フィレンツェだより |
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§ミラノ行 - その3
日本からイタリアに来たとき,成田から,まずミラノ・マルペンサ空港に着き,飛行機を乗り継いで,フィレンツェ・アメリゴ・ヴェスプッチ空港まで来たのだから,それなりの距離があるのは理解していたが,それにしても遠かった. 車窓から眺めるエミリア・ロマーニャからロンバルディアへ続く平原が緑豊かで広く,肥沃な土地であることが想像された. 所々に大きな町があるが,ミラノは圧倒的に大きい.ローマも大都会だが,ミラノは豊かなヨーロッパの大都市という雰囲気をたたえている.地下鉄も,新しくてきれいというわけではないが,それでもローマの地下鉄のような独特の緊張感を強いられることは少ない. ローマが政治と観光の都市だとすれば,ミラノは経済の中心地というのは先入観かも知れないが,今回のミラノ行ではそれを修正する必要は感じず,むしろより強固な印象になった.
とは言え,ミラノはやはりイタリア語が飛び交うイタリアの町であり,カトリックの信仰に支えられた土地である.2日目の午前中に訪れたサンタンブロージョ教会で、多くの人が敬虔なキリスト教徒なのだということをこの目で確かめた. 入口にあった「主よ,復活の光の中で彼女を再び輝かせてください」(「彼女」のところに固有名詞)という簡素な貼紙と花飾りが,サンタブロージョというミラノを代表する大教会で葬儀が行われていることを示していた.堂内では大勢の会葬者が敬虔に頭を垂れ,司祭が厳粛に司式している.美しい歌声の「キリエ・エレイソン」(ギリシア語で「主よ,憐れみ給え」)が響き渡った. やがて,多くの人に見守られて,花で飾られた柩が運び出された.会葬者たちもそれぞれ帰路に着き,静けさが戻ってくる. ほどなくして,ツーリストの姿が増えはじめた.団体の拝観者も入ってきて,少しずつ賑やかしくなると,次第に現役の宗教施設から,ミラノの代表的な観光ポイントへ雰囲気が変わっていった. サンタンブロージョ教会 ミラノというと,受験勉強で世界史を選択していれば,反射的に「313年ミラノ勅令」と口に出る人は少なくないのではないか. ミラノは,古代にはメディオラヌム(メディオラーヌム)という町で,アルプスのこちら側のガリア(現在の北イタリア)の中心都市であった.前1世紀には相当な繁栄を見せ,少年から青年になろうとするウェルギリウスも勉学の場に選んでいる. コンスタンティヌス(コンスタンティーヌス)大帝は,キリスト教の聖人に列せられた母ヘレナとともに,「聖十字架の物語」の伝説でも知られるが,首都をローマからビュザンティオンに移し,コンスタンティノポリス(コンスタンティーノポリス)と改名した.また,それまでの国策を変え,キリスト教を含む信仰の自由が保障された.この方針が決められた場所がミラノで,380年にキリスト教が国教になる素地がつくられた. 哲学者アウグスティヌスもミラノを一時活動の場としたが,彼はここで,教父というキリスト教思想家であり,ミラノ司教であった人物の影響を受けてキリスト教徒になった.この人物が聖アンブロシウスであり,イタリア語ではサンタンブロージョとなる. サンタンブロージョ教会は,公認され,国教化された4世紀のキリスト教を支えたアンブロシウスによって創建され,彼の遺体が2人の殉教聖人とともに聖遺物となって,後にその名を冠した教会となった. 今回は,たまたま葬儀が終わる頃に来合わせたので,宗教儀式が終了するのを待って,拝観させてもらうこととなった.古代末期からのものや,後陣のモザイクや,ベルゴニョーネのフレスコ画など,興味深いものも多いので,じっくり拝観できなかったのは残念だったが,きつい日程の中,垣間見られただけでも満足すべきだろう. いつの日かまた訪れることを期して,イタリア語版のガイドブックと『サンタンブロージョのモザイク』を0.5ユーロまけてもらって計15ユーロで購入し,辞去した.
ミラノ大司教のコレクション ミラノの守護聖人アンブロシウスの他に,ミラノに関係の深い聖人がどのくらい出たのか知らないが,16世紀の対抗宗教改革の時代に,カトリック教会を支えた聖カルロ・ボッロメーオはフィレンツェにも,ローマにも所縁の教会があり,記憶されるべき人だろう. この人の親族で枢機卿,ミラノ大司教となったフェデリコ・ボッロメーオは学問・芸術を愛好し,有名なアンブロジアーナ図書館を創設し,彼が寄贈したコレクションが同図書館内にあるアンブロジアーナ絵画館の基礎になっている. 図書館は古写本の収集で有名なだけでなく,蔵書の中にはペトラルカが注解を付し,シモーネ・マルティーニが挿絵を描いたウェルギリウスの写本があると聞くと,フェデリコの学問・芸術,人文主義への志向を象徴しているようで興味深い. 彼が保護した画家の1人にフランドルのヤン・ブリューゲル(父)がいる.ブリューゲルという名の芸術家は多くでややこしいが,ピーテル・ブリューゲル(父)の息子がピーテル・ブリューゲル(子)とヤン・ブリューゲル(父)で,ヤン・ブリューゲル(父)の同名の息子ヤン・ブリューゲル(子)も画家のようだ. 彼の代表作とされる「花を活けた花瓶」もアンブロジアーナ絵画館にあり,フェデリコから寄贈されたコレクションの中にあった. カラヴァッジョの「果物籠」とヤン(父)の「花を活けた花瓶」は,全く印象を異にする作品だが,宗教的な主題でもないこれらの絵画がコレクションにあったのは,やはりフェデリコの趣味を反映しているのだろう.枢機卿でミラノ大司教だったのだから,地位や職責よりも,個人的嗜好に拠るものだろうが,そのおかげで,私たちはヤン(父)の絵はもとより,カラヴァッジョの大傑作を見ることができた.
