フィレンツェだより番外篇 |
パティオのあるスペインの家 セビリア |
§スペインの旅 - その9 - セビリア
-llaという綴りが,「リャ」に近い発音になり,それが方言によっては「ジャ」に近い音になる傾向があることを,ジェイスモ(yeismo:日本語版ウィキペディアの「ジェイスモ」も参照)というらしい. 言語には様々な現象がある.ラテン語で「花」を意味するフロースの変化形には,属格(所有,所属を意味する格)のフローリスのように,-s-で特徴づけられる主格(主語や主格補語になる格)には現れない-r-が出てくる. このような現象をロタシズム(rhotacism)と言う.ギリシア語にロー(ρ)という文字があり,ロタシズムの名称はこの文字名称に基づいているので,日本語で「ロー化現象」と言うこともあるようだ. 昔,学部学生の時に,「上級ラテン語」というクラスに出たら,担当の先生(科学史がご専門)が「ロー化現象」を説明せよとおっしゃった.私はその語を知らなかったので,「老化現象」のことだと思い,とまどっていたら,そんなことも知らないで,上級ラテン語のクラスに来たのかと怒られた. この科目を履修しようとした学部生は私だけだったが,次の週からは出席するのをやめた.古き良き時代の話だ.今の大学教師でこれだけ強気な人はそうはいないだろう.結果的には,代わりに,土曜日の7限という遅い時間帯だったので履修を躊躇していた別のクラスを選び,恩師にも研究テーマに出合えたので,良かった. 今,考えると,科学史の先生から,中世ラテン語の世界を教えてもらうのも悪くなかったかも知れない.しかし,人生には巡り合せというものがあり,後から修整は効かない. それはともかく,今回スペイン語に堪能な添乗員さんの話を聞いたおかげで,私もセビージャと言いたくなる気持ちを抑えて,ともかくセビリアと表記する.
![]() いずれにしても,セビリアは日本語風の書き方だろう.しかし,日本語として安定していて,発音しやすい表記だと思う(日本語版ウィキペディア「セビリア」の項目参照). ヒスパリス セビリアのローマ時代の都市名がヒスパリスだったこと,それがイスラム支配時代の転訛から,セビリアという名称になって行ったことは,諸方に記載されているが,ヒスパリスの語源が何だったのかの説明を見つけることはできていない. フランス語版ウィキペディアは意外に詳細で,労作だと思うが,この古代都市の名称に関しては,「伝説では,前8世紀頃にタルテッソス人によって建設され,ラテン語資料に拠れば,イスパルもしくはスパルという名であった」とあって,一見,それらしい説明だが,「ラテン語資料」が何かは言及がなく,語源の説明もない. 「タルテッソス」に関しては,アンダルシア地方の歴史には,大体出てくる伝説上の固有名詞だが,別の機会に考えてみる. 『オックスフォード・ラテン語辞典』で,ヒスパリス,ヒスパニアの項を参照しても語源情報はない.ただ,ヒスパリスの文献上の初出はアシニウス・ポリオの書簡であることがわかる. ポリオの同時代人ユリウス・カエサルの『内乱記』(邦訳は講談社学術文庫)にヒスパリスという都市名は出てくるが,ガデス(現在のカディス)の市民に造船を命じ,その関連でヒスパリスでの造船も手配したとあるので,グアダルキビル川が,海に出る道として機能し,内陸のヒスパリス(セビリア)も水運の地であったことが推察されるが,それ以上の情報はない. スペイン語版ウィキペディアでセビリアを調べ,記事中のヒスパリスのリンクに飛ぶと,セビリアと同じページになってしまう.それで,グーグルでヒスパリスを検索すると,ラテン語版ウィキペディアにたどり着いた. ラテン語のウィキペディアがあることに驚いたが,残念ながらヒスパリスの語源解説はなく,要するに「ヘラクレスが建設したと言われ,カルタゴ人が住み,都市名はカルタゴ人かイベリア人の言葉に遡る.ローマ時代には植民市ユリア・ロムラと呼ばれ,属州バエティカの州都だった」ということだ. というわけで,ラテン語ウィキペディアに特に語源に関する重要な情報はなかったが,一人の人物名のラテン語表記が気になった.イシドールス・ヒスパレーンシス(リンクはラテン語版ウィキペディア.以下,音引省略でイシドルス)という人物である. イシドルス 「セビリアのイシドルス」(スペイン語ではイシドーロ・デ・セビーリャ)は,いわゆる「教会博士」(英語版/ラテン語版ウィキペディア)に分類される聖人だ.「教会博士」と言えば,思いつくところで,聖書のラテン語訳を完成させたヒエロニュモス,ミラノの司教アンブロシウス,哲学者アウグスティヌス,大教皇グレゴリウスが知られる. イシドルス(c.560-636)は西ゴート王国支配下のカルタゴ・ノウァ,現在のカルタヘナの有力家系に生まれ,父母,兄や妹の名まで分かっている.30年以上に渡ってセビリアの大司教を務め,「古代世界最後の知識人」と言われた(言ったのは,19世紀フランスの歴史家モンタランベール). 彼の『語源論』は古代末期が生み出した百科事典とも言うべき存在で,中世には知識人の宝典として扱われた.
