フィレンツェだより
2007年4月1日−4月3日



 




夕陽に映える
ドゥオーモのファサード



4月1日(日曜日)

今日から4月,季節もやや春めいてきた.


 今日は日曜なので,バス通りもいつもよりは静かな朝だ.教会に行く人が多いようで,店もほとんどが休みである.中央市場も休みと聞いていたので,午前中,エッセルンガに買い物に出た.

 家の中は寒かったが,戸外は春の陽気だった.洗剤や肉,コーヒー・フィルターなどを購入.本やPCのマウス,マウス・パッドまで売っている本当にすぐれもののスーパーだ.


初コンサート,プレヴィン
 夕方,柳川さんにご招待いただいたアンドレ・プレヴィン指揮のコンサートを聴きに,テアートロ・コムナーレに行った.曲目はベンジャミン・ブリテンの「シンフォニア・ダ・レクイエム」,プレヴィン自身が作曲したイタリア初演の「ダイヴァージョンズ」,ベートーヴェンの交響曲4番であった.

 ブリテンの曲は確か,戦前の日本の皇紀2600年だったかを記念して,リヒャルト・シュトラウスをはじめとする当時の英・独・仏・伊の高名な作曲家たちに作曲を委嘱してできた曲の一つで,ただ皇紀を記念する曲が「レクイエム」とは何だということで,お蔵入りか受け取り拒否になったものではなかったか.そういう意味では日本人の私たち(会場には他に何人かの日本人がいた)には無関係とはいえない選曲だ.もちろん,ただの偶然だが.サイモン・ラトルが若い頃に振ったCDは聴いたことがあるが,実演は初めてだ.これは大変良かった.

 もう老人になってしまったプレヴィンがよたよたと出てきて,腰掛けながらの指揮だったが,体力が衰えても天才は天才ということだろう.プレヴィンの演奏はCD以外では,NHKが放映したやはり彼自身の作曲になるオペラ「欲望という名の電車」を以前VHSで録画したのを,先日DVDに移す際にその指揮ぶりを映像でみただけで,もちろん実演は始めてだ.

 日本にはファンが多く,天才肌で颯爽とした芸術家というイメージだが,大きな頭を細く小さな体で支える老人という印象は否めない.それでもオーケストラを統率するカリスマを持った指揮者のように思えた.妻は十数年前にオーチャード・ホールでプレヴィンがジャズ・ピアノを弾いたトリオを聴いたそうだ.

 プレヴィン自身の曲は,サーヴィス精神に満ちた聞きやすい旋律に富み,それらをクラシックの技法で統一した作品に思えた.ベートーヴェンが私たちには一番聞きやすい曲だが,それでも実演で4番は比較的珍しいので堪能した.

最初のコンサートであるし,今日はわりと「キチンとした」格好をして行ったが,思ったより服装などは気にしなくても良いようだ.ただ,街路に満ちている人たちと,劇場に来ている人たちの雰囲気の違いに,それほど大げさなものではないかもしれないが,いわゆるヨーロッパの階級社会が垣間見えるような気がした.


 品の良い老人が多いのにも驚いた.良く見ると若い人もそこそこいたが,クラシック音楽の将来のためにも,元気の良い若者たちがもっと来れば良いのにと思わずにはいられなかった.

 コンサートが終わって外に出て,アルノ川沿いを歩いて帰路についた.7時近かったが夏時間になったせいもあり,まだ明るく,対岸で夕陽を浴びているサンタ・マリーア・デル・カルミネ教会(→ウィキペディア周辺地図など)が美しかった.サント・スピリト教会(→広場)の尖塔と丸屋根も綺麗だった.

4月2日(月曜日)

 今日は妻が学校(サント・スピリト広場にある語学学校)に行ったので,午前中,私は留守番である.冷蔵庫が新しい以外は備え付けの電化製品などは古い.建物は言うに及ばず(なにせ築400年以上とのことだから),使えるものは大事に使う精神だろう.日本にいるときほど時間に追われていないせいもあり,今のところ何とか対処できていると思う.

 古い洗濯機がようやく仕事を終え,あまり脱水できていない洗濯物を通りに面していない中庭側の窓の外にある紐に吊るす.私たちの部屋の干し場は北向きなので乾きは良くない.日本に比べれば乾燥した気候だが,日が落ちた後に室内に干しても,それほど良くは乾かないようだ.しかし,これからもっと日差しの強い季節になれば,その辺は改善されるだろう.

