フィレンツェだより番外篇 |
「ナポリ・宮廷と美 カポディモンテ美術館展」 国立西洋美術館 |
§日本で鑑賞,イタリア美術 - カポディモンテ美術館展 1980年の記憶 何度か書いてきたが,日本で最初にイタリア美術に意識的に接したのは,1980年の「イタリア・ルネサンス美術展」だったと思う.大学3年生のときで,1年浪人して,東北沢の予備校に通った後,大学に入ったので,東京暮らしも既に4年目に入っていた. それ以前にも美術展に行く機会はあったはずだから,その際にイタリア美術の何らかの作品に触れていた可能性は高い.記憶にはないが,どこかで,イタリア人の誰かが描いた絵や,彫刻の実物を見ていたかも知れない.しかし,ともかく記憶にあるのは,この美術展が最初で,しかも作品はただ一つ,ボッティチェリの「ケンタウロスを制御するパラス」(当時の図録での題名)だ. 当時,ギリシア語,ラテン語を教えてくださった引地正俊先生(現在,早稲田大学名誉教授)が授業で,このこの美術展をお勧めくださった.先生はご自身でも絵を描く方だったので,特に有名な作品だけを紹介したわけではなく,特に実物を見て,筆使いや色合い,大きさを見ることの意義を強調された.絵画,彫刻.工芸品に書き込まれたラテン語の銘文をじっくり見るように,おっしゃったのはさすがに古典語の先生だった. それだけ,有益なご助言をいただき,けっこう熱心に見たつもりなのに,それでも私の印象に残ったのはボッティチェリの作品のみで,それ以外はまったく憶えていない.
![]() 国立西洋美術館(監修)『イタリア・ルネサンス美術展』東京新聞,中日新聞,中部日本放送,1980 がある.これを見ると,今なら万難を排して見たい作品が,相当数来ていたことがわかる.以下は,その主な作品だ. ここに記載する題名は全て図録のまま,作者名と所蔵先は慣用と原語を併用して,この「フィレンツェだより」で普段使っている表記(ラッファエッロではなく,ラファエロ,ボッティチェッリではなくボッティチェリ,ヴェッロッキオではなくヴェロッキオ,ウッフィーツィではなくウフィッツィ,アッカデーミアではなくアカデミア,ブレーラではなくブレラ,カーポディモンテではなくカポディモンテ,ヴェネーツィアではなくヴェネツィア,モーデナではなくモデナ,ナーポリではなくナポリなど.しかし,図録にあるブオナローティは慣用と言うほど使われていないのでブオナッローティとした.また図録で「聖堂」とあっても,原語がバジリカではなくキエーザの場合は「教会」とした)を優先した.
<注記> *1 図録にはアカデミア美術館所収蔵とあるが,これをアカデミアで見た記憶がない.この作品に関しては図録にもあるように,弟子のジュリオ・ロマーノに帰せられていたこともあり,現在の通説としては大体,構想,もしくは作品のかなりの部分をラファエロが描き,最後にジュリオもしくはその他の弟子が仕上げたと考えられているようだ.イタリアで出版された大きなラファエロのモノグラフィーにもこの作品は白黒写真も掲載されておらず,驚いた.有名な作品で,自分も絶対見たと思っていて,見たのはフィレンツェ以外の場所だったと確信していたが,どうもウフィッツィにあったらしい.自分の記憶の曖昧さに少し驚いた. *2 フランチェスコではなくルドヴィーコとする説もあり,今回の「カポディモンテ美術館展」ではルドヴィーコとして,それに疑問符を付していた. この他に数点の絵画,彫刻,ファエンツァとウルビーノの窯で焼かれたマヨリカ陶器,甲冑,工芸品があり,その中にはヴェローナで画家の子に生まれ,フィレンツェで活躍したヤーコポ・リゴッツィが下絵を描いた作品もある.
特に,すでに古典を勉強し始め,後に教壇に立つようになって,授業で何度も使わせてもらったバロッチの「アイネイアスの逃亡」(アエネアスの亡命」)を実際に,自分で見ていたことに愕然とする.2007年の10月にローマで念願かなって初めて見たと思った作品を,実に27年前に東京で見ていたのに,まったく記憶になかったことになる. 以前にも書いたが,ポントルモの「受胎告知」はフィレンツェでサンタ・フェリチタ教会に何度も行って,そのたびに感銘を深めた作品である.これを日本で,学生時代に見ていたとは,帰国後この図録を見て本当に驚いた. 上記の作品のうち,幾つかの作品をイタリアで,初めて見たと思っていたが実は再会だったことになる.イタリアでは見ていないが,日本で再会した作品もある.実際には,「再会」というよりは初対面のように思えるが,今は多くの場合,インターネットや画集で写真を見ているので,「初対面」(実は再会)感は薄い.
