フィレンツェだより
2007年3月



 




アルノ川と
フィレンツェの市街



3月29日(木曜日)

フィレンツェ到着!
 26日にフィレンツェに着いて,すでに4日目を迎えた.26日の午後1時に成田を出発,時差の関係で同日の午後9時40分にフィレンツェ空港に到着した.

 私たち夫妻の大学時代の同級生で,江戸時代を専門とする史学者,谷口眞子さんの高校時代の後輩でフィレンツェ歌劇場のヴィオリスト柳川さんと,彼女の同僚でチェリストのアンナさんが出迎えに来てくださっていて,アンナさんの車でアパートまで送っていただく.

 アパートは築400年くらいとのことで,住居としては古風で趣はあるけれども,設備の古いのは否めず,石造りの家で過ごすヨーロッパの冬は辛いと聞いてはいたが,聞きしにまさる冷え込みであった.また照明に対する彼我の感覚の違いか,ともかく暗くて,最初の夜は気の滅入る感じは避けられなかった.

 ただ熱いお湯がすぐにでるお風呂と,暖かいベッドの寝心地の良さによって本当に救われ,目覚めたときにはともかく前向きに活動する気力が沸いてきた.


中央市場(メルカート・チェントラーレ)
 27日の午前中,柳川さんが訪ねて来てくださって,近くの中央市場(メルカート・チェントラーレ)を案内していただく.

 1階の肉類と,2階の野菜売り場は聞きしに勝る規模で,そこで買った野菜のうまさは,これはイタリアに来て良かったと思わせてくれるものであった.

 サン・ロレンツォ教会周辺にずらりと軒を並べる露店を尻目に,柳川さんが紹介してくださった日本のものを含むアジア食材の店「ヴィーヴィ・マーケット」と廉価な衣服を商う「オヴィエッセ」も私たちにはたいへん有益であった.


滞在許可申請
 日本でのヴィザの取得にもそれなりの苦労があったが,何よりも現地での滞在許可申請が難しいと聞いていたので,午後はレプッブリカ(共和国)広場の近くにある中央郵便局に行き,滞在許可のための申請書をもらった.

 昨年までは直接,警察署(クェストゥーラ)に出頭して延々と並ばされた上に,書類を突き返されて何度も通う羽目になっていたらしいが,確か昨年12月からその点が大幅改善されたとのことで,以前と同じく,最終的にはその行政区の警察署長(クェストーレというイタリア語はラテン語のクァエストルか来ていて,古代ローマでは財務官と訳されることの多い官職名で,キケロもそのキャリアをそこから始めている高級官職の出発点だ)の許可が必要だが,現在は郵便局が窓口となって申請を受け付けている.

 私たちも郵便局で親切そうな中年の女性係員から書類を受け取った.

寓居に持ち帰り,早速書類を広げてみたが,申請書はおろか,手引きもすべて(当たり前だが)イタリア語なので,私たちの文化教養に偏した貧弱なイタリア語ではなかなか歯が立たず,辞書と首っ引きで深夜までかかっても書類の作成は終わらず,あまりの寒さに翌日に持ち越した.


 しかし,翌日残った箇所を点検したら,私たちに直接関係ない項目が多いことがわかり,最終的にマニュアルを点検して,一応の完成を見るまでにさほどの時間はかからなかった.

 中央郵便局は遅い時間(夕方7時)まで開いていて,4時くらいに空いていることは前日確認していたので,とりあえず先に買い物を済ませることにして,柳川さんに教えていただいたスーパーマーケット(スペルメルカート)「エッセルンガ」まで歩いて行った.

 多少日本と勝手が違うことは事前に情報を仕入れていたが,それよりはだいぶ面倒が少なく,日本とあまり変わりがなく,品数豊富で便利との印象を受けた.

 スーパーに行くには,ヴェンティセッテ・アプリーレ通りを東に向かい,サン・マルコ広場のところでカヴール通りを北上して,サン・ガッロ門のあるリベルタ(自由)広場に出て,ドン・ジョヴァンニ・ミンゾーニ大通りを北東に進んで,マザッチョ通りを入る.通り道は観光地フィレンツェとはまた違う,近代都市の様相を見せる地域であり,並行する別の通りにフィレンツェ大学の建物の一部もある文教地区の一面も持っているようだった.



