フィレンツェだより番外篇 |
スルバラン作 「無原罪の御宿り」の聖母マリア セビリアの大聖堂 |
§スペインの旅 - その8 - セビリアの大聖堂
その後,少しだけ立ち寄った町,アリカンテ(スペイン語版も写真豊富)やグラナダの諸教会でも芸術作品に出会える可能性があったが,それは将来に機会があった時の楽しみということになった. ![]() ただ,大きな町の大聖堂は,想像以上に堂内が広いことが多い.そうした作品があるとされる礼拝堂や聖具室が大伽藍のどこにあるか,位置関係を短時間では把握できない可能性があって,その点は少し不安だった.本文をじっくり読む余裕こそなかったが,『地球の歩き方』のセビリア大聖堂の平面図のページだけは,繰り返し,繰り返し見て,聖具室や礼拝堂の位置を確認した. それでも実際に行ってみると,迷子になりそうなほど,堂内は暗く,広く,入り組んでいた.
![]() この希望は,Yさんから地元ガイドのフランシスコさんに伝えられ,おかげで皆さんが自由時間を利用してヒラルダの塔に登っている間に,彼に主要な作品のところへ案内していただくことができた. スルバランの「無現在の御宿り」のあるサン・ペドロ礼拝堂,ムリーリョの「聖アントニウスの幻視」のあるサン・アントニオ礼拝堂,多くの画家たちの作品がある聖具室,ムリーリョの「無原罪の御宿り」のある参事会会議室,ゴヤの「聖フスタと聖ルフィナ」のある聖杯室などを,フランシスコさんの熱弁(スペイン語ではなく英語)を聞きながら駆け足で見て回った.
ベラスケスもセビリアの生まれだが,ベラスケスはマドリッドの宮廷で活躍した画家であり,セビリアに傑作を残していないので,フランシスコさんは彼を地元の画家とは考えていないようだった. スルバランとムリーリョでは,私はどちらかと言えば,スルバランが好きだ.誰が見ても美しいと思うであろうムリーリョの絵にはもちろん魅力を感じるが,少し癖があって暗いけれども,カラヴァッジョよりはやわらかさを感じさせるスルバランの絵に,ある時から魅かれるようになった. しかし,イタリアでも日本でもなかなか作品を見る機会がなく,多くの場合は画集やウェブ上の写真でしか見ていない.
![]() 購入した図録の解説に拠れば,この絵はセビリアのカルメル修道会サン・アルベルト礼拝堂に飾られた大祭壇画のプレデッラ(裾絵)であったろうと推測されている.同じ祭壇画のプレデッラであったろうと考えられる絵がアメリカのセント・ルイス市立美術館とルーマニアの(旧)王室コレクションにあるとのことだ.まことに,絵の運命ははかないが,残っているだけでも,その画家への評価が高かったことを示している. セビリアからグアダルキビル川を下ってカディス湾に出ると,その先は大西洋である.スルバランとその工房の作品が,「新大陸」に輸出されて,カトリック布教の一つの手段となったことが知られているようだ(先日,NHK教育テレビのスペイン語講座で言っていた). 冷静に見比べると,スルバランよりも,やはりムリーリョの方が完成度が高いことは否めないが,それでも私はスルバランの絵が好きだ. ![]() プラド美術館は写真撮影可と聞いていたので,可能なら,紹介されることの少ない作品は,写真を撮って来たいと思っていたが,実際に行ってみると,最近,写真撮影禁止になったということだった. この翌日に訪問したトレドの大聖堂も傑作に満ちていたが,写真撮影厳禁だったので,結果的に,セビリアの大聖堂が,18世紀以前の芸術作品の写真を撮れる最後の機会だったことになる(マドリッドのソフィア王妃芸術センターでは,「ゲルニカ」を除く作品は撮影可だが,19世紀,20世紀の作品が主要なコレクションである).
![]() その後,塔から戻って来た皆さんと一緒にもう一度,彼の案内でサン・アントニオ礼拝堂などを見て,堂内のステンド・グラスや彫刻の写真も多少は撮ることができた.それでも時間が短かった. 焦りながら,説明にも耳を傾けながら,そして暗さと格闘しながらの撮影で,決して満足の行く写真ではないが,今,見返しながら,また案内書やウェブ・ページで勉強しながら反芻していると,様々な感想を抱く.今回のスペイン旅行で,最も達成感が得られたのがセビリアだったと言っても良いくらいだ.
