれ,首都タラコーが海辺にあった属州ヒスパニア・タラコネンシスの,内陸での軍事と交易の拠点として発展した.

 西ゴート王リウヴィギルドは,6世紀に首都をこの町に置いた.711年にイスラム帝国の将軍(ターリク・イブン・ジーヤド)によって占領され,1085年カスティーリャ・レオン王アルフォンソ6世が「再征服」を果たした.

スペイン語で「共存,共生」を意味する語に定冠詞をつけて,ラ・コンビベンシアと言うと,特殊な意味になるようだ.


 イスラム支配下のスペインは,特定の時代を除いて概ね宗教的寛容が優勢であったので,イスラム教徒,ユダヤ教徒,キリスト教徒が同じ町で暮らしていた.トレドの「再征服」後も,カスティーリャ諸王は,ユダヤ教徒,イスラム教徒の居住を認め,その活躍を自国の発展に利用した.

 私の中では,トレドと言うと,狂信的なカトリックの王や貴族が支配していたというイメージが強いが,実は随分長い期間にわたって,異なる宗教の人々が,異なる文化を融合させて,新しい文化を生み出していった町のようである.

 12世紀から13世紀は,すでにキリスト教徒による「再征服」の後だが,イスラムや,ユダヤの思想,イスラム教徒が保存,研究したギリシア・ローマの古代文献をラテン語に翻訳して,全西欧の文化発展に寄与した人々がいた.

この人々がいてこそ,12世紀ルネサンスが起こり,西洋で,新しい都市文化が誕生し,農業技術や諸科学が発展して,経済的繁栄が生まれ,後のルネサンスから近代のヨーロッパの歴史につながって行く.


 私たちが思っている以上に,ヨーロッパの歴史の中でトレドは果たした役割は大きい.


カテドラル
 トレドの大聖堂(カテドラル)は大きい.数字を挙げて比べると,とセビリアの大聖堂の方が大きいようだが,入ってみた印象は,トレドのカテドラルも決してセビリアに劣るものではない.

 中央祭壇の黄金に彩られた巨大な浮彫衝立も素晴らしい.裏側にはトランスパレンテがある.

 トランスパレンテというスペイン語は,綴りを見ると英語の同語源の語が思い浮かぶが,意味も同じく「透明な」と言う意味だ.『小学館 西和辞典』を引くと,名詞化したこの語に定冠詞がつくと「トレド大聖堂の礼拝所」とあり,「ナルシソ・トメの作品(1721-32)で,チュリゲラ様式の代表作とされる一大レリーフがある」と説明されている.百科事典ではなく,ごく一般的な中辞典に載るほど,よく知られたものらしい.

 このトランスパレンテのところでは,地元ガイドのコンサグラーダさんの説明にも力が入った.しかし,Yさんの獅子奮迅の通訳にもかかわらず,宗教芸術というのは,異教徒である日本人の私たちにはわかりにくい.私も含めて,日本から来た善男善女は呆然として聞いていた.

 トランスパレンテは『週刊ユネスコ世界遺産 16 トレドの旧市街』(講談社,2004)でも,「一番の見所」とされている.細かいことは私も把握していないが,要するに浮彫を施した衝立にある事情で穴が穿たれ,聖堂に取り込まれる自然光が,その穴を通って,衝立の後ろに隠れてしまった聖櫃を神々しく浮かび上がらせるというものらしい.

 聖母被昇天のミサの準備で,一部に覆いがかけられていて,十全の鑑賞はできなかったが,たとえきちんと見ることができたとしても,これほど壮大な装飾には,ただただ驚きあきれるばかりだっただろう.しかし,案内書の写真を見ると,放射光の形の装飾が施された穿孔の下には聖母子,上には最後の晩餐の精巧な浮彫彫刻があり,もっとしっかりと見れば良かったと思う.

写真:
トレドの大聖堂
ファサードと鐘楼


 カテドラルの聖具室は芸術の宝庫だった.

 エル・グレコの「聖衣剥奪」は,見る者にこの画家の天才を思い知らせる傑作だ.ルーカ・ジョルダーノの天上フレスコにも目を見張る.ルイス・デ・モラーレス,ペドロ・デ・オレンテなどスペイン出身の画家たちの作品もある.イタリア絵画でもバッサーノという名前には目を向けてしまう.

 しかし,グレコの「聖衣剥奪」を除くと,ここで最も注目すべき作品はカラヴァッジョ作とされる「洗礼者ヨハネ」であろう.これが真作なら,スペインで出会えた2作目のカラヴァッジョだ.