 必要なものの買出しも済み,お昼を食べて一服してから中央郵便局に向かった.昨日とは別の,やはり中年の女性係員が対応してくれたが,一部の不備を親切に指摘してくれた上で,要領よく手続きを進めてくれて,手数料を納め(必要な収入印紙も途中のタバッキで買っていた),無事に仮受領証を受け取ることができた.2カ月後(フラ・ドゥーエ・メージ)に,警察署から連絡が来て,そこに出頭して諮問押捺をして正式な滞在許可証が出るとのことだった.実際にはもっとかかるらしいが,ともかく私たちがやるべきことはやったので,最初の難関を越えたことになる.

 何と言っても滞在許可申請の手続きが完了したのは,この日の最大の収穫だったが,もう一つこの日は良いことがあった.

 レプッブリカ広場近くの露店の古書を何気なく覗いていたら,私はまったく気がつかなかったが,ロマン・ロランの小説などが1冊3ユーロで売られている箱の中から,妻が1冊の本を見つけて「エウリピーデって書いてあるよ」と言ってくれた.

 “まあギリシャ悲劇のイタリア語訳くらいあっても不思議はないだろう”と思いながら手にとって見ると,その本には「エウリーピデ,エクーバ」とあり,クレメンテ・コメッラという学者が校訂してイタリア語の注釈をつけ,1951年にシチリアのパレルモで出版されたエウリピデスの『ヘカベ』のテクストであるのがわかった.

ポリュドロスの亡霊のプロロゴスから始まり,信頼していた男に息子を殺されたトロイアの女王ヘカベの復讐を物語ったこの作品は,エウリピデスの大傑作とは言われていないが,私にとってはギリシャ語を習い始めたとき,ポリュドロスの台詞を暗誦した思い出深い作品なので,イタリア生活の幸先の良さを思わずにいられなかった.


 すぐに5ユーロ札を出したが,それに対し,露店のおばさんが「モネータ」と言ったのがすぐには理解できなかった.近くにいたアメリカ人と思われる金髪のきれいな青年が「コイン」と言ってくれて,はっと気がついた.「助言の女神ユノー・モネータ」の神殿近くに貨幣の鋳造所があったので,「貨幣」という語になり,英語のmoney にもなったモネータに気がつかなかったとは迂闊だった.

 アメリカ人の美青年と,すかさず硬貨を渡してくれた妻のおかげで,その存在すら知らず,この出会いがなかったら多分一生お目にかからなかった注釈書が無事手に入って,本当にうれしかった,紙表紙でフランス綴じの古い本だし,その学問的価値は読んでみないとわからないが,多分私の一生の宝になるだろう.妻に感謝,感謝である.

 というわけで,28日は良いことばかりの日だった.まだ本格的な見学はしていないが,シニョリーア広場から,ドゥオーモのあたりを通って帰宅した.フィレンツェの人混みだけはとても慣れそうにない.



 4日目の29日は,柳川さんに日曜日のアンドレ・プレヴィン指揮の演奏会にご招待いただいたので,会場のテアトロ・コムナーレ(「市民劇場」?)まで下見に行った.アルノ川沿いの閑静な地域に歌劇場はあったが,中央駅の周辺まで出るのに少し歩き,さらに駅周辺の観光客でごったがえす地域を歩いて,かなり疲れたので,早く就寝することにした.


3月30日(金曜日)

 30日の金曜日は午前中は,中央市場に買出しに行った.パスタとアスパラガスを買って昼食にしたが,どちらもうまかった.イタリアは(フィレンツェはと言うべきか)野菜と果物がうまい.スーパーで買った野菜もうまかった.トマト(ポモドーロ),ホウレン草(スピナーチ),実の赤いオレンジ(アランチャ・ロッサ),本当に何でも美味だ.

 午後は柳川さんが車で迎えに来て,フィエーゾレの丘に連れて行ってくださった.フィエーゾレは古代からエトルリア人が町を築いたところで,ダンテはフィレンツェの生みの親と言ったそうだ.支配,被支配の複雑な歴史は別として,現在でもフィレンツェとは自治体(コムーネ)を異にする町だ.

 ローマ時代の劇場や博物館があるが,フィレンツェ中央駅から7番のバスでいつでも来られるので,これは後日のお楽しみとした.

ここから見るフィレンツェの眺望は絶景だ.あいにく曇りだったが,それでも感動的な眺めだった. フィエーゾレの丘


 フィエーゾレの丘を降りて,先日私たちが行ったスーパー,エッセルンガの最も大きな店舗に連れて行っていただき,買い物をして帰宅した.


3月31日(土曜日)

 今日も朝食後,中央市場に買い物に行く.日,月は休みと聞いたので,野菜を買い,日本人の女性がレジにいる店でキャンティ・ワインを買い,今日もまけてもらった.先日勧められたキャンティ・クラシコもうまいが,安価なただのキャンティもなかなかの味で,交互に(意志の強い妻の監視のもとに少しずつ)味わって行こうと思っている.