 機会があれば撮影した写真も紹介したいが,日本で享受していた便利さを忘れて,私たちはこの家が気に入っている.本当に良い家だ.



 昨年9月にローマに一週間弱滞在し,その間にユーロスターを使って,日帰りでフィレンツェに来た.その時の印象は,思ったほど美しくない,埃っぽい,観光客に溢れた古い小さな街というものであったが,今回はミラノ経由の飛行機で来て,フィレンツェの第一歩は空港だったこともあって,郊外に広がる住宅群や道路網,疾駆するものすごい数の自動車を最初に見て,ここはまぎれもなく現代の大都市なのだと思い直した.

 旧市街の中でも観光の核となる大聖堂ドォーモ(サンタ・マリーア・デル・フィオーレ教会)やシニョリーア広場,ウフィッツィ美術館を中心とする地域,サンタ・マリーア・ノヴェッラ教会があり,その名を冠したフィレンツェ中央駅のある地域,サンタ・クローチェ教会のあるやはり古くからの地区,ピッティ宮殿やサント・スピリト教会,サンタ・マリーア・デル・カルミネ教会があるアルノ川を越えた地域が,私たち外国人にとってのフィレンツェのイメージを形成しているし,これらの諸地域と名所があってこそのフィレンツェであるのは間違いがない.

 しかし,私たちが住み始めた,その周辺の旧市街,アルノ川の近くでもテアトロ・コムナーレのある地域,かつての城壁の外側にある郊外の住宅群などが,現代都市としてのフィレンツェを支えているし,私たちはまだそれを理解するにいたっていないが,観光以外の多くの近代的産業もまた,この街にあるであろうことは容易に想像される.



 フィレンツェと姉妹都市になっている京都にかつて8年半,周辺にいた時期も含めると11年暮らした.地方出身で東京の大学に学んだ私には,京都は観光地のイメージしかなかったが,実際に暮らしてみると,120万の大人口を抱えた近代的大都市で,寺社仏閣などの名所もさることながら,四季の移り変わりと自然が美しいすばらしい街だった.

 修学院や岩倉に住んで,朝に夕に比叡山を見上げながら暮らした日々は,本当に忘れがたい.それでいて,きちんと大都会の側面を持つ現代都市だったのだ.

 もちろん私にとって素晴らしかった京都を誰もが良いと思うわけではないし,まったくの異邦人だった私の単なる思い込みもたくさんあるだろう.それでも,私は当時京都が好きだったし,今でも好きだ.

来たばかりのフィレンツェの良さを,当然ながら私は理解していない.誤解したり,思い込みに酔ったりするほどの見聞もしていないが,かつて京都に暮らしたときのように,この街が好きだと思えるようなって,ここを去る日を迎えたい.


 あんなに長く住み,あんなに好きだった京都にも別れる日は来たのだ.それに比べれば,たった1年だけのフィレンツェ滞在,ここから何が得られるかは神のみぞ知っているが,好きにさえなればまた何時でも来ることができる.ともかく少しでも多くフィレンツェで,ここでしか見られない良いものをたくさん見て帰りたい.



 誰もいない部屋で,バス通りの喧騒を聞きながら,キケロの『カティリーナ弾劾演説』を読み始めた.重量制限もあるし,欲張らない方が良いと思い,今回は出版が遅れている仕事の他には,ウェルギリウスとホメロス,キケロの『弁論家について』と,ごく一部の演説と書簡,セネカの悲劇の一部とそれに対応するエウリピデスの原作,ギリシャ語とラテン語の辞書と文法書(大きいのは持って来なかった)しか持って来ていない.古典はほとんどがロウブ叢書なので,まず初心にかえってテクストを読むことに重点を置き,もし私程度の実力に不相応な研究的な疑問が生じた場合は,フィレンツェ大学の蔵書を利用させてもらうか,帰国後の課題とする.

 ルネサンスを生んだ街で,ホメロス,ウェルギリウス,キケロを読み,遅れている仕事は完成させる.これが今回の特別研究期間の主要な眼目だ.もちろん,見られるものは古代作品の中世写本を是非この目で見たいと思っている.


4月3日(火曜日)

 昨日(2日)の午後は妻の帰宅後,パスタの昼食をとって,3日(今日)の夕方に柳川さん宅に招かれているので,その手土産を買いに,フィレンツェで唯一の(?)デパート(グランデ・マガッズィーノ)「ラ・リナシェンテ」に行った.レプッブリカ広場にあるこの店で装飾用の造花を買った.

