フィレンツェだより番外篇
2008年9月8日



 




ロッシーニ音楽院
中庭の銅像とともに



§ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル

ロッシーニ広場を西進するとポポロ広場,そこから通りの名前が変わるブランカ通りをさらに西進すると,ラッザリーニ広場に着く.そこにある瀟洒な建物がロッシーニ劇場(テアトロ・ロッシーニ)だ.


 しかし,19日のオペラ「エルミオーネ」は,テアトロ・ロッシーニではなく,郊外にあるアドリアティック・アレーナのテアトロ1で上演された.

 7時半にホテルのロビーに集合し,総勢5人でタクシーに乗り込み,会場に向かった.上演会場にはカメラを持たずに行ったので,写真はないが,ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル以外にも,様々なイベントが行われる新しく大きな建造物だった.

写真:
ロッシーニ劇場



オペラ「エルミオーネ」
 初めて最前列でオペラを鑑賞をしたが,前の方の席は日本人率が高く,オペラとイタリアが好きと言う同胞が多いことはまことに慶賀すべきことだ.観光地などでの対応は様々だが,文化的施設では日本人は丁重に扱われるという印象を受ける.ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァル日本公演の宣伝文を書いておられる著名なマスコミ関係者の姿も見られた.

 指揮者はベルリン・フィルの常任指揮者だったことでも知られるクラウディオ・アッバードの甥にあたるロベルト・アッバード,演出もダニエーレ・アッバードという名前だが,こちらはクラウディオの息子とのことだ.

 ダニエーレは1958年ミラノ生まれとのことなので,私と同い年で,パヴィア大学で哲学を専攻し卒業したドトーレである.ドトーレを訳すと「博士」になるが,イタリアでは大学を卒業した人に与えられる称号で,日本の「学士」にあたる.しかし,大学を卒業できる割合は日本よりもずっと低いので,この人の世代くらいなら,それだけで,立派なインテリと言えるだろう.

 彼にとって,フランス語で原作のラシーヌ『アンドロマック』を読み,ギリシア語でエウリピデス『アンドロマケ』を解釈し,古今の批評,演出を自己薬籠中のものとすることはさして難事ではないはずだ.ただ,演出の良し悪しは,また別の問題かもしれない.見事な展開で破綻のない演出に思えたが,最後にピッロ(ギリシア語ではピュッロスもしくはネオプトレモスで,英雄アキレウスの息子)の惨殺死体を見せたのは「?」だった.

 最後の場面には不満だったが,めずらしい曲だったし,概ね満足した.重唱場面がすばらしく,アリアも良いものがあったので,このオペラがどうしてあまり上演されないのか不思議だというのが,私たち一行の共通の感想だった.

写真:
「エルミオーネ」のポスター


 歌手はエルミオーネ(ヘルミオネー)がソニア・ガナッシ,アンドロマカ(アンドロマケー)がマリアンナ・ピッツォラート,ピッロはグレゴリー・クンデ(アメリカ人だから「クンデ」とは読まないかも知れないが,日本のロッシーニ・フェスティヴァルの出演者紹介ページでは「クンデ」としていた),オレステ(オレステース)はアントニーノ・シラグーザというキャストで,中堅の実力者を揃えたと言って良いだろう.

 オケはボローニャ歌劇場管弦楽団,合唱はプラハ室内合唱団で,この組み合わせは翌日の「スターバト・マーテル」の時も同じだった.


「スターバト・マーテル」
 指揮者はアルベルト・ゼッダで,彼は来日公演のロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルでもオペラ「マホメット2世」を振るようだ.指揮者も大熱演だったが,合唱が立派だった.「スターバト・マーテル」はテアトロ・ロッシーニ(右下の写真)の3階正面のパルコ席で聴くことができ,音響的にも大満足だった.

 高校時代に偶然,20世紀フランスの作曲家フランシス・プーランクの「スターバト・マーテル」を歌う機会があった.原曲はオーケストラ伴奏で,その時はピアノ伴奏だったし,全曲ではなかったが,それ以来多くの作曲家の「スターバト・マーテル」を聴いた.

