フィレンツェだより番外篇
2009年10月7日



 




サンタンブロージョ聖堂
前庭(アトリウム)から聖堂と鐘楼を仰ぎ見る



§ミラノを歩く - その6 (教会篇4)

ミラノの「中世」を体感できる教会は,サンタンブロージョ聖堂,サンテウストルジョ聖堂,サン・シンプリチャーノ聖堂であろう.


 サンタンブロージョには古代末期のモザイクも残っているが,その点は,

 ・サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂

にも古代末期のモザイクがあり,中世を感じさせるフレスコ画もある.

 ・サン・マルコ教会

は,マニエリスム,バロックの芸術作品に満ちているが,ロンバルディアのジョット派作とされるフレスコ画の断片や,中世の彫刻が施された石棺や墓碑もある.

 これらの教会は由緒からいっても,現在見られる建物からいっても堂々たる大教会である.どの教会にもルネサンスの遺産もある.



 前回のミラノ行で,たまたま開いた時間にサンタンブロージョ聖堂に寄ることができ,アルプス以北の有名なロマネスク諸教会や,同じイタリアでもピサ周辺や,南イタリアのプーリア州のロマネスク建築とはだいぶその風を異にする,優雅さと豪壮さを兼ね備えたロンバルディア独自のロマネスク聖堂の外観にすっかり魅せられた.

 後陣の半穹窿型天井のモザイクを,それがあることを知らずに見たことで,古代末期のキリスト教の歴史を伝える教会であることを知った.この教会は,古代末期,ロマネスク,ゴシック,ルネサンス,マニエリスム,バロックから,18世紀の後期ヴェネツィア派のティエポロまで,各時代の芸術に満ちている.

写真:
ジョヴァンニ=バッティスタ・
ティエポロのカンヴァス画の
ある礼拝堂


 それでも,おそらく作者の名声や,素人目にもわかる芸術性の高さという点では,フィレンツェを代表する大教会であり,中世を代表する二大修道会のそれぞれのフィレンツェにおける拠点であった,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会,サンタ・クローチェ教会には遠く及ばないだろう.

 サンタンブロージョに見られる宗教芸術を創りあげた作家たちは,僅かにティエポロを除いて,ミラノの歴史や芸術に関心のない人には初めて耳にする,言ってみればロンバルディア・ローカルの人たちと言っても過言ではない.しかし,その点がまさに,このサンタンブロージョ聖堂の魅力に思える.



 サンタ・マリーア・ノヴェッラのギルランダイオはルネサンスを代表する巨匠だし,サンタ・クローチェのジョットは,人類の歴史に燦然と輝く大芸術家だ.サンタ・マリーア・ノヴェッラには若きジョットの神々しい「キリスト磔刑像」もある.

 では,サンタ・マリーア・ノヴェッラの「緑の回廊」の通称スペイン人礼拝堂にあるアンドレーア・ボナイウートの壮大なフレスコ画,サンタ・クローチェの中央祭壇を飾るフィリーネの親方の十字架型キリスト磔刑像,アーニョロ・ガッディのフレスコ画「聖十字架の物語」などはどうであろうか.

 これらの作品は,魅せられた人々にとっては,何にも換え難いほどの価値を持った芸術家のものだが,おそらく多くの人にとっては知識も関心もない存在に過ぎないだろう.彼らは,その意味では,それぞれの時代を代表する天才的な芸術家でありながら,トスカーナ・ローカル,フィレンツェ・ローカルな存在だったのだ.

 私が好きなマーゾ・ディ・バンコやスピネッロ・アレティーノは,ローカルを超えた画家だろうか.


ヴァザーリの『芸術家列伝』
 1年間イタリアに滞在して,日本に帰国したらしたいと思っていたことの1つに,ヴァザーリの『芸術家列伝』の日本語訳を読むことがあった.この本は,『ルネサンス画人伝』の正・続,『ルネサンス彫刻家・建築家列伝』として大部な3冊の本として白水社から出版されている.大きな本なので,多分全訳なのではないかと想像していたが,そうではなかった.少なくとも,マーゾとスピネッロの伝は訳されていない.

 マーゾに関しては,すでにヴァザーリがジョッティーノなどと混同していて,厳密に彼の「伝」とは言えないが,それでもジョットの弟子のトンマーゾという画家が取り上げられている.

