フィレンツェだより番外篇 |
![]() 「聖母戴冠」 アンブロージョ・ベルゴニョーネ |
§ミラノを歩く - その8 (教会篇6)
サンタンブロージョ教会の「キリスト復活」,サンテウストルジョ教会の「玉座の聖母子と聖ヤコブ,聖ヘンリクス」,どちらも美しい作品だ.多分,こうした画風がミラノ・ルネサンスの最後の大輪の花ベルナルディーノ・ルイーニにつながるのではないかと想像している. サン・ピエトロ・イン・ジェッサーテ教会でもベルゴニョーネに帰せられる作品を見た. ミラノの美術館を回れば,かなりの点数が見られるが,まだ現役の教会で見られるベルゴニョーネ作品は格別に思える.たとえ,サン・ピエトロ・イン・ジェッサーテのように帰属が疑われるうえ,作品としてもそれほどのものでなくても,間違いなく傑作であっても,夕方のサンテウストルジョ聖堂の十分でない光の中の不満足な鑑賞であっても,ベルゴニョーネの作品が目の前にあると思うだけで幸せな気持ちになる. 大天才の緊迫感に満ちた作品が,私たちの精神を高揚させ,大きな影響を与えてくれるのは間違いない.しかし,ベルゴニョーネの作品を見ていると,ジョットやミケランジェロの世紀の大傑作を目の当たりにしたときとは全く違う,安心感のようなものを覚える.
実物を見たり,まだ見ぬ作品を写真で見ても,レオナルドの他の絵画からはこの安心感は得られない.彼もまた人類史上有数の天才で,とてもつきあってはいられないような先入観があるからかも知れないが,「最後の晩餐」だけは,私は何度でも,いつまでも見ていたい. さすがにベルゴニョーネの作品をいつまでも見ていることはできないが,実際にミラノに行ってみて,嬉しいことの一つは教会や美術館を回って,ベルゴニョーネの作品を見られることだ. サン・シンプリチャーノ聖堂 そのベルゴニョーネのフレスコ画が,ミラノ中心部の北部地域を代表する教会サン・シンプリチャーノ聖堂にある.後陣の半穹窿型天井(英語ではコンク,ラテン語とイタリア語では貝殻を意味するコンカ)にある「聖母戴冠」だ. この絵は壮大な作品だが,腕達者な画家が手堅くまとめたものとは思えず,通常ベルゴニョーネに抱く端整で,綺麗にまとまった印象がない.繊細な画風のベルゴニョーネには「豪快」という用語は全く適切ではないと思うが,荒々しい中世の雰囲気を残した聖堂の中にあることと相俟って,この「聖母戴冠」は豪快無比な作品に思えた.
午前中の拝観にもかかわらず,光が悪く,残念だが良い写真は撮れていない.しかも,この作品はベルゴニョーネにしては,バランスが悪く,色も最上の組み合わせではないように思える. しかし,午前中でも写真も良く写らないような暗さが,教会の本来のものであり,その中で,目を凝らしながら「聖母戴冠」を見ていると,この絵が描かれた時代の人々が,この後陣の半穹窿型天井のフレスコ画を見ながら,絵の助けを借りて,天国を思い描いていたことが想像される. いつの時代にも,私たちが享受している明るさがあったわけでない.
![]() ベルナルディーノ・ルイーニには何人もの子供がいて,その多くが画家として活躍したようだ.その中で,アウレリオは現存する作品が多いことを考えると,最も成功した画家と言えるだろう. 父のルネサンス的レオナルデスキ的画法をある程度引き継ぎながら,マニエリスムの時代を生きた人だ.これだけでも,私には興味深いが,それについて感想を述べるには勉強が足りないので,今回は控える. カミッロ・プロカッチーニの「聖母マリアの婚約」もあるが,これも残念なことに,暗くて良く見られていない. エネーア・サルメッジャの「ヌルシアの聖ベネディクトゥス」は写真もどうにか撮れたようだ.まずまずの作品と思って見ていたが,作者が気になっていたサルメッジャと知って,この画家とは縁があるような気がした.
