フィレンツェだより
2008年3月22日



 




カザーレの別荘の床モザイク
ピアッツァ・アルメリーナ



§シチリア行 - その3

アグリジェントで1泊し,翌朝シラクーザに向けて発った.途中,ピアッツァ・アルメリーナとカルタジローネに寄った.


 ツアーの当初の日程では,ピアッツァ・アルメリーナを市内観光した後,アグリツーリズモ・レストランに移動して昼食ということになっていたが,近郊にある古代ローマの別荘跡ヴィッラ・ロマーナ・デル・カザーレの床モザイクが有名なので,お願いして行程に入れてもらった.

 アグリジェントからピアッツァ・アルメリーナに向かう道で,初めてエトナ山の姿を見た.連日暑い日が続いていたので,冠雪していることにまず驚いた.遠くに見えただけだったが,とにかく高い山だということがわかった.


カザーレの別荘跡
 カザーレの別荘跡は人里離れたところにある.途中,人や車をほとんど見なかったので,随分鄙びたところだと思っていたら,現地に着いてみると,何台もの大型バスが駐車し,幾つもの団体の観光客で賑わう大変な観光地だった.

 紀元後3世紀末から4世紀に建てられたこの別荘の所有者は,当時の皇帝という説もある.完全な東西分裂の前だが,辻邦夫の『背教者ユリアヌス』を読むと分るように,東西それぞれに正帝(アウグストゥス),副帝(カエサル)がおり,計4人の「皇帝」がいた.この当時,東の正帝ディオクレティアヌスが最高権力者だったが,この別荘の所有者はミラノを首都にした西の正帝マクシミアヌスだったと考える人もいるようだ.

写真:
ビキニ姿で球技を楽しむ
女性のモザイク


 皇帝の別荘だった可能性も考えられるくらいだから,豪奢なものだったことは想像がつく.その根拠の一つが大規模で見事な床モザイクだ.「ポリュペモスに贈物をするオデュッセウス」,「抱き合う若い男女」のモザイクが有名だが,大がかりな修復作業の最中で,多くのモザイクに覆いがかけられていて,これらの作品は見ることができなかった.

 見られるものも,修復作業で出る埃を一面にかぶっていて,うっすらとしか見えなかったが,それでも見応えのあるモザイクだ.絵柄や出来は様々なので,多分作者は複数だと思う.

写真:
修復作業中のモザイク
埃の下の鮮やかな色が
窺える.


 1時間半ほどゆっくり見学してから,ピアッツァ・アルメリーナの町のある丘をぐるっと車で回って,近郊のレストランで昼食をとった.アグリツーリズモ・レストランだけあって,野菜のおいしさは格別だった.

写真:
ピアッツァ・アルメリーナの町



カルタジローネ
 カルタジローネは陶器の町として知られる.少し市内見学の時間をもらって,市庁舎広場からサンタ・マリーア・デル・モンテ教会までのスカーラ(「階段」)を登った.長い階段の一段一段にマヨルカ焼きのタイルの装飾が施されている.

 シチリアがイスラム教徒に支配されていたのは9世紀から10世紀のことなので,だいぶ昔のことだが,その当時から陶器製造が盛んな町ということで,それを観光資源にしているようだ.街のあちこちでタイル装飾を見かける.

 階段を上りきったが,あいにく教会は閉まっていた.かわりに教会前の小さな広場から眼下の景色を楽しんだ.明るい日差しに街が白く輝いていた.

写真:
各段の垂直面(蹴込)に
マヨルカ焼きの装飾のある
スカーラ(「階段」)



シラクーザ
 カルタジローネから一路シラクーザに向かい,4時くらいに到着した.チェックイン後,早速「アレトゥーザの泉」を見に行った.

 途中,泉の近くの州立美術館に寄った.「修復で休館中」との情報があったが,随分長い間休んでいたようなので,もしかしたら再開しているかも知れないと思って足を運んでみたのだが,やはりまだ休館中だった.

 これでパレルモとシラクーザの二つの州立美術館が見られなかったことになる.どちらにもシチリア出身の有名な画家アントネッロ・ダ・メッシーナの作品があり,シラクーザにはカラヴァッジョの「聖ルキアの埋葬」があるのだが,今回は古代の遺跡や遺物を見ることに集中せよという天の声だったかも知れない.