古典と言うのは,いつ参照の必要が出てくるかわからないので,書店で見かけた時に,手頃な値段で,費用の都合がつけば購入するようにしているが,そうやって手元に置いていた本に,オックスフォード古典叢書の2冊本のイシドルス『諸物の語源と起源』という本があった.これが上記の『語源論』であろう.読んだことはないが,索引がついているので,「ヒスパリス」を引いてみると,15巻1章71節にこう記されていた.
「杭」というラテン語がパールスで,「杭が打ちこまれた状態で」という表現はスッフィクシース・パーリースという形になる.このパーリースにたとえば,「この」という指示形容詞が何らかの形で組み合わせられる(たとえば「これらの杭が」という風に)と,ヒースパーリースになるから,そこからヒスパリスが来たというような趣旨かと推測する.「ヒース」をたとえば,「これらの場所」にというような意味で補うこともできよう. ただし,ヒスパリスは「ヒス」の部分も「パリス」の部分も長音にはならないので,学問的語源論とは言えないように思う.いわゆる民間語源説の類であろう.それでも,これだけの短い部分にも貴重な情報もある.言っていることが必ずしも全部正しくなくても,古典には意味があるのだ. セビリアのイシドルスとは言うが,セビリアの名称は中世以降なので,ラテン語(彼の著作はラテン語で書かれている)では「ヒスパリスのイシドルス」となるのは,上記の通りである.
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イタリアの場合,フィレンツェやミラノのドゥオーモは,やはり聖母の名を戴いているが,中規模の町になると,その守護聖人に捧げられたものが少なくない.ところが,英語版ウィキペディアの「スペインのカテドラル」で一覧表を見ると,スペインでは殆どのカテドラルは聖母に奉献されているようで,大都市で例外はバルセロナの聖エウラリアくらいだ.聖母の次は救世主(キリスト)で,その他はペテロ,洗礼者ヨハネなどが垣間見える.もちろんサンティアゴ・デ・コンポステーラは聖ヤコブだ. 一覧表を見る限り,イシドルスに捧げられたカテドラルはないようだ.
同じように英語版ウィキペディアの「イタリアの大聖堂」一覧表を見てみると,大聖堂(ドゥオーモ,カテドラーレ)の数がスペインとは大分違うようなので,一概には言えないが,イタリアでも聖母の場合が圧倒的に多いようだ.それでもジェノヴァのラウレンティウス,トリノの洗礼者ヨハネ,ボローニャのペテロなど,大都市でも聖母以外の名を冠したものある. 訪れたことのあるトスカーナ中小都市では,アレッツォのドナトゥス,ルッカのマルティヌス,プラートのステファヌス,ピストイアのゼーノ,フィエーゾレの聖ロムルス(ローマの始祖とは別人)などが記憶に残る. 確かにセビリアはスペイン有数の大都市(人口で言うと,マドリッド,バルセロナ,バレンシアについで4位)だが,「セビリアの」と言われるほどの聖人であっても,セビリアの大聖堂には彼の名を冠した礼拝堂があるに過ぎない. 英語版ウィキペディアには情報はないが,スペイン語版ウィキペディアと英訳ガイドブックによれば,サン・イシドーロ教会がセビリアにあるようだ.14世紀にゴシック・ムデハル様式で建てられたとあるので,古い教会だが,とりたてて見るべきものは紹介されていない.
