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§ミラノを歩く - その4 (教会篇2) 大都市ミラノの「地元の画家たち」 サンタ・マリーア・デッラ・パッショーネ教会に見られた画家たちを含めて,ミラノで活躍したマニエリスム,バロック以降の画家を整理してみる.
長い一覧表になってしまった.大都市ミラノの「地元の画家たち」は多様だ. 大体生年順に並べたが,分かっている限り,確定した同年生まれはマッツッケッリとジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピのみである.「頃」を含めても,遠い親戚同士というアントーニオ・カンピとベルナルディーノ・カンピくらいだろうか. 時代が違うとは言え,私たちの同時代にどれだけの画家がいるかを考えれば,ここに名前の挙がった人々は,少なくとも当時は一流と考えられた芸術家と思われていたことは,容易に想像がつく.この中から,ミケランジェロ・メリージ,通称カラヴァッジョが育ったのだ. 彼らの多くは,ミラノ,ロンバルディア州,ピエモンテ州のミラノの影響が強かった地域の出身で,その中ではボローニャ出身の画家一族プロカッチーニ家が目立つが,その家の最後の有名画家エルコレ・イル・ジョーヴァネはミラノで生まれ,ミラノで死んだ. 最後に挙げたジュゼッペ・マリーア・クレスピは,昨年ボローニャで作品を見て以来,私たちが注目している画家だ.彼はブレラ絵画館に作品が収蔵,展示されている以外はミラノとは縁が薄いように思われる,はっきりとした「ボローニャの画家」だ.しかし,上の表にもあるように,クレスピという姓の画家が他にもいるので,あえて挙げてみた,3人のクレスピは,時代も出身地も違い,3人とも血縁関係はないようだ. ![]() 実際,かなりの人に父親や親族に画家がいることが多い.当時の芸術家に家職を継承する職人的性格があったことは,ある程度は認めても良いであろう.それでも,よく知られた画家を数代に渡って輩出し,なおかつミラノを中心に,もしくはミラノ周辺で活躍したのは,カンピ一族とプロカッチーニ一族に限られるようだ.
これは,今後の課題となったが,とにかく,ミラノで教会,美術館を巡るにあたって,上記の画家たちの名前をまったく意識しないということは不可能だ.
![]() 翌15日は,午前中にドゥオーモを拝観して外に出たら雨が降っていた.一旦宿に戻ったが,その後3日間雨だった. 天気予報を,TVと新聞で毎日確認したが,ずっと思わしくなかった.一昨年,同じくらいの時期にヴェローナ,アッシジ,ラヴェンナを訪れたときは,特に雨に降られなかったので,これほど雨にたたられるとは予想していなかった.もう雨季になりかかっているでのあろう.地方によっては大雨による洪水に見舞われている映像をTVで見た. この日は,ともかく一旦ドゥオーモのすぐ裏にある宿に戻り,この後に予定していた,ドゥオーモの屋上は雨天で断念し,近いところにある教会を訪ねて見ようということになった. サント・ステーファノ・マッジョーレ教会 一番近いと思われたサント・ステーファノ・マッジョーレ聖堂を拝観することから,ミラノの諸教会詣では始まった. 厳密にはすぐ隣のサン・ベルナルディーノ・アッレ・オッサ教会の方が近いのだが,宿の前のフォンターナ広場から見えるこの2つの建物が,それぞれ別の教会とは認識できず,サン・ベルナルディーノの方は外観だけで,結果的にサント・ステーファノだけの拝観となった.
イタリア語版ウィキペディアにリンクされているウィキメディア・コモンズの映像によれば,ジュゼッペ・メーダが設計したサン・テオドーロ祭壇に,カミッロ・プロカッチーニのカンヴァス画「聖テオドロスの殉教」が見られるはずだったが,側廊に10以上ある礼拝堂はすべて封鎖されていた. 左翼廊の後陣側奥の礼拝堂と,右翼廊からさらに奥に行く,多分聖堂からは独立している礼拝堂は開いていて,絵画も複数あったが,鑑賞の対象というようりは純粋に信仰の助けであろう.ともかく,この教会ではカミッロ・プロカッチーニの絵は見られなかった. この聖堂の後陣前の中央祭壇には,丸屋根を数本の柱が支える小神殿(テンピエット)型の祭壇があり,後陣のアーチ型天井の前壁には,キリスト磔刑像が掲げられていた.これは,ミラノの随所で見られる形式で,私が今まで気づいていなかっただけかも知れないが,他のイタリア諸地方では見られなかったような気がする. ファサードをはじめとする外観は新しく,決して,私たちが仮にロンバルディア型と思っているタイプではなかったが,やはり,まぎれもなくミラノの教会の特徴を備えているように思われた. サン・ベルナルディーノ・アッレ・オッサ教会 サン・ベルナルディーノ・アッレ・オッサ教会では,ヴェネト州北方ベッルーノの出身で18世紀のヴェネツィアで活躍したセバスティアーノ・リッチの絵が見られるはずであったが,今回は拝観するに至らなかった. 外観はこの目で見たが,堂内は写真でしか見ていない.イタリアに多いラテン十字のバジリカ型ではなく,ギリシア十字の集中型の建築で,このタイプの教会もミラノ市内ではよく見られたように思う.記憶が曖昧だが,トスカーナ周辺では,プラートで見たサンタ・マリーア・デッレ・カルチェーリ教会以外に,あまり記憶はない. サン・ベルナルディーノ・アッレ・オッサは,サント・ステーファノ側から見る限り,普通の邸宅(パラッツォ)の上に八角形のお堂のような建物が乗っているように見える.これが最後まで,教会だと気づかなかった理由の一つだ.このような建て方はめずらしいように思えた. 堂内も写真で見ると,丸く見えるが,多分オクタゴンと言われる八角形の堂塔に対応している形なのだと思う.フォンターナ広場側から撮った写真を見ると,遠目にはラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の外観に似ている.
