フィレンツェだより番外篇
2009年10月22日



 




参事会教会洗礼堂のマゾリーノのフレスコ画
「洗礼者ヨハネの物語」より
ヘロデ王の宴の場面



§ミラノを歩く - その16 (カスティリオーネ・オローナ篇)

カスティリオーネ・オローナに行きたいと初めて思ったのは,1年間の特別研究期間をもらって,フィレンツェに滞在していた夏から秋にかけての頃だったと記憶する.


 正確には思い出せないが,インターネットで何かを調べていて,多分マゾリーノに関する情報を集めていた以外には考えにくいけれども,カスティリオーネ・オローナというコムーネ(自治体)のホームページに行き当たった.

 帰国後,昔買って,実家に置いてあった本,

 『愛蔵普及版 世界美術全集3 マザッチオ/マゾリーノ/ピエロ・デルラ・フランチェスカ』集英社,1979

を読んだお陰で,トスカーナのルネサンス絵画を開いたマザッチョと同郷で,年上の共作者として知られるマゾリーノ・ダ・パニカーレ(英語版イタリア語版ウィキペディア)が北ロンバルディアのこの小さな町に残したフレスコ画について,今は有益な情報を持っている.

 しかし,当時は地図で見るとすぐ先はスイスに思えるような,そんな北イタリアの名前も知らない町にトスカーナ芸術の美しい花がずっと咲き続けていたことなど,まるでおとぎ話のように思われた.

 コムーネのホームページにはアクセスのための地図が載っていたが,高速道路や空港からどのくらいの距離かというような大雑把なもので,公共交通しか移動手段のない私にはまったく役にたたないものだった.

 いつの日か,北イタリアの小さな町で,おとぎ話の幻想世界に浸る日を夢見ながら帰国した.



 最近,できればヴィジュアルな資料がほしいと思って,神田や早稲田の古本屋街で美術全集等の端本で自分の関心のあるものを買っているが,70年代に出された企画は,かなり高水準で,写真もまずまずだ.

 後に高名な美術史研究者となった人たちが若い頃した翻訳には,こなれない訳文も見られるが,それでも日本語で情報を得られて,写真もなかなか綺麗という本をたくさん出した70年代の日本に興味を覚える.

 その頃,小学生,中学生,高校生で,岩手県にいた私には縁が薄かったわけだが,何十年も前からイタリア美術に関する詳細な知識が,アクセスが容易な形で町の本屋や図書館にあったことに本当に驚く.

 専門家だけではなく多くの日本人が,私が50を前にしてようやく巡りあえたマゾリーノのことをずっと昔から知っていたのだ.日本人の美術愛好と西欧文化理解は侮れないほど深いものに思える.

 上記の本によって,マゾリーノの出身地パニカーレが,フィレンツェとアレッツォの間の小さな町サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノの一角にあることも知った.それまで3度もサン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノに行ったのに,マゾリーノの故郷パニカーレは,ウンブリアのペルージャ県パニカーレだと思い続けていた.

 今は,神田の古本屋をまわると,幸運な巡り合せがあれば,

 Paul Joannides, Masaccio and Masolino: A Complete Catalogue, London: Phaidon Press, 1993

のような本格的な本も手に入る.大判で488ページの大冊だ.カスティリオーネ・オローナのフレスコ画に関しても,大きなカラー写真付きで35ページに渡って紹介して,さらに別のページに作品データがある.

 日本にはルネサンス絵画の情報は,“探せば”という条件付きだが,たくさんある.そうした,好条件のもと,簡単に多少の情報が得られたわけだが,一つだけ,実物を見るためには,特にフレスコ画の場合は,やはり現地に行かないといけない.



 今回,ミラノから現地へ行くのに,果たしてどのような手段があるかを検討した

 ウェブページに,大学の先生の,ミラノでご研究された時に美術史の専門家に勧められての訪問体験談があった.ミラノのカドルナ駅から私鉄のノルド(北)鉄道で,ヴェネゴーノ・スペリオーレという駅まで行き,そこにはバスもタクシーもないので,約2キロの道のりを歩いた,とあった.「先達はあらまほしきものなり」で,方針は決まった.

 今時は便利なもので,グーグルの地図検索で,Castiglione Olonaを検索すると,詳細な航空写真と地図を見ることができ,イタリアでは非常に重要な通り名が何と日本語で書いているページに行き当たる.