![]() 今回の目玉作品で,ポスターその他に使われているパルミジャニーノ「貴婦人の肖像(アンテア)」とは再会だったことになるようだ.マンテーニャの「フランチェスコまたはルドヴィーコ・ゴンザーガの肖像」,ティツィアーノの「悔悛のマグダラのマリア」とも「再会」である. 「悔悛のマグダラのマリア」については,エルミタージュ美術館にも,フィレンツェのパラティーナ美術館にも同工の作品があるので,特に「初対面」感はないのだが,マンテーニャの作品を特に愛好するようになった今,彼が描いた端整な肖像画に出会えて非常に嬉しかったので,これが「再会」であることに,我ながらあきれた. グイド・レーニとカラヴァッジョ 「ナポリ・宮廷と美 カポディモンテ美術館展」はまずまず満足のいくものだった.パルミジャニーノとならんで,今回一押し作品とされていたグイド・レーニの「アタランテとヒッポメネス」も深い感銘は得られなかったが,美しく印象的な作品に思えた. ボローニャ出身でローマで活躍したレーニの周辺の人々や,カラヴァッジョの影響を受けた画家たちの作品も,イタリアでレーニ,カラヴァッジョの作品を相当数見た後なので,それぞれの個性がそれなりに感じられて,特に後者ではアルテミジア・ジェンティレスキの「ホロフェルヌスの首を切るユディット」だけではなく,バッティステッロ・カラッチョーロ,マッティア・プレーティ(マッティーア・プレーティ)の実力を再認識することができた. レーニ自身もカラヴァッジョの影響を受けたこともあるので,彼の周辺の画家が一見カラヴァッジョ風に見える作品を描いていても不思議はない.キアーロ・スクーロ(明暗対照画法)が鮮明な,バルトロメオ・スケドーニの「キューピッド」,シスト・バダロッキオの「悔悛するマグダラのマリア」,「祈る聖ペテロ」が良かった.特にバダロッキオの作品には当時流行していたかも知れない「法悦」の雰囲気がよく描かれていて,私は感銘を受けた. スケドーニとバダロッキオには共通点がある.スケドーニは1578年,モデナの生まれでパルマに移住,バダロッキオは1580年代前半パルマの生まれで,ともにエミリア・ロマーニャの出身である.前者はローマでフェデリコ・ズッカーリの指導を受けているが,両者ともボローニャでカッラッチ一族の薫陶を受けている.前者の師匠はアンニーバレ,後者の師匠は兄のアゴスティーノだが,後者は後にローマでアンニーバレに学んでいる.総合すると,北イタリア出身で,カッラッチ兄弟に指導され,カラヴァッジョに影響を受けたことである. レーニは1575年生まれなので,スケドーニ,バダロッキオとは同世代だが,ボローニャの生まれで,地元の画家たちの指導を受け,ルドヴィーコ・カッラッチが主催する美術学校に学び,ローマではアンニーバレ・カッラッチの助手を務めた.カラヴァッジョの影響も指摘されている. 図録には言及はないが,「アタランテとヒッポメネス」もその影響を受けた作品という指摘もあるようだ.ルーヴルとウフィッツィにある「ゴリアテの首を持つダヴィデ」にはカラヴァッジョの影響は明らかだと思う. 「ナポリ派」 カラヴァッジョの影響を受けた南イタリアの画家たちが,「ナポリ派」という,一定の傾向が時代的に推移していくグループを形成し,そこから多くの有能な芸術家が輩出する.当時スペインの影響下にあったナポリに彼らの拠点があった.ローマも重要な仕事先であったに違いない. スペイン人フセペ・デ・リベーラ(ホセ・デ・リベーラ)もその一人だが,彼はナポリに定住して,ナポリで死んだので,果たしてスペインの画家たちにカラヴァッジョの影響を橋渡ししたのが彼かどうかは私にはわからない.