![]() イスラム勢力がイベリア半島を席巻し,ほぼ全土を制圧しそうになったとき,唯一その支配を免れた北西部のガリシア地方で形成されたのが,アストゥリアス王国で,そこで聖ヤコブの伝説も発展していった. アストゥリアスの初代国王ペラージョ(ラテン語でペラギウス)が,「再征服」の出発点に立つ人物とされる. アストゥリアス王国は首都をオビエドからレオンに移し,レオン王国となった.これが新たに発展したカスティーリャ王国と合体して,新生カスティーリャ(・レオン)王国となり,さらにカタルーニャと連合したアラゴン王国がイサベラとフェルナンドの結婚によって合同し,「再征服」を完成した.婚姻と継承の関係が複雑でなかなか整理しきれないが,概略としてはこのようになるだろう. その過程で,1063年(ウィリアム征服王がイングランド王となる1066年よりも前だ)のカスティーリャとレオンの国王フェルナンド1世(カスティーリャとレオンの統合は正式には1230年だが,ナバーラ王サンチョ3世の息子で,カスティーリャ伯とレオン王を兼ねたフェルナンドが彼1代に限り,カスティーリャとレオンの王を兼ね,「スペイン皇帝」インペラートル・トーティーウス・ヒスパーニアエを名乗った)は,当時セビリアを支配していたイスラム君主と交渉して,イシドルスの聖遺物をもらい受け,洗礼者ヨハネの名を冠した修道院を基礎にして,このイシドルスの聖堂が創設された. 聖堂にあるのは聖遺物で,遺体は,兄レアンデル,フルゲンティウス,姉妹フロレンティナの遺体ともに生地のカルタヘナを司教区に含むムルシアの大聖堂にあるとされるが,地中海学会(編)『地中海歴史散歩1 スペイン』(河出書房新社,1997)所収の文,安發和彰「レオン 中世「帝国」の見果てぬ夢」には「聖遺体」とあり,安發が描くような熱狂があったのであれば,確かに聖人の遺体であったのかとは思う.ただし,私は確認できていない. 聖ヤコブほどではないかも知れないが,この聖人もやはり「再征服」の精神的支柱としての役割を果たしたかも知れない.現在は,インターネットの守護聖人ということになっているそううだ. セビリア出身の著名人 セビリア周辺から出た有名人として,ローマ皇帝や画家以外で,多少とも私たちになじみのある人物としては, イスラムの医学者イブン・ズール(アヴェンゾアル)(1091-1161) 作曲家クリストバル・デ・モラーレス(c.1500-1553) 同フランシスコ・ゲレーロ(1528-1599) 同ホアキン・トゥリーナ(1882-1949) 歴史家バルトロメ・デ・ラス・カサス(c.1484-1566) 言語学者アントニオ・デ・ネブリハ(1441‐1522) 詩人ヴィセンテ・アレイクサンドレ(1977年ノーベル賞受賞)(1898-1984) スペイン首相フェリペ・ゴンサレス(1942-) が挙げられるかも知れないが,少なくとも私が知っているのは,モラーレス,ゲレーロ,トゥリーナと,スペインの首相だったゴンサレスくらいだ,しかし,ルネサンスの宗教音楽が好きな私としては,モラーレスとゲレーロが出ているというだけで,やはり文化が栄えた町なのだと感じる. スペイン最高の作曲家である, トマス・ルイス・デ・ビクトリア(1548-1611) に比べても,モラーレス,ゲレーロは先人である.アビラ県サンチドリアンで生まれ,セゴビアで修業した北スペイン人であるビクトリアがローマで師事した可能性があるのが,イタリア最高の作曲家の一人, ジョヴァンニ・ピエルルイージ・ダ・パレストリーナ(1525/26-1594) だが,この人と比べても,ゲレーロはほぼ同世代,モラーレスは20年以上の年長である.美術と違い,音楽では必ずしもイタリアは先進国ではなく,「ルネサンス」と言っても,パレストリーナのようなイタリア出身大作曲家が活躍するのは,ようやく対抗宗教改革の時代である.
