フィレンツェだより番外篇
2009年9月29日



 




サン・ゴッタルド・イン・コルテ教会
鐘楼



§ミラノを歩く - その5 (教会篇3)

 マニエリスムとバロックが気になったので,一応,

 ヴァルター・フリートレンダー,斎藤稔(訳)『マニエリスムとバロックの成立』岩崎美術社,1973

という本を読んでみた.わざわざ日本語になるくらいだから定評のある名著なのであろう.原著は1957年に英語で出版されたが,もともとは1914年から1929年までにドイツ語で発表されたもので,「反古典主義の様式」と「反マニエリスムの様式」の2つの論文からなっている.

 前者の論文は要するに,ミケランジェロを軸に,ポントルモ,ロッソ・フィオレンティーノ,パルミジャニーノの重要性,独創性を強調したもので,現在の常識から言うと,知識の確認になるような内容に思えた.あるいは,この人の説が現在まで大きく影響しているのかも知れない.ここからは,少なくともミラノ,ロンバルディアのマニエリスムの知見は得られなかった.

 それに比べると,後者はもう少し,踏み込んだ内容に思えた.特に,一般にアンニーバレ・カッラッチほどには評価されていないルドヴィーコ・カッラッチの,転換点としての重要性と,ロンバルディアのマニエリスムからバロックの画家をある程度以上に論じていて,大変参考になった.

 取り上げられていたのはボローニャ出身のプロカッチーニ一族,ジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(通称チェラーノ)で,彼らやカラヴァッジョを論じるのに,ブレーシャの画家モレットの重要性を強調し,図版の最後に使われていたのが,サンタ・マリーア・デッラ・パッショーネ聖堂で見たダニエーレ・クレスピの「聖カルロ・ボッロメーオの正餐」であった.

 マニエリスムからバロックへの流れの中で,ミラノの聖人カルロ・ボッロメーオの意義を控えめに,本文と注で強調している点も注目された.

写真:
ダニエーレ・クレスピ作
「聖カルロ・ボッロメーオの正餐」


 この本は,ドイツ語の論文はもとより,英訳原著でも私が生まれる以前の刊行であり,翻訳が出た時点で私は中学生なので,随分長い期間読むチャンスがあったわけだが,今回初めて読んで,かなりの絵を直接見た後なのでカタカナの固有名詞も抵抗なく読めた.イタリア人の固有名詞のカタカナ表記がこなれていないのは,まだ日本人がイタリア語を学ぶのがそれほど一般的ではなかったからなのだろう.

 その意味でも,若桑みどりという人は偉大に思える.イタリアで学び,芸大で教えるほどイタリア語が堪能だった彼女が英語から訳した,

 アーノルド・ハウザー『マニエリスム』岩崎美術社,1970

も是非読んでみたいところだが,今は,その余裕がない.この日本語訳で全3巻の大著を是非,近いうちに読んでみたいが,今のところ,書架の最下段で重しの役を果たしている.

 ともかく,ミラノ,ロンバルディアのマニエリスムからバロックの絵画に関しても,ある程度の知見が得られた.フィレンツェやローマで多少見聞した画家たちに関しては,少しは異を唱えたいような気持ちもあるが,ミラノで活躍した画家たちに関しては,全く知らなかったので,大変参考になった.


サン・ゴッタルド・イン・コルテ教会
 15日の午前中(実際にはもう昼過ぎだったが),最後に拝観したのは,サン・ゴッタルド・イン・コルテ教会(英語版イタリア語版)だった.

 この教会に関しては,『地球の歩き方』など日本語ガイドブックには情報がないが,よく見ると,ガイドブックに載っているやや詳細な地図にはドゥオーモの南隣の「王宮」(パラッツォ・レアーレ)という建物の一部に教会マークがあり,これが教会の名称に付された「イン・コルテ」(宮廷に)の由来だろう.

この教会の鐘楼は美しい.