 この航空写真をできるだけ拡大したものを,ヴェネゴーノ・スペリオーレからカスティリオーネ・オローナまで数枚に分けて印刷して携行した.さらに,概念図のようなものではあるが,地図も印刷した.これは実際に有用だったし,何よりも,行く前に心理的に楽になって,私にとって「幻の町」だったカスティリオーネ・オローナが現実的な存在感を持つようになった.

 電車の路線,経路,時刻表はノルド鉄道のHPで確認した.便利な世の中になったものだ.

 こうして万全の準備をしたと思ったが,実際にミラノに行ってみると,最初の3日間は雨に祟られ,しかも見るべきものが多く,体力的に辛かったので,カスティリオーネ・オローナに遠出することには,なお大きな心理的障壁があった.しかし,熟慮断行の妻の行動力のおかげで,実現することになった.



 4日目の18日,午前中に中心地区北部の3つの教会を拝観をした後,空の様子を見て,午後も雨は降らないと確信が持てたので決断した.

 ウェブページによると,目当ての参事会(コッレジャータ)教会は午後3時に昼休みが終わるということだったので,それにあわせてノルド鉄道の始発駅のあるカドルナ駅に向かい,往復切符を購入して,ヴァレーゼ行きの各駅停車に乗った.

 電車は最初は予定通りだったが,若干遅れが出始めた頃,一つ手前のヴェネゴーノ・インフェリオーレ駅(日本風に言うと「下」ヴェネゴーノか)に着いた.ここで間違えてはいけないと,少し緊張して,目的のヴェネゴーノ・スペリオーレ駅(「上」ヴェネゴーノ)で降りた.

 本当にバスもタクシーも気配すらない小さな駅だった.

 そこから,クリストフォロ・コロンボ(コロンブス)通り,フラテッリ・ロッセッリ通りをひたすら西進し,地図上では大きな幹線道路に見えるチェーザレ・バッティスティ通りと交差して,アレッサンドロ・ヴォルタ通りをさらに西進すると,ロータリーにぶつかった.このロータリーも航空写真にはっきり写っている.

 ロータリーからジャーコモ・マッテオッティ通りをさらに西進すると,ローマ通りという道があって,その途中から町の中に入れるはずだった.実際,城門があったので,そこから先がカスティリオーネ・オローナの旧市街であるのは間違いなかった.

写真:
旧市街への入口である
城門


 目指す参事会教会のある丘の方へ路地があり,カヴール通りという,イタリア統一に貢献した大政治家の姓を冠した立派な名前がついていたが,この道に関する情報は地図にも航空写真にもなかったので,臨機応変の対応が苦手な私はパニックに陥ってしまった.

 しかし,ここも冷静沈着な妻が,「短い通りだから,名前を載せるのを省略しただけで,目指す通りはその先にあるに違いない」と判断し,その通りをくぐり抜けたら広場に出た.これも統一の英雄の姓を冠したガリバルディ広場という名前だった.

 この広場のはずれには,サンティッシモ・コルポ・ディ・クリスト教会があった.ファサードの扉の左右に大きな大修道院長アントニウスとクリストフォロスの石像があって目を引く.ブルネレスキもしくは,その影響を受けた人の設計という記述も案内書にはあるし,内部にもそれなりに興味深い芸術作品があるようだが,先を急いでいたので,外観を写真に収めて通り過ぎた.

写真:
サンティッシモ・コルボ・
ディ・クリスト教会


 ここまで来たら,正しい通りを辿っていることは明らかだった.もう迷う必要もなく,丘に登る道を行き,秋の気配が漂っている美しい光景の中,参事会教会の前に立つことができた.


参事会教会
 私たちが勝手にロンバルディア風と思っているファサードの扉は閉まっていたが,よく見ると教会の向かって左側に新しい建物の入口があり,教会と洗礼堂を拝観するための券売受付があった.

写真:
参事会教会


 受付には上品な年配の女性がいて,「丁度今,ガイドが数人の拝観者を案内しています.イタリア語ですが,良かったら一緒にどうぞ」と言ってくれた.「写真を撮っても良いですか」と聞いてみたら,「フラッシュ無しなら」(センツァ・フラッシュ)という嬉しい答えだった.

 堂内に入ると,年配の男性が,私たちより少し年嵩の3人の男女に熱弁をふるっている最中だった.本堂も洗礼堂もどうやら,このガイドの方の案内によって見られるということのようだった.

