フィレンツェだより
2008年3月8日



 




コスメ・トゥーラ
「舞踊の女神テルプシコレ」(部分)



§ミラノ行 - その2

ミラノでは最初から見学箇所を絞った.


 1日目の3月4日に,「ダヴィンチの食堂」,サンタ・マリーア・デッレ・グラーツィエ教会,ブレラ絵画館,2日目の3月5日に,ポルディ・ペッツォーリ美術館,アンブロジアーナ絵画館,スフォルツァ城内の絵画館をリストアップした.教会も魅力的だったが,今回は美術館に絞った.

 しかし,2日目の朝,少し時間ができたので,地下鉄でサンタブロージョ教会に行き,そのせいではないが,午後は時間が押してしまい,スフォルツァ城内の絵画館は断念することとなった.


マンテーニャ
 今回のミラノ行の最大の目的の1つが,ミラノに複数あるマンテーニャの作品を鑑賞することだった.スフォルツァ城の絵画館の作品は見られなかったが,ブレラで3点,ポルディ・ペッツォーリで2点,計5点を見ることができた.

 ブレラでは「死せるキリスト」,「熾天使の聖母子」,「サン・ルーカ礼拝堂祭壇画」,ポルディ・ペッツォーリでは「男性の肖像」,「聖母子」を見た.このうち,「男性の肖像」は伝マンテーニャ作ということで真作かどうかはわからないし,見た印象も1番薄い.ただ,マンテーニャ的特徴が顕著とは思えないが,作品自体は見事なものだ.

写真:
「聖母子」
マンテーニャ
ポルディ・ペッツォーリ美術館


 この中では「死せるキリスト」が1番有名だが,やはり引きつけられる作品だった.キリストの遺体を足の方から見るという斬新な(?)構図で,血の気の失せた皮膚がリアルな絵かと思っていた.

 実物は,想像していたよりも小さな絵で,実際に死体を足の方からじっくり眺めた経験がないので,もしかしたらそのように見えるのかどうかわからないが,顔がアンバランスに大きい感じがした.均整をわざと崩したところに1つの斬新さがあるのかも知れない.

 カンヴァスにテンペラで描かれ,褪色は進んでいるのだと思うが,手足から磔の釘を抜いた傷跡の迫真性が凄い.

しかし,私にとっては絵画史上画期的かどうかよりも,その絵が自分に訴えかけるかどうかに意味があるので,その点から考えたときに「熾天使の聖母子」が一層魅力的な作品に思えた.


 もちろん大がかりな修復の成果なのだろうが,マンテーニャにもしかしたら特徴的なのかも知れない青と赤が鮮やかで,対照というよりは補い合って,彼独特の味わいを出している.伏し目がちな聖母と視線を上に向けているイエスが対比が面白い.

 「聖なるかな,聖なるかな」と言って聖母子の周りを飛翔している熾天使が良い.ボローニャのエレミターニ教会のフレスコ画「聖母被昇天」の熾天使,ウフィッツィ美術館の「三王礼拝」で岩屋にいる聖母子の周りの熾天使,マントヴァのドゥカーレ宮殿「新婚夫婦の間」の壁画と天井画のプットーたちに勝ると思われた.



 マンテーニャの「聖母子」を2点見て,やはりブレラで2点見られるジョヴァンニ・ベッリーニの「聖母子」(1460年代前半の作品1510年の作品)のことを考えた.

 同じ画家の作品とは言え,制作年代に50年近い差のある絵を単純に比較するのは乱暴だと思うが,落ち着いた色調の1460年代の作品は古風で,彼以前の「聖母子」から受けた影響を自らの絵に活かし,華やかな1510年の「聖母子」は,同時代以降の周辺の画家たちに模倣の意欲を与えた絵のように思われた.

 ジョヴァンニの「聖母子」は,ヴェネツィアのアカデミア美術館,コッレル博物館,ヴェローナのカステルヴェッキオ美術館などでたくさん見ているが,ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートに載っているだけでも,まだたくさんあるようだ.工房作品や彼の影響を受けた作品まで入れると,ジョヴァンニの「聖母子」の系譜に連なる作品は山ほどあることになる.

実際に,ブレラ絵画館,ポルディ・ペッツォーリ美術館,アンブロジアーナ絵画館で出会った,聖母子が描かれている多くの作品(聖家族,祭壇画など)を見ていると,ジョヴァンニの影響力がいかに大きかったかを思わされる.


 一方,その中にあってマンテーニャは,「聖母子」だけを見ても独自性が高いと言うか,見る人に訴える力を持っていると思う.

 マンテーニャの義父であり,ジョヴァンニの実父であるヤコポ・ベッリーニの「聖母子」もブレラで1点見ることができる.

 一つ一つの制作年代や描かれた背景を把握しているわけではないので,よくはわからないものの,これらの作品をまとめて鑑賞することで,マンテーニャとジョヴァンニの相互の影響,ヤコポまで遡って,あるいはもっと大きく,ドゥッチョやチマブーエ,さらに以前のビザンティン美術の影響が強い「聖母子」まで遡る影響の連鎖へと,どんどん思いは広がっていく.