![]() Luigi Crivelli, San Simpliciano, Un Vescovo, Una Basilica: Guida Storico-Artistica delel Origini ai Nostri Giorni, Milano, 1994 を5ユーロで絵はがきと一緒に購入し,冊子型の薄い英訳案内書をいただいた. サン・マルコ教会 サン・シンプリチャーノに先立って,同日の午前中に拝観したのが,サン・マルコ教会だ.この教会はロンバルディア風の外観で,古風に見えるが,堂内は比較的新しい.しかもマニエリスム,バロックの絵画作品に満ちている.
カラヴァッジョ,ピエトロ・ダ・コルトーナ,グェルチーノのコピーもあり,特にローマのカピトリーニ美術館で見たグェルチーノの「聖ペトロニッラの埋葬」のコピーは,随分立派に描かれているように思われた. コピーというものに対する考え方が今とは異なるうえ,カルロ・ボッロメーオの一族で,ミラノの宗教,芸術を指導し,アンブロジアーナ絵画館の基礎を築いたフェデリコ・ボッロメーオは,原作者と模作者の両方の芸術を確かめることのできるコピーを高く評価したとされるので,ミラノらしいと言えるかも知れない. グェルチーノの模作者はエルコレ・ジェンナーリ,ピエトロ・ダ・コルトーナの模作者はジョヴァンニ・フランチェスコ・ロマネッリで,いずれも17世紀の画家であることも説明書きには記されている.
![]() ヴェネツィア派のパルマ・イル・ジョーヴァネ「聖カルロ・ボッロメーオ,聖フランチェスコ,洗礼者ヨハネ」は見られなかった. 比較的良好な明るさの中でこれらの作品を十分に鑑賞できたが,今回は心打たれるような体験はなかった. だが,こうして作品名を挙げてみると気がつくことがある.これらに登場する先人たちの名前に注目すると圧倒的にアウグスティヌスが多いことだ.モニカは彼の母であるから,彼女も含めるとアウグスティヌス関係の人物が非常に多く,その他の人物もアウグスティヌスと関連付けられる人物である. ひとつのヒントは,17世紀の画家フィアンメンギーノのフレスコ画「アゴスティーノ会を創設する教皇アレクサンデル4世」である.フィレンツェならサント・スピリト聖堂にあたるアゴスティーノ修道会の教会である.アゴスティーノはアウグスティヌスのイタリア語読みであるから,アウグスティヌスが描かれた絵がたくさんあるのは,当然ということになる.
![]() 浮彫が施され,彫刻で飾られた複数の石棺と墓碑 ジョット風のフレスコ画断片がある.