 熱意溢れる案内で,拝観者も熱心に聴いていたが,どうもかなり時間を要するようだったので,別行動で堂内の拝観をさせてもらい,時々案内を拝聴した.

写真:
後陣天井のフレスコ画


 後陣のフレスコ画は明らかに私たちがよく知っているマゾリーノの絵だった.美しく,上品で,繊細な「聖母の物語」だ.下部には「聖ステパノの物語」,「聖ラウレンティウスの物語」もあるようだった.

 所々,ガイドの説明に耳を傾けたおかげで,パオーロ・スキアーヴォ(イタリア語版ウィキペディア)とシエナのヴェッキエッタ(英語版イタリア語版ウィキペディア)の手が入っていることがわかった.

 祭壇には,今は外されているが,本来はネーリ・ディ・ビッチの方形祭壇画「キリスト磔刑」があったらしいので,この町がまさに「ロンバルディアのトスカーナ」と言われるのが良くわかったように思えた.

 この教会は正式には,「祝福された聖母,聖ステパノ,聖ラウレンティウス参事会教会」(コッレジャータ・デッラ・ベアータ・ヴェルジーネ・エ・デイ・サンティ・ステーファノ・エ・ロレンツォ)というらしいが,そのことは,中央祭壇左側の礼拝堂の,彩色木彫の多翼祭壇彫刻でもわかる.

写真:
彩色多翼祭壇彫刻
聖母子の左右に,若い助祭
姿のラウレンティウスと
ステパノがいる.


 15世紀ヴェネツィア派の巨匠アントーニオ・ヴィヴァリーニの多翼祭壇画を手本にした作品で,年代の説明はないが,アントニーノ・ダ・ヴェネーツィアという彫刻家に帰せられた作品とのことだが,これ以上の情報はない.綺麗にまとまった,古雅で上品で見応えのある祭壇彫刻だと私は思う.マゾリーノのフレスコ画の傍にあるのにふさわしい.


枢機卿ブランダ・カスティリオーニ
 この礼拝堂と中央祭壇および後陣を仕切る壁の部分に立派な石棺がある.枢機卿ブランダ・カスティリオーニの墓である.

 この人物には幾つかの表記があるようだが,教会の受付で購入した,

Silvano Colombo, Conoscere Castiglione Olona, Varese: Edizioni Lativa, 1994

の初出の表記に従う.

 ガリバルディ通りから教会のある丘を登る道は,カルディナール・カスティリオーニ・ブランダ通りとある.イタリア語版ウィキペディアにもブランダ・カスティリオーニとある.

 そもそもカスティリオーネ・オローナという町の名称は,カステッロ(城)が語源と思われ,最終的にそうであろうが,直接には中世にロンバルディア北方に蟠居した名門氏族カスティリオーニ家の領地となったことに由来するものらしい.枢機卿ブランダもこの一族であり,この氏族のマントヴァの支流からルネサンスを代表する思想家で著作『宮廷人』がヨーロッパ全域で読まれたバルダッサーレ・カスティリオーネが出たとされる.

 現在の町にはモンテルッツォ城という城(カステッロ)という名の建造物があるが,18世紀に建てられたものらしく,コムーネのHPの写真で見ても新しい.オローナは,ロンバルディア北方を流れる川の名称である.このオローナ川が流れる地域が,オローナ渓谷であり,カスティリオーネ・オローナはその渓谷に位置する町である.

 本堂と庭を挟んだところにある洗礼堂は,案内の男性に鍵を開けてもらわなければ見られないが,本堂に先行してここに描かれたフレスコ画「キリストの洗礼」と「洗礼者ヨハネの物語」は,より有名な作品だ.これらのフレスコ画をマゾリーノに描かせた人物が,枢機卿ブランダ・カスティリオーニである.

 1340年にミラノで生まれ,1443年カスティリオーネ・オローナで死んだので,マゾリーノより43歳の年長だが,その死はマゾリーノより3年遅いので,後世の私たちからはまるで芸術家の人生を包み込むような保護者だったように思える.

 ロンバルディアの名門パヴィア大学に学び,ミラノ公爵ジャン=ガレアッツォ・ヴィスコンティによって,教皇ボニファキウス9世(英語版イタリア語版ウィキペディア)のローマの宮廷に呼ばれ,ボローニャ大学,パリ大学で神学の講義も担当した当時の宗教界の俊英のようだ.