スルバランとムリーリョが好きだと言いながら,スルバランがセビリアを重要な活躍の場とし,ムリーリョはセビリア生まれで,セビリアで亡くなった「地元の画家」であったことを全く知らなかった. さらに,フランシスコさんの話を聞いて,意表をつかれ,そして自分の迂闊さにも気付かされもしたが,私の好みであるかないかは別として,多くの人がスペイン最高の画家と考えるであろうベラスケスもまたセビリアの生まれだった. こうした知識は記憶に残らなかっただけで,すでにどこかで読んだり,聞いたりしていた可能性はある.要は,私の,にわかなる絵画芸術への興味があくまでもイタリアが中心で,スペインの画家にはそれほど関心がなかったということだろう. ベラスケス ディエゴ・ベラスケス(1599-1660) は,首都マドリッドで宮廷画家として活躍し,セビリアどころか,スペインという枠組みをはるかに越えてしまった芸術家だ.しかし,そういう人であっても,生地,生年,環境などは自分で選べない.16世紀が終わろうとするセビリアに生まれたことは,間違いなくベラスケスの人生に大きな意味を持っていたはずだ. たとえば,英語版ウィキペディアなどで,ベラスケスを調べると,彼がセビリアで生まれたことが紹介され,彼の師匠として, フランシスコ・エレーラ(1576-1656) フランシスコ・パチェーコ(1564-1644) が挙げられている.12歳までエレーラのもとで学び,以後はパチェーコのもとで修業したとのことなので,あるいは物心ついての選択もあったかも知れない. パチェーコ門下の兄弟弟子には, アロンソ・カーノ(1601-1667) がいる. ベラスケスの妻フアナはパチェーコの娘だ.もちろん個人の恋愛感情もあったかも知れないが,少なくとも師匠の女婿となるほど見込まれていたというのは,17世紀ならヨーロッパでもあったことかも知れない.16世紀のイタリアでもヴェロネーゼことパオーロ・カリアーリは,長年ヴェローナの芸術を支えた工房の当主アントーニオ・バディーレ3世の娘婿となった.師匠の娘と結婚して,師匠を遥かに凌駕した画家の双璧と言えるだろう. しかし,ヴェロネーゼの義父にくらべて,パチェーコは遥かに重要な画家であった.このことは,後で述べることにする. エレーラはセビリアの生まれ,パチェーコは,現在はカディス県に属し,グアダルキビル川の河口にあるサンルカル・バラメーダの生まれだ.建築家であり彫刻家である父ミゲール・カーノはカスティーリャ・ラ・マンチャの小邑アルモドバル・デル・カンポの出身だが,アロンソ・カーノはグラナダ生まれなので,アンダルシア出身で,活動の中心をセビリアに置いていた画家たちと言えよう. アロンソ・カーノはパチェーコ以前に, フアン・デル・カスティロ(1584-1640) のもとで学んでいる.セビリア生まれで,グラナダでも活躍し,カディスで死んだデル・カスティロの弟子として,アロンソ・カーノ(英語版ウィキペディアにはフアン・デル・カスティロの義兄弟とある)の他に, アントニオ・デル・カスティロ(1616-1668) バロトロメ・エステバン・ムリーリョ(1617-1682) フアン・デ・バルデス=レアル(1622-1690) の名が挙げられている.アントニオはフアンの甥で,その父のアグスティン(1565-1626)もセビリア生まれでコルドバで活躍し,同地で亡くなったようだ.アントニオはコルドバで生まれコルドバで亡くなり,父のアグスティンはセビリアで生まれて,コルドバで亡くなった. ![]() 随分,時代を感じさせるが,やはり,職業として成立していた画家も,地縁,血縁の力と,スポンサーになる教会や,地元の有力者に支えられていたことを思わせる.セビリアを中心とするアンダルシアにはそれだけの経済力と文化的土台があったのだ. ムリーリョ ムリーリョもまたセビリアに生まれた.マドリッドにも出て活躍したが,セビリアに戻り,美術アカデミーを創設し,画業と教育に力を尽くして,マドリッドの宮廷に呼ばれても,セビリアを出ることを肯んじなかった. その彼が64歳にして,同じアンダルシアのカディスのカプチーノ派修道院のために,祭壇画「聖カテリーナの神秘の結婚」その他の絵を描く仕事を請け負って,セビリアを出た.