フィレンツェだより |
アルノ川と フィレンツェの市街 |
3月29日(木曜日) フィレンツェ到着! 26日にフィレンツェに着いて,すでに4日目を迎えた.26日の午後1時に成田を出発,時差の関係で同日の午後9時40分にフィレンツェ空港に到着した. 私たち夫妻の大学時代の同級生で,江戸時代を専門とする史学者,谷口眞子さんの高校時代の後輩でフィレンツェ歌劇場のヴィオリスト柳川さんと,彼女の同僚でチェリストのアンナさんが出迎えに来てくださっていて,アンナさんの車でアパートまで送っていただく. アパートは築400年くらいとのことで,住居としては古風で趣はあるけれども,設備の古いのは否めず,石造りの家で過ごすヨーロッパの冬は辛いと聞いてはいたが,聞きしにまさる冷え込みであった.また照明に対する彼我の感覚の違いか,ともかく暗くて,最初の夜は気の滅入る感じは避けられなかった. ただ熱いお湯がすぐにでるお風呂と,暖かいベッドの寝心地の良さによって本当に救われ,目覚めたときにはともかく前向きに活動する気力が沸いてきた. 中央市場(メルカート・チェントラーレ) 27日の午前中,柳川さんが訪ねて来てくださって,近くの中央市場(メルカート・チェントラーレ)を案内していただく. 1階の肉類と,2階の野菜売り場は聞きしに勝る規模で,そこで買った野菜のうまさは,これはイタリアに来て良かったと思わせてくれるものであった. サン・ロレンツォ教会周辺にずらりと軒を並べる露店を尻目に,柳川さんが紹介してくださった日本のものを含むアジア食材の店「ヴィーヴィ・マーケット」と廉価な衣服を商う「オヴィエッセ」も私たちにはたいへん有益であった. 滞在許可申請 日本でのヴィザの取得にもそれなりの苦労があったが,何よりも現地での滞在許可申請が難しいと聞いていたので,午後はレプッブリカ(共和国)広場の近くにある中央郵便局に行き,滞在許可のための申請書をもらった. 昨年までは直接,警察署(クェストゥーラ)に出頭して延々と並ばされた上に,書類を突き返されて何度も通う羽目になっていたらしいが,確か昨年12月からその点が大幅改善されたとのことで,以前と同じく,最終的にはその行政区の警察署長(クェストーレというイタリア語はラテン語のクァエストルか来ていて,古代ローマでは財務官と訳されることの多い官職名で,キケロもそのキャリアをそこから始めている高級官職の出発点だ)の許可が必要だが,現在は郵便局が窓口となって申請を受け付けている. 私たちも郵便局で親切そうな中年の女性係員から書類を受け取った.
しかし,翌日残った箇所を点検したら,私たちに直接関係ない項目が多いことがわかり,最終的にマニュアルを点検して,一応の完成を見るまでにさほどの時間はかからなかった. 中央郵便局は遅い時間(夕方7時)まで開いていて,4時くらいに空いていることは前日確認していたので,とりあえず先に買い物を済ませることにして,柳川さんに教えていただいたスーパーマーケット(スペルメルカート)「エッセルンガ」まで歩いて行った. 多少日本と勝手が違うことは事前に情報を仕入れていたが,それよりはだいぶ面倒が少なく,日本とあまり変わりがなく,品数豊富で便利との印象を受けた. スーパーに行くには,ヴェンティセッテ・アプリーレ通りを東に向かい,サン・マルコ広場のところでカヴール通りを北上して,サン・ガッロ門のあるリベルタ(自由)広場に出て,ドン・ジョヴァンニ・ミンゾーニ大通りを北東に進んで,マザッチョ通りを入る.通り道は観光地フィレンツェとはまた違う,近代都市の様相を見せる地域であり,並行する別の通りにフィレンツェ大学の建物の一部もある文教地区の一面も持っているようだった.
![]() 何と言っても滞在許可申請の手続きが完了したのは,この日の最大の収穫だったが,もう一つこの日は良いことがあった. レプッブリカ広場近くの露店の古書を何気なく覗いていたら,私はまったく気がつかなかったが,ロマン・ロランの小説などが1冊3ユーロで売られている箱の中から,妻が1冊の本を見つけて「エウリピーデって書いてあるよ」と言ってくれた. “まあギリシャ悲劇のイタリア語訳くらいあっても不思議はないだろう”と思いながら手にとって見ると,その本には「エウリーピデ,エクーバ」とあり,クレメンテ・コメッラという学者が校訂してイタリア語の注釈をつけ,1951年にシチリアのパレルモで出版されたエウリピデスの『ヘカベ』のテクストであるのがわかった.
すぐに5ユーロ札を出したが,それに対し,露店のおばさんが「モネータ」と言ったのがすぐには理解できなかった.近くにいたアメリカ人と思われる金髪のきれいな青年が「コイン」と言ってくれて,はっと気がついた.「助言の女神ユノー・モネータ」の神殿近くに貨幣の鋳造所があったので,「貨幣」という語になり,英語のmoney にもなったモネータに気がつかなかったとは迂闊だった. アメリカ人の美青年と,すかさず硬貨を渡してくれた妻のおかげで,その存在すら知らず,この出会いがなかったら多分一生お目にかからなかった注釈書が無事手に入って,本当にうれしかった,紙表紙でフランス綴じの古い本だし,その学問的価値は読んでみないとわからないが,多分私の一生の宝になるだろう.妻に感謝,感謝である. というわけで,28日は良いことばかりの日だった.まだ本格的な見学はしていないが,シニョリーア広場から,ドゥオーモのあたりを通って帰宅した.フィレンツェの人混みだけはとても慣れそうにない.
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