フィレンツェだより番外篇 |
旧ユダヤ人街 コルドバ |
§スペインの旅 - その10 - コルドバ
地中海学会(編)『地中海歴史散歩1 スペイン』河出書房新社,1997 林屋永吉,小林一宏,佐々木孝,清水憲男,大高保二郎『スペイン黄金時代』日本放送出版教会,1992 牛島信明,川成 洋,坂東省次(編)『スペイン学を学ぶ人のために』世界思想社,1999 は,それぞれ参考になった.2番目の本は忝くも,今は同僚になっているお二人の大先生がそれぞれ前任校,前々任校にお勤めの時,お書きになっておられる.なるほど,偉い先生方であったことがわかる高水準で達意の文章だ.お二人とも1冊目にも寄稿しておられ,それぞれの分野で代表的なスペイン研究者であることがわかる.「スペインが好きだ」という情熱が感じられる.それを客観化する冷静さも. 文学,美術,人文主義について,スペインの栄光の話を聞くのは心躍る思いがする.しかし,戦争と宗教と政治の側面が現れた瞬間に,スペイン史は暗い彩りを帯びる.歴史が暗いのは,多分スペインだけではないだろうが. ![]()
を買った.これには,バレンシアで出会ったエルナンド(フェルナンド)・ジャニェス・デ・ラ・アルメディナの絵がカラー写真で掲載されている.「聖母子と幼児の洗礼者ヨハネ」で,ワシントン・ナショナル・ギャラリーにあるようだ.なるほど,良い絵かどうかはともかくレオナルド風の作品だ.もう一人のリャノスに関しても,バレンシア大聖堂の祭壇画のパネル画の一部が紹介されている.ささやかながら,新しい知識を補強することができた.
![]() しかし,どうも「27年世代」と言うのが定訳のようだ.日本語のウェブページにも「27年世代」で検索するとヒットするものがあり,そこには,
を典拠として挙げていた.この本は,昔,どこかの本屋でみかけたことがあったが,特にスペインに関心があったわけではないので買わなかった.しかし,この本の紹介を見て,入手できるものならば,今は手元に置きたいと思った.
という,スペインとポルトガルのバロックに関する本を買いに行った(小川町のかげろう文庫)ついでに,神田の,行く予定のなかった古本屋(神保町古書モール)で,廉価で入手できた. 三省堂が出した本を,三省堂ビルに入っている古書店で買うというのも,面白いが,新刊では手に入らないのだから仕方がない.インターネットの「日本の古本屋」でも比較的手頃な値段で手に入るようだ. この本には「フワン・ラモン・ヒメネスと<27年世代>」という小見出しのある箇所もあり,名前と文章の一節だけだが,グラナダで出合ったアンダルシア出身のノーベル賞詩人と,セビリアで名前だけ知ったムエルベをつなぐことができた.もっとも,情報豊富で多くの勉強をさせてくれる上記のハンドブックにも,ムエルベに関する記述はなかった. しかし,ヒメネス,「27年世代」,アレイクサンドレに関する十分以上の知識が得られた.この本は大事に活用していきたい.古い本だが,強い味方だ. スペイン所縁のローマ皇帝 上記の『地中海歴史散歩1 スペイン』で,セビリアは3人のローマ皇帝を生んだと言っている. 厳密には2人(トラヤヌス,ハドリアヌス)はセビリアの近くのイタリカの出身(ハドリアヌスはローマで生まれた可能性が高い)で,あとの一人マルクス・アウレリウスはローマの生まれだ. 『ヒストリア・アウグスタ』と総称される一群の文書があり,『ローマ皇帝群像』という題名で邦訳が京都大学学術出版会から,西洋古典叢書の一部として刊行中であるが,その第1冊目(南川高志訳)にはハドリアヌスとマルクス・アウレリウスの伝記が載せられている.作者は,前者がスパルティアヌスで,後者はカピトリヌスだ. この中で,ハドリアヌスは,アドリア海沿岸に出自を持ち,ヒスパニアのイタリカに長く居住した家系の出身,母もガデス(カディス)の出身だが,本人はローマで生まれたとしている. 訳注(訳者はローマ史の専門家で,「五賢帝」に関する著書も複数ある)に拠れば,これは長らく誤りとされてきたが,現在はハドリアヌスのローマ生誕は定説に近いようだ.いずれにしてもハドリアヌスがイタリカ(現在のセビリアにあたるヒスパリス近傍)に縁が深いことは明言されている. ![]() 家系に関しては,伝説上の人物である,ローマの第2代の王ヌマと,南イタリアのサレント地方の王その他に遡ることへの言及もあるが,前章で,父と祖父を紹介しており,そこで曽祖父が「ヒスパニアのウックビの出身で,元老院議員となって,プラエトルの地位に達した」と言っている.ウックビはロウブ叢書のラテン語テクストはスックバになっているが,訳注ではどちらでもコルドバ近郊の同じ町だとしている. プラエトルは法務官と訳され,共和政時代はコンスル(執政官)に次ぐ高級官職であり,帝政期でもこの職につく人は帝国のエリートである.従って,「五賢帝」の最後を飾るマルクス・アウレリウスもイタリア起源の家系伝承を持つが,スペインに長く根を張った家系の出身であることは間違いないだろう. ただし,現在の地理関係で言えば,セビリア(当時はユリア・ロムラもしくはヒスパリス)周辺ではなく,コルドバ(当時はコルドゥバ)南東の小邑の「出身」ということになる.