 スペインの画家たちもカラヴァッジョ風の絵をたくさん描いた.活躍した時期によっては,カラヴァッジェスキの一人として分類される画家もいる.しかし,カラヴァッジョの作品はそれほどはないはずだ.

 この絵について,専門家の議論は全くフォローしていないが,私はこの作品はけっこう好きだ.英語版ウィキペディアの「カラヴァッジョの洗礼者ヨハネ」に拠れば,真作性には議論があり,作者はバルトロメオ・カヴァロッツィに比定される場合もあるようだ.

 確かに冷静に写真を見ると,カラヴァッジョの作品としては大人しすぎるようにも見えるが,聖具室で見たときは,優れた作品に思えた.



 鐘楼の下の礼拝堂は,宝物庫になっていて,銀器や燭台などが主な宝物だが,小さいがティツィアーノの名を冠した絵があり,目を引いた.

 さらにその上には,フィレンツェのプリミティヴ芸術風の彩色十字架があった.描き込まれた絵はジョット風の峻厳さに,国際ゴシックの華やかさを加え,それらとの矛盾を超越して,全体としてやわらかな印象を与えるものだった.「フラ・アンジェリコ」作とされていた.

 仮に真作でないとしても,この十字架が見られたことは,嬉しかった.これだけを見に,トレドまで来ても良いと思った.スペインへの旅の最大の動機は「プラド美術館のフラ・アンジェリコ」だったが,それ以前に,トレドの大聖堂で,フラ・アンジェリコの作品に出会うことができた.

 トレドの大聖堂には何度も来たい.エル・グレコの「聖衣剥奪」,カラヴァッジョ作の可能性がある「洗礼者ヨハネ」,フラ・アンジェリコの彩色十字架に会うために.

 残念ながら,堂内写真厳禁なので,絵画,彫刻,堂内装飾の写真は一枚もない.


サント・トメ教会
 サント・トメ教会の,エル・グレコ「オルガス伯爵の埋葬」は,今回の観光の目玉だった.今回だけでなく,多分あらゆるスペイン・ツァーの観光の目玉になる可能性の高い作品と言えよう.

 世界三大絵画作品という言い方があるそうで,レンブラントの「夜警」,ベラスケスの「ラス・メニーナス」と並んでエル・グレコの「オルガス伯爵の埋葬」だそうだ.

 誰が何の権利があって,どういうセンスで,イタリア絵画を一つも入れない「世界三大絵画」を選んだのか,心から憤りを感じる.私にとっての世界三大絵画はフィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のジョット「キリスト磔刑像」,フィレンツェのサン・マルコ旧修道院のフラ・アンジェリコ「受胎告知」,ミケランジェロの「ダヴィデ」は彫刻だから,もう一つ絵画を選ぶとすれば,やはりサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂トルナブォーニ礼拝堂のドメニコ・デル・ギルランダイオのフレスコ画「聖母と洗礼者ヨハネの物語」だ.

 もっとも「夜警」ではなく,レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」とすることもあるようで,それならイタリア絵画が入ることになるが,レオナルドなら私は「最後の晩餐」が良い.

 しかし,「オルガス伯爵の埋葬」は写真よりも,やはり実物で見たほうが遥かに名画だった.モンセラットの「悔悟するマグダラのマリア」,カテドラルの「聖衣剥奪」に続いて,私にグレコの魅力開眼という贈り物をくれた3点目の作品だ.

写真:
サント・トメ教会
トレド


 一枚の絵画の前に多くの人が群がる様を見たことがないわけではない.ルーブル美術館の「モナ・リザ」,ウフッツィ美術館の「ヴィーナスの誕生」などがそうだ.場合によっては,それら以上に感銘を与えてくれる作品を何点も見てきたが,それら以外に多くの人が一枚の絵に群がっている様子を他に見たことがなかった.

 「オルガス伯爵の埋葬」は狭い展示室に,それ1枚が置かれていることもあって,グループごとに順番待ちだった.

 しかし,絵自体が悪いわけではない.人が群がる作品は確かに名画だ.もちろん,群がらない絵にも傑作は少なくないが,観光客が集まることには意味があるし,集客力のある作品が存在することには多くのメリットがあるだろう.私も,有名な絵を見たいと言う一人の観光客に過ぎないし,絵に集客力があるのは良いことだと思う.

モーリス・バレス『グレコ トレドの秘密』筑摩書房,1966

には,サン・トメ教会の鐘楼の描写から始め,「オルガス伯爵の埋葬」に言及した箇所がある.抒情的な美しい描写だが,骨子だけ参考にする.