ブルゴーニュもフランドルも婚姻に拠る継承権によってハプスブルク家の世襲領となる.「狂女」フアナと「ハンサム王子」のフィリップが結婚し,その間にフランドルで生まれたカルロス1世がスペイン王となることが,あるいはスペインからイタリアに先んじて,大作曲家が出た理由の一つとなるかも知れない. モラーレス一人を挙げて,そう言い切ってしまうことはできないが,少なくともセビリアという世界史的にはローカルな都市が,ヨーロッパの激動期の中で,様々な異文化交流によって高い水準の文化を生み出していた証拠にはなるだろう. モラーレスはセビリアで生まれて,現在はセビリア県に属しているマルチェーナで亡くなり,ゲレーロはセビリアで生まれてセビリアで死んだ.前者は職を求めて北スペインやローマに行った.メディチ家にも接触したらしい.後者もポルトガル,イタリアはもとより,聖地訪問を志してベツレヘム,エルサレムまで行った. 特殊技能者である音楽家は,各地により好条件の仕事を求めることができ,実際に彼らはそれを模索したが,結局セビリアに帰り,その周辺で死んだ.
![]() 盛岡の岩手県公会堂(「今は多分ないであろう」と書き出したが,グーグルで検索したら,HPがあって,なおかつ昔と同じ建物の写真が出ていた.HPによると,設計者は大隈講堂を設計した佐藤功一とあるので,文化財としての価値もあるのだろう)の壇上で口をパクパクさせていただけだが,それでも歌詞は覚えたので,生まれて初めて「コギト・エルゴ・スム」以外のラテン語に接したことになる. この後,「サンクタ・マリア」とか「おお,大いなる神秘よ」などビクトリアの曲と,それよりも多くパレストリーナを歌う機会があった. ビクトリアについては「スペインの作曲家」,パレストリーナは「イタリアの作曲家」だと単純に思っていたが,私たちが「作曲家」と認識している芸術家たちは,作曲だけで生きていけたわけではない.できるだけ大きな聖堂に楽長やそれを補佐する職を得て,はじめて音楽家として生きていくことができる. まだLPの時代だった学生の頃,「黄金時代のスペインの音楽」というアルバムがほしいと思ったが,なかなか手に入らず,東京にいたのだから,探せば簡単に見つかったのだと思うが,結局ミュンヘンの街を歩いていて,偶然入った小さなレコード屋で買って,ご苦労にも手荷物で持って帰国した. 今は,輸入盤のCDで聴き,LPは再生装置がないので,岩手の実家に置いてあるが,茶色の箱に入ったそのアルバムは捨てられない. CDを見ると,ビクトリア,モラーレス,ゲレーロの他に,アロンソ・ローボ,フアン・エスキベル,ロドリーゴ・セバーヨス,セバスティアン・デ・ビバンコ,フアン・プホル,フアン・ナバーロ,フアン・デ・カストロの名が挙がっている.この中で,モラーレスが生まれたのが1550年頃,最後にプホルが死亡したのが1626年だが,「黄金世紀」(エル・シグロ・デ・オーロ)という語を知ったのも,このアルバムからだ.それ以来,「黄金世紀」のスペインが気になって来たが,ちゃんと考える機会がないまま,30年が過ぎた. アロンソ・ローボ(1555-1617) もまた現在のセビリア県オスナで生まれ,セビリア大聖堂で聖歌隊員として音楽を学び,セビリア大聖堂でゲレーロの助手になり,トレドの大聖堂の楽長となって,セビリアに帰って,セビリアで亡くなった. コロンブス アンダルシアの歴史について多少とも学びたいと思って色々見ていると,アンダルシアの4つの王国という用語が目に付く.コルドバ王国が1236年,ハエン王国が1246年,セビリア王国が1248年,グラナダ王国が1492年にそれぞれ「建国」された.イスラム豪族領であったタイファ(グラナダ王国は最後のイスラム王朝ナスル朝)が基盤になっているが,現在は全て自治州としてはアンダルシア州に属している. 年代を見てもわかるように,「再征服」の過程で,後の統一スペイン王国の母体となるキリスト教王国の支配下に入って行く際に,一種の同君連合の形を取ったことが察せられ,現在は小さな自治州もあるスペインだが,大きなまとまりの地域が,「再征服」の過程で順番に「スペイン」(エスパーニャ)に成って行く経過が見えるように思える.