石棺と墓碑では, 法学博士マルティーノ・アルピランディ(1339年死去)の墓碑(カンピオーネ派の彫刻家) アルヴァリーノ・アルピランディ(1344年死去)の石棺(ロンバルディアの不詳の彫刻家) ジャーコモ・ボッシ(1355年死去)の墓碑(ヴィボルドーネの彫刻家) 福者ランフランコ・セッターラ(1264年死去)の墓碑(ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョ) 無名氏の墓碑(14世紀)(カンピオーネ派の彫刻家) 無名氏の墓碑(14世紀)(伝マッテーオ・ダ・カンピオーネもしくは伝ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョ) アンドレーア・ビラーゴの石棺(1455年)(クリストフォロ・ルヴォーニ) アレッサンドロとランチェロット・プステルラの墓碑(16世紀初頭) アルピランディ一族に関しては,彼らが寄進者として描きこまれた,古拙な感じのする14世紀のフレスコ画もある.14世紀は中世かルネサンスか,ダンテの死は1321年,ペトラルカの生涯が1304年から1374年,ペトラルカがルネサンスを代表する詩人,思想家であれば,14世紀は立派にルネサンスということになる. しかし,イングランドの中世最高の詩人ジェフリー・チョーサーの死は1400年,ジャンヌ・ダルクが活躍した百年戦争の終結が1453年なので,これを基準に考えると,ヨーロッパでもイタリア以外は15世紀になっても立派に中世である. イタリア美術でもジョットの偉業を百年後に引き継いでルネサンス絵画の扉を開いたとされるマザッチョの生涯が1401年から1428年で,この夭折の芸術家の画業がルネサンス絵画の始まりとすれば,イタリアでも美術のルネサンスは15世紀から始まると考えられるだろう.その意味で,ミラノの14世紀の彫刻は中世最後の光芒と考えても良いだろう. 「カンピオーネ派の彫刻家たち」 スフォルツァ城の古芸術博物館で,中世ロンバルディアの彫刻を山ほど見た.その中で,カンピオーネという地名が大変目立った. 現在ロンバルディア州コモ県にカンピオーネ・ディターリアという町がある.紀元前1世紀にはローマの城塞があったカンピローヌムに起源を持つ. イタリア語ではカンピオーネは英語のチャンピオンにあたる語だが,語源的には軍事教練をしたり戦場になったりするカンプス(「野」)が語源だから,遡るとあるいは語源的には関係があるかも知れないが,直接の語源としては地名のカンピオーネと「チャンピオン」のカンピオーネは別だということになるだろう. それにしても,現在の地名のカンピオーネ・ディターリアは「イタリア・チャンピオン」(「世界チャンピオン」ならカンピオーネ・デル・モンド)という語感が伴うので,大胆な命名に思われる.イタリア領だが周囲はすべてスイス領で,飛び地になっているので,わざわざ「イタリアの」という形容をしたのだと推測する. ![]() サン・マルコの石棺彫刻では,マッテーオの名前が「彼に帰せられる」という形で挙げられ,カンピオーネ派の彫刻家の作品とされるものも2つある.確実にマッテーオの作品とされるものとしては,サンテウストルジョのステーファノとヴァレンティーナ・ヴィスコンティ夫妻の墓碑が挙げられる(もっともスキラ版のサンテウストルジョ案内書は「カンピオーネ派の彫刻家」の作品としている)ようだ. 親族関係はわからない(ジョヴァンニはウーゴの息子らしいが)ので,「一族」というよりは,「派」と考えておくが,このカンピオーネ派の彫刻はロンバルディアの中世の芸術を考える上で大きな意味を持つだろう.
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アゴスティーノ会の黒衣修道服をまとった隠修士の像が中心にあり,彼が講義をして,学生もしくは修道士たちがそれを拝聴する様子が刻まれている.両脇は「受胎告知」の天使と聖母だろうか.ピサ出身の彫刻家の作品だ. ジョヴァンニはサン・マルコのファサードに見られるポルターユも製作した可能性があるとされる.トスカーナ出身で,ミラノで活躍した彫刻家の意味も,いつの日か考えてみたい. ![]() 頭部には「人間たちの夢」(トーン・ブロトーン・エニュプニア)というギリシア語が彫られており,彫刻中の樹木にやはりアスベストスというギリシア語が彫られている.多分「不滅の」という意味で使っているのではないかと思われる.いずれにしても,ラテン語中心のカトリック教会で,ギリシア神話を彫刻した墓碑はめずらしいだろう.ルネサンスという時代を反映しているということなのだろうか.
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サン・マルコは,外観と中央祭壇がミラノ風もしくはロンバルディア風,堂内はバロック的,石棺,墓碑の彫刻とフレスコ画断片は中世末期,ルネサンスの遺風も若干あって,絵画はマニエリスム,バロックの宝庫,この重層的で複雑な構成がまさにミラノ的に思える. |
![]() 「聖ペトロニッラの埋葬」のコピーの前で サン・マルコ教会 |
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