 フランドル風のよろいを着た伯爵の遺体を,2人の聖人が屈みこんで抱えている.ステパノとアウグスティヌスだ.上部が丸くなった形のこの絵は,ほぼ真ん中あたりで,地上の埋葬と,天国の様子が描かれている.聖母,ペテロ,諸聖人によって,神であるキリストに紹介されている裸体の人物をバレスはオルガス伯爵だとしている.

 この絵を最初に見たとき,裸体の人物はキリストだと思ったが,すぐに洗礼者ヨハネだと思い直した.だが,バレスの言う通り,上下2つの場面に,それぞれオルガス伯爵が登場するとすれば,埋葬と被昇天が対照され,この絵の意味が読み取れるように思う.

 ステパノの足元で,伯爵の遺体を指差す少年は,グレコの息子とされる.上下を分けている線の役割を果たしているのは,参列したトレドの貴族たちだが,ステパノの顔のちょうど上の部分に顔を出しているのは,グレコの自画像と言われている.

 伯爵の死は1312年,絵が描かれたのは1586年から88年頃,ステパノはキリスト教で最初の殉教者だから,前1世紀前半の終り頃の人物,アウグスティヌスは4世紀後半から5世紀前半の思想家なので,そもそもこの絵はアナクロニズムに満ちている.

 あるいは,司祭や修道士にもモデルがあり,研究上では,それらも明らかになっているか,有力な諸説があるのかも知れないが,今はそれについては知らなくても良い.天上の裸体の人物が伯爵本人であれば,この絵の意味は了解できる.洗礼者では説明がつかないが,それでも良い.仮に,この人物がヨハネだったとしても,この絵の価値は減じないだろう.私たちの知識や論理が要求する意味をグレコの絵は超越している.

 やはり,「オルガス伯爵の埋葬」はじっくり見られて良かった.また見たい.

 Nina Ayala Mallory, El Greco to Murillo: Spanish Painting in the Golden Age, 1556-1700, New York: Icon Editions, 1990

を読むと,天上の裸体の人物は,やはり洗礼者ヨハネだとしている.地上で善行を施した人物を神であるイエスに取り次ぐ,聖人の役割を強調した,対抗宗教改革時代の理念を表していることを根拠としている.

 こちらが,現代の専門家の見解で,正解に近いのであろう.しかし,バレスの想像力は大したものだし,それを許容するグレコの包容力にも,私たちは感じ入るべきかも知れない.

 カテドラルでも,サント・トメでも,売店に寄れず,それぞれの案内書を入手できなかったのは,残念だ.しかし,多分,トレドには少なくとももう一度行くことになると思う.カテドラルをしっかりと見るにはやはり3時間はほしい.サント・トメ教会は見るのにそれほど時間はかからないが,「オルガス伯爵の埋葬」はまた,じっくり見てみたい.



 サント・トメ教会から,タホ川の方におりて,公園に出た.多分,この公園の近くにあったのが,「グレコの家」で,画家が借りていた家を博物館にして公開している建物だ.「トレドの風景」をはじめ,何点かのグレコの作品が見られるようだが,今回は見ていない.

 ここは,かつてはユダヤ人街で,近くにはシナゴガ(ユダヤ人教会)があった.後にキリスト教のトランシト(聖母の遷化)教会となり,現在は一部がセファルディ博物館となっている.セファルディはセファルディームとも言われる,イベリア半島から追放(1492年以後)されて,北アフリカやヨーロッパに散っていったユダヤ人のことだ.前を通って,遠景,近景の写真を撮っただけで,中は見ていない.

写真:
セファルディ博物館
(トランシト教会)


 トレドにはもう一つサンタ・マリア・ラ・ブランカ教会となったシナゴガが残っており,こちらはユダヤ人教会でありながら,イスラム様式の列柱が見られ,トランシトの方は,コルドバのシナゴガ同様,漆喰装飾が残っているようだ.これらの拝観は後日の楽しみだ.

  『地中海歴史散歩1 スペイン』の中の「コルドバ ユダヤとイスラムの知の接点」で矢島文夫は,「たしかメスキータのすぐ前の店で」英文の小冊フェリペ・トルロバ・デ・キロス『スペインのユダヤ人』(マドリード,1972年)を入手したと言っている.

 私は後に,セゴビアのツーリスト・インフォメーションで,確か『セゴビアのユダヤ人文化』というようなスペイン語の本を見かけたが,買わなかった.矢島の文によっても,コンベルソだけではなく,共生できた時代のユダヤ人の活動が,どれほどスペインの歴史にとって重要だったかがわかる.セゴビアで折角出会った本を買わなかったのを後悔している.


城壁の町
 川沿いの段丘に沿って,サン・マルティン橋を目指したが,橋の側には,サン・フアン・デ・ロス・レイエス教会と修道院スペイン語版)があった.