 古代の痕跡はまずドゥオーモにあった.バロック風のファサードや建物全体,大理石を敷き詰めた広場も立派だが,身廊を支える列柱が,紀元前5世紀のアテナ神殿のもので,大きくて立派なものだった.

 ドゥオーモは旧市街のあるオルティジア島にあり,新市街のある本島とは橋で結ばれている.この日の宿は,ドゥオーモのすぐ裏という便利な所にあった.

写真:
夕陽に輝くドゥオーモと
大理石の広場
写真:
ドゥオーモ堂内
紀元前5世紀のアテナ神殿の柱の間に壁を作っている


 翌朝は,目抜き通りのマッテオッティ通りを北上して,本島と結ぶ橋の傍にあるアポロ神殿を見に行き,帰りは春の陽に輝くイオニア海を眺めながら海岸沿いの散歩を楽しんで,もう一度アレトゥーサの泉を見た.

 アポロ神殿は,柱と礎石,壁の一部以外は残っていないことを事前に知っていたので,それほど期待していなかったが,実際に見てみると,その大きさには目を見張るものがあった.往時の見事さが偲ばれ,見て良かった.シチリアで最古の,紀元前7世紀から6世紀の神殿ということだ.

 コリントスから移住してきたギリシア人たちがシラクーザ(シュラークーサイ)を建設したのは紀元前734年と言われる.釈迦も孔子もキリストも生まれていない,ずっと昔の話だ.アッシリアがオリエントを統一するのが紀元前7世紀,600年代の前半なので,それ以前の出来事ということになる.

写真:
アポロ神殿の遺跡


 シラクーザは,シチリアで最古のギリシア人植民都市ではないが,ある事件をきっかけにシチリアで一番繁栄した都市となる.

 紀元前480年,ギリシア本土を侵略したペルシャ帝国の動きと連携して,北アフリカのカルタゴを中心とするフェニキア人の軍隊がシチリアのギリシア植民市を脅かした.それを撃退したのは,ゲラ(ジェーラ)出身の僭主ゲロン(ゲローン)に率いられたシラクーザ軍だ.この戦いは,ヒメラの戦いと呼ばれる.

 同年,ギリシア本土では第2次ペルシャ戦争の有名なサラミスの海戦があった.この2つの戦いは連動していた可能性がある.

 ヘロドトスに拠ればヒメラの戦いとサラミスの海戦は同日,後世の歴史家シチリアのディオドロスに拠れば,レオニダス王に率いられた300人のスパルタ軍兵士が玉砕したテルモピュライの戦いと同日とされている.同年でもテルモピュライの戦いの方が先なので,どちらと同日かの違いは大きい.

 サラミスの海戦でアテネが,プラタイアイの戦いでスパルタがその地位を確立したように,ヒメラの戦いの後,シラクーザのシチリアにおける優位が確立し,東のアテネと並び称せられる,ギリシア人世界で最も繁栄した都市となった.

 ヒメラの戦いではアクラガス(アグリジェント)の僭主テロン(テローン)もゲロンに協力している.アグリジェントも繁栄した都市だった.テロンのイタリア語名で「テローネの墓」と呼ばれる古代遺跡がアグリジェントに残っているが,これは伝説に拠る仮託に過ぎない.

 アグリジェントは406年に復讐を意図したカルタゴ人によって滅ぼされたが,シラクーザは第2次ポエニ戦争(ハンニバル戦争)に巻き込まれて,紀元前212年にローマ軍に攻略されるまで,独立国家として繁栄を謳歌した.

シラクーザ陥落のどさくさに紛れてローマ兵に殺された有名な科学者がアルキメデス(アルキメーデース)である.


 アルキメデス以前にシラクーザ出身の可能性があって,世界的名声を博したのが牧歌詩人テオクリトスで,彼が活躍したのは主としてエジプトのアレクサンドリアだが,彼の作品にはシチリアの自然が反映していて,後世シラクーザの泉の主アレトゥーサ牧歌の詩神と仰がれることもある.