マルクス・アウレリウスの祖父は執政官に三度就任したが,最初はドミティアヌス帝治世下(紀元後81-96)のことなので,曽祖父はそれ以前の人ということになる. 曽祖父,祖父,父がすべてアンニウス・ウェルスという名で,マルクスも元服後,最初は同じ名を名乗っていたのでややこしいが,曽祖父が法務官になったのはいつのことかわからない.仮に,祖父の最初の執政官就任の30年前とすると,大体紀元後50年から60年くらいのことになる. 紀元後50年のローマ皇帝は第4代のクラウディウス(在位41-54)で,彼の後継者は悪名高いネロ(在位54-68)だ.ネロ帝の政治をある時期支えたのが,コルドバ出身の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカである.であれば,マルクス・アウレリウスの曽祖父はだいぶ年下ではあろうが,セネカと同時代,同郷の人物だったということになる. セネカ セネカの父は,息子と同名のルキウス・アンナエウス・セネカだ. ローマ人の名の基本形は「個人名+氏族名+家名」であるが,親子で同じ個人名になるケースはかなりある(父の個人名をマルクスとする説もある). 彼は有名な弁論術教師で,弁論術に関する比較的大きな著作を残した. 父を大セネカ(セネカ・マヨル),もしくは老セネカ(セネカ・セニオル),もしくは弁論家セネカ(セネカ・レトル)と言うのに対し,息子を小セネカ(セネカ・ミノル,セネカ・ユニオル)もしくは哲学者セネカ(セネカ・ピロソプス)と言う.以下,断らずにセネカと言った場合は息子の哲学者セネカを指すものとする. セネカの兄は,父の友人だった弁論家の養子になり,ユニウス・アンナエウス・ガッリオと名乗り,執政官資格の属州長官として,ギリシアのペロポネソス半島北方にあるアカイア州を治めた. セネカの弟はアンナエウス・メラという名で知られ,その息子が,やはりネロの宮廷で活躍した詩人のマルクス・アンナエウス・ルカヌス(ルーカーヌス)とされる. ルカヌスはカエサルとポンペイウスの決戦であるパルサロスの戦いを歌った叙事詩『パルサリア』(別名『内乱の歌』)で知られ,彼もまたコルドバ生まれとされるので,セネカが十代の少年の時に一家でローマに移り住んだとされるが,少なくともセネカの弟はそれでコルドバと縁が切れたわけではなさそうだ. セネカが哲学者として,悲劇作家として,政治家としていかに活躍したかは,参考書がいくつもある(私も悲劇『テュエステス』を訳し,その解説も書いた)ので,そちらを参照してほしい.