ピエロ・デッラ・フランチェスカ
 マンテーニャの絵に劣らず見たかったのがピエロ・デッラ・フランチェスカの作品だ.ブレラで「聖母子と聖人たち,寄進者フェデリコ・ダ・モンテフェルトロ」(通称「モンテフェルトロ祭壇画」),ポルディ・ペッツォーリで祭壇画の一部「トレンティーノの聖ニコラウス」を見ることができた.

 前者はウルビーノ公フェデリコ・ダ・モンテフェルトロの墓所である,ウルビーノの教会にあったものだ.何時間でも前に立って見ていたい絵だ.

 後者は,もともと画家の故郷ボルゴ・サン・セポルクロのアゴスティーノ修道会のために描いた祭壇画が切り離されたもので,他に残っている部分としては「聖アウグスティヌス」がリスボン,「大天使ミカエル」がロンドン,「福音史家ヨハネ」がニューヨークにあるとのことだ.

 写真で見る限り「大天使ミカエル」がモンテフェルトロ祭壇画や「セニガッリアの聖母」に出てくる天使に似ていて,ピエロらしい絵であり,それが見られないのは残念だが,私たちにはほとんどなじみのない13世紀のアゴスティーノ会出身の聖人の絵であっても,ピエロの作品が見られたのは嬉しい.

写真:
「トレンティーノの聖ニコラウス」
ピエロ・デッラ・フランチェスカ
ポルディ・ペッツォーリ美術館



ルーカ・シニョレッリ
 ルーカ・シニョレッリの「キリスト笞刑」も,ブレラで見たい絵だった.これは力作だと思うが,予想していたより小さな作品で,褪色も進んでおり,真価を理解するに至らなかった.


コスメ・トゥーラ
 事前の予習で確認を怠っていたが,コスメ・トゥーラの作品が3枚見られた.ブレラの「キリスト磔刑」,ポルディ・ペッツォーリの「舞踊の女神テルプシコレ」と「聖マウレリウス」である.「キリスト磔刑」はフェッラーラの特別展以来の再会だが,「テルプシコレ」は思わず出会えた作品なので,嬉しい誤算だった.

  9人のミューズの1人で,舞踊,演劇の合唱隊,竪琴の音楽を司る女神よりも,その玉座の足元で踊っている3人の子どもたちの表情がコスメでなければ描けない,もしくは描いても注文者が納得しないだろう.これを注文し,なおかつ良しとしたフェッラーラの開明君主リオネッロとボルソの両エステに心から敬意を表したい.

写真:
「舞踊の女神テルプシコレ」
コスメ・トゥーラ
ポルディ・ペッツォーリ美術館



フランチェスコ・デル・コッサ
 ブレラにはフランチェスコ・デル・コッサの「洗礼者ヨハネ」と「聖ペテロ」がある.両者とももともと1つの祭壇画の一部だったらしいが,前者とはフェッラーラの特別展以来の再会だ.

 後者は初めて見ることができたわけだが,その気になればきれいな絵も描くコッサが描いた,コスメ・トゥーラのような「変な絵」で,見ることができて幸せだ.


エルコレ・デーイ・ロベルティ
 コッサのようにフェッラーラ出身でボローニャで活躍した画家としては,ロレンツォ・コスタの「三王礼拝」も見られたが,ボローニャでたくさん作品が見られるコスタと違い,その名声に比してほとんど作品を見ることができなかったエルコレ・デーイ・ロベルティの祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」は傑作の名に値する.ラヴェンナの教会にあったものらしい.ボローニャのアミーコ・アスペルティーニの絵も1点あった.


ヴェネツィア派
 稀少価値があるように思えるフェッラーラ派の絵画に比して,山ほどあったヴェネツィア派の絵画については,もう一度落ち着いて見る機会があれば,考えてみたいが,今回はそれほど感銘を受ける作品には出会えなかった.

 しかし,ジョヴァンニ・ベッリーニの他に,ジェンティーレ・ベッリーニ,チーマ,カルパッチョ,ティツィアーノ,ヴェロネーゼ,ティントレット,ピアッツェッタ,ティエポロとビッグ・ネームの作品が目白押しで,ファンには応えられないだろう.

 長い伝統を持つヴェネツィアの画家たちの中では,アンブロジアーナ絵画館でジャン=バッティスタの息子ジャン=ドメニコ・ティエポロの作品を2点見て,息子の方も立派な画家であることを学んだことが印象に残る.


ラファエロ
 ラファエロの作品は,ブレラで「マリアの婚約」,アンブロジアーナ絵画館でヴァティカンにある有名なフレスコ画「アテネの学堂」の下絵を見ることができるし,ポルディ・ペッツォーリ美術館にあった伝ラファエロの「キリスト磔刑像」も良い作品だった.

