フィレンツェだより番外篇
2008年9月10日



 




アルボルノツ要塞へ向かう坂道で
ウルビーノ



§オプショナル・ツァー

「スターバト・マーテル」は20日夕方の5時からで,その日の午前中はオプショナル・ツァーがあった.これに参加するかどうか,実は少し迷った.


 今回のオペラ鑑賞ツアーのペーザロ3泊という日程が大きな魅力だったのは,ペーザロに3泊している間に,自由時間を利用して鉄道で州境を超えてすぐ北にあるリミニに行けるのではないかと思ったからだ.

 リミニには,マントヴァのゴンザーガ家,フェッラーラのエステ家,ウルビーノのモンテフェルトロ家と並び称せられるルネサンス時代の開明領主であるマラテスタ家があった.

 たとえば,ピエロ・デッラ・フランチェスカは「シジスモンド・パンドルフォ・マラテスタの肖像」(現ルーヴル美術館)を描いたし,ダンテの『神曲』,チャイコフスキーの管弦楽曲,ザンドナーイオペラで有名な「フランチェスカ・ダ・リミニ」の事件(1285年)が起きたのもこの家だ.

リミニ;
エミリア・ロマーニャ州,
リミニ県の県庁所在地
(ペーザロはマルケ州)


 16世紀にマラテスタ家はチェーザレ・ボルジアに放逐され,リミニは教皇領に組み込まれる.

 ルネサンスの開明君主であったシジスモンド・パンドルフォの時代に,通称「マラテスタ神殿」(テンピオ・マラテスティアーノ)と呼ばれる建造物がつくられた.設計を担当したのはフィレンツェの芸術家で,ルネサンスの「万能の天才」の元祖とされるレオン・バッティスタ・アルベルティだ.

 ここにはピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画が断片的に残っていて,リミニの大きな観光ポイントとなっている.アルベルティの後援が,ピエロのその後のマルケ州やエミリア・ロマーニャ州での活躍につながったという説もある.

シジスモンド・マラテスタの勢力衰退と死によって未完に終わったが,この建造物の本来の名称はサン・フランチェスコ教会で,そこにジョットのフレスコ画があったと考えられている.


 このフレスコ画は残っていないが,彼の作品とされる「キリスト磔刑像」が今も伝えられている.

 ジョットの「磔刑像」と言えば,フィレンツェのサンタ・マリーア・ノヴェッラ聖堂のそれは私をキリスト教芸術に開眼させてくれたものだし,パドヴァでも見事な「磔刑像」を見ている.

 リミニにある作品がジョットの作品であるかどうかは議論があるようだが,写真で比べる限り,堂内では見事な作品に見えるフィレンツェのサン・フェリーチェ・イン・ピアッツァ教会のジョット派の「磔刑像」より,こちらの方がはるかに立派に見えるので,実物をこの目で見てどういう感想を持つにせよ,ともかく一度は見ておきたいと思った.



 結論を言えば,今回はリミニ行きは断念した.久しぶりにトレニターリア(イタリア国有鉄道)のHPで時刻表を確認したら,ペーザロからリミニへの便は,それなりの本数あるものの,今回の日程とはうまくかみ合わないことが分かった.

 ローマ時代にも交通の要衝で,アルミニウムという名の都市だったこの町には古代の遺跡も幾つか残っている.今回は無理をせず,次の機会を待つことにしたが,是非一度は訪れたいものだ.

 リミニ行きは別にして,結局オプショナル・ツアーは申し込んだ.ウルビーノ観光だったからだ.マルケ国立美術館に行って,またピエロ・デッラ・フランチェスカの作品に会いたかった.こんなに早く再会の好機がめぐって来ようとは!


ウルビーノ再び
 20日の朝8時過ぎにペーザロの駅前からバスに乗ってウルビーノに向かった.

 今回は普通の路線バスだったので,前回の急行バスとは違うバス停だったが,ヴェテラン添乗員のTzさんがぬかりなく正しい乗り場を確認して下さったうえに,地元の年配の男性が方言で「どこに行くのか」,」「そうだ,ウルビーノへはこの乗り場で良い」などと声をかけて下さったので,大船に乗った気持ちでバスを待った.

 前回自分たちで行ったとき,乗り場がよく分からなくて少し不安になっていたときに,先にバス停にいた女性が親切に英語で話しかけて下さったことを思い出した.

 季節は異なるものの,ペーザロとウルビーノの間には前回と同じ美しい風景が広がっていた.

 終点のメルカターレ広場には,前日ペーザロを案内してくださった知性溢れるガイドのルイージさんが待っていた.ペーザロとウルビーノの中間くらいのところにお住まいがあり,ペーザロよりもウルビーノの方がお好きだそうだ.