「スターバト・マーテル」という曲はたくさんある.現在は異説があるようだが,伝統的には中世のラテン語宗教詩人チェラーノのトーマスが「レクイエム」で歌われる「怒りの日」を,ヤコポーネ・ダ・トーディが「スターバト・マーテル」の歌詞に当たる詩を作ったとされ,どちらもラテン語の授業で時々教材に使っているので,一応内容も理解している.第一に歌詞も内容も知らなくても十分以上に楽しめる.


 オペラ作曲家として知られるロッシーニだが,最後の歌劇「ウィリアム・テル」を書いたのが1829年,37歳のときで,ロッシーニは76歳まで生きる(1868年)のだから,いかに天才とはいえ,ものすごく若い引退だ.ただし,音楽家として創造力が枯渇して引退したわけではない.

 引退前の1820年にも宗教音楽を1曲作っている(「グローリア・ミサ」,佳曲である)が,引退後も少なくとも3曲の宗教音楽を作曲した.「スターバト・マーテル」は1842年だから,50歳の年で,たまたま今年の私と同じだ.天才はすごい.さらに1863年に「小荘厳ミサ曲」を書いて,その後5年生きるので,「スターバト・マーテル」は決して晩年の曲ではない.

 ロッシーニの死を悼んで,イタリアの多くの作曲家が共作の「レクイエム」を作曲する計画があり,これは結局実現しなかったが,ヴェルディが担当した部分が後に,ヴェルディの「レクイエム」に発展する(ちなみに,この「レクイエム」はイタリアの大作家アレッサンドロ・マンゾーニのために捧げられたものだ).それぞれペルゴレージの「スターバト・マーテル」やモーツァルトの「レクイエム」とは大分印象が違うが,やはりカトリックの国の作曲家たちはオペラ作曲家であっても宗教音楽と無縁ではない.

 “ロッシーニはオペラ作曲家”という刷り込みも手伝っているのであろうが,彼の「スターバト・マーテル」は劇的でな曲に思える.時として,「宗教音楽」という枠に納まっていないように思えるところも無しとしない.しかし,私は中世から現代に至るまでのキリスト教宗教音楽が好きだが,そうした枠を超えてロッシーニの「スターバト・マーテル」は,ともかく聴いて楽しめる曲だ.

写真:
ペーザロの目抜き通り
あるロッシーニの生家
現在は博物館として
公開されている


 記憶を中心に書いているので,時々色々なことを間違う.ロッシーニの「スターバト・マーテル」はムーティ指揮のCDしか聴いたことがないと前々日書いたが,棚を漁ったら,チョン・ミュンフン指揮(ドイツ・グラモフォン)とクリストフ・シュペーリング指揮(OPUS111)のもCDも持っていた.

 後者の解説によれば,パレストリーナのポリフォニー音楽やハイドンのオラトリオの影響が見られるそうだ.たまたま,短い曲だがパレストリーナにも「スターバト・マーテル」(ウィルコックス指揮のデッカCDで13分弱)があり,ハイドンにも同名の佳曲がある(アーノンクール指揮のテルデックCD,コルボ指揮のエラートCDで60分弱).宗教音楽の歴史はまことに重層的だ.

 実は「エルミオーネ」のCDも持っていた.クラウディオ・シモーネ指揮のエラート盤で,1986年の録音だった.記憶が頼りないが,印象が鮮やかうちにせっかく持っているCDも鑑賞してみたい.

 大いに満足してブランカ通り,ポポロ広場,ロッシーニ通り,レプッブリカ通りを歩いて宿に帰ったが,黒い衣に高位の聖職者が被る帽子を被り,同じ色の帯を腰に締めた偉丈夫が,やはり劇場から通りを歩いておられ,尊敬のまなざしをした町の人に声をかけられていた.