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紀元前399年のソクラテスの死は,アテネの栄光の黄昏を象徴し,セネカの死は,既定路線であったとはいえ,ユリウス・カエサルを祖と仰ぎ,後世「ユリウス・クラウディウス朝」と称される,皇帝たちの家系の衰退と滅亡を予言するものであった. もっとも,能才であっても,普通の器量しか持っていない人間が,その出自によってローマ皇帝になる道を歩まざるを得なかったのだから,暴君ネロには,彼なりの悲劇があったのだと思う. いずれにせよ,コルドバから出て,栄光や挫折を味わいながら,大国を支えて,「帝国の良心」と言われたセネカの死は紀元後65年である.やはりローマの高官であった兄のガッリオは弟の死には連座しなかったが,結局は同年中にネロから自殺を命じられた. セネカの死は,ネロ暗殺を謀ったガイウス・カルプルニウス・ピソの陰謀に関わっていると疑われたからだが,甥のルカヌスはこの陰謀に加担し,やはり陰謀発覚の65年,自殺を余儀なくされた.ルカヌスの父,すなわちセネカの弟メラもこれに連座して死んだ可能性が高い. やはりネロの宮廷に仕えた文人(小説『サテュリコン』の作者とされる)ペトロニウスも,翌66年に自殺し,その様子もタキトゥスが『年代記』に記している. ネロの宮廷でこれだけの人間が陰謀に関わるか,その疑いを持たれて死に,その中の少なくとも4人がコルドバ生まれのセネカ一族であったことに驚く. コルドバ スペイン出身の詩人に,第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)を題材として叙事詩『プニカ』を書いたシリウス・イタリクス(後1世紀),古代を代表する諷刺詩人マルティアリス(後2世紀初頭に死亡)がいる.具体的に属州ヒスパニアのどこの出身かまではわからないが,後者は「タグス川(現在のスペインではタホ川,ポルトガルではテージョ川)のほとりを地元とする,ケルト人とイベリア人の子孫」と称している. いずれ,こうしたローマ支配下のスペインにあって,複数設置された属州の首都として栄えたのが,バルセロナ南方のタラゴナ(当時はタッラコー),スペイン中西部のメリダ(当時エメリタ・アウグスタ),そしてコルドバ(当時コルドゥバ)であった. ![]() 古代末期,ゲルマン人の侵入によって東西分裂したローマ帝国のうち西ローマ帝国は崩壊し,コルドバもヴァンダル人の侵入を受け,西ゴート王国に支配された.711年にイスラム教徒がイベリア半島に進出し,716年にコルドバは,ダマスカスを首都とするウマイヤ朝イスラム帝国のイベリア半島における支配地アル・アンダルスの拠点となった. 後にイベリア半島に成立(756年)した後ウマイヤ朝では,途中(929年)からカリフを名のり,バグダッドのアッバース朝に対抗したが,その際にもコルドバは首都として,地中海世界ではコンスタンティノープルと並ぶ,最も繁栄した都市となった. その名残が,現在はコルドバの大聖堂(カテドラル)となっているメスキータである.紀元後600年に西ゴート王国がこの地に聖ウィンケンティウス(サン・ビセンテ)を記念するキリスト教の教会を建て,イスラム教徒の征服後,784年からモスクに改造され,200年の年月をかけて完成させた.
イスラム建築や装飾には,「豪華絢爛」というイメージを抱いていた.なかなか自分の興味,関心の対象として位置づけることができなかったが,単なる憧憬という意味では,グラナダのアルハンブラ宮殿とコルドバのメスキータはいつの日か見たいと思っていた. 実際に見てみると,アルハンブラもメスキータも長い年月を経ているとは言え,思ったより地味で,これ以後の人生においても何度も見たいと思うような感銘は得られなった. しかし,イスラムの装飾は,質の高い写真を掲載した案内書などで,何度も見ながら,文様のパターンなどを系統立てて,学習して行くと,確かに夢中になってしまいそうな予感はある. 現在も残るミフラブ(ミフラーブ)は,メッカの方角を示す壁龕で,装飾が美しい.
アルハンブラでは,建造物や庭園よりもむしろ,漆喰装飾に興味を覚えた.メスキータでも「円柱の森」と言われる,古代ローマ神殿の柱を流用し,赤白のアーチを架けた列柱群の神秘的な光景を何度も写真や映像で見て,憧れる気持ちがあった.南イタリアのプーリア州オートラントのカテドラーレで,クリプタ(地下教会)の列柱群を見ることができたときも,そこから連想がメスキータに及んだ. 実際に見たメスキータの「円柱の森」は思ったより地味で,今,思い返すとオートラントのカテドラーレの地下教会もなかなかのものだと思うに至った.観光資源としての価値は,比較すべくもないかも知れないが,私にはメスキータの列柱群が古今に冠たる見ものだとは,思えなかった. ![]() ただし,モザイクに関しては材料だけでなく,その意匠に関してもビザンティンの職人の指導が大きな貢献をしたそうだ.そう言われれば,パレルモのノルマン王宮のモザイクに似ているような.
しかも,このミフラブには,キリスト教教会の後陣の穹窿天上,ローマの邸宅建築に見られる壁龕が影響しているということで,明らかにイスラム建築でありながら,異教,異文化の影響を受けて,自己の芸術を確立していったことを示しているように思える.たった一つの例を見た感想を,土産物屋で売っていたガイドブックを見ながらまとめるにしては,厚顔な結論だとは思うが. 英訳版のガイドブック,
は,廉価な割には,写真がよく,他のシリーズのガイドブックに比べて,まとめ方がうまくわかりやすい.教会や芸術作品については十全の情報とは言えないが,メスキータに関しては少なくとも私には十分だ. アルハンブラ宮殿に関しても,このシリーズのガイドブックは役に立った.入手できなかったが,日本語版もあるようなので,訳文に不満がなければ,この本の日本語訳を買うのも良いかもしれない. もう一度,スペインに行く機会があったら,各所で,迷わずに他のではなく,このシリーズのガイドブックの英語版(やはり,以後の学習において参照する利便を考えると,よほど達意の日本語訳でなければ,欧文の方が結局は参考になるように思う)を購入するつもりだ.
