フィレンツェだより |
シチリア島 |
§シチリア行 - その1
3月7日に,4度目に行ったローマで,実はまた掏り被害に遭っていた. 3月11日,シチリアへの出立の朝,いつもの肩掛けバッグをかけて,中身を確認するためにチャックを開けたら,バッグの内側に外からの光が微かに射しているのが見えた.側面に,10月に妻が被害に遭った時と同じような切れ目が入れられていた. 実際には何も盗られたものはなかったので,厳密には「掏り被害」とは言えないだろう.しかし,明らかに刃物を使った「掏り」の仕業だ. それと気がつかずに,同じバッグにクレジット・カードや財布を入れて,その後,少なくとも3日間フィレンツェの街をあちこち出歩いていたかと思うと,なるほど私は掏りが狙いやすいタイプの人間だなあとつくづく思った. 2月にローマに行った時も今回も,私のバッグには財布もクレジット・カードも入れていなかったので,北本のダイエーで3千円で買った,一応ブランドもののバッグが切り裂かれた以外は被害がなかった. しかし,10月の事件のあと,ローマの地下鉄に2回続けて被害無しで乗れたと思ったことも,大きな満足の一つだったので,その「自信」が音を立てて崩れた.
同じ地下鉄でもローマとミラノでは緊張感が違う.ローマの地下鉄は大きい男たちに囲まれて身動きが取れなくなると,掏り防止の手段は貴重品を携行しないこと以外にはないように思う.
![]() イタリア滞在の功労者の一員である肩掛けバッグは,その後,生活力のある妻の手で修繕され,再び活躍することになったが,シチリアには,シエナで買って以来大活躍中の,シモーネ・マルティーニが描いたグイドリッチョの雄姿が輝く布バッグを携行することにして,シータ社のバスターミナルからバスに乗ってフィレンツェ空港に向かい,シチリアへの旅に出発した. 巨峰,巨岩,巨樹 巨峰,巨岩,巨樹,シチリアでは大きなものをたくさん見た.巨峰はただ一つエトナ山である. ギリシア,ローマ文学を学んだ者なら,古代ギリシア語で「アイトナ」という山がシチリアにあり,紀元前5世紀にシチリアに生まれた哲学詩人のエンペドクレスがその火口に投身自殺をしたという話を知っている.彼は四元素が愛憎2つのエネルギーによって混淆分離して世界が構成され,様々な現象が生じることを説いたとされる人だ. 私はその話を,古典語・古典文学を学ぶ以前の高校時代に庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』で読んだと思う.1969年,私がまだ小学生の時に芥川賞を取った作品で,高校時代に何度か読み返して,その後は読んでいないので,正確には思い出せないが,噴火口に身を投じた彼が,そこにサンダルを揃えていたかどうかというような一種の冗談になっていたと思う. ちなみにギリシア語ではサンダルをヒュポデーマといい,ギリシア語で新約聖書を読むと出てくる.紐で結ぶタイプのもので,洗礼者ヨハネは,イエスのことを人々に語るのに,「私はその人のサンダルの紐を解くにも値しない」と言った. 全く個人的な体験だが,それ以来の条件反射で,エトナ山というと火口にサンダルが揃えてある光景が思い浮かぶ. エンペドクレスの投身自殺は流布した一つの伝説に過ぎないが,今回エトナ山を実際に見て,日本語版ウィキペディアの情報に拠れば標高3326メートル,『地球の歩き方 南イタリアとマルタ 2006〜2007』に拠れば,3323メートル,3776メートル(日本語版ウィキペディア)の富士山よりはだいぶ低いが,同じく活火山として有名なヴェズヴィオ山(1281メートル)の3倍近い大山で,実際に見てみるとその裾野の広さに驚く.
エンペドクレスがあの山に登って火口に身を投じたとしたら,相当の健脚で,手間隙のかかる自殺だったことになる.