 ズッカ(カボチャ)という語から出来たズッケット(日本語版ウィキペディアでは「カロッタ」で引くと情報が得られる)という愛称の帽子の色が赤かったので,最初枢機卿かと思ったが,枢機卿の「赤」(緋色)とは違う「赤」(英語ではamaranthと説明してあり,それを日本語では「アマラント紫」というようだ.ちなみに教皇は白いズッケットを被る)だったので,大司教,司教,修道院長のいずれかということになる.ペーザロの大司教様も「スターバト・マーテル」をお聴きになっていたのだと想像する.


ペーザロの歴史と芸術
 ペーザロの歴史は前にも述べたように,ローマの植民都市として始まる.紀元前184年のことだ.それ以前に先住民がいた考古学的遺跡もあり,鉄器時代にはピケニー族,前4世紀からはケルト人のセノネース族が蟠居していたことが知られているので,歴史は古い.

 ローマ時代はフラミニウス街道の交通の要衝として栄え,西ローマ帝国崩壊期に東ゴート,西ゴートに征服され,その後東ローマ帝国の再征服を受けた.ランゴバルド族の支配を受け,それを破ったフランク王国がローマ教皇に献じて,教皇領となった.

 13世紀末から15世紀半ばまでリミニのマラテスタ家,15世紀半ばから16世紀初頭までミラノのスフォルツァ家,その後17世紀前半までウルビーノ公爵となったデッラ・ローヴェレ家に支配された.

 ペーザロを支配する以前のデッラ・ローヴェレ家からはシクストゥス4世ユリウス2世という2人の教皇が出ている.前者のイタリア語名シストが,後にミケランジェロのフレスコ画「最後の審判」で有名なシスティーナ礼拝堂の名のもととなり,後者はラファエロの肖像画で知られ,毀誉褒貶はあるが,教皇庁と教皇領を立て直した傑物だ.

 セニガッリアの領主ジョヴァンニ・デッラ・ローヴェレと,ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの娘ジョヴァンナの間に生まれ,ユリウス2世の甥にあたるフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレが,継嗣の無い母方の叔父ウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロの跡目として1504年ウルビーノ公爵の後継者に指名された.

 セニガッリアの領地は,梟雄チェーザレ・ボルジア(スペイン出身の教皇アレクサンデル6世の息子.アレクサンデルの2代前がシクストゥス4世,2代後がユリウス世.ユリウス2世の次がメディチ家出身のレオ10世で,レオの時代に宗教改革が起きたので激動の時代)に占領され,フランチェスコ・マリーアは命からがら危機を逃れるような状況だったが,教皇ユリウス2世となった叔父ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの援助で1508年ウルビーノ公となり,チェーザレの没落後セニガッリアの領地も回復した.

このように外国人である私たちには錯綜して見える公爵領の継承が,芸術作品の転変とも深い関係を持っている.


 「セニガッリアの聖母」と通称されるピエロ・デッラ・フランチェスカの「聖母子」がウルビーノの美術館にあり,やはりピエロの作品である「ウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ夫妻の肖像」や「ウルビーノのヴィーナス」(今年日本の特別展で公開された)という通称を持つティツィアーノの作品がフィレンツェにあることも,公爵家の変遷と深い関係を持つだろう.フランチェスコ・マリーアの肖像画を描いたのもティツィアーノだが,この作品も現在はウフィッツィ美術館にある.

 デッラ・ローヴェレ家はペーザロを公国の中心地としたが,1631年最後のウルビーノ公爵フランチェスコ・マリーア2世が没すると,再び教皇領となり,1799年にナポレオンの軍隊に占領され(この事件はロッシーニの人生にも大きな影響を持つ),1860年には新しいイタリア王国に編入され,現在に至っている.

写真:
ロッシーニ音楽院の中
にある古雅な趣のある
コンサート・ホール


 ペーザロはもう一度訪れたい.ロッシーニ・オペラ・フェスティヴァルもまた行きたい.




ロッシーニ音楽院の天井画
ペーザロの古名らしき名称がギリシア文字で書かれている.
しかし,ギリシア人植民市だった史実はない.