そして完成直前に足場から落ちて重傷を負い,這うようにしてセビリアに帰り,亡くなったとのことだ(Heldane Macfall, A Hisitory of Painting, vol. III: Later Italians and Genius of Spain, pp. 221-222.ただし,スペイン語版ウィキペディアはカディスで死亡したとしている). ムリーリョは,サンタ・クルス教会(聖十字架教会)の,彼が好きだった,ペドロ・デ・カンパーニャの「キリスト降架」の下に葬られた.この教会は後にナポレオンのフランス軍が侵攻して来た時に破壊され,別の場所に再建さた.ムリーリョの埋葬地は,サンタ・クルス公園となり,カテドラルに向かう途中に,フランシスコさんの案内で,私たちもその公園に行き,ムリーリョの埋葬地に一礼することができた. 公園の向かい側の建物の壁にプレートがあった.そこには,ここにかつて教会があり,そこにセビリア出身の傑出した画家バルトロメ・エステバン・ムリーリョの遺灰が託されていたことを永遠に記憶するために,美術アカデミーが石碑を設置した,と記されていた.美術アカデミーは,ムリーリョや,フランシスコ・エレーラ(前述のエレーラの同名の息子で建築家),バルデス=レアルの協力によって開かれたもので,プレートにはムリーリョがアカデミーの創設者であった旨も記されていた.
スルバラン こうした,セビリアを中心とする,美術の流れの中に,スルバランはどこに位置づけられるだろうか.一連の英語版ウィキペディアの記事の中から,ムリーリョがスルバランの絵を見て影響を受けたということの他に,アントニオ・デル・カスティロが,「父の死後,1631年から34年の間,無名の画家イグナシオ・アエド・カルデロンに学んだ後,セビリアでフランシスコ・スルバランと,叔父のフアン・デル・カスティロの教えを受けた」とある. フランシスコ・スルバラン(1598-1664) は,少し西に行くとポルトガル国境という,現在はエストレマドゥラ州バダホス県に属しているフエンテ・デ・カントスに生まれたので,アンダルシア人ではない. エストレマドゥラ州の州都は古代ローマに栄え,現在もローマ時代の遺跡を多く残しているメリダなので,それも興味深いが,フエンテ・デ・カントスは西に行ってポルトガルに到るよりは,南に行ってアンダルシア州に行く方が遥かに近いような位置関係にある. 服飾小物商人だった父が,息子の画才を見抜いて,セビリアに送り,今は無名の画家ベドロ・ディアス・ビリャヌエーバに弟子入りさせたのが,1614年である.スルバランの絵は随分,古風に思えるが,この年代を考えると,イタリアでは既にカラヴァッジョの死(1610年)後である. カラヴァッジョの死後に本格的に絵画を学び始めたスルバランが,「スペインのカラヴァッジョ」の異名をとることになるのは全く意外なことだ. 明らかにカラヴァッジョの影響を受けていて,カラヴァッジェスキの一人と考えられるリベーラは1591年の生まれで,スルバランより僅か7歳しか年長ではないが,カラヴァッジョの存命中に修業時代だったであろう.それなのに「スペインのカラヴァッジョ」と言われなかったのは,ナポリ王国がスペインに支配されていた縁で,イタリアに定住し,そこで死んだからだろうか. 以前はリベーラも,スルバランも私にとっては「スペインの画家」だったが,たった一度だけでもスペインを旅して来た今は,リベーラは統一スペイン王国の支配下とは言え,アラゴン王権下の同君連バレンシア王国から出た画家であり,スルバランは統一スペイン王国支配下の辺境の小村に生まれ,アンダルシアの大都市セビリアに活動拠点を置いた画家である. スルバランに影響を与えた芸術家として,カラヴァッジョ,フアン・サンチェス・コタン(1560-1627),彫刻家フアン・マルティネス・モンタニェスの名が挙げられている. ![]() 彼のキアーロ・スクーロによる画法は,スルバランたちに影響を与えたとされる.セビリアで静物画を描いたフェリペ・ラミレスもコタンの影響を受けたということなので,アンダルシアの画風に大きな影響力を持った画家と言えるか知れない. ![]() スペイン語版ウィキペディアに拠れば,彼はセビリアで亡くなっているので,セビリアの芸術家である.カテドラルにもキリスト磔刑像がある.息子のアロンソも彫刻家になり,弟子の中からも,コルドバで生まれ,セビリアで亡くなったフアン・デ・メサのような優れた芸術家も出た.