![]() テクストにない以上,原作者がポリュペモスがいた島をシチリアだと思っていたかどうかはわからないし,『オデュッセイア』にはトリナクリアという別の島が出てくるが,この名称が古代からシチリアの別称にもなっているので,シチリアをキュクロプスがいた土地と断言することはできない. それでも,そう思った人がいても無理もないと思う.島中に点在する巨石群を見ていると,目を潰されたポリュペモスがオデュッセウスの船に投げた岩は,伝説の世界でもこのように大地にあったのではないかと思った. ![]() シチリア行が決まった経緯 このシチリア旅行は,日本の旅行会社のフィレンツェ支店で申し込んだ企画旅行で,送迎の車とホテルの手配はすべてお願いしたものだった. 1年間のイタリア滞在中にシチリアに行くことはあきらめていた.広いシチリアを,独力で飛行機,鉄道,バスの時間を調べ,それに基づいてホテルの手配をし,できるだけ多くの見どころを回ることは,日々の生活にも多くのエネルギーを使っている私たちには過大な負担に思われた. 3月の帰国便を手配するために,年末に旅行会社に行ったときのこと,なにげなく手に取ったカウンターのパンフレットに日本出発のシチリア旅行の企画が載っていて,訪問地,旅行期間などが私たちのイメージに近いものだったので,このツアーにフィレンツェから参加できないかどうか,何も期待せず聞いてみた.
殆ど自由行動のプランだったので,移動は日本からの皆さんと一緒でも,滞在先では自分たちが見たいものが見られそうだと思っていたが,それが大正解だった. 往復の飛行機以外は全て,現地の方が運転する車での移動になっていたが,今回はハイ・シーズンではなかったせいか,全行程,乗客は私たち2人だけだった.最終日にタオルミーナのホテルからカターニャ空港まで送ってもらった時を除いて,すべてパレルモのニーノさんの運転する車だった. ニーノさんは若いのに風格がある方で,いつも待ち合わせ時間前から待機しておられ,運転が上手なうえ,多分ご自分の車で仕事を請け負っておられるのだと思うが,仕事用の車にきちんと投資をしておられるようで乗り心地が良く,快適な旅だった.
経路は,行きがフィレンツェ‐パレルモ,帰りがカターニャ‐フィレンツェなので,同じ企画に日本から申し込んで成田や関空から来るより当然,飛行機代がだいぶ安い.かかった金額の総計と日数を勘案すると,思った以上に割安な旅行だったと思う. 6泊7日で,4つの都市に滞在し,足がなくてはなかなか訪問が難しい途中の観光ポイントにも立ち寄ることができた.6泊した4つのホテルも様々だったが,概ね快適で,それぞれの違いを楽しむ余裕があった. 外国におけるコミュニケーション 運転手さんは法律上,現地の方でないといけないらしいので,その点は,イタリア語も英語も全く解さず,旅行経験がなければ辛いかも知れないが,海外旅行の経験があり,あるいは多少英語を理解し,行動力のある人が一緒なら大丈夫だろう. 運転手の方は基本的に英語は話せないが,数字と重要な観光用語はわかるようだ.ニーノさんは,私たちが多少イタリア語を理解すると知ってからは,基本的に英語の単語は使わなくなったが,それでも意思疎通の確認がうまくできないときは何度も英語に言い換えようと努力しておられた.
もちろん話が多少内容を伴う場合は,何語であってもカタコトというわけにはいかない.少なくとも一方に相当の外国語能力があり,もう一方にも多少の力があることが必要だ. ホテルのフロントの人は日本人と見るとまず英語で話しかけてくる.その英語力はやはり個人差があるが,人によっては運用能力もさることながら,中には一般的にイタリア人が得意とは思えない発音までほぼ完璧な人もいる. あまり発音にこだわる必要はないと思うが,それにしても立派な発音だと,ホテルの格や土地柄を感じさせる場合もある. 今回の旅で最後に2泊したタオルミーナのフロントは,これも個人差があるが,英語だけでなく,殆どの人がドイツ語も使えるようだ.ドイツから観光客が多いことは2泊しただけでもわかった. ![]() 大都市パレルモ パレルモはシチリア州の州都であり,中世からずっと栄え続けている町なので,シチリアを代表する州立考古学博物館があり,その所蔵品には立派なものも少なくない.一方,パレルモも確かにその基盤は古代都市だが,建設者はフェニキア人であり,その意味ではパレルモ自体には古代ギリシア都市の痕跡はない. パレルモが大都市であることには驚いた.交通量の多さも半端ではない.いったいこれだけの人がどうやって生活の糧を得ているのだろうと思うほど,パレルモは人に溢れている.地方都市と言ってもパレルモは中規模の国の首都と言っても良いほどの歴史と風格を備えている. 13世紀のホーエンシュタウフェン家の神聖ローマ皇帝フリートリッヒ(フェデリーコ)2世の時代には,パレルモは世界の中心だった.シチリアの外に出たことがない人に,“パレルモは今でも世界の中心であり続けている”と言われても納得するほど,何でもあるように思える. フィレンツェも短い間だが,統一イタリア王国の首都だったことがあり,何と言ってもフィレンツェ共和国,トスカーナ大公国の首都だったわけだが,「首都」という呼称が似合うのは圧倒的にパレルモの方だと思う. アラブ人,ノルマン人,ドイツ人,フランス人,スペイン人がパレルモに君臨した.フェニキア人,ローマ人,ゲルマン人,ビザンティン帝国がこの町を支配したが,「首都」に育てたのはアラブ人とノルマン人だ. 血統的にドイツ人と言ってもフリートリッヒ(フェデリーコ)は母系によってノルマン王家に連なり,シチリア王となってパレルモに君臨した「シチリア人」と言っても良いだろう.