![]() 8世紀の文化水準で比較したとき,イスラムと西ゴートでは,現在のアラブとヨーロッパの比較からは想像もつかないほど,イスラム側が圧倒的に高水準であったようだが,ゲルマン人が先進文化に影響を与えた貴重な例と言えよう. 詳しい由来についての情報は得られていないが,「免罪の門」と言われる門の向かって左側にはミナレットを改築した鐘楼(バロック風で,とてもイスラム建築とは思えない姿になってしまっている)があり,免罪の門をくぐると,「オレンジの中庭」に出る.
「オレンジの中庭」から聖堂に入るときは,通常は「棕櫚の門」から入ることになるのかもしれないが,撮って来た写真(フラッシュ無しで写真もヴィデオも可)を見ながら,『ワールド・ガイド』の平面図を見比べると,私たちは多分,地元ガイドのアンヘル(=天使)さんに導かれて,デアネス門から入り,オレンジの中庭を聖堂の壁沿いに歩いて,反対側のサンタ・カタリナ門近くの出入口から入堂して,堂内を見た後,同じ出入口から,オレンジの中庭の回廊に出たのではないかと思われる. 「免罪の門」(プエルタ・デ・ペルドン)の写真を撮ったのは,メスキータを出て,旧ユダヤ人街(ラ・フデリア)を一通り歩き,「花の小径」(カレハ・デ・ラス・フローレス)を観光して,自由時間になった後だ. 聖堂には再入場できないが,中庭には入れるし,それに外観も興味深いので,自由時間もかなり楽しめたが,やはり暑かった.
![]() コンベルソと言われる改宗者の家系から,スペインの「偉人」たちが多く出たことは既に述べたが,ユダヤ人が比較的寛大に扱われたイスラム支配の時代に,マイモニデス(日本語版ウィキペディアは「モーシェ・ベン=マイモーン」,アラビア語ではイブン・マイムーン)という偉大な学者がコルドバのユダヤ人社会から育った. ただし,彼はイスラム教に改宗したように装い,アルメリアからアフリカに渡って,より自由度の高いエジプトで,英雄サラディンが開いたアイユーブ朝の侍医となって,東方で亡くなった.彼の著作はラテン語に訳されて,西欧の思想界,宗教界に大きな影響を与えた. 彼の人生から,思ったよりもユダヤ人が寛大に扱われなかった時代も,イスラム支配下のスペインにあったこともわかる.イスラム,ユダヤ,キリスト教の3つは,常に緊張をはらんだ関係の歴史を積み重ねてきたということだろう. ![]() アラブ人がギリシア語から訳して研究していたアリストテレスの哲学書に注解を加え,それがラテン語に訳されて,スコラ哲学というキリスト教神学の基盤となった.彼がいなければ,アルベルトゥス・マグヌスも,トマス・アクィナスも少なくとも思想家,哲学者としては存在しなかったことになるだろう. 彼を主人公にした「炎のアンダルシア」という映画が1992年に作られたと日本語版ウィキペディアにあったので,早速アマゾンでDVDを検索したが,中古しかなく,2万円近い値段がついていて驚いた.日本版DVDの字幕はフランス語から訳したものだそうだが,訳者が山崎剛太郎とあってさらに驚いた.私も妻もこの人のフランス語講読のクラス(必修)に出ていたからだ. アヴェロエスが亡くなったのは,現在のモロッコのマラケシュだが,コルドバに生まれ,アンダルシアで活躍した万能の天才と言って良いであろう. 上述の英訳ガイドブックには,コルドバの町に,マイモニデスとアヴェロエスの像があることを写真付きで紹介してくれているが,これらには出会えなかった. ![]() 胸像はもちろん新しいものだが,白内障の手術もしたというこの偉大な「眼科医の先導者」に出会って,現代人である私たちはコルドバに栄えたイスラム文化を思うことができる.マイモニデスもアヴェロエスも医者でもあったので,当時の知識人の生き方も興味深い.
![]() そこに,新しいが,妙に懐かしいブロンズの立像があった.ローマ人の格好をしているので,セネカに違いないと思い,駆け寄った. 確かにセネカ像だった.本人に会った人が作ったわけではないので,あくまでも想像の産物だが,ローマ時代の遺構が少ないコルドバで,セネカに出会えた.もちろん,今のコルドバに,セネカ所縁の品も,彼の生家も全く存在しない. |
アルモドバル門近く ビクトリア庭園に立つ セネカ像とともに |
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