 ニンフのアレトゥーサが,河神アルフェイオスの求愛を逃れて変身したのが「アレトゥーサの泉」といわれている.

 「アレトゥーサの泉」はオルティジア島に発祥したシラクーザの象徴とされ,海に突き出た小島の突端にある泉でありながら,今も淡水が滾々と湧き出ている.

写真:
「アレトゥーサの泉」
泉のすぐ向こうは海


 オルティジア島の中心にはアルキメデス広場(ピアッツァ・アルキメーデ)があり,新市街の先にある考古学公園の近くには「アルキメデスの墓」があるが,これは伝説による仮託に過ぎないようだ.

 さらに新市街にはテオクリトス大通り(ヴィアーレ・テオクリート)があるが,これも,もしかしたらシラクーザ出身かも知れない古代の大詩人を記念したものに過ぎない.



 シラクーザの考古学遺跡として,ローマ時代の体育場や,ゼウス神殿跡もあるが,何と言っても最も見るべきものは大きなギリシア劇場(テアトロ・グレーコ)で,これを中心に考古学公園(パルケ・アルケオロジコ)が形成されている.

写真:
ギリシア劇場
(テアトロ・グレーコ)


 シラクーザでは民主政治が行われた時代もあるが,基本的に僭主と言われる独裁的指導者が君臨した時代に栄えている.ゲロンとその後継者ヒエロン(ヒエローン)1世が活躍したのが前5世紀前半,ディオニュシオス(シュオニューシオス)1世とその子ディオニュシオス2世が権力を握っていたのが,前5世紀末から4世紀前半,ヒエロン2世が王として支配したのが前270年から215年のことで,彼の死後シラクーザはローマに占領される.

 アルキメデスに王冠が純金かどうか調べさせ,「アルキメデスの原理」を発見させたのもヒエロン2世と言われている.浴場で浮力の意味を悟り,大科学者が,シラクーザの大通りを「ヘウレーカ,ヘウレーカ」(見つけた,見つけた)と裸で走った逸話は有名だ.

ディオニュシオス親子と深い関わりを持ったのがアテネの哲学者プラトンで,彼は少なくとも3度シラクーザを訪れている.これについて語りだすと話が終わらないので,私がシラクーザのあるシチリアに来たかった1番の理由がこれであったことを述べるに留める.


 現在のシラクーザにはプラトンが残した痕跡は何一つない.彼がシラクーザで哲人政治の理想を実現させようとしたとはとても思えないが,ディオニュシオス親子の親族ディオンが彼の愛弟子で,その関係で彼は海を越えてシラクーザにやって来た.詳しくはプラトン『書簡集』の「第七書簡」(岩波文庫のブラック『プラトン入門』に訳),ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』(岩波文庫)の「プラトン伝」,プルタルコス『対比列伝』の「ディオン伝」を参照されたい.

 脱線が長くなったが,ギリシア劇場が作られたのがヒエロン2世の時代ということなので,ギリシア劇の最盛期である5世紀から大分後だ.

 その他に「ディオニュシオスの耳」と呼ばれる石切り場,ローマ時代の円形闘技場を見た.円形闘技場は,場合によっては人間同士の殺し合いが見世物にされた可能性のある場所だが,今は春の花が咲き乱れ,訪れる人も比較的少なく,のどかな空気が漂う場所だった.

写真:
円形闘技場
ローマ時代


 入場料を払う考古学公園のすぐ外にあるので,ギリシア劇場その他を見る時間がなくてあきらめるなら,円形闘技場は無料で見ることができる.

(※その後,ハイ・シーズンに行った友人の話では,やはり考古学公園で買った入場券の提示を求められたとのことだ.私たちが行った時は,比較的観光客の少ない時期だったので,もしかしたら,その時は係員が配置されていなかったか,あるいは,係員が昼休み,もしくは小休憩だったのかも知れない.いずれにせよ,先に考古学公園で入場券を買って見学していたので,私たちの場合は特に問題はなかったわけだが)


 この後テオクリトス大通りを歩いて州立考古学博物館に行ったが,予定より長くなったので,「続く」としたい.





アレトゥーサの泉
繁るパピルスに2人の影