フィレンツェだより番外篇
2008年9月15日



 




ジョヴァンニ・バディーレ
アクイラ多翼祭壇画(部分)
カステルヴェッキオ美術館



§人生には思いもよらぬことが起きる

昨年1年間フィレンツェに滞在するまで,あまり宗教芸術に興味がなかったし,特別研究期間の滞在先にイタリアを選んだのも美術とは全く関係のない理由だった.


 それでもせっかく来たのだから有名どころだけでも見ておこうと思って,フィレンツェで幾つか教会や美術館をまわるうちに,すっかりはまってしまい,空いた時間のほとんどをキリスト教絵画と彫刻の鑑賞に費やすことになった.

 作品に会うためにたくさんの旅行もした.南イタリアの古代遺跡や,北イタリアのローマ時代の有名な詩人たちの故地を訪ねることはもとより予定していたが,まさか教会や美術館巡りが旅の主たる関心事になるとは思いもよらなかった.


和辻の見たイタリア
 和辻哲郎の『イタリア古寺巡礼』と,高階秀爾が書いた解説(岩波文庫)を読むと,30代後半の京都大学助教授だった和辻が渡欧したのは1927年(昭和2年)2月から約1年半,滞在先のドイツからヨーロッパ各地を見て周り,イタリアでもかなり充実した見聞を重ねたことがうかがわれる.

 それにしても今から80年以上前だ.情報も交通手段も現在とは比べ物にならなかった時代に,和辻はイタリアで多くの都市を周り,教会や美術館を訪れて,建築,絵画,彫刻をたくさん見ている.

 この時日本にいた家族に出した手紙やハガキの内容を編集して一本にまとめて出版したのは戦後の1950年になってのことだが,読む者にとっては昭和初期のイタリアの様子が,かなりの臨場感で伝わって来る.

和辻が見て,私たちが見ていないものも,その逆も少なくないが,それにしても,かなり同じものを見ていることに驚く.


 この『イタリア古寺巡礼』の要書房から出た古色蒼然たる初版を,学生時代に高円寺の都丸書店で購入した.しかし,多くの人と違って,私は彼の名著とされる『古寺巡礼』とあまり相性が良くなかったことと,『イタリア古寺巡礼』には,知らないカタカナ名がたくさん出てくることもあって,今日までずっと岩手の実家の書棚の肥やしにしてきた.

 この度読んだのは岩波文庫版であるが,よくわかり,かつ共感する部分が多いのは,やはり実際に見たものが多く,見ていないものでも自分の関心の中に深く入り込んでいるものが殆どだということが大きいだろう.もちろん,飽きずに読ませる主たる要因が,和辻の文章力,構成力にあるのは間違いない.



 しかし,和辻の時代と私たちの時代では,美術作品に対する評価の傾向も随分変わってきている.和辻がギリシア彫刻とルネサンス絵画を高く評価し,中世の作品に対する評価が若干低くなるのは,ドイツ風教養主義の中から出てきた人だからやむを得ないだろう.

 「ローマはやはり古代の遺跡だと思った.ルネサンスのものなどは影が薄く,ローマ時代の巨大な建築と,ギリシアの彫刻とが,おもにわれわれに迫ってくる.ギリシア人はやっぱり偉いとつくづく思う」(岩波文庫,p.52),「一体ローマは中世のものはあまりあまり残っていないし,残っていても大しておもしろくない」(同,p.106)という文章を読むと,「思うに和辻は,ほんとうに素敵な中世の教会を見ていない」(『芸術新潮』2007年8月号,p.86)という現在最先端の専門家の感想につながる.

写真:
和辻絶賛の「カピトリーノのヴィーナス」
カピトリーニ美術館


 この感想は実は,「中世に冷たい」和辻ですら感心した回廊を持つ教会の名前を引き出す枕のように使われているので,多分に修辞的な意味合いが強いし,また,ローマの教会に関しては確かにその通りであろうが,和辻が一般に「中世に冷たい」だけかというと多少異議がある.

 和辻は,アッシジにあるジョットおよび弟子たちによるフレスコ画には厳しい評価をしているが,ジョットに関してはパドヴァのフレスコ画は評価しているし,ウフィッツィで見た祭壇画も激賞している.アッシジのサン・フランチェスコ聖堂に関しても,ジョットの師匠であるチマブーエ,シエナ派のシモーネ・マルティーニ,ピエトロ・ロレンゼッティの作品を褒め,彼らの作品を見るためにシエナを訪ねたいと言い,実際に後日シエナまで行っている.