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コロンブスが最後までアジアだと主張した土地をアメリゴが「新大陸」であると認識していたことも一つの要因かも知れない.ドイツの地図作成者マルティン・ヴァルトゼーミュラーが1507年出版の地図に「アメリカ」と記載して以来のことらしい. アメリゴはフィレンツェのオンニサンティ教会の近傍に住む一族の出身で,この教会にドメニコ・デル・ギルランダイオが描いた「慈悲の聖母」には,アメリゴと思われる少年の姿も登場する. アメリゴはロレンツォ・デ・メディチ(通称「豪華王」イル・マニーフィコ)に仕え,メディチ銀行のセビリア支店で仕事をした.また,ポルトガル王の援助で様々な航海をした後,マラリアで亡くなったのもセビリアであった.セビリアは内陸の都市でありながら,大航海時代の重要な拠点であった. ![]() コロンブスの息子,ディエゴ・コロンは,後に新大陸に領地が設定された公爵となるが,妻はアルバ公爵(女王イサベラの夫フェルナンド王の従兄弟)の姪にあたり,コロンブスの子孫はスペインの貴族社会に地歩を築いたことになる. このディエゴは新大陸総督になり,父の遺体を現在のドミニカ共和国のサント・ドミンゴに移した.1795年にフランス軍がサント・ドミンゴを占拠し,コロンブスの遺体をキューバのハバナに運んだが,1898年,米西戦争の結果キューバが独立したので,その際に,コロンブスの棺はセビリアに帰り,大聖堂に葬られた. 現在の棺に,新たな棺台が作られたのは,1891年から1902年のことで,大聖堂の紹介ページによれば,マドリッド出身の19世紀の彫刻家アルトゥーロ・メリダ・イ・アリナーリとある.マドリッドのコロン(コロンブス)広場の巨大な記念碑の作者でもあり,在世当時は評価された芸術家であったかも知れない. 棺を担いでいるのは,カスティーリャ,レオン,ナバラ,アラゴンの4つの王国を象徴する王冠をかぶった人物である.とりたてて,言及するほどのものではないかもしれないが,目をひくし,多くの人の関心を集めていた.暗い堂内で見ると,やはりそれなりの雰囲気があるので,私も注視した.
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そうした現在の中南米にあった帝国を滅ぼした人物たちを,「征服者たち」(コンキスタドーレス)と言う. 現在のペルーにあったインカ帝国を滅ぼした, フランシスコ・デ・ピサロ(1476-1541) メキシコにあったアステカ帝国を滅ぼした, エルナン・コルテス(1485-1547) が有名だ.他にも何人かいるようだ.ピサロは中西部のエストレマドゥーラ州のカセレス県トリヒーリョ,コルテスは同じ州のバダホス県メデリンの出身で,しかも遠縁の関係のようだ.太平洋を「発見」したバルボアもバダホス県の町の出身なので,「新大陸」進出者の多くがエストレマドゥーラ州だったことになる それに対して,セビリア出身のラス・カサスは,『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(染田秀藤訳,岩波文庫)を始めとする,文書を残し,それらは死後公刊されたが,生前にもインディアスと呼ばれた「新世界」において,先住民がいかに悲惨な扱いを受けているかを訴えた. 彼は,ドミニコ会の修道士で,立場によって彼に対する毀誉褒貶はあるようだが,彼が残した記録によって,16世紀の中南米の状況を知ることができ,それはラス・カサスの人道上の義憤と責任感に拠るものではあることは間違いないだろう. 「アビラの聖テレサ」 下の写真のタイル装飾は「聖テレサ通り」で見かけたものだ.ガイドのフランシスコさんのご兄弟が経営する土産物屋がこの通りにあり,買い物をして,お手洗いを借りた.通りの名は「アビラの聖テレサ」という聖人にちなんでおり,修道服を着た彼女の姿を焼き付けたタイル装飾も幾つか見た.