 スピネッロに関しては思ったより詳細な記述がなされている.フィレンツェ出身の家系とは言え,本人はアレッツォに生まれてアレッツォで死に,世間から「アレッツォ人」(アレティーノ)と認識されていたスピネッロに関しては,アレッツォ人ヴァザーリの身びいきもあるかも知れない.

 今回再訪したブレラ美術館には,前回なかったスピネッロ・アレティーノの祭壇画断片の聖人像が新たに購入され,展示されていた.イタリアを代表する大美術館であるブレラがマーケットでお金を出して購入したからといって,大芸術家であるとは言えないだろう.しかし,少なくとも今でも関心を持たれる芸術家であることはこのことからもわかるし,少なくともトスカーナの諸方では彼の作品を見ることができ,それなりの存在感を持った画家だと思う.

 『画人伝』は正篇が15人,続篇が40人を選択し,『彫刻家・建築家列伝』は27人を扱っている(今,確認したら,先日言及したレオーネ・レオーニが最後に載っている.あらためて読んでみたい).『彫刻家・建築家列伝』の訳者は,美術史,建築史の専門家たちだが,『画人伝』翻訳を企画した中心的訳者は高名な比較文学者で,英,仏,伊語に堪能な方だ.ダンテ『神曲』の個人訳もある平川祐弘氏である.

 続篇の「あとがき」を読むと,若い頃(この先生の若い頃は1950年代であり,国外に行くということの意味が,現在とは全く違う)にペルージャ大学で勉強した際に,美術史の講義をなさっていたイタリア人教授の情熱,学識,人格に感動したことが語られ,おもしろい読み物になっている.

 ウンブリアの小さな町々を訪ね,ペルジーノやルーカ・シニョレッリの作品を見た思い出は感動的だ.最後に挙げているブラウニングの詩は関心のない人には退屈だろうが,やはり比較文学の大先生が書かれた文章だなと思う.

 この続篇「あとがき」に,取り上げた画家たちの選択基準が示されている.「偉大と目される画工」,「物語として面白い伝」ということであった.なにせ全部で約200人の伝が立てられている『芸術家列伝』,3冊合わせて82人の中に取り上げらていないからと言って,マーゾやスピネッロが訳書「あとがき」でいう「二流,三流の画工たち」と切り捨てられているとは言えないであろう.

 訳書には,タッデーオ・ガッディ,ベルナルド・ダッディ,アーニョロ・ガッディ,オルカーニャ兄弟,ヤコポ・デル・カゼンティーノ,ロレンツォ・モナコなどのフィレンツェの芸術家たち,平川先生が評価するシエナ派でもタッデーオ・ディ・バルトロ,アペニン以北の画家たちでもアルティキエーロやコスメ・トゥーラなども取り上げられていない.

いわゆる「ルネサンス」からマニエリスム初期の有名画家を優先したとの印象は免れないが,それは訳者たちの見識というよりは,20世紀後半という時代の嗜好を反映しているのであろう.


 もちろん,フィレンツェの画家ではボナイウートは訳書で取り上げられていないし,レオナルデスキに関してはそもそもヴァザーリが独立の伝をたてていない.レオナルデスキの同時代の先輩で,ロンバルディアを代表する芸術家フォッパの伝もない(エヴリマンズ・ライブラリーの英訳第4巻に付されている索引に拠れば,全巻で3箇所言及がある.英語版ウィキペディアにも彼がパドヴァで修業したとヴァザーリが語っていることに触れている).

 まずヴァザーリのふるいにかけられ,さらに平川先生のふるいにかけられた画家たちのなかにも十分に偉大で,魅力的な人々がいる.サンタンブロージョの堂内で,フィレンツェの大芸術に満ちた教会を想い起こしながら,そんなことを考えた.

ミラノにはミラノのルネサンスがあり,芸術があるのだ.


 「中世」を体感させてくれるという意味では,ミラノの諸教会はフィレンツェにまさっているが,それも総合的な魅力のことを考えると小さなことに思える.



 前述のようにサンタンブロージョでは,ジョヴァンニ=バッティスタ・ティエポロの2つのカンヴァス画「聖ウィクトル(サン・ヴィットーレ)の殉教」,「奇跡的に難破と逃れた聖サテュルス(サン・サティロ)」だけが,有名画家の作品だが,これらは私にとってはさほど魅力はない(それでも,絵はがきはしっかり買って来たが).

 ミラノのルネサンスを創った一人であるベルゴニョーネの「復活のキリスト」も美しい絵だがそれほど重要ではない.この教会の魅力は何と言っても,ロンバルディア・ロマネスクの聖堂と鐘楼,そして荘厳さと優美さを兼ね備えた堂内であろう.