いずれにせよ,ベラスケスもスルバランもカラヴァッジョの影響を受けたことは間違いないだろう. ![]() フィレンツェ滞在中にウフィッツィ美術館で開催され,2度見ることができた,「哲学的気質と驚嘆すべき迅速さ」と訳してみても何のことかよく分からないが,副題が「メディチ家コレクションの17世紀ナポリ絵画」となっている特別展の図録を,会場では日本に持ち帰る困難を考えて諦めたが,最近インターネット書店ウニリブロで入手した. それを見ながら思い出すと,カラッチョーロの2作品「エジプト逃避行の際の休息」(ピッティ宮殿),「洗礼者ヨハネの首を持つサロメ」(ウフィッツィ美術館)の他に,リベーラの「聖バルトロマイの殉教」(パラティーナ美術館),「法悦の聖フランチェスコ」(パラティーナ美術館)がカラヴァッジェスキの作品に分類されている. ![]() 前者の作品では「聖アントニウスの誘惑」(パラティーナ美術館),後者の作品では「縛られた聖セバスティアヌス」(ルッカ,国立絵画館),「アポロとマルシュアス」(バルディーニ博物館),「慈愛」(ウフィッツィ美術館)が素人目にはカラヴァッジョ風に見えるが,カラッチョーロとリベーラの作品が1610年代の後半から遅くても1640年代前半とされるのに対し,ローザとジョルダーノの作品は1645年から1666年までに描かれた作品なので,カラヴァッジョ風はあるいは既に時代遅れだったかも知れない. しかし,特別展に展示されていなかったが,この図録の解説で紹介されているローザの「妖術」(フィレンツェ,コルシーニ美術館),ジョルダーノの「ソクラテスにきたない水をかけようとするクサンティッペ」(モリナーリ・プラデッリ・コレクション)を見ても,ローザはともかくジョルダーノはある時代,間違いなくカラヴァッジョ風の絵を描いていたと思われる. メディチ・リッカルディ宮殿の華やかな室内装飾や,諸方で見られるピエトロ・ダ・コルトーナの作品と見まごうような鮮やかの色彩で,やわらかな表情の人物を描いたジョルダーノが,ある時期,カラヴァッジェスキの画家たちと同傾向の絵を複数描いていたことは,まったく意外に思われる.
ジョルダーノの作品は,今回の「カポディモンテ美術館展」に2点来ていた.「給仕の少年を助けるバーリの聖ニコラウス」は,図録の解説にもあるように,ピエトロ・ダ・コルトーナを思わせるが,それにしては色彩が暗い.「眠るヴィーナス,キューピッドとサテュロス」は,ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館で見て「ディアナとエンディミオン」,「バッコスとアリアドネ」に似ているが,ヴェローナの2作品の方がはるかに出来が良い. 恣意的に解釈すれば,「聖ニコラウス」の絵はカラヴァッジョ風のキアーロ・スクーロからピエトロ・ダ・コルトーナ風の華やかな絵への橋渡しと考えられないこともないが,そう言い切るには材料が足りないし,往々にして話は都合よく運ばないので,安直な推測は控える. しかし,巨匠のそれほど優れているとは思えない2点の作品が最後の部屋にあったことは,それなりに意味があったと思う.カラヴァッジェスキから,ルーカ・ジョルダーノへという「ナポリ派」の流れを大づかみにすることはできたのではないか.
![]() バッティステッロ(ジョヴァンニ=バッティスタ・カラッチョーロ)(1578-1635) マッシモ・スタンツィオーネ(1585-1656) それと,スペイン出身の フセペ・デ・リベーラ(1591-1652) の3人である.カラッチョーロとリベーラの絵がカラヴァッジョ風であるのは,ほぼ自明であろう. スタンツィオーネの「聖アガタの殉教」は,もう少し整理して分かりやすくしたほうが,インパクトがあるのではないかという率直な感想を抱くが,それでも遠くから見ると,それなりの水準の作品に見える.ローマで,ボローニャの画家たちの影響を受け,図録には「ナポリのグイド・レーニ」と呼ばれたと書かれている.「聖アガタの殉教」を見る限り,どこがレーニ風なのか,私にはわからないが,専門家がそういうのであれば,カッラッチ一族やレーニの影響を受けたのは間違いないのだろう. ![]() いずれにしても,アンニーバレには,他に傑作とされる作品も多く,画家としても工房主としてもローマで成功を収めた人なので,この作品の評価に拘泥する必要はないだろう.好きか嫌いかで言えば,私は好きな作品で,一部を製品化したタイルマグネットを買ってきて,机の隣のスチール書棚に貼り付けているくらいだ.