シエナの聖女カテリーナはイタリアの守護聖人でもあり,歴史的人物としては,相当に有名な聖人だが,私たちにはお馴染みの,フィレンツェの聖マリア・マッダレーナ・デ・パッツィを知っている人はイタリア人でもそう多くはないだろう.フィレンツェでも知らない人は多いかも知れない. しかし,これはスペイン人に聞いたわけではないので,確言できないが,およそカトリックに関心のある人で アビラの聖テレサ(1515-1582) を知らない人は少ないのではないだろうか.私たちもタイル装飾だけではなく,大聖堂の聖具室でスルバランが描いた彼女の絵を見ているし,かつてローマのサンタ・マリーア・デッレ・ヴィットーリア教会では,バロックの巨匠ジャン=ロレンツォ・ベルニーニの「聖テレサの法悦」を見ている. ベルニーニの作品はは宗教的意味を超越した傑作だが,その根っこはやはりカトリックの信仰にある.「法悦」と「神秘思想」というのは言葉から多少の想像はつくが,それを身近に感じるには,私はローマ・カトリックの信仰から余りにも遠いところにいる. 彼女の著作は日本語に訳されたものも多く,私も『完徳の道』(岩波文庫)など詩や手紙も含めて4冊の邦訳を持っているが,理解するにはいたっていない.思想的側面と連動するが,修道会の改革にも取り組み,ひいては,それがカトリック教会の改革運動にもつながった.出身のカルメル会の保守派からの迫害もあり,異端審問の対象となった. 神秘的な思想を抱く者には常に異端の疑いをかけられる危険がつきまとう.イタリアの聖人シエナの聖ベルナルディーノも審問にかけられた. 最終的に,テレサは罪には問われず,死後は列聖され,聖俗の栄光を受けて,「教会博士」の称号も授与された.スペインを代表する宗教者と言えるだろう. 彼女の父方の祖父は改宗ユダヤ人(コンベルソ)だったとされる.英語版ウィキペディアはマラーノという用語も使っている.このこともまた,16世紀のスペイン社会の状況をある程度教えてくれる.スペイン史に名を残す重要な人物の中に,コンベルソもしくはその家系に属している人が決して少なくないようだ. コロンブスがイタリア出身ではなく,スペインのコンベルソであるという説は奇説だとしても,ラス・カサスにもコンベルソの一族出身という説もあり,20世紀でも独裁者フランコの祖母がコンベルソの家系であったと日本語版ウィキペディア(「コンベルソ」の項)にある. テレサの散文は16世紀のスペイン語散文を代表する名文とされているが,彼女の思想に共鳴した詩人もいる. 「十字架の聖ヨハネ」(サン・フアン・デ・ラ・クルス)(1542-1591) という通称を持つ聖人である.この人の著作も邦訳を1冊(奥村一郎『カルメル山登攀』ドン・ボスコ社,1969)と英訳詩集を1冊持っているが,まだ読むにいたっていない.スペイン・ルネサンスを代表する詩人と言われる.イタリアに比べれば,遅いルネサンスだが,もしシェイクスピアがイギリス・ルネサンスの代表的作家だとすれば,十字架の聖ヨハネがシェイクスピアよりも24歳年長だ. イタリアのカトリックも計り知れないが,スペインのカトリックはもっと遠い. アントニオ・デ・ネブリハ アントニオ・デ・ネブリハについては,特に知識がなかったが,今回スペインについて学ぶ際に,
を参照した.この中に,