 ついでに観光すべく「ダンテの家」(!?)(→博物館)に向かったが,休みだったので,とりあえず胸像の前で記念撮影をした.

 その足で,月曜も開いているヴェッキオ宮殿(→ウィキペディアに写真)に行き,ミケランジェロの「勝利」やドナテッロの「ユディットとホロフェルヌス」といった傑作彫刻を見ることにした.

写真:
ダンテの家の壁面にある
ダンテの胸像の下で



ヴェッキオ宮殿
 大広間のミケランジェロの作品をはじめとする素晴らしい彫刻群,ヴァザーリとその一派の人たちの手になる壁画天井画は見応え十分だったが,数あるその他の部屋(フランチェスコ1世や教皇レオ10世ゆかりの部屋など)の絵や装飾にはそれほどは感心しなかった.というよりもあまりの多さに食傷したというのが正直な感想だ.

 ただ,フィレンツェ共和国の第二書記局の長だったマキアヴェッリの執務室であろうか,マキアヴェッリの肖像画彫像のある部屋があり,その存在を失念していたこともあって,これは嬉しい出会いだった.人間的にはサン・マルコのサヴォナローラよりもマキアヴェッリに共感するし,彼の作品は(翻訳全集も別巻を残してほぼ入手したし)今後も読み続けるだろう.

 マキアヴェッリは,サヴォナローラの政権が倒れた後のソデリーニ政権を支え,メディチ家の復帰で失脚したが,今度はメディチ家に接近しすぎて,再度メディチ家が追放されて,復職の機会を失い,失意のうちに死んだ.失職中に影響力の大きい著作を完成させ,在職中は有能で誠実な高級公務員であり,人間的にも魅力に富んでいた.塩野七生の『わが友マキアヴェッリ』(中公文庫)その他に,そのつきない魅力が語られている.

写真:
ヴェッキオ宮殿
「謁見の間」のフレスコ画


 ヴェッキオ宮殿がまだ現役の市庁舎であることは知識としては知っていたが,階段をおりて出口に向かう踊り場から覗いてしまった部屋から,かしこまった人たちを前に演説する声が聞こえ,何だろうと思ったが,コンシリオ・コムナーレと書いてあるプレートが見え,本当に市議会をやっていたのかと驚いた.


イタリア語の学習
 今日(3日)も妻はマキアヴェッリ(!!)という語学学校に行った.寓居からは遠く,どうしても路地や雑踏を通らなければ行けないし,自動車やバイクが激しく行き交う通りを横切らなければならないので,場合によっては通学を断念することも相談していたが,朝9時20分から午後1時までなので,思ったより通学が大変ではない(ただし通学時間は30分はかかるので楽ではない)のと,何よりも学校が外観から想像するよりもずっときれいで,親切で雰囲気が良かったので,ともかく,しばらくはイタリア語修行に通うことにしたようだ.

 私も大学院の学生のとき週2時間の授業で勉強した以外に,特にイタリア語を集中して勉強したことはないし,必要があれば辞書を引きながら論文や注釈を読むだけで,何よりも人とイタリア語で話すという経験が全くといってよいほど無い(早稲田のサバットリィ先生が見かねて時々コーチしてくれたくらいだ)ので,本当は学校に通ったほうが良いのだが,仕事と勉強の時間を確保するために断念した.

 これで在外研究の地にイタリアを選んだのは,我ながら本当にいい度胸だと思うが,何事も躊躇していては話が先に進まないので,サバットリィ先生からもらった教科書で準備をし,今また学校に通って熱心に勉強し始めた妻の復習につきあいながら,私も少しずつイタリア語修行をしていこう.知識としてイタリア語は確かにまだまだ私のほうが上のようだが,向こうは毎日イタリア語を話してくるのだ,たちまちこちらが教えてもらうようになるのではないかと思っている(期待している?).



 洗濯物は干したので,さて,これからまた『カティリーナ弾劾演説』を読み,妻の帰宅後(彼女が学校行ってる間は,私は家で翻訳その他の「お仕事」をする約束),昼食をとって,今日はサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会に行ってみようと思っている.その後,夕方はインディペンデンツァ広場の前で待ち合わせて,柳川さんのお宅にお邪魔させていただく.

 昨日から陽気がよくなり,外は暖かく,洗濯物もよく乾く.しかし今日もそうだがまだ,午前中の家の中は寒いくらいだ.午後の外出が楽しみだ.まずキケロ,それからウェルギリウスを読んで,原稿を書こう.