![]() 会場では,ガローファロのセバスティアヌスの背後の風景に魅かれたが,それほどと思わなかったランフランコの聖母の顔が,図録で見直すことによって,実は非常に美しく描かれていたことがわかった.どうしても,痩せ細った老女のエジプトの聖マリアに視線が行くが,実は,聖母子もマルガリタも見事に描かれているのがわかる.ランフランコは間違いなく実力者だ. 図録に付されたニコラ・スピノザ「バロック期のナポリ絵画」によって初めて知ったが,ランフランコはナポリに13年間滞在し,1446年にローマに帰り,翌年亡くなった.マッティア・プレーティやルーカ・ジョルダーノに深い影響を与えたということであれば,彼の晩年はナポリ派の進展に大きな意味を持ち,北イタリアの画家の影響はカラヴァッジョだけではなく,エミリア・ロマーニャ出身のローマで成功を収めた芸術家たちの影響があって,17世紀ナポリ絵画の隆盛があったことになる.
(後日:上の2つ絵のうち,下の方の福音史家を含む,ペンデンティヴ,すなわち円蓋内部の四隅の球面三角形の部分の4人の福音史家の絵も,穹窿部分の絵と同じくランフランコだと思っていたが,名著,宮下規久郎『イタリア・バロック 美術と建築』山川出版社,2006,pp.64-65に拠れば,ドメニキーノ作品とのことだ.ただし,同氏に拠れば「アンデレ伝と四福音書記者を描いたドメニキーノの壁画は,ランフランコのバロック性に引きずられて古典主義者のこの画家にしてはめずらしく激しい動作と構図を示したものとなっている」そうである.) ファルネーゼ家 こうした流れとは別に,カポディモンテ美術館の収蔵品の基幹をなすコレクションの形成に,ファルネーゼ家が大きな役割を果たしたことに異論はないであろう. ローマ市観光に関心のある人であれば,ファルネーゼ宮殿,ファルネジーナ荘の名前をどこかで聞いたことがあるだろう.後者はラファエロやソドマのフレスコ画で知られるが,これらが描かれた時にこの別荘は,シエナの富豪キージ家の所有で,ファルネーゼ家の財産となったのは1577年(英語版ウィキペディア)だそうなので,ファルネーゼ家の家名が現在の名称のもととなってはいるが,ラファエロの芸術は直接にはファルネーゼ家とは関係がないことになる. しかし,全く関係がないかと言えば,今回出展された,大理石の胸像「教皇パウルス3世」の作者グリエルモ・デッラ・ポルタにをファルネーゼ家に紹介したのはラファエロだそうである(図録解説).このアレッサンドロ・ファルネーゼが1534年,パウルス3世として教皇に就位した. パウルス3世アレッサンドロ・ファルネーゼは,教皇領で現在のラツィオ州にあるカニーノで,モンタルトの領主ピエル=ルイージと,教皇ボニファティウス8世を出したカエターニ家出身のジョヴァンナの間に生まれた.ピサ大学とロレンツォ・デ・メディチの宮廷で人文主義教育を受け,姉妹ジュリアの愛人だった教皇アレクサンデル6世によって枢機卿に引き上げられ,メディチ家出身のクレメンス7世にも重用されて,クレメンスの死後,教皇となった. 彼は芸術を保護したが,一方,親族優遇(ネポテイズモ)を前面に押し出し,自分の孫である3人の少年を枢機卿にした.教皇の孫への言及は,カポディモンテ美術館展の図録にもあるが,「教皇の孫」というのは一瞬誤訳ではないかと目を疑う.しかし,すでにパウルス3世を引き立てたアレクサンデル6世には,チェーザレ・ボルジアという有名な息子がいることを知っているし,クレメンス7世にも庶子(フィレンツェ公アレッサンドロ・デ・メディチ)がいた.枢機卿時代の愛人だったシルヴィア・ルッフィーニとの間にピエル=ルイージ,コスタンツァ,パオロ,ラヌッチョの3男1女をもうけた.愛人と言うよりは,事実上の妻であろう. ピエル=ルイージは,父教皇の力で,パルマ,ピアチェンツァ,カストロの公爵となり,彼の子孫は,7代続くパルマ公爵家となり,さらにその後継者も,ブルボン朝スペイン王妃となったファルネーゼ家出身のエリザベッタの息子カルロスであった.このカルロスはスペイン王カルロス3世,ナポリ王カルロ7世,シチリア王カルロ5世となった.カルロスはナポリ王,シチリア王として,後に息子の代に成立する「両シチリア王国」の事実上の王となって(1734年),パルマ公国はハプスブルク家に譲渡した. さらに,スペイン王に登位したときに,両シチリア王国の位は息子フェルディナンド(スペイン語ではフェルナンド)に譲った(1759年).