サン・マルコ美術館
 昼食の前に,近くのサン・マルコ教会(→ウィキペディアに写真)に併設されたサン・マルコ美術館(→/3.ウィキペディア)に行った.有名な修道士サヴォナローラがいたドメニコ会の修道院が今は美術館になっており,有名な「受胎告知」をはじめとするフラ・アンジェリコの絵画が数多くあって,大変感動した.

 私はフラ・アンジェリコ(ベアート・アンジェリコ)の作品を集めた「オスピツィオの間」にあった,素晴らしい諸作品の中でも,「聖母の戴冠」という聖体櫃四部作のうちの一つの絵の下に小さく書かれた,聖家族の表情が好きだと思った.

 しかし,何と言っても2階にあった一番有名な「受胎告知」は大傑作だった.第3僧房の「受胎告知」も素晴らしかった.僧房の中の様々な絵も興味深かったが,多くの場面に聖ドメニコが描きこまれていることが,この修道会の創設者のカリスマ性を物語っているのだと思わされる.

 コジモ・デ・メディチ(コージモ・デ・メーディチではなく慣用に従う)がサン・マルコを訪れたときに使用した部屋もさることながら,サヴォナローラが起居した部屋にあった遺品が印象的だった.書き込みのある小さなラテン語の聖書や書見台,多分日本語の「合羽」の語源と共通するカッパという名のマントその他があった.

 その部屋にあった「殉教者ペテロ」(実はサヴォナローラをモデルにした肖像)と,フラ・バルトロメオが描いた,1階の「フラ・バルトロメオの間」にある,良く知られた「サヴォナローラの肖像」は小品ながら感銘を受けた.

 その他の絵画作品としてはギルランダイオの「最後の晩餐」,大食堂にあったジョヴァンニ・アントーニオ・ソリアーニの「聖ドメニコの奇跡の夕食」が印象に残った.後者は有名な作品ではないかも知れないが,遠景が良かった.

 4ユーロの入場料と帰りに買ったガイドブック(日本語版がちゃんとある)の合計9.5ユーロで,十分以上に堪能した.

 当初,まずアッカデーミア美術館に行き,シニョリーア広場に本来はあったミケランジェロの「ダヴィデ像」を見るつもりだったが,すごい行列であきらめた.それに比べるとサン・マルコ美術館は空いていて,本当にお得なスポットと言える.

ミケランジェロが偉大なのでは言うまでもないだろうが,フラ・アンジェリコの絵がたくさん見られるサン・マルコ美術館を訪れずしてフィレンツェを語ることはできないだろう.



捨て子養育院美術館
 なにせ寓居はサン・マルコ広場からヴェンティセッテ・アプリーレ通りを西に数分歩くだけのところにある.前日中央市場で買ったパスタをゆでた昼食をとって,コーヒーを飲み(イタリアでは濃いコーヒーは必須ではなかろうか.こんなにコーヒーがうまいと思ったことはない),再び同じ通りを西に向かい,サン・マルコ広場の先にある「捨て子養育院美術館」に行った.

 入場料4ユーロにはイタリア語か英語のイアフォン・ガイドの料金が含まれていたが,これはパスポート(パッサポルト)持参でないと貸してもらえないということで,携行していなかったのであきらめた.

ここではボッティチェルリの聖母子の小さな絵と,ギルランダイオの「東方三博士の礼拝」が目玉のようだったし,実際に素晴らしい絵だったが,後者の近くにあったピエロ・ディ・コジモというフィレンツェ出身の画家の聖母子を中心に据えた絵が立派だったというのが妻と私の一致した見解だった.


 サン・マルコ美術館には「撮影禁止」と日本語で書いてあったくらいなので,一枚も写真をとっていないが,捨て子養育院はフラッシュを焚かなければ,写真撮影はOKだったので,この絵はデジカメにおさめた.

 捨て子養育院の斜め向かいにあるのが,サンッティシマ・アヌンツィアータ(いとも聖なる受胎告知の聖母)教会だ.アンドレア・デル・サルトの絵があり,また装飾が立派な教会だったが,告解に訪れた信者もいる厳かな雰囲気なので,今日は芸術鑑賞に徹する環境ではなかった.何せ近いのでまた訪れるつもりだ.


ジョットの鐘楼
 このあと思い立って「ジョットの鐘楼」(1.2.ウィキペディアに写真)に登り,すばらしい体験をした.