 現在「王宮」と称されている公爵宮殿の当時の主だったミラノ公爵アッツォーネ・ヴィスコンティの個人礼拝堂としてできたのが1330年,痛風(ゴッタ)に罹患していた君主が,痛風患者の守護聖人ゴッタルドの名を冠して教会になったのが1336年なので,このゴシック風の塔もそれほど古いものではないだろう.

 しかし,多分,ミラノの鐘楼で一番美しいものではないかと思え,私たちはゴッタルドの塔にすっかり魅せられてしまった.宿からの行き帰りに,必ず仰ぎ見たのが,ドゥオーモとサン・ゴッタルドの鐘楼だった.この2つが私たちにとってのミラノだと言っても過言ではない.

写真:
サン・ゴッタルドの鐘楼
頂上には天使の像


 この教会には,他に3つの見ものとされるものがある.

 ピサの彫刻家ジョヴァンニ・ディ・バルドゥッチョ作の「アッツォーネ・ヴィスコンティの墓碑
 ジョット派と言われる無名の画家のフレスコ画
 ジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(イル・チェラーノ)のカンヴァス画「聖カルロ・ボッロメーオ

だ.ジョット風と考えられるフレスコ画,ピサの彫刻家の墓碑など,トスカーナを感じさせる芸術もありながら,ヴィスコンティとカルロ・ボッロメーオが出てくるところに,ミラノの教会を感じる.

ジョット派と言われる無名の画家のフレスコ画
「キリスト磔刑」



サンタ・マリーア・プレッソ・サン・サティロ教会
 15日の午後は,スフォルツァ城を訪れ,絵画館を中心に幾つかの博物館を見学したが,その帰り,サンタ・マリーア・プレッソ・サン・サティロ教会(以下サティロ教会)(英語版イタリア語版)を拝観した.

 堂内写真禁止なので,写真は紹介できないが,イタリア語版ウィキペディアにリンクされているウィキメディア・コモンズに豊富な写真がある.それを参照してもらうと多少わかるが,この教会で最も見るべきものとされているのが,ブラマンテが設計した「後陣」だ.正面から見ると,奥行きがあるように見えるが,両脇のどちらかに立つと,実は錯覚を利用した構造であることわかる.

 「後陣」は裏側にまわると,普通の教会と違い,十字架の頭部のように突き出ているのではなく,ただの平べったい壁である.ファサードは平凡で,新しい教会に見えるのだが,裏にまわると,複雑な構造の建造物であることがわかる.

写真:
教会裏手から撮影
正面は洗礼堂


 その際,一見「後陣」に見えるのは,洗礼堂で,これと,やはりブラマンテ作の円蓋,ミラノで現存最古とされるロマネスクの鐘楼(10世紀)など,建物がこの教会の最大の魅力と言える.



 堂内も熱心に見たせいか,一見してサラリーマンのように見えるが,聖具室係りの方なのだろうか,中年の男性が,私たちを呼びとめ,別室から持ってきた指し絵入り冊子,

 Andrea Palestra, San Satiro, n.p., n.d.

を下さった.イタリア語の勉強のためにも熟読玩味しよう.

 サティロ教会の鐘楼は10世紀だし,それほどは古くないが,サン・ゴッタルドの鐘楼も14世紀,かろうじて中世のものだ.次回は,ミラノの教会に見られる「中世」を考えたい.



 例によって,季節が良くなったところで,妻が山口の実家にしばらく帰省するので,フィンレツェが出て来ない「フィレンツェだより」番外篇は,一週間ほど中休みとしたい.「夏休み」中も会議と校務に追われたが,ついに授業も始まったので,連載のペースはおちるけれども,折角の機会なので,自分のイタリア理解のために,今回のミラノ行をもう少し整理して,報告を続けたい.





夕食後,ゴッタルド教会の脇を通って
ドゥオーモを見ながら宿に帰る