フェルディナンドはナポリ王としては4世,シチリア王としては3世であったが,「両シチリア王国」を名乗り(1816年),統合された王国のフェルディナンド1世としてナポリに君臨した.しかし,ナポレオン戦争,リソルジメントの激動の時代を経て,フェルディナンドの曾孫フランチェスコ2世が廃位(1860年)され,ナポリを中心とする南イタリアはシチリアとともに統一イタリア王国に併合(1861年)された(日本語版ウィキペディア「両シチリア王国」等を参照). こうした経緯の中,カルロスがナポリ王カルロ7世となったことにより,ファルネーゼ家の美術コレクションはナポリに移され,現在のカポディモンテ美術館の収蔵品の基幹をなしている.現在,ナポリの考古学博物館にある古代彫刻,通称「ファルネーゼのヘラクレス」もこのときナポリに運ばれた. このコレクションの基となる諸作品収集を始めたのが,教皇パウルス3世であり,彼の本名と同じ名前の孫アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿であった.さらに,アンニーバレ・カッラッチにファルネーゼ宮殿に有名なフレスコ画を描かせ,ドメニキーノにもフレスコ画を描かせ,コレクションを充実させたのは,枢機卿オドアルド・ファルネーゼであった. アレッサンドロ枢機卿の弟が,第2代パルマ公爵オッターヴィオで,その子が第3代公爵アレッサンドロ,さらにその子が第4代公爵ラヌッチョ1世で,オドアルド枢機卿はその弟である.ラヌッチョ1世の子が第5代公爵オドアルドで,その後見人をしたのが,叔父のオドアルド枢機卿なのでややこしいが,武人で小貴族だったファルネーゼ家から,教皇が1人出て,その子孫が歴代のパルマ公爵になり,一族から枢機卿を出し続けることで,イタリアの支配的な有力家系で有り続けた.その家のコレクションが,南イタリアを支配していたスペイン王家を経由して,ナポリに現在のカポディモンテ美術館と国立考古学博物館の主要な収蔵品を齎したのであるから,実に,イタリアらしい美術品流転の物語と言えよう. たくまずして絵画における「ナポリ派」の形成と,カポディモンテ美術館の基幹となるコレクションの流転が,北イタリアとローマの影響という共通点を持ち,そこにスペインが絡んでいる.イタリア美術というローカルな歴史に地中海世界とヨーロッパの政治史が深く関わってくることがよくわかる.
![]() この作品をグレコ作とするには,多少の経緯があったようだが,グレコ作だと思ってみれば,グレコがヴェネツィアでティツィアーノの工房にいて,ティントレットの影響を受けたというような,背景の知識の確認になるかも知れない.好みの絵ではないが,図録にはファルネーゼ家との関係も言及されていて,それなりに学ぶところはあった.
イタリア絵画に興味を抱くずっと前は,グレコの絵に魅かれていたこともある.今は,必ずしも好きな画家ではない.「また,グレコか」と思うこともある.この夏は,スペイン旅行に行く.出発は,次の日曜日だ.ツァーだが,少なくともプラド美術館とトレドの教会で,グレコの絵は見られる. ギリシア(と言っても本土ではなく,クレタ島だが)出身で,ヴェネツィアなどイタリアで学ぶ,スペインで活躍した汎地中海的画家だ.もう一度関心を持ちたいという気持ちはある. モーリス・パレス,古川一義(訳)『グレコ トレドの秘密』筑摩書房,1996 という本を読んでいる.研究者ではなく,作家が書いた本なので,あるいは知識は正確ではない面があるかも知れないが,興味を喚起してくれるという意味では,大いに期待している.私たちのトレド滞在はたった一日だが,果たして,グレコの作品に開眼できるかどうか楽しみだ. カポディモンテ美術館展で見ることができたグレコ作とされる作品も,少なくとも,イタリアとスペインの芸術に対する関心はかきたててくれる背景を持った絵であったし,それを教えてくれるような図録の解説であったように思えた. |
メディチ・リッカルディ宮殿 「ルーカ・ジョルダーノの間」 2007年4月 |
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