 もともと日本のガイドブック等の情報で,混んでいるドォーモの屋上よりも,空いていて所々休みながら登れるこの鐘楼はお勧めと聞いていたが,なるほど眺めがすばらしい上に,昇り降りのすれ違い以外はストレスがきわめて少なく,入場料は6ユーロと安くはないが,それに見合う以上の価値はあった.

 360度のパノラマ展望で,ドゥオーモサン・ジョヴァンニ洗礼堂などの近くの建物は言うに及ばず,シニョーリア広場ヴェッキオ宮殿,ウフィッツィ美術館,サン・ロレンツォ教会中央市場などの近景,南西方面にサント・スピリト教会,南にピッティ宮殿,南東方面にサンタ・クローチェ教会,その先にミケンランジェロ広場,西にはサンタ・マリーア・ノヴェッラ教会やフィレンツェ中央駅,さらに遠くはフィレンツェのアメリゴ・ヴェスプッチ空港,北に目をやるとインディペンデンツァ広場から,サン.マルコ教会,サンティッシマ・アヌンツィアータ教会(広場)が見え,はるか先にはフィエーゾレの丘が見えた.

 アルノ川は建物に覆われていて,大体の場所がわかる程度だが,細かい通りも含めてフィレンツェの街とその周辺を一望できる.観光地としてのフィレンツェには,来たばかりですでにウンザリしかけていたが,なるほど,ここに世界中から人が集まるのはよくわかる.滞在中に誰かが訪ねてきてくれたら,まず連れて行ってあげたいスポットだ.

写真:
ジョットの鐘楼
途中の窓からドゥオーモの
クーポラを眺める
ジョットの鐘楼



膝元にも古書店
 鐘楼をおり,観光客が少なくなりかけて,夕陽のあたる周辺の風景を眺めながら,メディチ・リッカルディ宮殿(→HP)近くの雑踏を横目にカヴール通りを北上し,サン・マルコ広場で左折して,ヴェンティセンテ・アプリーレ通りを「我が家」に向かった.

 途中本屋があったので,ウィンドウを覗いてみるとグラムシやクローチェの著作集の背表紙が見え,人文教養系の古書店のようだったので,妻の許可を得て入ってみた.

 私はイタリア文学や英米文学の棚に見入ってグィッチャルディーニの『リコルディ』(邦題は正確に思い出せないが,講談社学術文庫に邦訳)を手にとって見ていたが,例によって妻が古典文学の棚を見つけてくれた.グィッチャルディーニの本は日本でも手に入るシリーズだったので所定の位置にもどし,狭い店だが古典文学の棚に向かった.

 何冊か魅力的な本があったが,翻訳だけのものは,私のイタリア語力ではあまり意味がないので買わず(それでもセネカの『オエディプス』などは魅力的だ),タキトゥスの『アグリコラ伝』とプラウトゥスの『アウルラリア』の同じシリーズの注釈本(1924年と1925年にフィレンツェのヴァレッキ書店刊行)と,カトゥルスの『歌集』64歌,通称「テティスとペレウスの祝婚歌」の詳細な注釈書を買った.後者は2003年の刊行(パレルモ,パルンボ書店)なので今でも入手可能な本だが,昔修士論文で取り上げた作品なので,少し高かった(元の値段が21ユーロで売値が12ユーロなので高いのは元値)が喜び勇んで買った.

 こちらで読むためにキケロの『弁論家について』のウィルキンズ注釈本と大西先生の訳(岩波文庫)を持ってきたが,この作品の第1巻の本文に,日本の高校生が古文の参考書に使うような,品詞分析と単語の意味を書き添え,イタリア語訳を付した本があった.このシリーズは神田のイタリア書房にもおいてあり,私はエウリピデスの『メデイア』や『アルケスティス』を持っているので,簡単に入手できる本だし,持っていて体裁の良いような本でもないが,私のラテン語力ではやはり有益な本であるには違いなく,しかも今読もうとしているテクストなので,これも購入することにした.

 この本には値段がついていなかったが,タキトゥスが5ユーロ,プラウトゥスが5ユーロ,カトゥルスが12ユーロで,女性の老主人がしばらく考えて27(ヴェンティセッテ)ユーロと言ったので,キケロにも5ユーロの値段をつけたのだろう.

ヴェンティセッテ・アプリーレ通りで,ヴェンティセッテ・エウロかというような冗談が通じたのかどうかわからないが,最終的には25ユーロにまけてくれた.


 こんな近くに人文教養系の古書店があると通ってしまいそうで,少し自分がこわい.今度行ったら,今回はあきらめたメナンドロスのギリシア語テクストは買おう.