 ルネサンス絵画への流れを開いたとされるこれらの画家たちは,中世と言っても13世紀末から14世紀前半で,中世としては随分新しい.しかし,世界史的には百年戦争の勃発が1337年,そこで活躍したジャンヌ・ダルクが生まれるのが15世紀になってからだから,そういう意味ではこれらの画家が産み出したものも立派に中世の芸術である.

 さらに,和辻はパレルモ(11世紀)とラヴェンナ(5世紀から)のモザイクには高い評価を下している.

写真:
マルトラーナ教会の天井モザイク
(パレルモ)


 和辻が生まれたのは1889年だから,まだ19世紀である.その世紀の半ばごろ美術蒐集を始めたジェイムズ・ジャクソン・ジャーヴスに関する文章を読むと,当時,15世紀以前の祭壇画は「プリミティヴ」として類別され,フィレンツェでは「屑として,板の大きさの値段で売られた」(瀬木慎一『ビッグ・コレクター』新潮選書,1979,p.24)ということだった.

 ジャーヴスについて一章を割いているこの本には,中世からルネサンスのイタリア絵画を再評価し,美術史を革新したバーナード・ベレンソンも取り上げられているが,ベレンソンの自伝(三輪福松訳『ベレンソン自叙伝』玉川大学出版部,1990)や,ベレンソン後の巨匠とされるロベルト・ロンギの『イタリア絵画史』(柱本元彦他訳,筑摩書房,1997)とその関連の書物を参照しても,中世末期からルネサンスの芸術に対する評価の変遷や,作者の確定には非常に興味深いものがある.何せレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」がギルランダイオ作とされていたのだ.

 こうした時代背景を考えれば,ロベルト・ロンギよりも1歳年上の和辻の感覚は,西洋語に通じた俊英の哲学者とは言え,外国人でもあるし,当時としては非常に新しかったのではないかと思う.知識が多少不確かなのも,専門家ではないのだからやむを得ないだろう.



 その和辻に比べて,私たちはすでに中世,ルネサンス美術に対する評価が高い時代に生まれ合わせ,多くの情報を,場合によっては日本語だけからでも得ることができる.たとえば,帰国後読んだ本に,

宮下孝晴『フレスコ画のルネサンス 壁画に挑むフィレンツェの美』NHK出版,2001
ジョン・ラウデン,益田朋幸訳『初期キリスト教美術・ビザンティン美術』岩波書店,2000

がある.大著でありながら,非専門家である私たちが読んでも十分理解できるすばらしい著作であり,これらを読むと,前者からはフレスコ画,後者からはモザイクについて相当な知識が得られ,なおかつ実際の作品を見る際に感動がいや増す.

 上で瑣末な異議を唱えたが,帰国して,さらに今回の旅行から帰ってきた後に,フィレンツェで一緒だった若い友人のFさんが貸してくれた,

 『芸術新潮』2007年8月号「大特集 ローマ 中世の美を歩く五日間」

を読むと,私たちが『地球の歩き方』と『ワールドガイド』とウェブページを頼りに,自分の足で歩いて見聞した知見の数千倍の情報が達意の文章で,手際よくまとめられており,これを書いたのが,自分と同世代(2歳下)の同僚であることに,筋違いかもしれないが、誇らしい気持ちになる.先に特別研究期間をもらった者として,彼が特別研究期間を取れるためなら,週10コマの授業負担に加えても,彼が担ってきた校務の後任者になっても良いと思ったくらいだ.

 やはりFさんが貸してくれた,

 『芸術新潮』2005年1月号「大特集 フィレンツェの秘密」

にも,文章を寄せられている,フィレンツェ大学の中嶋浩郎先生の新著,

 『図説フィレンツェ 「花の都」2000年の物語』河出書房新社,2008

をこのたび,ご恵与いただいた.中嶋しのぶさんが担当された写真も含めて,示唆に富むすばらしい本だ.これだけの情報量の本を日本語で読むことができる時代に私たちは生きている.


「バディーレ一族」を手がかりにして
 それをさらに実感させてくれた本に出会った.

 小佐野重利(研究者代表)『ヴェローナの画家一門バディーレ家(14-16世紀)に関する包括的な調査研究』東京大学人文社会系研究科美術史研究室,2004

で,今回の旅行から帰って,ウェブ上にある「日本の古本屋」というサイトで見つけて購入した.科研費(科学研究費補助金)の報告書として出版されたものなので,大体装丁は想像できたが,それで7千円とは強気な値段設定(福岡の古書店)だなと思ったが,他では入手の見込みがないし,もしかしたら美術史の成果報告書はカラー写真満載の豪華のつくりなのかと半ば期待して買った.