 フランチェスコ会の修道院だそうだが,1476年にカトリック両王が,トロの戦い(カスティーリャ王国の王位継承をめぐる戦い)でポルトガルのアフォンソ5世にに勝利したことを記念して,自分たちの墓所として建造した.「王たちの」(デ・ロス・レイエス)という通称はそれに基づいている.「フアン」は洗礼者ではなく,福音史家ヨハネを指す.

写真:
サン・ファン・デ・
ロス・レイエス教会


 両王の墓は「再征服」を記念してグラナダにあるので,この教会は王の墓所にはならなかったが,両王の一人の名に因むイサベル様式という建築様式が,ゴシック風やムデハル様式が並んで見られ,その意味では興味深い教会であり,修道院であるようだ.

 英語版ウィキペディアはゴシック風・スペイン風・フランドル風(スペイン語版ウィキペディアはほぼ同じ用語を使った上で,絵画,建築のイスパノ・フラメンコ様式を説明している)と言っている.この時は遠くから眺め,遠景の写真を撮っただけだ.ナポレオン戦争で破壊を蒙り,修復されているとは言え,拝観できるのであれば,これも後日の楽しみとしたい.

写真:
サン・マルティン橋
バスの車窓から


 アルカンタラ橋がローマ時代からの橋であるのに対し,サン・マルティン橋は14世紀に架けられた中世の建造物である.橋の両側の塔はさらに新しく16世紀以降のものとのことだ.16世紀にできていたとすれば,関ヶ原の戦い(1600年)より以前だから,私たちには十分古い.

 大きな橋だが,強い日差しの中,影ができないので,渡り終えるまでに日干しになりそうだった.

 この橋を渡って,旧市街に入れないため,外で待機していたバスに乗り,マドリッドを目指した.橋の写真は何枚も撮ったが,全体が写っているのは,バスの中から撮ったものだけなので,それを紹介する.

写真:
新ビサグラ門
(バスの車窓から)


 トレドの城門も古いものが残っており,それぞれに興味深かったが,バスの中からかろうじて写ったのは,新ビサグラ門(『小学館 西和辞典』にはビサグラは「蝶番」とあるが,果たしてそういう意味で命名されたのかどうかは今のところわからない)だけだ.

 古いビサグラ門(英語版ウィキペディアには「バブ・アル・サクラ」といういかにもアラビア語風の古名が書かれているが,意味は説明されていない)の方は10世紀の建造物で,西ゴートを思わせる(10世紀だからイスラムの豪族領タイファが支配していた時代なので,西ゴート王国は滅びてしまっているが)馬蹄形アーチもあり,おもしろそうだが,見ていない.

 新ビサグラ門は,神聖ローマ皇帝の紋章「双頭の鷲」が彫られていることでもわかるように,カルロス1世(カール5世)にちなむもので,建造は1559年とのことだ.カルロスの死は1558年なので,死後の建造ということになる.桶狭間の戦いが1560年なので,これも私たちには十分古いが,せっかくのトレドなので,もう少し古いほうが嬉しい.

 スペイン王国の首都をマドリッドに移したのはカルロスの息子フェリペ2世である.1561年のことで,新ビサグラ門ができた翌々年のことになる.トレドは,王国の首都の地位を失い,現在はカスティーリャ・ラ・マンチャ州の州都,トレド県の県庁所在地の地位を持つ人口8万人ほどの小都市になっている.


ダマスキナード
 『地球の歩き方』には,トレドの伝統工芸品として,ダマスキナード(英語版ウィキペディアスペイン語版ウィキペディア)という語が紹介され,「金銀を使った象眼細工」と説明されている.Yさんのメモを見ても,「象眼細工屋さん」に行ったとある.

 城外のバスの駐車場もある,観光客相手の土産物屋だが,工房で職人さんが仕事をしているところを見せてくれて,等級(3段階)の違う製品の区別のポイントまで教えてくれて,説得力がある.

写真:
トレドの伝統工芸品
ダマスキナード


 ここで,上の写真のカフスボタンを妻が買ってくれた.どの等級のものか,果たして写真でわかるかどうか.

 『小学館 西和辞典』で,ダマスキナードを引くと「金(銀)の象眼細工」としか書いていないが,周囲には私たちがダマスカスと言っているウマイヤ朝の首都の名前が載っており,「ダマスカスの」という形容詞には「ダマスカス織りの」という意味の他に,「象眼細工の」という意味もあるので,少なくとも現在の受け止め方としては,トレドのイスラム支配の時代から伝わる,東方起源の伝統工芸ということだろう.比較的廉価でよい買い物ができたと思う.





通りの向こうに見える
大聖堂の獅子の扉を撮影中
トレド