フィレンツェだより番外篇
2010年8月29日



 




グラナダからコスタ・デル・ソルへ向かう
バスの車窓から



§スペインの旅 - その7- コスタ・デル・ソル

8月12日,ヘネラリーフェ庭園を含む,アルハンブラ宮殿の見学を午前中に終えると,バスは昼前に,コスタ・デル・ソル(太陽海岸)を目指してグラナダを出発した.


 グラナダのカテドラル,カトリック両王の眠る「王室礼拝堂」(カピラ・レアル)などは,またいつかの楽しみに残された.


グラナダに住んだ人々
 北アフリカから来たかも知れない先住民である古代イベリア人と,ピレネー山脈を越えてイベリア半島にやって来たケルト人が融合し,後世イベロ・ケルト人と言われる人々が,後にグラナダとなる地に定住した.

 グラナダもまた,フェニキア人やギリシア人と接触を持った.ギリシア人はエリビュルゲーと呼び,その後にこの地を支配したローマ人はイッリベリスと名づけたらしい.

 西ゴート王国に組み込まれたが,一時は東ローマ帝国の支配も受けた.中世のユダヤ人たちはこの町を古代風にエルビラとも呼んでいたが,ガルナタと呼ばれた記録もあるそうだ.

 グラナダの本格的繁栄は,イスラム教徒支配下の中世からと考えて良いだろう.コルドバにまだ後ウマイヤ朝のカリフがいた(最後のヒシャム3世は1036年までカリフだった)頃から,11世紀にグラナダを中心とする独立政権(タイファ)が,北アフリカのジリド王朝の影響下に成立した.

 他のアンダルシア諸都市と同じように,その後北アフリカのムラービト朝やムアッヒド朝の支配も受けた(1090-1238年)が,13世紀に最後のイスラム王朝ナスル朝のグラナダ王国が建国され,グラナダはこの地方のイスラム文化の中心となった.

 「再征服」後,破壊されたモスクの跡に,カテドラルの建設が始まったのは16世紀前半(1518年以降)で,ヨーロッパの大聖堂としては新しい.複数の建築家が関わったが,1667年にバロックの芸術家アロンソ・カーノが改変を加えて,現在の姿になった.堂内に,やはりカーノの手になる絵画作品もあるようだ.是非,いつの日か拝観したい.

イスラム教徒たちは,宗教に比較的寛容で,アンダルシアにはキリスト教だけでなく,ユダヤ人も多く住んだ.


 ユダヤ人がスペインに来た歴史は古い.西ゴート王国はユダヤ人を迫害したが,イスラム王朝は,ユダヤ人を寛大に扱った.

 ドイツから東欧に移住したユダヤ人をアシュケナジーム,中世のスペインを出自とするユダヤ人たちをセファラディームと言うようだが,それだけ,中世のイベリア半島にはユダヤ人が多くいたということだろう.

 17世紀オランダの哲学者スピノザも,イベリア半島から移住したユダヤ人の子孫と言われる.

 「再征服」後,強大な王権を持つようになった「スペイン」はイスラム教徒だけでなく,ユダヤ人も領土から追放しようとした.国内に留まる者には改宗を強要した.関連する幾つかの用語を整理したい.『小学館 西和辞典』に拠ると,

モサラベ mozarabe 8世紀から15世紀末までのイスラム教徒支配下,キリスト教信仰を保ったスペインのスペインのキリスト教徒
ムデハル mudejar 中世スペインで,改宗することなくキリスト教王国に定住しその支配に従ったイスラム教徒
モリスコ morisco 特にレコンキスタ(711-1492)以後,キリスト教に改宗してスペインに残留したモーロ人
マラーノ marrano (ユダヤ教から)カトリックへの偽装改宗者,隠れユダヤ教徒
フダイサンテ judaizante キリスト教徒を装ったユダヤ教徒
コンベルソ converso 特にイスラム教・ユダヤ教からキリスト教への改宗者
コンフェーソ confeso (キリスト教に)改宗したユダヤ人

などが,私たちになじみのない,民族と宗教に関係する用語だが,以後,このうちコンベルソに関しては,この旅行報告では「(キリスト教への)改宗ユダヤ人」として用いたい.