 ボニファキウス9世は,アヴィニョンとローマにそれぞれ対立する教皇庁があったいわゆる教会大分裂(シスマ)の時代のローマ側の教皇であり,ブランダを初めて枢機卿に任命した通称ヨハネス23世の方は,3人の教皇が立った混乱した時代の3人目の教皇アレクサンデル5世の後任として就位したが,公会議で廃位,監禁された人物であることを考えると,私たちが中世末期の「枢機卿」という地位にいだく安定した高位聖職者というイメージからは非常に遠い立場にいて,激動の人生を送った人のように思えてくる.

 ヨハネス23世はあくまでも通称で,現在は正式な教皇と認められていない(通常「対立教皇」,英語ではantipopeと称される)はずだが,「教皇ヨハネス23世の墓」が世界的にもよく知られた場所にある.フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂である.

 ここに,ドナテッロとミケロッツォに立派な墓碑を造らせたのはコジモ・デ・メディチの父で,メディチ家繁栄の基礎を築いたジョヴァンニ・ディ・ビッチだ.メディチ銀行が教皇庁に食い込むことに,便宜をはかってくれたヨハネスをハイデルベルクの幽閉先から引き取り,生前も死後も最後まで面倒を見た(森田義之『メディチ家』講談社現代新書,1999,pp.72-78).

 これが,信用を重んじる商人の道義なのか,政治の世界で主導権を握ろうとする深謀遠慮なのかはわからないが,ともかくフィレンツェの洗礼堂という古代末期,ロマネスク,ゴシック,ルネサンスの要素を全て含む芸術空間に,大芸術家の手になる対立教皇の分不相応な墓は,今も燦然と輝いている.


「マゾリーノ伝」
 フィレンツェの洗礼堂の北門のブロンズ扉のパネル製作者の公募が,フィレンツェのルネサンス開幕を象徴する事件であったことはよく知られている(若桑みどり『フィレンツェ』文藝春秋,1994,pp.79-84).

 クェルチャも若きドナテッロも落選したこのコンクールで両者一位に選ばれたのが,ブルネレスキとギベルティで,それが不本意だったブルネレスキは建築を本業とし,ドゥオーモのクーポラの設計者となったというのも手垢のついた伝説だ.

 結局,ギベルティが担当することになり,コンクール提出見本(ブルネレスキ作のものと並んで,バルジェッロ国立博物館で見られる)とは違う作品を制作して,さらに彼が別途造ったブロンズ・パネルをはめ込んだ東門の扉は,ミケンランジェロがそう言ったとヴァザーリが報告したことにより,通称「天国の門」と呼ばれてきた.現物はドゥオーモ博物館にあるが,今もその見事なコピーが洗礼堂を飾っている.

まさにヴァザーリの「マゾリーノ伝」に,マゾリーノはギベルティの門下であり,サン・ジョヴァンニ洗礼堂の制作を手伝ったとある.


 そこで,彼は技量の高さを認められ,芸術家としての道を歩みだし,若くして絵画に転じた,というのがヴァザーリの語るストーリーだ.これを,私たちは平川祐広という名訳者の見事な訳文で読むことができる(『続ルネサンス画人伝』白水社,1995).

 ヴァザーリはマゾリーノの作品をすべて把握していたわけではないようだ.エンポリでの仕事にも,ローマでの仕事にも,カスティリオーネ・オローナでの仕事にも言及していない.

 彼にとっては,マザッチョとの共同の仕事であるサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会ブランカッチ礼拝堂にフレスコ画のみが,マゾリーノの大業であったかのようだ.しかも,現在の知識から言うと,明らかにマザッチョが担当した部分に関して,マゾリーノの技量を褒め上げている.

 それでもなお,ヴァザーリの卓見に感銘を受けるのは, 「しかし他のあらゆる事にましてマゾリーノが秀でていたのはフレスコ画における彩色であった」という一節である.

 かつて学生時代に,日本に来たボッティチェッリの絵を見て,その色彩を賞賛したところ,後にまさにボッティチェッリの研究者になった先輩に,昔の絵の色彩を軽々に論ずることの軽率さを嘲笑され,以来,それが言わばトラウマになっている私なので,色彩については,それに惚れこんでも慎重にならざるを得ないが,マゾリーノに関しては,百年後とは言え,まだ16世紀の人物であるヴァザーリが言っているのだから,その色彩への感銘を語っても許されるだろう.