という章があり,1492年にサラマンカで出版されたネブリハの『カスティーリャ語文法』が写真とともに紹介されている. セビリア県のレブリハで生まれ,サラマンカ大学に学び,ボローニャ大学に留学,サラマンカ大学で教職につき,アルカラ・デ・エナーレス大学に転籍した. 英語版ウィキペディアでは,彼は古典研究において,イタリアならロレンツォ・ヴァッラ,オランダならエラスムスに相当する業績をスペインで果たしたとまで言われている.諷刺詩人ペルシウスの注釈を書き,ラテン語‐スペイン語辞典を編集した.スペイン語‐ラテン語の辞書も作った.彼は,勤務先のあるアルカラ・デ・エナーレスで亡くなった. アルカラ・デ・エナーレスはセルバンテスの故郷で,今回,最終日にアルカラに行くオプショナル・ツァーが用意されていた.しかし,もともと参加者が10人のツァーなので,全員が希望しなければ成立しないことになっており,当日どうしても他の場所に行きたい人がいて,成立しなかった. 今度,マドリッドに行く機会があれば,自分たちで行こう.セルバンテスの故郷だからであるばかりではなく,この人文主義者の墓に参るために. ホアキン・ロメロ・ムルベ 詩人ホアキン・ロメロ・ムルベ(1904-1969) について,日本語,英語では情報が得られないが,スペイン語ウィキペディアには項目が立ててある.「27年の仲間たち」という特定のグループを指す語がスペイン文学史の中にはあるようだ. このグループには,前述のセビリア出身のノーベル賞詩人ビセンテ・アレイクサンドレ他,たくさんの人物の名が挙げられている.アレイクサンドレも含めて,私は全く彼らの名前を知らない.ただ,一人知っている名前がある.フェデリコ・ガルシア・ロルカである.
英語版ウィキペディアのリストの中には,ムルベの名前もあるが,リンク先の彼の紹介はまだ書かれていないようだ.スペイン語ウィキペディアの他に,スペイン語のブログに上とほぼ同じ写真があり,その説明に英語の訳までついていた.注目されているのは,磔刑図の方のようだが,この建物のある通りが,「ホアキン・ロメロ・ムルベ通り」であることがわかる. 詩人の情報はないので,ウィキペディアを力技で“解読”すると,「セビリア県のロス・パラシオス・イ・ヴィリャフランカに生まれ,セビリア市役所勤務の公務員で,アルカサルの管理者となり,セビリアの詩を専門とする文芸誌『メディオディア』の編集者を務めた後,彼自身も参加している「27年の仲間たち」と近い前衛詩人たちと関係を深め,純粋詩運動ウルトライスモを支えた詩人ペドロ・ガルフィアスの文芸誌『南の翼』(エル・アラ・デル・スル)を活気づけた」と,読める. スペイン文学に関する知識はほとんど無いが,とりあえず,一つ知識が増えた.ムルベの作品を読むことはおそらく生涯無いとは思うが. 現在のセビリア セビリアの歴史は,深い.グアダルキビル川の上流に古代から栄え,コルドバの後塵を拝したとは言え,近隣からローマ皇帝が2人出て,西ゴート時代には,スペインの精神的支柱ともいうべき聖人を大司教に戴き,イスラム支配下でもコルドバと並んで栄え,「再征服」後に段々とコルドバを凌駕するようになり,「大航海時代」を背景に,おそらくスペイン一の繁栄を誇った. しかし,スペインの凋落に先んじるように衰退していった. グアダルキビル川がいかに大河であっても,川を遡るには船が大型化する時代になった.その最後の光輝が17世紀の芸術で,スルバランとベラスケスはマドリッドに去り,ムリーリョはセビリアに残ってアンダルシアの文化を支えた.
現在のセビリアは,少し小さいが,バルセロナやマドリッドと同様,繁栄した近代都市である. しかし,中世の雰囲気も多少残ってはいるものの,バルセロナは余りにも現代的な大都市であるし,マドリッドは美しい街だが,大きく,新しく,私にとって魅力を感じるのは美術館だけで,スペインでおもしろいのは,少なくとも私には圧倒的にセビリアだ. いつの日か,セビリアに滞在して,今回未訪の県立美術館を訪れ,大聖堂を心行くまで拝観して,アンダルシアの小さな町々を訪ねながら,スルバランやムリーリョの夢の跡を追いかけたい. |
1929年のイベロ・アメリカ博覧会の会場だった スペイン広場にて |
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