フィレンツェだより番外篇
2010年9月5日



 




メスキータ
コルドバ



§スペインの旅 - その11 - ラ・マンチャ

コルドバで驚いたことは数多あったが,地元ガイドのアンヘルさんには本当にびっくりした.


 事前に添乗員のYさんから聞いてはいたが,本当にそんなことがあるのだろうかといぶかしく思っていた.

 彼はスペイン人だが,流暢な日本語で,明解な説明でガイドができる.これは,言わば「人間録音機」と言うか,日本語の原稿を丸暗記していると言うのである.もともと予備知識のない私たちには,不足どころか,十分を遥かに超えるボリュームの説明だった.

 Yさんが「質問のある場合は英語かスペイン語で,もしくは私を通じて質問してください.通訳しますから」とおっしゃったので,アンヘルさんが“日本語を話せない”というのは,本当のことなのだろう.しかし,未だに信じられない.

 ヴァカンスで,休みをとっているガイドさんが多いため,地元ガイドのボス的存在である大物アンヘルさんが,みずから来てくれたのだろうということだった.確かに,威厳のある人だった.天使に導かれるトビアスのように慫慂として,アンヘルさんに導かれ,トビアスの父のように目から鱗(のようなもの)が落ちた.

写真:
夜のメスキータと
ローマ橋


 コルドバでローマに関連するものに出合ったのは,メスキータの列柱に転用された神殿の柱,屋外に無造作においてあったマイルストーンくらいだが,グアダルキビル川にかかる「ローマ橋」は,何度も作り直されているとは言え,土台はローマ時代のもので,もともと架かっていた場所にあり続けているとのことだ.

 橋のたもとに「カラオラの塔」がある.コルドバの「再征服」は1236年,カスティーリャ王国フェルナンド3世によるが,この塔はもともとあったイスラム教徒の要塞をカスティーリャ王エンリケ2世が,王位を争った兄弟ペドロ1世の攻撃を防ぐために改築させた14世紀の建造物だ.

 対岸のメスキータ側には「橋の門」があり,これは16世紀のものとのことだ.

 今回見られなかったものとして,「ローマ神殿」跡(前1世紀),「ローマ劇場」跡,「ローマ時代の霊廟」跡(後1世紀),大聖堂(メスキータ)以外のコルドバの諸教会ユダヤ人教会考古学博物館美術館がある.これらは,将来の楽しみに残した,ということにしよう.


コンベルソ
 サルバドール・マダリアーガ,増田義郎,斎藤文子(訳)『コロンブス正伝』角川書店,1993
 染田秀藤『ラス・カサス伝 新世界征服の審問者』岩波書店,1990

を,アマゾンの古書店で買った.

 前者は,詳細な考察の後に,コロンブスの一家は「ジェノヴァに移住したスペイン系ユダヤ人である」と断定している.

 後者は「通説に従えば,ラス・カサスは改宗ユダヤ人(コンベルソもしくは新キリスト教徒と呼ばれた)の家系に属するが,ラス・カサス自身旧キリスト教徒であると言明している」として,祖先に関する現存資料と本人の証言を検証して,コンベルソ家系説に疑問を呈しながら,「旧キリスト教徒であることを立証する客観的な資料が現存しない」という理由で,結論は保留している.

 「旧キリスト教徒」という語は私たちにはなじみがないが,他の本でも自明のように使われている.コンベルソ(新キリスト教徒)と対照される,従来からキリスト教徒であったスペイン人を指すようだ.

コロンブスがユダヤ人の子孫とする説も,「奇説」ではないようだが,スペイン史におけるコンベルソの意味を考えるに際して,コロンブスやラス・カサスが,改宗ユダヤ人の子孫であるかないか(その問題自体は学問的関心の対象として,探求され続けるべきだろう)よりも,こうしたことが話題になるほど,コンベルソの問題は避けて通れないと言うことの方に,私たちは注意を向けるべきだろう.


 (藤沢道郎は,すぐれたイタリア研究者で,彼が関わった殆どの本は,読むたびに学ぶことの多い名著である.彼の著,中公新書『物語 イタリアの歴史 II』の第七話「航海者コロンボの物語」に,「コロンボが実はユダヤ人であった,という説が十九世紀末からまことしやかに吹聴されていたことがあったが,根拠のない俗説にすぎない.彼も両親も信仰篤いカトリック教徒であって,ユダヤ教の匂いはどこからもしてこない」と断定している.彼はコロンボ,すなわちコロンブスの父を「れっきとしたジェノヴァ市民だった」としている)



 『スペイン黄金時代』に,小林一宏「近代スペインの誕生」という章があり,ここでもコンベルソの問題が歴史の中に簡潔に位置づけられているが,特に興味深いのは,思想面からスペイン黄金時代を考察した佐々木孝「スペイン的「生」の思想」という章であった.