![]() フェデリコはミラノだけでなく,イタリア,西欧,世界の文化に貢献したことになるだろう.閲覧室の様子を見て,私も学問への憧憬を呼び覚まされる. 寄贈コレクション カラヴァッジョの作品はブレラにも1点ある.「エマオの饗宴」だ.数年前の庭園美術館のカラヴァッジョ展で感銘を受けた同じ作品だろうか.ロンドンのナショナル・ギャラリーにも「エマオの饗宴」があるようだが,いずれも傑作だ.それ以前に描かれたものを1624年にはパトリーツィ侯爵夫人が入手したことは確からしい.1939年に篤志家たちによるのだろうか,ブレラ美術館に寄贈されたとのことだ.
アンブロジアーナ絵画館もポルディ・ペッツォーリ美術館も個人のコレクションを基盤にしているし,ウフィッツィ美術館のボナコッシ・コレクション,ヴェッキオ宮殿のロウザー・コレクションのように後から寄贈されて重要な一部を形成する場合も少なくない.
ブレラ美術館でもエミリオとマリアのジェージ夫妻によるジェージ・コレクションとランベルト・ヴィターリのコレクションには目を見張った.ブレラは19世紀の画家の作品も充実しているが,20世紀の作品に関しては,これらのコレクションがなければ寂しいものだったかも知れない.
ジョルジュ・ブラック,パブロ・ピカソ,ピエール・ボナールの傑作それぞれ1点ずつを含め,アメデーオ・モディリアーニ,アルベルト・ジャコメッティ,ジョルジョ・デ・キリコ,ジャーコモ・マンズー,ジョルジョ・モランディ,マリーノ・マリーニなどのイタリアもしくはイタリア系の芸術家の絵画,彫刻のコレクションがすばらしかった.ヴィターリの収集には考古学的発掘品や中世も宗教画もあるが,何と言っても20世紀の作品が立派だ. その中で,マリーノ・マリーニは,ブレラ宮殿の1階部分を占める美術アカデミーの彫刻部門の教授を勤めたこともあり,2階部分にある美術館へと行く階段を昇ったところには彼の作品「奇跡(ミラコロ)」がある. 実は同じモティーフの作品を,ミラノに行く直前の3月3日にフィレンツェのマリーノ・マリーニ美術館で見ていた.
マリーノ・マリーニ美術館 この美術館は,旧サン・パンクラツィオ教会の由緒ある建物を利用しており,大きな古い教会の内側に,鉄骨を組んで明るい展示会場を作り,トスカーナ出身のこの偉大な現代芸術家の様々な作品を,居心地の良い空間の中に展示している. ![]() なにせフィレンツェに住んでいるし,美術館は街中にあるのだから,チャンスはいつでもありそうなものだが,それがかえって仇となったか,その後なかなか訪ねる機会を得られないでいたが,3月3日,日本ではひな祭りの日,フィレンツェ滞在も終わりに近づいてきたので,思い切ってローマ行とミラノ行の間に,旧サン・パンクラツィオ教会に行ってみた. ピストイアでもたくさん見たのが,馬に乗った人物と,豊満な女性というモティーフだ.前者の1つのヴァリエーションが「ミラコロ」であり,後者も制作年代によって様々なタイトルがついているが,ローマの豊穣の女神ポモーナ(ポーモーナ)に集約されて行く.ピストイアでもそうだったが,絵や版画にも魅力的なものが多く,見ているうちに時間を忘れてしまう.
フィレンツェのマリーノ・マリーニ美術館で思ったのは,美術館はテーマと展示方法が大事だということだ.天井の高い古い教会に鉄骨を組んで,2階,3階,中2階を作り,自然光もふんだんに取り入れて,明るい空間を作り出している. 大らかな空間で,大らかな作品を,大らかに展示しているのを見ると,観光資源となるルネサンス,マニエリスム,バロックの絵画ばかりでなく,現代芸術が大事にされていることがわかり,こういう土壌から,イタリアの偉大な芸術が生まれたのだ,と,あらためて思う. 芸術の揺籃,ミラノ ミラノで活躍した芸術家としてマリーノ・マリーニの他に,作曲家のジュゼッペ・ヴェルディ,指揮者のアルトゥーロ・トスカニーニがいるが,いずれもブッセート近郊,パルマ,とミラノ以外の出身だ.アンブロシウスも,カルロ・ボッロメーオも,ミラノ以外の出身だ.もちろんレオナルド・ダ・ヴィンチもトスカーナの生まれだ.これらの事実は,この人々に活躍の場を提供したミラノが大都会だったことを示している.
ミラノの現実は,多分良いことばかりではないだろう.現代都市が抱える多くの問題が,ミラノにもまた見られるであろう.しかし,ミラノが美しい都会であり続けてくれることは,イタリアにとっても,ヨーロッパにとっても,世界にとっても意味のあることのように思える. また訪ねる日も,是非今回のように美しく微笑んで欲しい.ミラノはすばらしい町だった. |
昼食を採った「カフェ・ヴィクトル・ユゴー」 (アンブロジアーナ図書館の近く) |
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