 オリジナルにこうだったかどうかは,私にはわからないが,マゾリーノの作品を幾つか見て,まさに彩色の妙と,人物像の繊細さに魅せられてしまう.

写真:
洗礼堂のフレスコ画
マゾリーノ作


 ヴァザーリはこうも言っている.

 「マゾリーノはそれがいかにも上手だったものだから,彼の絵はスフマートといおうか濃淡のぼかしを帯び,しかも非常な優雅さと一体となっているので肉の色は想像し得る限りの見事なやわらかさを帯びている.それだからもしマゾリーノのデッサンが完全に見事であったなら―もう少し長生きしたなら必ずやそうなったであろうが―そうなればマゾリーノは最良の画家たちの中に算えられもしたであろう.それというのも彼の作品はいかにも美しく優雅に仕上げられており,その様式には偉大ななにかがあり,彩色においてやわらかさと一体感というか調和があり,デッサンに相当な立体感と力があるからである.」

 この後,「もっともすべての部分においてデッサンが完全だというわけではないが」という保留がついているが,それにしてもほぼ手放しの大絶賛に近いのではなかろうか.美術史の概説書などを読むと,マザッチョの引き立て役としてしか登場しないマゾリーノだが,見るべき人はきちんと見ているのだ.

 フレスコ画研究の第一人者,金沢大学の宮下孝晴教授の紹介(『イタリア美術鑑賞紀行1 ヴェネツィア・ミラノ編』美術出版社,1993,pp.190-199)も簡にして要を得た上で,感動的なので,是非一読を勧めたい.



 案内の男性からも学ぶことはたくさんあったが,その中で,印象に残ったのが,洗礼堂のフレスコ画の中にマゾリーノ自身が書いたと思われる文字だ.

 この箇所は,南側の壁面で,向かって左に「ヘロデの競演」(一番上の写真),右側に「サロメから洗礼者の首を見せられるヘロデア」があり,背景に山が描かれていて,その山の中に,小さな「弟子たちによる洗礼者ヨハネの埋葬」の場面がある.

写真:
洗礼者ヨハネを埋葬する
弟子たち

洗礼堂のマゾリーノの
フレスコ画(部分)


 その知識を援用しながら,写真を拡大してみると,多分

 DISCIPVLI SEPELIERVNT IOVANEM BAPTISTAM
 (弟子たちが洗礼者ヨハネを埋葬した)

と書いてあるのではないかと思われる.

 ガイドの男性が言っていたことで耳に残ったのは,私の解釈を交えて言うと,「マゾリーノが記したラテン語が当時の書き方なのか,マゾリーノの勘違いなのか,本来はIOHANNEMもしくはIOHANEMと書くべきところをIOVANEMと書いている」と言うことになるだろう.

 これが気になったので,なるべくよく写るようにズームしてこの箇所の写真を何枚か撮ったのだが,1枚だけ比較的ボケていなかった.SEPELERVNTも学校で習うラテン語から考えるとVが一個落ちているように思われるが,私の読み取りが正しいとは限らないし,仮りに無いとしても,これは許容範囲だと思う.

 しかし,IOVANEMという綴りは,ラテン語の格変化をしながらも,おそらくイタリア語のジョヴァンニという発音の影響を受けたものだろうと想像される.瑣末なことだが,確かに,マゾリーノ自身が書いたのであれば,興味深いことと思われた.この壁面の下部には明らかに,現代のものと思われる落書きもあり,これでは係員が鍵を開け閉めして拝観者を案内するのも無理はないと思うが,問題の箇所は落書きではないだろう.

 ヴァザーリは,マゾリーノについて,彼が何歳くらいで亡くなったかについても知らなかったようだ.1440年に亡くなったとすれば(英語版ウィキペディアには1447年頃とあり,だとするとブランダ枢機卿の後で死んだことになる),57歳くらいであり,長生きではないだろうが,年下の共作者でありながら多大な影響を彼に残したマザッチョが26歳で夭折したのに比べれば,当時としては天寿を全うしたと言えるかも知れない.

 一部に誤解があるとは言え,ヴァザーリがブランカッチ礼拝堂のマゾリーノ担当部分を見て述べた感想は,ほぼ,カスティリオーネ・オローナのフレスコ画にもあてはまるのではないだろうか.