 スペインの代表的人文主義者で,カスティーリャ語の文法書(ロマンス語の文法書としても最古)を発表したネブリハを,セビリア出身の有名人として前々回に紹介したが,アルカラ大学(後にマドリッド大学に発展)の教授であった彼の死後,その後任として,

 フアン・ルイス・ビーベス(1493-1540)

が指名された.バレンシア生まれで,パリ大学に学び,ルーヴァン大学で教授となって,アウグスティヌスの『神の国』(岩波文庫に邦訳)の注解を著すなど,国際的に活躍していた人文主義者である.

 ネブリハの死は1522年,その年にビーベスは『神の国』注解を公刊し,イングランドに招かれて,ヘンリー8世とキャサリンの娘で,後のイングランド女王メアリー1世の師傅となった.

 こうした状況下で,ビーベスの真意はどうだったのかわからない.

 佐々木に拠れば,20世紀スペインを代表する思想家オルテガは,ビーベスの教授辞退の理由を,彼の国際的活躍に求めたが,その後,新資料が出てきて,1522年の時点で,ビーベスの親族が少なくとも3人,隠れユダヤ教徒の疑いで異端審問にかけられて処刑されており,24年には彼の父が処刑され,すでに他界していた母は,墓を暴かれて死後火刑に処せられたことが分かったことから,辞退の背景には,コンベルソの家系に属している自分の立場への危機感があったのだろうとしている.

 ビーベスはオックスフォード大学で哲学を講じていたときに,国王ヘンリー8世と,王妃アラゴンのキャサリン(カトリック両王イサベラとフェルナンドの娘で,スペイン王カルロス1世の叔母)の離婚(結婚無効)に反対して監禁され,解放された後に,ブルージュに逃れ,そこで著作活動を行ない,その地で48歳で亡くなった.

 さらに佐々木は,1954年の刊行されたアメリコ・カストロ『スペインの歴史的現実』を紹介し,その中では,ビーベスの他にも,スペイン・ルネサンスの詩人でアウグスティヌス会の修道士ルイス・デ・レオン(1527-1591),ピカレスク小説の作家マテオ・アレマン(1547-1615)(彼はセビリア生まれで,セビリア大学で学んだ),哲学者で「国際法の父」とされるフランシスコ・デ・ビトリア(1492-1546),アビラの聖テレサ,十字架の聖ヨハネが,コンベルソの家系に生まれたことを指摘している.

 フランシスコ・デ・ビトリアはドメニコ会の修道士でもあり,ここに名を挙げられた者の多くが,キリスト教に深く帰依し,その中で顕著な活躍をした人たちだ.それだけに,様々のことを考えさせる.

写真:
メスキータの中にある
カテドラル
コルドバ


 佐々木は「生粋主義」という小見出しのついた部分において,「カトリック両王の一人,すなわち近代スペイン建国の父とも言うべきフェルナンド2世が四分の一ユダヤ人であった」ことを指摘し,「ユダヤの血は,社会の上層に行けばいくほど濃くなっていく可能性があった.なぜならユダヤ人の多くが知識人であり裕福であった.つまり一般庶民より貴族階級の方がはるかにユダヤの血を引いている可能性が存在した」とまで断じている.

 成功したユダヤ人や,コンベルソ,その子孫にだけ注目が集まるとすれば,それは問題の本質を見失う可能性もあるかも知れないが,少なくとも「再征服」後のスペインで,宗教的統一性によって新生国家を支えようとしたとき,様々な分野で,コンベルソと言われる人々とその子孫たちが活躍し,そこには悲劇も成功物語も存在し,その背後には常に死と隣り合わせの緊張があったことは否定できないだろう.



 カストロの説に対して,歴史家からは厳しい反論があったとのことなので,鵜呑みにすることはできないかも知れないが,彼の挙げたリストの中に,『ドン・キホーテ』の作者,

 ミゲル・デ・セルバンテス(1547-1616)

がいることには驚く.

 英語版ウィキペディアは,セルバンテスのコンベルソ子孫説を主張する者として,カストロの名を挙げ,それを否定した学者としてクラウディオ・サンチェス=アルボルノスの名前を挙げている.この学者とその著書(『スペイン,歴史の謎』1957)は佐々木も紹介している.