 実際には,報告書にありがちな薄っぺらな装丁で,写真も白黒だった.制作費としては1冊7千円もするものでは多分ないと思う.しかし,中身は情報量豊富でたいへん勉強になった.

 特に,巻頭のセルジョ・マリネッリ,浦一章訳「バディーレ一族」はおもしろく,示唆的だった.研究代表者の「はしがき」も良く整理されていて有益だ.ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館にその作品が当たり前のように飾ってあり,素人目にもヴェローナのルネサンスを支えた芸術家一族であろうと想像させるが,実はこの一族のことは,18世紀初頭にはすっかり忘れ去られていて,僅かにヴェローナが生んだ最大の画家ヴェロネーゼの師匠であり岳父となったアントーニオ・バディーレ(16世紀)のことが知られるのみであった,というのには驚く.

 カステルヴェッキオ美術館に作品があるのは私が確認した限り,ジョヴァンニ・バディーレとアントーニオ・バディーレだが,後者は美術館のプレートでは1507年頃,英語版の図録では1512年以前に亡くなっている.したがって1528年生まれのヴェロネーゼの師匠とするのは無理なので,美術館に作品があるのは2世で,ヴェロネーゼの師匠は3世になるらしい.ジョヴァンニとアントーニオ2世の作品は美術館で見る限り,立派なものだ(トップの写真参照).

 バディーレ一族の作品は美術館以外でも見られる.ヴェローナの大教会であるサンタナスタージア聖堂の傍らに,小さなお堂があり,これを私たちは前回「殉教者ペテロの祈祷堂」(オラトリオ)と呼んだが,どうやらこれは元来は立派な教会(キエーザ)であったようだ.

 ここにバルトロメオ・バディーレのフレスコ画がある.トップで写真を紹介したジョヴァンニの祭壇画も本来はこの教会にあったらしい.写真には写っていないが,聖母子のすぐ右側には殉教者ペテロが描かれている.

 13世紀の新しい修道会運動の中から,ドメニコ会,フランチェスコ会,アゴスティーノ会ができ,教会の内に対しては改革,外に対しては異端運動に対する対抗措置の意味を持っていたが,これらの修道会は後にカトリック教会の中の支配的勢力を形成していく.

 イタリアの中規模以上のどの町に行ってもサン・ドメニコ教会とサン・フランチェスコ教会があり,名前が違う場合でも,たとえばフィレンツェならサンタ・クローチェはフランチェスコ会,サンタ・マリーア・ノヴェッラはドメニコ会である.ヴェローナの大教会でもサン・フェルモ・マッジョーレがフランチェスコ会で,サンタナスタージアはドメニコ会だ.しかもヴェローナは,ドメニコ会の重要な人物の出身地だ.

 ドメニコ会系の教会のフレスコ画や祭壇画に描かれる聖人たちのうち,この修道会ならではの人物として,開祖の聖ドメニコと,スコラ哲学の大成者トマス・アクイナスと並んで殉教者ペテロが挙げられる.聖人の絵を見て,白い衣に黒の外衣の修道服をまとい,周辺を残して剃りあげた頭に鉈のような刀が打ち込まれている人物は間違いなくこの人だと思って良いだろう.

殉教聖人の殆どはローマ帝政期の禁教時代の人だ.13世紀という新しい時代に,修道会ができてから殉教した殉教者ペテロは,フランチェスコ会のモロッコでイスラム教徒に布教して殉教した修道士たちと並んで,これらの托鉢修道会の精神的支柱となったと思われる.


 ヴェローナで,異端とされたカタリ派に同情的な両親のもとに生まれ,ボローニャ大学に学び,ドメニコに出会い,カタリ派の信者をカトリックに改宗させる役目を担い,ミラノのカタリ派に殺された.

 最初はキリストの弟子ペテロとどう違うのかも知らなかったが,イタリア各地でこの人物のたくさん絵を見るうちに,どういう人か多少とも理解できたし,ドメニコ会の勢力がいかに大きかったかを知る契機となった.

写真:
サンタナスタージア聖堂
入口右に殉教者ペテロの
浮彫彫刻


 ヴェローナのサンタナスタージア聖堂のファサードには殉教者ペテロの殉教を描いた浮彫彫刻がある.堂内の祭壇画やフレスコ画に彼が描かれていたかどうかは記憶が定かではないが,この聖堂のすぐ傍に彼を記念するサン・ピエトロ・マルティーレ(殉教者ペテロ)教会があるのは,彼の出身地ヴェローナならではかも知れない.






バルトロメオ・バディーレのフレスコ画
左上の聖人たちの絵の下部に
バルトロメオの署名

旧殉教者ペテロ教会