マゾリーノ
 彼の作品を見たくて,一昨年の秋にローマのサン・クレメンテ聖堂を訪ねた.ここには「受胎告知」,「キリスト磔刑」や,「アレクサンドリアの聖カタリナ」,「聖アンブロシウス」を題材にしたフレスコ画がある.

 エンポリの参事会教会付属博物館で,初期の作品と考えられる剥離フレスコ画「ピエタのキリスト」を見た.さらにエンポリでは見られなかったサント・ステーファノ教会のために描かれた剥離フレスコ画「聖イヴォと少女たち」を,昨年損保ジャパン東郷青児美術館の特別展「ジョットとその遺産展」で見た.

 これらの制作年代としては,

 エンポリとフィレンツェ(1420年代前半)→ハンガリー行き(1425−27年)→ローマ(1428-30年前後)→カスティリオーネ・オローナ(1435年前後)

というふうに整理できるだろうか.1431年までブランダの,ローマでの枢機卿司式教会がサン・クレメンテ聖堂であることが知られており,カスティリオーネ・オローナでのフレスコ画制作が,サン・クレメンテでの仕事が高く評価されてのことであることは容易に想像される.

 それもさることながら,15年に渡る決して短くない期間,年下とは言え稀代の天才マザッチョの影響を受けながら,マゾリーノはマゾリーノであり続けたことに感動する.描こうと思えばマザッチョの亜流のような作品も描けたはずだ.実際にマゾリーノのすぐれた作品の一部をマザッチョの作品だと考える人もいたようなので,その影響は専門家には見て取れるのだろう.

しかし,私にとっては,やはりマゾリーノはマゾリーノであり,マザッチョの影響と言うよりも,やはり画家の個性と時代精神としか言いようがない魅力を湛えている.


 ヴァザーリは,マゾリーノの絵画の師匠をゲラルド・スタルニーナ(英語版イタリア語版ウィキペディア)としている.スペインでも活躍したこの画家は,アントーニオ・ヴェネツィアーノとアーニョロ・ガッディの弟子とのことなので,前者にとって師匠,後者にとっては父であるタッデーオ・ガッディにつながる.正統的なジョッテスキの系譜に連なっているが,時代的には国際ゴシックの流れの中にいたと言って良いのだろうか.

 1383年頃生まれたマゾリーノの同世代の画家は誰だろうか.ロレンツォ・モナコは1370年頃の生まれ,ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノもロレンツォとほぼ同年の生まれ,北イタリアの国際ゴシックの画家ピザネッロは1395年頃の生まれなので,マゾリーノは世代的には,国際ゴシックの画家たちの同時代人と言えよう.

 華やかで繊細な宮廷文化を背景にしているかのような国際ゴシック絵画だが,マゾリーノはやはりその流れの中にいるだろう.マザッチョの力強い画風にくらべて,やはりマゾリーノは国際ゴシック風の繊細さが前面に出ているように思える.

写真:
サロメからヨハネの首を
見せられるヘロデア


 サロメからヨハネの首を見せられるヘロデア(上の写真)は,ピザネッロがヴェローナのサンタナスタージア聖堂に描いた「聖ゲオルギウスとカッパドキアの王女」の王女に似ている,と多くの人が思うようだ.こちらの絵は1430年代の後半に描かれたようなので,同時代でもあり,相互の影響と言うよりは,時代の流行と言う側面が強いのかも知れない.

 南東壁面にあるヨハネの首を打つ刑吏の姿勢が,ヴェネツィアの画家ヤコベッロ・デル・フィオーレの作品で,ヴェネツィアのアカデミア美術館にある「大天使ミカエルとガブリエルの間の寓意的女神正義」の中の「龍を殺すミカエル」に似ていると考えられているようだ.

 1420年代の作で,マゾリーノの刑吏より約10年先行しているが,ヤコベッロ自身は1370年頃の生まれで,没年が1439年ということなので,まさにマゾリーノと同世代の画家と言える.いかに先行しているとは言え,マゾリーノがヴェネツィアでこの作品を直接見ているわけではないだろうから,やはり,これも時代の流行のようなものがあったのだろうと想像される.

写真:
ヨハネの斬首(左端)


 フラ・アンジェリコは1400年頃の生まれで,むしろマザッチョと同世代だが,師に擬せられるロレンツォ・モナコから引き継いだ画風には,国際ゴシック風の華やかな雰囲気が漂っているように思われる.マザッチョに比べると,同時代の画家たちの作品は,あるいは古くさく思われるかも知れないが,同時代には,十分に人気があり,支持者も多かったのではないだろうか.