 カストロはスペイン人の両親のもとに,ブラジルで生まれ,スペインに帰国し,グラナダ大学とパリ大学で学び,マドリッド大学の教授となったが,共和国政府のドイツ大使となり,スペイン内戦でアメリカに亡命,諸大学を経て,最終的にはプリンストン大学の教授となった.

 一方のサンチェス=アルボルノスは,マドリッドでアビラ出身の政治家一家に生まれ,マドリッド中央大学に学び,スペイン中世史を研究,若くして大学の教職を提示されたが,王立歴史アカデミーの研究員となり,母校の講師をしながら,研究を続けた.

 共和政府のポルトガル大使に任命されたが,ポルトガル政府がフランコ政権を承認したので,家族とともにフランス,ついでアルゼンチンの亡命した.長くブエノス・アイレス大学の教授を務め,スペインへの帰国も慫慂されたが,フランコが死ぬまでは帰らなかった.フランコ死亡後の1976年の一時帰国を経て,1983年に永住帰国し,翌年亡くなって,家族の故郷であるアビラの大聖堂に埋葬された.

 サンチェス=アルボルノスに関しては,

余部福三『アラブとしてのスペイン アンダルシアの古都めぐり』第三書館,1992

にも言及がある.現代のスペイン史学が,イスラムやユダヤの影響を重視する「アラブ派」と,スペインのヨーロッパ的純粋性を強調する「反アラブ派」に別れるとして,後者の代表としてサンチェス=アルボルノスに触れながら,余部は,「アルボルノス」はアラビア語の「フード付きマント」が語源なのにと皮肉っている.

 「ス」の部分は文字では-zになりスペイン語では,発音記号の[θ]に近い音になるが,イタリア語では「ツ」に近い音になる.ウルビーノにあったアルボルノツ要塞(14世紀のスペイン出身の枢機卿の名にちなむ)が懐かしく思い出される.


ラ・マンチャ
 セルバンテスの父は,コルドバ出身の家系に属する外科医だったと言われる.『ドン・キホーテ』の舞台であるカスティーリャ・ラ・マンチャを目指す私たちには興味深いが,この時点ではそのことを知らない.

 8月14日の朝,宿泊していたコルドバのパラ・ドールからトレドに向かって出発した.途中,プエルト・ラピセで「ドン・キホーテ・メニュー」の昼食をとる予定になっていた.

写真:
セルバンテス座像と
手前のドン・キホーテ,
サンチョ・パンサの像
マドリッド,スペイン広場


 スペイン中央部には「メセタ」という巨大な台地がある.首都マドリッドやその南に位置するカスティーリャ・ラ・マンチャ,北部のカスティーリャ・イ・レオンなどはその上にあり,コルドバからプエルト・ラピセに向かう途中には,険しい峠を越える.デスフィラデロ・デ・デスペニャペロス(Yさんの翻訳では「犬ども逆さ蹴落とし峠」)という峠だ.

 ラ・マンチャの「マンチャ」は「染み」という意味(『小学館 西和辞典』)だから,イタリア語のマッキアにあたり,ラテン語のマクラに遡るだろうか.辞書には「周りと様子の違う土地:雑草地,牧草地」という訳語もある.

 ラ・マンチャには,荒涼とした土地というイメージがあったが,実際に車窓から見た風景は,思ったよりも豊かな緑に彩られた大地だった.

 スペインには諸方で「赤土」が見られる.「赤茶けた大地」と言う意味で,ラ・マンチャと言われたのだろうか.かつて,アンダルシアを肥沃な農地と変えた,灌漑技術に長けているイスラム教徒も,ラ・マンチャは放置した.

 その不毛に思われた土地も,現在はスプリンクラーの力によって,オリーヴやサフラン,牧草による牧畜によって,豊かな土地に見える.葡萄の栽培も盛んだ.

 高原の道を通り抜けて,プエルト・ラピセに到着した.


プエルト・ラピセ
 『ワールド・ガイド』に「ドン・キホーテの舞台をたどる ラ・マンチャの大地を巡る旅」という特集ページがあり,扱いは小さいがプエルト・ラピセが紹介されている.この中で,「ツアーバスが次から次へと押し寄せ,ドン・キホーテの観光ではずせないこの町にある」と言われているのが,レストランと土産物屋を兼ねるベンタ・デル・キホーテである.

 ベンタは『小学館 西和辞典』の1番目の意味は「販売」で,多少なりともラテン語を知っていれば,これは納得が行く.3番目に「宿屋,旅籠」という意味があり,ベンタ・デル・キホーテの場合はこちらに該当する.厳密には元々はセルバンテスが泊まった「旅籠」ということだ.『地球の歩き方』にも,もう少し扱いが小さいが,ともかく紹介がある.