一方,イタリア語とローマ・カトリックによる「イタリア人」としてのアイデンティティを北部の人々と共有しながらも,アンジュー家,アラゴン家,ハプスブルク家,ブルボン家,スペイン・ブルボン家など,フランス人やスペイン人などに長い間支配された歴史を持っているので,自衛,互助のために,そうしたものが存在するとも言われるが,「パレルモ」と聞いて,「マフィア」を連想する人も少なくないだろう. マフィアのことは今回は全く見聞していない.したがって,私が見たパレルモは,通りすがりの外国人に表の姿を見せてくれたに過ぎない.
![]() ノルマン王宮 カテドラーレ マルトラーナ教会 (サンタ・マリーア・デランミラーリオ教会) 州立考古学博物館 他に州立美術館のあるアバテッリス宮を訪ねたが,修復中で長期休館だった.外観だけ眺めたものとしては,
これら以外に,サン・ジョヴァンニ・デーリ・エレミティ教会,サン・フランチェスコ・ダッシジ教会,ジェズ教会など多くの教会があり,宮殿,邸宅も枚挙に暇がない.限られた時間でこれらを全て十分に見て回るのはとても無理だ. ノルマン王宮 見学したものの中で,ノルマン王宮はパレルモ観光の目玉となる場所だが,その中でもさらに目玉とも言うべきパラティーナ礼拝堂は修復中で見られなかった. この礼拝堂のモザイクは12世紀のノルマン人王朝時代のもので,写真で見る限り,豪華絢爛で人目を引くもので,是非見てみたかったが,今回は全く公開されていなかった. その代わりに,『地球の歩き方』では,火,水,木は休みとされている王宮内のガイド付き見学が火曜日だったのに実施されており,その他,地下教会が公開され,礼拝堂の修復に資金提供しているドイツの企業家ヴュルトのコレクションである,20世紀の芸術家マックス・エルンストの作品の特別展が行われていた.入場料は1人10ユーロと高めだったが,ガイド付きで王宮内のモザイクを初めとする様々な時代の芸術,調度,装飾を見ることができたし,エルンストの特別展は見応えがあった.
ポルタ・ヌオーヴァ ドゥオーモとノルマン王宮を結ぶ道(ヴィットリオ・エマヌエレ通り)にポルタ・ヌオーヴァと呼ばれる門がある.おもしろい造形だが,1583年にハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)の戦勝を記念して作られた比較的新しい建造物だ.それでも関が原の戦いの17年前のことだ.
カテドラーレ(司教座教会) カテドラーレも堂々たる建物だが,様々な様式が混在し,支配者が何度も変わったパレルモの歴史を反映している.カテドラーレは,神聖ローマ皇帝やシチリア王たちの墓所にもなっているが,ここで見た新たな学習項目はガジーニ一族の彫刻だ. ガジーニ一族は北イタリアのジェノヴァで活躍した彫刻家一族の支流で,パレルモで生まれたアントネッロ・ガジーニ(1478-1536年)を中心に,父のドメニコ,アントネッロの5人の息子たち(アントニオ,ファツィオ,ジャコモ,ジャンドメニコ,ヴィンチェンツォ)がシチリアとカラブリアで活躍した. ドメニコは,現在スイスに属している地域の生まれで,フィレンツェでブルネレスキに学び,ジェノヴァで活躍した後,パレルモに来て,カテドラーレなどに作品を残しパレルモで亡くなった. パレルモのカテドラーレを始め,シチリア各地にガジーニ一族,ガジーニ工房の作品が残っている.今回はそれらの真価に開眼するほど鑑賞していないが,とりあえずドメニコとアントネッロの作品を1つずつ十分に見ることができた.