![]() セビリアの大聖堂には複数のスルバランの作品があるが,その中で私たちは少なくとも,サン・ペドロ礼拝堂の「無原罪の御宿り」,聖具室の「アビラの聖テレサ」,聖杯室の「聖母子」をこの目で見て,写りは悪いが写真にも収めることができた.
聖具室 聖具室には,スルバランの「アビラの聖テレサ」,ムリーリョの「聖イシドルス」,「聖レアンデル」など多くの絵があったし,ムリーリョが好きだったというサンタ・クルス教会の作品と同じものではないようだが(スペイン語版ウィキペディアに拠れば,サンタ・マリア・デ・グラシア修道院のルイス・フェルナンデス礼拝堂のために描かれたらしい),ペドロ・デ・カンパーニャの「キリスト降架」もあった. ![]() フランシスコ・バイユー(1734-1795) (この表記はサンチェス・カントン,神吉敬三訳『ゴヤ論』美術出版社,1972年に拠る.このフランス語風の綴りをスペイン語で何と発音するのかわからなかったが,スペイン美術の専門家が訳した本の表記なので,間違いないだろう) の作品(大聖堂の紹介HP)のようだ.1788年の「ピエタ」(ピエダー)である.若い聖母がまるで,ヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂のミケランジェロの彫刻のようだが,芸術性はともかく,きれいでわかりやすい.
さらにこの作者は,名前がフランス風に思えるが,サラゴサ出身のスペインの画家だ.サラゴサは今回行っていないが,スペイン統一と「再征服」に大きな役割を果たしたアラゴン王国の首都で,アウグストゥスが建設した古代ローマ都市カエサルアウグスタが,イスラム支配時代を経てサラゴサとなったようだ.タイファ(イスラム豪族領)だったこともあり,北スペインとしては比較的遅くまでイスラムの影響を受けた都市だ. サラゴサ出身の有名な画家がいる. フランシスコ・ゴヤ(1746-1828) だ.2人のフランシスコは12歳違うので,若干の世代差があり,バイユーは新古典主義,ゴヤはロマン主義の画家に分類されることもあるようだ(英語版ウィキペディア). ところが,この2人は義兄弟でもある.バイユーの妹ホセファとゴヤが結婚したからだ.バイユーの兄弟ラモンとマヌエルも画家ということなので,サラゴサの画家一族とゴヤは姻戚関係を結んだことになる. ゴヤが評価されたのは,彼の天才ゆえであることは間違いないだろうが,義兄フランシスコ・バイユーが王立芸術アカデミー教授を務めるほどの画家であったことも彼が世に出る契機の一つであったかも知れない.時代は,まだ前近代であったのだ. しかし,そうした瑣末な連想を吹き飛ばすような,爽快な作品を聖杯室で見ることができた. 聖杯室 聖具室の隣の聖杯室には多くの興味深い絵があるが,その中でゴヤの「聖フスタと聖ルフィナ」は最高傑作と言って良いだろう. 私はゴヤの芸術に開眼していない.今回の旅行で,後にプラドで,何点かのゴヤの有名な作品を見たが,正直,どこが傑作なのか,未だに理解できなかった.しかし,プラドでも,タピスリーの下絵として描いたとされる作品など若い頃の作品を多く見たことによって,やはりこの画家はすごいのではないかと思うに至った. その出発点は,この「聖フスタと聖ルフィナ」である.ゴヤの芸術の中でどのような位置を占めているのかは,わからない.わかりやすく綺麗だという意味では,近代絵画として物足りないと思う人が多いのは容易に想像がつくが,はっきりと私の好みに合致する作品で,私はこの絵が好きだ.何度でも見たい.いつまででも見ていたい.