 細部にこだわることにはそれほど意味はないが,それでも,黄金の祭壇,石造の立派な天蓋つき聖龕,後陣のモザイク,立派な浮彫や彫刻のある説教壇,柱頭の彫刻が立派な柱,堂外に置かれている石棺や石碑,など,サンタンブロージョの魅力は尽きない.ドゥオーモの壮麗さに比して,あくまでも地味だが,ミラノに行く機会があれば,サンタンブロージョを訪れないことは今後考えられない.

写真:
サンタンブロージョ教会
堂内


 前回確認できなかった,オルフェウスとサロメの浮彫は今回も確認できなかったが,右側廊に券売受付と入口がある宝物庫は拝観した.

 ティエポロの絵にも出てくる聖ウィクトル(サン・ヴィットーレ)が,キリストのように丸天井の中心に描かれたモザイクを見ることができた.そこには,幾人かの聖人たちの姿も描かれており,そこには聖アンブロシウス(サンタンブロージョ)もいる.彼の最も古い図像だそうだ.

写真:
宝物庫の天井モザイク



ミラノの守護聖人
 フィレンツェの守護聖人として,洗礼者ヨハネが有名だが,都市として有力になってから,有名な聖人を前面に押し出したが,聖レパラータ,聖ミニアス(サン・ミニアート),聖ゼノビウス(サン・ザノービ)が知られる.シエナは「聖母マリアの都市」(石鍋真澄『聖母の都市シエナ』吉川弘文館,1988など)として知られるが,シモーネ・マルティーニ,リッポ・メンミ共作の「受胎告知」に出てくる聖アンサヌスはあまり有名ではない.

 イタリアには各都市に複数の守護聖人があり,様々な土地で,異なる守護聖人の名前を聞いた.ウィキペディアには,ミラノの守護聖人は英語版,イタリア語版ともに,「聖アンブロシウス」(サンタンブロージョ)とある.それ以外の守護聖人の名前はないが,たとえばドゥオーモの前身だった教会の名前になった聖テクラ,そ他の教会の名前に冠されている聖サテュルス(サン・サティロ),聖エウストルギウス1世(サンテウストルジョ),聖ウィクトル(サン・ヴィットーレ),聖シンプリキアヌス(サン・シンプリチャーノ),聖ナザリウス(サン・ナザーロ),聖ケルスス(サン・チェルソ)(ナザリウスとケルススに関する英語版ウィキペディア)などは,他の都市ではあまり聞かないかも知れない.

 聖アンブロシウスは,ドゥオーモ壁面の歴代大司教一覧に拠ると,ローマ人(ロマーノ)とあるが,ローマ帝国の地方総督だった父のもと,現在のドイツのトリアーで生まれ,ローマで教育を受けた.聖サテュルスは彼の兄で,やはりトリアーで生まれた.法律家からローマ帝国の地方総督となったが,信仰のため高位を捨て,アンブロシウスが第11代大司教となっていたミラノ(メディオラヌム)に行った.殉教者ではないが,迫害に屈せず信仰を守った人を「証聖者」(リーダーズ英和辞典のconfessorの2を参照)というそうだが,サテュルスはそれにあたる.

 エウストルギウス1世(左写真:サンテウストルジョ聖堂の12世紀のフレスコ画)は第9代,シンプリキアヌスは第12代の大司教で,それぞれアンブロシウスと関係が深い人物たちで,ミラノの宗教指導者として活躍した.いわゆる「司教聖人」である.

写真:
エウストルギウス1世
サンテウストルジョ聖堂
12世紀のフレスコ画


 エウストルギウスの大司教就任が343年,シンプリキアヌスの退任(=死)が400年であるから,アンブロシウス,サテュルス,エウストルギウス1世,シンプリキアヌスは,いずれも4世紀の古代末期を生きたローマ帝国人であったことがわかる.

 テクラ,ナザリウス,ケルススは「殉教聖人」である.

 テクラは正典外文書(アポクリファ)に登場する女性で,使徒パウロに感化され,行動をともにし,様々な奇跡を経験した.その文書に殉教の記録はないが,伝説と,『イングランド教会史』の著者として知られるベーダの『殉教者列伝』によって,殉教聖人とされているようだ.彼女の墓はシリアのマルアにあり,ローマにも「聖テクラのカタコンベ」があって,スペインのタラゴナの守護聖人だそうだが,今のところ,4世紀には彼女の名を冠した教会があり,アンブロシウスの言及がある以外にミラノとの関連での情報はない(以上,主たる情報源は英語版ウィキペディア).どこかで,ふと見つけられるほど,簡単なことなのかも知れないが,残念ながら今の私にはわからない.