写真:
セルバンテスも宿泊した旅籠
「ベンタ・デル・キホーテ」


 Yさんの下さったメモに拠れば,私たちがここでとった昼食は,ピスト・マンチェゴ(マンチェゴ風の野菜の煮込み),チキンの煮込み(カマッチョさんの結婚式で出たスープ),デザートにフロール・マンチェゴ(マンチェゴの花),とある.

 マンチェゴは,『小学館 西和辞典』には「ラ・マンチャの」という形容詞とあるので,要するに『ドン・キホーテ』の中の「カマーチョさんの結婚式」で出されたような,ラ・マンチャ地方の郷土料理ということらしい.

 岩波文庫の『ドン・キホーテ』(永田寛定訳)は正篇と続編がそれぞれ3冊ずつで,計6冊の大部なものだ(日本語版ウィキペディア「ドン・キホーテ」に粗筋あり)が,幸いなことに目次があった.4冊目の「続編一」の第二十「カマーチョ・エル・リーコの婚礼,ならびに,バシーリオ・エル・ポーブレの事件が述べられる章」,第二十一「カマーチョの婚礼がつづいて,おもいしろい出来事がいろいろある章」をざっと読んだ.

 ペトロニウスの『サテュリコン』の「トリマルキオの饗宴」のスケールを小さくして,婚礼と恋愛譚とドタバタ劇を加味したような話だなと思いながら眺めたが,上記のメニューは確認できなかったので,多分,当時の郷土料理の雰囲気を残したものということかと推測する.

 永田訳には,深鍋,油鍋,シチュー鍋がでてきて,深鍋に煮込まれるべきものとして,羊,皮をむかれた兎,毛をむしられためんどり,子豚,牛の肉への言及がある.「要するに,婚礼のやり方は田舎風だったが,一群の兵隊を養えるくらい,ふんだんだった」と言われているので,やはり郷土料理だったのだろう.

 金持ちカマーチョと貧乏人バシーリオが,田舎の美女キテーリアをめぐって展開するドタバタ劇に,諷刺が込められていると思われるが,私たちは,そんな背景にはまったく関係なく,煮込み料理に舌鼓をうちながらワインを飲み,デザートの「ラ・マンチャの花」の上のアイスクリームをおいしくいただいた.

写真:
デザート
フロール・マンチェゴ
(ラ・マンチャの花)


 「旅籠」という名のレストランの前に,小さな教会があり,これに興味を持ったが,たった一行しか町の説明をしていない英語版ウィキペディアより,詳細な情報があったスペイン語版ウィキペディアにも,教会への言及はなかった.ファサードには「アルファとオメガ」というギリシア文字があって,好感のもてる教会だった.信仰の原点は,大都市の大聖堂ではなく,村の教会ではないかと思った.


コンスエグラ
 バスはプエルト・ラピセを出発し,トレドを目指した.途中,車窓から,ところどころ丘の上に風車が見えはじめた.

 コンスエグラの丘には,11基の風車と古城がある.確かに近くまで行ってみたい光景だ.予定では,ここで一時停車して,短い時間だが観光することになっていた.しかし,この日は,丘の上に上がる道は封鎖されていて,私たちの前に来ていた観光バスもUターンして戻るところだった.

 コンスエグラでは10月下旬にサフラン祭りという,観光客を集める大きなイベントがあるが,この日はそれとは別の,何年かに一度(?)の大きなお祭りがあって,地元の人以外は丘に上がれなくなっていたらしい.

写真:
ラ・マンチャ地方
コンスエグラ


 バスで町中を通ると,プエルト・ラピセが「村」という感じだったのに,コンスエグラは小なりといえども「都市」に思えた.教会が3つほどあるようで,そのうちの2つは相当立派だったが,バスの車窓からはうまく写真が撮れなかった.スペイン語版ウィキペディアに拠れば,いずれも18世紀以降のものとのことだ.

 イタリアではよく見かけた納屋型の教会をスペインでは見ていない.新しくても,バロック風が多く,ギリシア十字架型のビザンティン風もところどころで見た.現代建築風のものもあるが,いずれにしても,スペインの教会は,小さな町の教会でも立派な建物が多いという印象だ.

 たとえ18世紀のものでも,建物が立派で,200年以上経つと,それなりの風格に見える.コンスエグラの教会は,ゆっくり見てみたいと思わせる姿をしていた.

 ともかく,バスは,ラ・マンチャの野をひた走り,トレドに向かった.





「ベンタ・デル・キホーテ」で昼食後
ドン・キホーテの像とともに