 昨年私たちは,メルカターレ広場でバスを降りてから,ヴォルボーナ門をくぐり,上り坂になっているマッツィーニ通りを一気に町の中心部であるレプッブリカ広場まで行き,そこから右折して国立マルケ美術館に向かった.

 今回はヴォルボーナ門のところから城壁に上がり,門の上から見渡せる景観や建造物の説明を受けた後,そのまま城壁の上の歩道から続く坂道を歩いて,サン・ジョバンニ祈祷堂,サン・ジュゼッペ祈祷堂の横を通る狭い坂道から,アルボルノツ要塞のある丘に登った.

写真:
アルボルノツ要塞
からの眺め


 丘からの眺めは変わらず美しかった.前回,秋色に染まっていた景色は,瑞々しい緑に輝いていた.

 眺望を楽しんだあとは城壁沿いに歩いて,ローマ広場に出た.傍にはラファエロの記念碑が立つ公園がある.ここは前回は通らなかった場所だ.

写真:
ラファエロの記念碑


 公園の正面に伸びるラファエロ通りを真っ直ぐ下ると町の中心部だ.さすが地元のガイドの方だけあって,観光ポイントをしっかり押さえた大変効率のよい案内である.

 ラファエロ通りを下る途中,ラファエロの生家を訪ね,ラファエロの父ジョヴァンニ・サンティの「受胎告知」,少年ラファエロが描いたかも知れない「聖母子」に再会した.



 中心部まで行くと,まずドゥオーモで,「最後の晩餐」を含むフェデリコ・バロッチの作品をサッと眺め,国立マルケ美術館のあるドゥカーレ宮殿へと急いだ.

 前回私たちが興味を持った中世末期の様々な宗教画は,その前を通り過ぎただけで,ルイージさんが連れて行ったのは,やはりピエロ・デッラ・フランチェスカの2枚の絵がある部屋だった.

 残念ながら「セニガッリアの聖母」は特別展に出張中で,そこには代りに写真が掲示されていた.しかし,神秘の傑作「キリスト笞刑」には再会できた.ジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子と女性の聖人たち」(聖なる会話),ティツィアーノ,ルーカ・シニョレッリ,ラファエロの「貴婦人の肖像」(通称「黙っている女」)その他の傑作も短い時間だが見ることできた.

 見られなかった作品の代りではないだろうが,ローマのボルゲーゼ美術館からラファエロの「ユニコーンを抱いている女性」が出張(8月1日〜10月4日)してきていて,これは僥倖だった.

 離れがたかったのは,やはりピエロの「キリスト笞刑」とラファエロの「貴婦人の肖像」だが,今回あらためて魅力的に思えたのはジョヴァンニ・サンティの「聖ロッコ」だった.

 ヴァザーリに「天才の息子を持つ,画才なき父」と断定された彼だが,良い絵も描いたのではないか,少なくともこの「聖ロッコ」だけは贔屓や同情を超えて,佳品と言っても良いのではないかという思いを新たにした.

 同美術館で見られる「聖母子と聖人たち」などを見ると,ヴァザーリの評もうなずけるような気がするが,祭壇画などは,私たちのように画家の技量を意識しながら間近からじっくり見るのではなく,遠目に映えて見えることが大事だったであろうから,この絵などもきちんと役割を果たした作品だったのだろう.

 フェデリコ・バロッチ(「聖母子と聖人たち」など)やオラツィオ・ジェンティレスキ(「聖フランチェスカ・ロマーナの幻視」)の傑作がある一つ上の階には今回は行かなかった.

 「フェデリコ公の書斎」と言われる一角は,精巧な寄木細工の装飾で有名だが,ここでルイージさんのヴォルテージが上がった.私は2度目に見ても,まだその真価に開眼するに至らなかったが,彼の熱弁を聞いて,「好きだ」ということは良いことだなと幸せを分けてもらったような気持ちになった.

 前回見なかったところも2箇所見た.ひとつはバルコニーで,風に吹かれながら,サンツィオ劇場と,その向こうに広がる風景を楽しんだ.

写真:
サンツィオ劇場
バルコニーから


 2つ目はフェデリコ公が集めた蔵書があった図書館だ.かつてここにあった素晴らしい細密画で飾られた写本を含む900冊の蔵書は現在ヴァティカンが保管していて,代わって,映像の蔵書のページを手で繰ることのできるバーチャルな仕掛けで観光客を楽しませていた.

 この後,ウルビーノのドゥオーモ広場にあるレストランの中庭で昼食をとり,やはり路線バスでペーザロに戻った.夕方は,ロッシーニ劇場で「スターバト・マーテル」を聴き,充実した1日に満足しながら就寝した.ウルビーノは何度でも行きたい町だ.





ラファエロ通りを下る
ウルビーノ