サンタントーニオ・アバーテ(大修道院長アントニウス)教会 次いで,サン・ナザーレ・マッジョーレ聖堂を拝観するために,雨中を南へ向かって移動した. 途中,サンタントーニオ通りを下っていると,まるで旧教会(エクス・キエーザ)のように見える建物があった.実際には現役の教会で,拝観候補にも一度はリストアップしていたサンタントーニオ・アバーテ(大修道院長アントニウス)教会であった. おそるおそる入っていくと,多分ボランティアの方であろう,年配の女性と男性が英語版のパンフレットを下さり,色々教えてくださった.「写真を撮っても良いですか」と聞くと,例によって「フラッシュ無しなら」(センツァ・フラッシュ)良いとおっしゃって下さった. 絵画の前に置いてある写真付きの立派な説明板には,トゥーリング・クラブ・イタリアーノの名前が入っていた.
予習段階で,ある程度は予想していたが,この教会は,比較的狭い堂内に華やかなマニエリスム・バロック絵画が満ちた空間であった. ジョヴァンニ・バッティスタ・クレスピ(通称チェラーノ)の「キリスト復活」,「福者ガエターノの法悦」,フランチェスコ・カイロの「福者アンドレーア・アヴェッリーノの失神」など,バロック的画題である神秘体験としての恍惚の絵を始めとして,カミッロ・プロカッチーニの「聖母子と天使たち」と「聖アントニウスへの誘惑」,ベルナルディーノ・カンピの「聖母子と聖人たち」,アントーニオ・フィジーノの「聖母の誕生」,ジュリオ・チェーザレ・プロカッチーニの「受胎告知」などが飾られている.まさにミラノのマニエリスム・バロック絵画の宝庫と言えるだろう. 特に翼廊のフランチェスコ・マッツッケッリ(通称モラッツォーネ)の「三王礼拝」の近くには,ボローニャの有名な画家一族の一人ルドヴィーコ・カッラッチの「牧人礼拝」が見られ,見応えがあった. 見た記憶がないのだが,パルマ・イル・ジョーヴァネの「ゴルゴタへの道」,ジョヴァンニ・バッティスタ・トロッティ(通称イル・マロッソ)の「キリスト昇天」もあったようである.前者はヴェネツィア派の画家として知られるが,後者はクレモーナ出身で,ロンバルディア,エミリア・ロマーニャ,ヴェネトで活躍した画家で,ミラノにも複数彼の作品が見られ,パンフィーロ・ヌヴォローネの師匠にあたるようなので,ミラノの絵画史にも重要な影響を与えたことになる. 目の前に迫ってくる豪華な装飾と,比較的小さな堂内にある「これでもか」というほどの質と量のマニエリスム・バロック絵画に圧倒されて,やや消化不良気味だったが,ボランティアの方々に親切にしていただき,充実した説明板と,頒価5ユーロで入手した案内冊子によって,この教会について勉強することができた.次回,機会があれば再訪して,十分な拝観をしたい. サン・ナザーロ・マッジョーレ聖堂 サンタントーニオ・アバーテ教会を出て,再び雨中を,ミラノ大学の入っているカ・グランダを横目に見ながら,サン・ナザーロ・マッジョーレ聖堂(サン・ナザーロ・イン・ブローロ聖堂もしくはサンティ・アポストリ聖堂とも)に向かった. 巨大で立派な後陣が見えたが,入口がわからず,小さい道を回りこんで,ポルタ・ロマーナ大通りに出ると,聖堂正面に大きな礼拝堂の建物が付け足されている変わった構造で,そこから入堂させてもらった.
昼休みに入る時間帯だったが,多分,ミラノ大学の学生たちと思われる大勢の若者が,係員にせかされるように着席して,何か宗教儀式が始まる雰囲気だったので,一目見渡しただけで辞去した.残念だが,教会は信者のものだから,しょうがない. この後,もう一つ教会を訪ねて,午前からの活動を終りとしたが,それは「明日に続く」としたい. |
朝陽の中 フォンターナ広場で |
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