 モサラベとムデハルに関しては,美術や建築の様式に関して用いられることもあり,特に後者に関しては,その芸術的水準の高さと,西欧世界の視点からの異国情緒によって,どちらかと言えば肯定的な意味合いが感じられるが,モリスコとマラーノに関しては,完全に侮蔑的に見え,こうした語を用いること自体,あまり好ましいこととは思われない.

 今後,特にモサラベ,ムデハル,コンベルソに関しては既知の用語として,文中で用いていきたい.これらの語は,私たちのようにスペインの歴史や芸術になじみがない人間にとって,それを理解するために,学んでいかなければならない要素と考えられる.


コスタ・デル・ソルの町ネルハ
 グラナダを出て,コスタ・デル・ソルの町ネルハを目指した.グラナダや,後に訪れるセビリア,コルドバなどの内陸部の大都市は別だが,海が近い丘の上の町には,白い家が立ち並んでいる.

写真:
アンダルシアの,
とある町
丘を埋めつくす
白い家
(バスの車窓から)


 『ワールド・ガイド』には「行ってみたい白い村ベスト4」というページがあり,カサレス,フリヒリアーナ,モンテフリオ,サロブレーニャが挙げられている.『地球の歩き方』には,各拠点都市から行ける「白い村」をそれぞれ紹介し,グラナダからはアルプハラ地方,セビリアからはカルモナ,ヘレス・デ・ラ・フロンテーラからはアルゴス・デ・ラ・フロンテーラ,フエンヒローラからはミハス,エステポナからはカサレス,ネルハからはフリヒリアーナ,ロンダからはセテニル,グラサレマ,サアラ・デ・ラ・シエラと8つの村と1つの地方が紹介されている.

 日本人にとって「白い村」は魅力的なのだと思う.旅行会社からコース,日程の変更の勧誘があった時,「今度のコースはミハスに泊まれますよ」と電話の向こうの社員は強調したようだ.

 私は,30年前に,ギリシアのミコノス島へ行き,「白い街並み」を見たことがある.見られるなら見ても良いというほどの興味しかなかったが,スペインにもこれほど「白い村」があることを知らなかったし,酷暑に見舞われる地方にはそれなりに合理的であることは察しがつくので,「白い村」ミハスも観光して楽しもうと思った.



 泊まるのはミハスだが,途中,海岸の町ネルハで魚料理の昼食を楽しむことになっていた.着いてみると,高層の集合住宅や,貸し別荘のような一戸建てが林立する一大リゾート地に思えた.人口が2万人をちょっと越えただけの町とは思われないほど,建物も人も多かった.

 ネルハ全体を「白い村」というには,見たところ大きな町だし,バスの中から見た印象は,決して白いとは思わなかったが,街路に白い建物が並ぶ通りもあり,この通りの先に,昼食をとったバルコン・デ・エウロパ(ヨーロッパのバルコニー)というホテルのレストランがあった.

写真:
コスタ・デル・ソルの街
ネルハ


 ネルハの歴史は,思ったよりも古く,『ワールド・ガイド』にも『地球の歩き方』にも紹介されているが,1959年に発見された「ネルハの洞窟」(クエバ・デ・ネルハ)は,鍾乳洞に3万年くらい前まで遡る可能性のある,人が暮らした痕跡があるとのことである.もちろん,今回は見ていない.

 古代ローマ人はデトゥンダという居住地を作り,イスラム教徒は「豊かな泉」を意味するナリクサ(英語版ウィキペディア)という名前をつけ,これがネルハという地名の起源となった.

 スペイン・ブルボン朝の王アルフォンソ12世(在位1875-1885)が,この地に来て,その風光明媚さに感銘して,「ここはヨーロッパのバルコニーだ」と言ったという口碑がある.王が海を眺めたとされる場所に,バルコニー(バルコン)が造られており,その道を挟んだ向かいに,昼食をとったホテルがあった.