この絵の写真は幾つかの案内書に見られ,確かに写真で見ると少し感動が薄らぐが,暗い教会の中で見ると味わいが増すように思える. このセビリアの殉教(手に棕櫚)姉妹聖人(3世紀)は,製陶を業としていたと言うので,陶器を手に持っている.ライオンがなついているのは,多分,殉教とそれにまつわる奇跡にまつわる伝説に関係すると想像する. アメリカのダラスにあるメドウズ美術館に,ムリーリョが描いた,この聖人たちの一対の作品があるそうだ(神吉敬三『巨匠たちのスペイン』p.157に写真,p.158に解説).美しい. 古書店で買った,1970年に東京国立博物館と京都市博物館で行なわれた『ゴヤ グレコ ベラスケスを中心とする スペイン美術展』の図録に拠れば,セビリアの県立美術館に1枚にこの2人の聖人を描いた,やはりムリーリョの作品があるようだ.1970年に日本に来たといっても,私は岩手県で小学生だったので,当然見ることはできなかった.大聖堂のステンドグラスにもこの2人の聖人は描かれていた.
![]() もしデ・カストロの作品であれば,この画家は生没年は特定されていないが,終期ゴシック様式もしくは,スペイン・フランドル様式の特徴が見られるとのことだ.
前述したペドロ・デ・カンパーニャは,通称はスペイン風だが,1502年にブリュッセルで生まれたとのことなので,フランドルがハプスブルク家の世襲領地であった縁で,スペインにやってきた北方の画家と思われるが,それ以前の15世紀にもスペイン絵画がフランドルの影響を受けていたということであろうか.ともかく,エル・グレコ以前のスペインの古い絵にも出会うことができた. スペイン語版ウィキペディアの記事に,この画家の作品として,大聖堂の「恩寵の聖母」(ラ・ビルヘン・デ・グラシア)というのがあり,これをリンクで辿っていくと,スペイン語の美術作品紹介ページに,上の絵と同じ写真が出ていた.絵の題目については,諸説あるが,デ・カストロの作品というのはまず信じて良いのであろう. このページの解説に拠れば,向かって右側の聖人はやはりヒエロニュモス(サン・ヘロニモ)だが,左側は私の予想とは違ってペテロ(サン・ペドロ)とのことである.確かに,写りの良い写真で見ると,胸の下で,右手からに2つの「鍵」が下がっているように見える. この画家の作品は,県立美術館(「修道院長聖アントニウスと聖クリストフォロス」),国立カタルーニャ美術館(「授乳の聖母」)で見られるとのことだ.前者が美しい.1478年にセビリアのアルカサルで活動した記録があるとのことなので,イタリアではもうミケランジェロ(1475年生まれ)が生まれていた時代だ. この絵の向かって左側にはスルバランの「聖母子」,右側にはペドロ・フェルナンデス・デ・グァダルーペの「教皇の姿の玉座の聖ペテロ」がある.後者はやはり北方風の古風な絵だが1528年の作品なので,イタリアならマニエリスム絵画が流行し始める時代だろう. その他に,この聖杯室には15世紀の絵としては,フアン・サンチェス・デ・サン・ロマンの「ゴルゴタへの道」,フアン・ヌニェスの「聖ウィンケンティウスと大天使ミカエルのいるピエタ」があったようである.また,アレホ・フェルナンデスの一連の絵(「ヨアヒムとアンナの抱擁」,「聖母の誕生」,「三王礼拝」,「神殿奉献」)が16世紀の作品で,グレコ以前のスペイン芸術ということになる. アレホ・フェルナンデスの作品はアルカサルの礼拝堂(「慈悲の聖母」の祭壇画)と県立美術館(「受胎告知」)などの写真がウィキペディアに紹介されているが,どちらも古くさいが美しい絵だと思う.いつの日か見てみたい. グレコの弟子ルイス・トリスタンの絵(「三位一体」)もあったようだ.大聖堂の紹介ページでは,「三位一体」という作品がサン・アントニオ礼拝堂にあるとしており,写真も載っている.1624年の作品とされているので,ウィキペディアで聖杯室にあるとしている作品と同じものかも知れない. この「三位一体」は完全にグレコ風だが,このトレドの画家は17世紀まで生きたので,カラヴァッジョ風の絵も描いたようだ.聖杯室も,サン・アントニオ礼拝堂も見ているが,この「三位一体」にはまったく気がつかなかった. スルバランの「磔刑のキリスト」,「洗礼者ヨハネ」,バルデス=レアルの「ラザロの蘇生」もあったようだが,見ていない.いずれにせよ,この聖杯室は,スペイン絵画に興味があるのであれば,必見であろう.できれば,ここだけで2時間くらいは見学の時間がほしい. ムリーリョの作品 聖具室をはさんで,聖杯室の反対側には参事会室がある.