 「マリアの婚約」は修復中という情報があり,実際にそうだったが,ガラス張りの部屋に大がかりな装置を作って,そこに置いて修復している様子を見せていたので,絵は見られた.絵よりもその装置に驚いた.ラファエロほどの画家の作品の修復となれば,お金も手間もかかるということだろうか.

 「アテネの学堂」はレオナルド・ダ・ヴィンチの顔を借りた老プラトンと,堂々たる偉丈夫のアリストテレスを中心に据えた立派な絵なので,古代の思想家を紹介するときに授業でも画像をよく使わせてもらう.写真で見る限り,私も好きな絵なのだが,一昨年ローマで実物を見たとき,それほどの感銘を受けなかった.

しかし,この下絵はすばらしい.完成作品より良いものではないだろうか,と思わせるほどの迫力に満ちている.ミラノにある美術作品の中で,見るべきものに必ず入れられるものだと思う.


すばらしいミラノの美術館
 ブレラ絵画館ポルディ・ペッツォーリ美術館アンブロジアーナ絵画館はどれもすばらしい美術館だった.規模と知名度ではブレラが圧倒的だが,他の2つの美術館も立派だ.

 ホームページでほとんどの作品を写真付きで紹介してくれているのも嬉しい.小さな写真で見ても絵の真価はわからないだろうが,それでも実物を見た者にとっては理解を深めてくれるし,これから見に行こうと思う人にとっては,事前の有益な情報となる.

ボローニャの国立絵画館と並んで,ミラノの美術館のホームページの充実度は特筆に価するだろう.


 カタログも充実している.ブレラとアンブロジアーナでは英訳版を,ポルディ・ペッツォーリではイタリア語版を買ったが,どれも簡潔で写真豊富,有益なカタログだと思う.ブレラのカタログは複数の出版社が出していて,それぞれ日本語版もあるようだ.経験上,日本語版を買うときは,翻訳が読みやすいかどうかを確かめて買いたいが,多くの場合ビニールでパックされているので,確かめることができないのが難点だ.

 芸術は一種の贅沢なので,保存にはお金がかかる.芸術が大衆に開放された現在では,美術館の入館料や税金で支えることになる.一定の入館者数を確保し,税金使用の理解を得るために,私たちのような非専門家で,美しいものを見たいと思っている人間に対して,きちんと啓蒙,紹介を行うためにもウェブページや本は大事な手段だと思う.

 国立で比較的恵まれた環境にあったり,有名な作品を持っていてよく知られていたりしても,スタッフがもう少し啓蒙,紹介活動に力を入れても良いのではないかと思う所もある.芸術作品が美術館にあることに関しては,様々な意見がありうるだろうが,私たちのような大衆が芸術に接することができるためには,最善ではないだろうが,次善,三善の策なのではなかろうか.


14世紀の佳品
 ポルディ・ペッツォーリには僅かだが,14世紀の作品もある.それぞれ小さな絵だが,佳品だ. リッポ・メンミの「ハンガリーの聖エリザベト」が1番見事だ.ピエトロ・ロレンゼッティ,ヤコポ・デル・カゼンティーノ,ベルナルド・ダッディの作品もある.

写真:
「ハンガリーの聖エリザベト」
リッポ・メンミ


 これらトスカーナの大芸術家にまじって,ボローニャで出会ったヴィターレ・ダ・ボローニャの「謙譲の聖母」があった.最初の出会い同様に,上手い下手を超えて,「好きだ」と思わせるエネルギーを内包した作品で,見ていて幸せな気持ちになれる.

写真:
「謙譲の聖母」
ヴィターレ・ダ・ボローニャ



カラヴァッジョ
 アンブロジアーナ絵画館に行ったおかげで,本当はブレラでもきちんと整理されていたが,その他に見事な作品があり過ぎて思いが至らなかった,ロンバルディア絵画とレオナルドの影響について考えさせられた.

 しかし,そうしたささやかな理解を超えたところに,厳然として存在するロンバルディア出身の画家の作品に出会った.カラヴァッジョの「果物籠」だ.どうして,この作品が自分に訴えかけてくるのかはとても言葉では説明しきれない.

 しかし,この絵を天才に描かせた人がいる.それが誰かはわからないが,1590年代に描かれたこの絵をミラノ出身の枢機卿フェデリコ・ボッロメーオがコレクションに加えたのが1607年以前だということはわかっているようだ.

 聖人になったミラノの大司教カルロ・ボッロメーオの親族であるフェデリコのコレクションがアンブロジアーナ絵画館の基礎をつくった.ポルディ・ペッツォーリ美術館もジャン・ジャーコモ・ポルディ・ペッツォーリのコレクションを基盤にしている.ブレラ絵画館にも寄贈されたコレクションがあり,大変立派なものだった.それについては「続く」としたい.





ボッティチェルリの「聖母子」
ポルディ・ペッツォーリ美術館