マルトラーナ教会 モザイクについては,パラティーナ礼拝堂が見られず,近郊のモンレアーレのドゥオーモには時間の都合で行けなかったが,この後に行ったマルトラーナ教会で,今回のパレルモ訪問で見たキリスト教モザイクで最もすばらしいものが見られた.
マルトラーナ教会のモザイクは12世紀のものだが,私たちにとって今までビザンティン風というのは,ジョットに克服されるべき古い時代の芸術という先入観があり,ローマで見たモザイクなどは,芸術性が高いというよりも,古拙で味わい深い作品といった印象があった. しかし,マルトラーナ教会のモザイクはラヴェンナのサン・ヴィターレ教会やサンタポリナーレ・ヌォーヴォ教会のものと並んで,芸術的水準の極めて高いもののように思われる. このモザイクに描かれた幾つかの聖母像を見ていると,ドゥッチョやチマブーエなどシエナやフィレンツェの芸術の先蹤となった大芸術家たちの根っこが見えるようで,こうした流れがあって,ジョットが出てきたのであって,単に大天才が出現して,未熟な前段階の芸術を駆逐したと言うような単純な話ではないことに思い至らされる.
天井の立派な,「受胎告知」,「イエスの誕生」,「聖母の死」,「聖人たち」,「天使たち」のモザイク,コズマーティ様式の装飾,いずれもすばらしいものだった.
有名なモザイク「聖母に跪いて教会を献納する海軍提督アンティオキアのゲオルギオス」のことは,最後に思い出して,しっかり鑑賞したが,その反対側にあった「キリストから王冠を授かるシチリア王ルッジェーロ2世」は見落としてしまった.残念だが,それ以外は十分に鑑賞して,10ユーロで写真豊富な英訳版ガイドブックを購入したので,今回は満足だ.
多くの場合,高い所にあるし,光の反射などのため,肉眼では文字までは読み取れなかったが,ガイドブックの写真で確認すると,モザイクで聖人の名前などがギリシア文字で書いてあるのが,ビザンティン風ということなのだろう.
「キリストから王冠を授かる王冠を授かるシチリア王ルッジェーロ2世」には,キリストには省略した書き方だが「イエースース・クリストス」と書かれており,ルッジェーロの方には「ロゲリオス・レークス」とある.ギリシア文字で書かれているが,レークスはラテン語だ.ギリシア語ならバシレウスになるはずで,このあたりがパレルモ風ということだろうか. パレルモの州立考古学博物館から,今回の主要目的である古代ギリシア人の足跡探訪が始まる.それについては「続く」としたい. 新市街で 考古学博物館を見た後,バスで宿のある新市街へと帰ったが,パレルモは広い.ヴィットリオ・エマヌエレ通りとクアットロ・カンティで交わるマクエダ通りを北上するとマッシモ劇場の前を通って,ポリテアーマ劇場のあるカステルヌオーヴァ広場に出る. そこから北の大路がリベルタ大通りで,この通りの名前は先日ローマの特別展で見た20世紀の画家アウレリオ・カッティの「パレルモ リベルタ通り」で知った.絵の題目では「大通り」(ヴィアーレ)ではなく「通り」(ヴィーア)となっているが,同じものだろう.19世紀のイタリア統一後の新しい時代のパレルモの当時はモダンだった街路を描いている佳品に思え,心に残った. リベルタ大通りは今も,古い町パレルモの中にあって最も新しい雰囲気を醸し出す大通りで,ブランド・ショップや近代的な高層集合住宅が軒を連ねている.イタリアでは比較的珍しい風景ではないだろうか.中世に繁栄を誇り,地中海世界の中心だったパレルモにこのような街路があることも,おそらくパレルモらしいのではないかと思う. ![]()
リベルタ大通りを少し北に行って,東進した海の近くに宿があったが,その時点では色々なものを見終えて心に余裕があったので,途中の書店に立ち寄った.そこで,ごく一般的に手に入る本だが,アリストテレス『詩学』の希伊対訳注解本を「お買い得」(オッカジョーネ)価格3ユーロで購入した.ギリシア語テクストの部分には読んだ跡がないが,伊訳,注解,詳細な解説部分にびっしりと書き込みをしながら熱心に読んでおり,私もこの人にあやかって,しっかり勉強したいと思った.
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マッシモ劇場につぐ大劇場 ポリテアーマ劇場 |
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