そこにある絵画は,ムリーリョが自分の娘をモデルにして描いたという美しい「無原罪の御宿り」(上から3番目の写真)だけだが,ここの床装飾もまた美しい.「ミゲル・アンヘル」がデザインしたものを参考にしていると説明されている.このスペイン語の「天使ミカエル」をイタリア語読みするとミケランジェロになる.カンピドリオの丘の広場のためにに,ミケランジェロがデザインしたパターンが手本になっているようである. ムリーリョの作品で,この教会で最も大きな作品は,サン・アントニオ礼拝堂の「聖アントニウスの幻視」であろう.描かれているのは,ポルトガル出身だが,イタリアのパドヴァで活躍したので,「パドヴァのサンタントーニオ」と通称されるフランチェスコ会の聖人だ.幼児イエスの幻視を見たと言われており,諸教会でよく見られる新しい造形の彫像で,幼児を抱えて,百合を持っている修道士姿の聖人はこの人である. 英語版ウィキペディアの大聖堂の説明に,「1874年のこの絵の聖人の部分が切り取られて盗まれたが,翌年アメリカでスペイン移民の男がムリーリョの絵の部分だと言って,ニューヨークの美術館に売ろうとし,美術館はこの男に250ドルで購入すると伝える一方で,スペイン領事館に通報した」とある.ほぼ同趣旨の説明をフランシスコさんがされ,Yさんが通訳してくれた.なるほど痛々しい傷が肉眼でも確認できる.
大きくて美しい絵だ.幼児のイエスと若い聖母を描かせたら,この人の右に出る者はないと言い切ってしまいたいほどの画家だ.時代も画風も違うのに「スペインのラファエロ」と言われるのがわかるような気がする. しかし,こうして,わずか数点の作品を見ただけでも,スルバランはカラヴァッジョではなくスルバランだし,ムリーリョはラファエロではなくムリーリョだと思うようになる.スペイン絵画はイタリア絵画の亜流ではなく,確かに影響は受けているが,間違いなく「スペイン絵画」だ.その共通性の中に,計り知れない多様性を秘めている. セビリアの大聖堂は,私に多くのことを教えてくれたが,特にスペインの絵画芸術について考えさせてくれた.実は,彫刻や建築も興味深いわけだが,それについては,今回は考える余裕がなかった.セビリアの大聖堂は深い.何度でも行きたい.
![]() スペイン語版ウィキペディアにある,聖杯室の作品リストには疑問な点もあるが,今回大いに参考にさせてもらった.最も有益な情報源の一つだった.そこに,マッティア・プレーティの「守護天使」(アンヘル・デ・グァルダ)という記述がある.1660年の作品とされている.どうして,ここにプレーティの作品があるのか,今のところ情報はないが,今まで,図録やウェブ上の写真でかなりの作品を見た経験から言うと,多分,ほぼ間違いなくプレーティの作品だと思う.
プラド美術館に「栄光のキリスト」(絵柄を見ると,別の題名も考えられるが,小型版『プラド美術館コレクション』洋販,の記述に従う)があることは,事前の予習で知っており,プラドは写真を撮れると聞いていたので,楽しみにしていたが,そもそも,プラドでは,とてもプレーティの絵を見る余裕がなかったし,写真撮影も禁止になっていた. プレーティの作品を何点か今までに見ているが,写真が撮れたのはローマのサンタンドレーア・デッレ・ヴァッレ聖堂で見た大きな絵だけで,これは全くカラヴァッジョ風の絵ではない.カラヴァッジェスキの一人としてのプレーティの絵で,初めて写真の撮れた作品ということになる. 作品としても,まずまずだと思う.ゴヤの絵があった部屋に数点,カラヴァッジェスキ風の絵があったので,3点写真を撮って来たが,他は今のところ,誰の何と言う作品か確認できていない.プレーティの絵も,もっとじっくり見てくれば良かったとも思うが,あの状況では期待した以上の成果と言えよう.やはり,プレーティには今後も関心を持ち続けたい. スペイン語版ウィキペディアの「セビリア大聖堂」に拠って得られた知識で,実際には見ていないが,堂内のサンティアゴ礼拝堂にはアンドレーア・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタによる「聖母子」があったようだ.フィレンツェの芸術家だ.15世紀の芸術家だから,スペインの有名芸術家たちよりも古い.次回,セビリアに行くときには,是非この目で見たい. |
大聖堂とヒラルダの塔 トリウンフォ広場にて |
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