 ウェブページでの検索に拠ると,エル・サルバドル(「救世主」という名前の国)にはサンタ・テクラという都市があるようなので,やはりスペイン経由の崇敬の結果だろうか.東方正教会でも聖人として崇敬されているとのことである.「貞潔」がキーワードとなるのは,多くの古代女性殉教聖人と共通しているので,古代キリスト教の性格の一面を表しているだろう.

 ナザリウスはローマ生まれで,父はユダヤ教徒もしくは,その他の異教徒で,母はやはり殉教聖人の聖ペルペトゥアとされる.ローマからミラノなどで布教していた彼が,追放されてガリアに行き,そこで9歳の子供だったケルススをその母親から託され,キリスト教徒として育てた.2人は迫害され,拷問され,投獄されながら信仰を捨てず,現在のジュネーヴ,トリアーで布教し,奇跡を経験しながら,最終的にジェノヴァからミラノに戻り,そこで斬首された.ネロの時代が伝説の背景として想定されているらしいので,後1世紀半ば過ぎ,ごく初期の殉教聖人ということになるが,この時代設定に関しては古代末期でもすでに不確定だったようだ.

 ミラノ司教区博物館には,カミッロ・プロカッチーニ「聖ナザリウスと聖ケルススの殉教」(1629年作)が見られ,ミラノ市内のサン・ナザーロ・マッジョーレ聖堂,サンタ・マリーア・プレッソ・サン・チェルソ教会(厳密にはこのバロック風教会に隣接するロマネスク教会であるサン・チェルソ教会が聖人の名を冠したもの)は,彼らの名を冠している教会であり,サンタンブロージョ聖堂にもサン・ナザーロ礼拝堂がある.伝説上の人物たちとは言え,北イタリアから,南フランス,南西ドイツ,スイスのキリスト教拡大の歴史を想起させる聖人たちと言えよう.彼らがミラノで殉教したとされ,この町で崇敬されたのは,北イタリア以北のローマ帝国におけるミラノの地位を考えさせるだろう.

 ムーア人(マウルス)という添え名を持つ聖ウィクトルは,北アフリカのモーリタニアで生まれミラノで死んだ殉教聖人だ.ローマで皇帝親衛隊の兵士となったが,キリスト教徒となり,異教の宗教施設を破壊し,逮捕,拷問,処刑された.彼の殉教は303年頃のこととされる.アンブロシウスがミラノで,彼への崇敬を促進した.サンタンブロージョの宝物庫にあるモザイクはその最も古い名残であり,貴重な資料と言えよう.

 ついでだが,ナザリウスに影響を与えたとされるゲルウァシウス(ジェルヴァーゼ)とプロタシウス(プロターゼ)の兄弟(英語版ウィキペディア)もまた,ミラノで崇敬されている殉教聖人で,父はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂にその名を冠されている殉教聖人ウィタリス,母もまたミラノで殉教した聖ウァレリアとされる.

 ローマ帝政期のいつ殉教したかも不確かになっていた彼らの遺骨をアンブロシウスが発見したとされ,現在はサンタンブロージョ聖堂の地下教会(クリプタ)のアンブロシウスの遺体とともに祭られている.この「聖遺物」というのは,なかなか私たちには理解しにくいが,仏舎利が釈迦の遺骨で,キリスト教ではイエスに由来するもの(聖骸布や聖十字架など)にあたり,仏弟子ゆかりのものがあるとすれば,それに,あるいは,日本の各宗開祖ゆかりの品々に対応するだろうか.

 サンタンブロージョ教会を拝観すると,こうして紀元後古代初期から,古代末期のキリスト教の歴史に思いがいたる.多くは伝説であり,典拠がある場合でも,傑出した人物とは言え,カトリック教会の体制を創っていった人々の証言だ.これが「歴史」とは言えないことはよくわかるが,それを踏まえた上で,多くの人々信仰の拠り所となったことは,きちんと把握しておくべきだろう.

 サンタンブロージョで,ミラノに関連する諸聖人に思いが至り,少し寄り道が長くなったので,サンタンブロージョの補足と,その他の教会に関しては,「続く」としたい.






サンタンブロージョ聖堂
宝物庫にて