マゾリーノのフレスコ画は
美しい.


 大きくはない教会と,小さな洗礼堂で彼の作品を,長く情熱的な案内の間,随分時間をかけてじっくり隅々まで鑑賞することができ,光も良かったので,比較的満足の行く写真もたくさん撮らせてもらえた.

 洗礼堂の入口に描かれていた「受胎告知」は剥がされて,そこには「下書き」(シノピア)が残されていたが,剥離フレスコ画は,洗礼堂の向かいの,やはり鍵をあけてもらって入れる倉庫のような部屋に置かれていて.あまり光が入らず,暗かったので,鑑賞は十分ではないが,ともかく見られて嬉しかった.

 拝観を終わって,受付で絵はがきと案内書を購入する際,受付の女性と,案内の男性が,「日本から来たのか」と声をかけてきた.日本から来る人はめずらしいが,ときどきはいるらしい.ウェブページには,世界中にあるピエロ・デッラ・フランチェスカの作品を全て見たという方のブログがあり,その方のカスティリオーネ・オローナ訪問体験談も読むことができる.

 「ここに来てくれた人はみんな友だちだ」と言って,修復前の状態が,白黒写真に写っている2枚の絵はがきを私たちに下さった.この教会と洗礼堂のフレスコ画に魅せられた私たちにはこの上なく嬉しいおみやげだった.受付の女性,案内の男性と笑顔で握手して,参事会教会を辞去した.

 ブランダ枢機卿が亡くなった屋敷(パラッツォ・ブランダ)には,マゾリーノがロンバルディアの風景を描いたフレスコ画があり,ヴェッキエッタの作品もある.パラッツォは公開されているが,帰りの電車の都合もあるし,なにせまた田園を越えて,ヴェネゴーノ・スペリオーレの駅まで歩かなければいけないので,教会を辞した後は,外壁にフレスコ画が描かれている幾つかの建物を眺めながら,「また,いつの日か」という思いを残しながら,帰りを急いだ.



 マゾリーノは仕事のためには,ローマはもちろん,ハンガリーまで行った職人魂に満ちた芸術家だ.とは言え,現在カスティリオーネ・オローナが属しているヴァレーゼ県の県都ヴァレーゼの先はルガーノ湖で,そこはもうスイスだ.

 来る前に思い描いていた「アルプスの山中の僻村」ではなく,大きな舗装道路で都市部とつながっている,広い平原の田園地帯の一角に,この町はあった.確かに,渓谷の丘に立つ参事会教会の観光写真だけ見ていると,僻遠の理想郷のように見えるが,旧市街を一歩出ると,やはりまぎれもなく現代の先進国の農村地帯だ.

 果たして,ローマでの仕事の後,ここまで来たトスカーナ人マゾリーノは,どんな風にして,またどんな思いで,このロンバルディアの北の果てまで来たのだろうかと思う.

 画材を運び,スキアーヴォのような一家を成した共作者や,手伝いの職人たちを率いて,鉄道も自動車もない時代に,荷物は馬に運ばせ,徒歩でやって来たのだろう.その上で,これを見る現代人の魂を揺さぶるような傑作を残して,きちんと仕事をした.まさに職人技をきわめたルネサンスの芸術家と言えるだろう.

写真:
参事会教会のある
丘を下る坂道


 自分に先立って夭折した年下の天才マザッチョの影響を受け,その作風を常に意識しながら,ゴシックの遺風とルネサンスの新風がせめぎあう嵐の中で,しっかりと足元を見据え,自分の才能を花開かせたマゾリーノの作品を今後もずっと追い続けて行きたい.



 フィレンツェに住んでいない「フィレンツェだより」番外篇2009年の巻は,今回で終りとする.次回は,ヴェネツィアになるか,ナポリになるか,基本に帰ってトスカーナのどこかにするか,あるいは,見ていないところのたくさんあるローマにするか,まったく未定だが,できれば,今後もイタリア体験の報告を続けて行きたい.

 今回のミラノ行は,これ以上ないと思えるほど,満足だった.やはり,体力と健康が大事だ.2人とも50歳を越した今,特に気をつけて日々を送りたい.来年も,どこかで一週間のまとまった休みがとれることを切に願っている.





秋の気配が漂う丘の道を辿り
参事会教会へと向かう