 「バルコニー」からの眺めも,魚料理を食べたホテルのテラスからの眺めも,もうすぐアフリカという地中海の景観だった.

写真:
レストランのテラスから
ネルハ


 大都市では,ヴァカンスで人が少なくなる時期に,この町は人で溢れかえるのだと思う.でなければ,人口2万人強(私の故郷で,過疎地帯とされる岩手県の陸前高田市も海水浴場があるが,人口はネルハよりも多く,それでいながら,夏でもこれほどの人で溢れることはない)の町にこれほど人がいるわけがない.



 自由時間があったので,「ヨーロッパのバルコニー」という名の展望台から海を眺め,街を歩いたが,ともかく暑い.気温が45度にもなると,日本より湿気が少なく日蔭は涼しいと言われていても,体温調節機能が壊れるような危機感を覚えるほど,こたえる.

 それに海辺は思った以上に湿度を含んだ風が吹く.緯度の高いヨーロッパであっても,スペインや南イタリアが暑熱に襲われるのは,サハラ砂漠から吹いて,地中海の湿気を運ぶシロッコという南風のせいだと言われる.

暑い.本当に暑かった.さらに日の光も強烈にまぶしいので,確かにこの地方の家には白い壁が似合うように思える.


 リゾート地というイメージしかなかったので,ここに教会があることは全く念頭になかった.偶然それを見つけたとき,「ああ,教会だ」と思って,ファサードのバラ窓の下に,ヴァティカン美術館にあるラファエロの「キリストの変容」を模したタイル装飾を眺めながら,写真を撮った.

 後で読んだ『地球の歩き方』と『ワールド・ガイド』には,「17世紀に建造されたバロック・ムデハル様式の教会」とあるが,それほど大層なものとはどうしても思えない.今のところ,それ以上の情報はない.

写真:
サルバドール教会
やはり「白い」


 スペイン語版ウィキペディアに,この教会に関して情報を短く整理してあるが,『地球の歩き方』と『ワールド・ガイド』とほとんど同じだ.ただ,堂内にはフランシスコ・エルナンデス(北アフリカのスペイン領メリーリャ出身の20世紀の画家)の壁画がある,と付け加えられている.さらに,スペイン語版ウィキペディアが典拠としたページに拠ると,絵柄は「ネルハの浜辺での受胎告知」で,さらにコルドバ出身のアウレリオ・テーノのブロンズ製キリスト像があるらしい.

 いずれにしても,この教会は午後1時までは開いているらしいが,その時はホテルで食事中で,ファサードの前に立った時は扉が閉まっていたので,堂内の拝観はしていない.

 どこにあるのかわからないが,「苦悩の聖母の隠修士の礼拝堂」(エルミタ・ヌエストラ・シニョーラ・デ・ラス・アングスティアス)の丸天井に,アロンソ・カーノ派の画家に帰せられるフレスコ画があるとのことだが,これも多分,生涯見る機会はないだろうなと思う.

 ネルハ,好感の持てるリゾート地だったが,ともかく暑かった.


人気の「白い村」ミハス
 ネルハが属しているマラガ県の県庁所在地で大都市マラガ(ピカソの故郷)近郊から,内陸に入り,西に進むと同じマラガ県のミハススペイン語版ウィキペディアは写真が豊富)がある.

 日本人だけでなく,観光客に人気のある小さなきれいな町で,事前の予習では,自由時間に幾つかの見どころをまわる予定だった.

 しかし,ホテル・ミハスに到着した夕方の段階で,まだ40度はあると思われる暑さだったので,翌日以降まだ続く,盛りだくさんな観光に備えて,部屋で休憩をとる事にした.

 冷房の利きが悪くて,部屋もそれほど涼しくはならなかったが,天井に古風な扇風機がついていて,その風で,ささやかな冷気を部屋に循環させながら,ともかくベッドに横になった.そんな訳で,「白い村」ミハスの観光は,チャンスがあれば,次回ということになった.





ホテル・ミハスの前で
セビリアに向かう朝