フィレンツェだより |
チルコ・マッシモにて ローマ |
§3度目のローマ旅行 - その5
ホテルを出て,トリトーネ通りを左折してコルソ通りに出るところにガレリア・コロンナという大きな建物がある.1階は三方に出口のある通路になっていて,周囲に書店やブティックが店を連ねているが,コズマーティ様式を意識したらしい現代の意匠による床模様や明るい天井が心地良い空間を作り出している. 同じ建物内に内閣府があるとはとても思えないが,風景に溶け込むように警備の警察官がいるので,多分あるのだろう.
コルソ通りを南下して,まずヴィットリオ・エマヌエレ2世の騎馬像のある祖国の祭壇に向かう.途中,脇道に露店の古本屋が軒を連ねているのを見つけ,渉猟開始.3軒目で1930年に出たカトゥルス詩選の注釈版を発見し,購入した.12ユーロだった. サンタ・マリーア・イン・アラチェリ教会 祖国の祭壇は現在修復中だが,私たちの目当ては,その隣の,古代ローマの中心だったカンピドリオの丘(モンス・カピトリウス)の頂にあるサンタ・マリーア・イン・アラチェリ教会(以下,アラチェリ教会)である. 事前の情報(『地球の歩き方』)では,この時間,アラチェリ教会はまだ昼休みのはずで,先に他を見学してから再びカンピドリオの丘に戻ってくる予定だった.しかし,下から見上げると,かすかにファサードの扉が開いているように見える.この教会は閉まる時間も早いので,先に拝観できるならそれに越したことはない. 無駄足になる可能性もあったが,ヴェネツィア宮殿の前で買った焼き栗を頬張りながら,ともかく長い階段を登り始めた.行ってみて正解だった.開いていた.
![]() 聖ベルナルディーノはトスカーナのマッサ・マリッティマ出身で,「シエナの」と通称される15世紀のフランチェスコ会の聖人だから,この教会はフランチェスコ会の教会であろうと予想された.左側廊の礼拝堂には,やはりフランチェスコ会の聖人パドヴァのサンタントーニオを描いたベノッツォ・ゴッツォリのフレスコ画もある. ピントリッキオのフレスコ画は見事なものだったが,異端の疑いで裁判にかけられたほど情熱的で影響力のある聖人を描いた宗教性の強い絵柄だけに,彼本来の華やかさに少し欠ける憾みがあるかもしれない.
![]() 後陣には,かつてカヴァッリーニ作のフレスコ画「アウグストゥス帝の前に顕れた聖母」があって,ヴァザーリは「ローマで描かれた彼の最高傑作」と報告しているそうだが,16世紀後半に教会の改築に伴って失われてしまったらしい. ![]() 現にアッシジで買った本には「聖フランチェスコの物語」の作者が,何の説明もなく「ジョット(ピエトロ・カヴァッリーニ)」と表記され,解説されていた.実はこれが私たちとカヴァッリーニの最初の出会いだ. その後ペルージャで,『ジョットとピエトロ・カヴァッリーニ』という専門書と啓蒙書の中間くらいに位置すると予想される本に出会った.買わなかったが,「ピエトロ・カヴァッリーニ」という名前は,私の頭の中で呪文のように繰り返されるようになった. 詳しいことはわからないし,アッシジの「聖フランチェスコの物語」は依然としてジョット作とする人の方が圧倒的であろうが,少なくともカヴァッリーニがジョットと同時代の画壇をリードする芸術家の1人であったことは間違いないだろう. ラウラ・ルッソに拠れば,アラチェリ教会にはカヴァッリーニの描いた作品は1つとして現存しないわけだが,それでもこれだけのことを考えさせるのだから,大した影響力だと思う.
誰の作品とも特定されていないが,右側廊の礼拝堂にも古風な「聖母子と聖人たち」もあって,これもなかなか魅力的だった.この中の福音史家ヨハネはガイドブックの表紙にも採用されている.多分,カヴァッリーニ派の画家の作品と考えられているようだ.英語版ウィキペディアではカヴァッリーニ作として紹介している. 他にもヤコポ・トッリーティ作とされるモザイク「聖母子と天使たち」,「聖母子と聖人たち」があるようで,写真で見る限り前者は特に魅力的だが,見ていない.ドナテッロ作の墓碑もあるようだが,これにも注意を払わなかった.アラチェリ教会で見られる芸術作品に関しては,少し予習が足りなかったかも知れない. 「天の祭壇」 伝カヴァッリーニ,ゴッツォリ,ピントゥリッキオの作品の他,コズマーティ風の床模様を見ることができた.また,左翼廊の聖へレナに捧げられた小神殿型礼拝堂では,ガラス越しに「天の祭壇」(アーラ・コエリー→アラチェリ)が見られる. 祭壇はコズマーティ風の象嵌細工の大変見事なもので,最上部に「聖母子に跪くアウグストゥス帝」の彫刻が施されている.この場面は中世の伝説に由来するものだが,もともとは,女性予言者がアウグストゥスにキリストの誕生を予言したというものが,聖母が彼の前に顕現したという話になったらしい.もちろん歴史書や聖書に典拠があることではないが,その後絵画の題材にもなり,比較的あちこちで出会う伝説に思える. この祭壇にもラテン語で「カエサル・オクタウィアヌス(=アウグストゥス)がこの天の祭壇を作った」と碑銘が刻まれているそうだが,その「天の祭壇を」の部分が,正しいラテン語であればアーラム・コエリーとなるところを,対格変化形を無視してアーラ・ケーリー(アラ・チェリ)と書いてある.これがアラチェリ教会の名のもとだとする説がある. 他にもこういう説がある.カンピドリオの丘(モンス・カピトリヌス)には最高神ユピテルの神殿があり,その隣にユピテルの妻ユノーの神殿があった.このユノーにタイトルがついて「助言者ユノー」(ユーノー・モネータ)と呼ばれ,この神殿近くで貨幣の鋳造が行われたので,イタリア語の硬貨(モネータ)や英語の金銭(マニー)という語が生まれ,そのユノー神殿はカンピドリオの丘でも高いところ(arxアルクス)にあって,この変化形arce(古典ラテン語ではアルケと読むが,イタリア語式ならアルチェ)からアラチェリという呼称が生まれた,というものだ. 他に諸説あるようなので,どれが正しいのかはわからない.
もともとは単にカンピドリオの丘のサンタ・マリーア教会であったものが,伝説を踏まえてアラチェリ教会になり,ベネディクト会が運営していたのがフランチェスコ会の手に委ねられた背景には,神や聖人の心とは別に世俗的で政治的な背景もあったかも知れない.ここからは虚実綯い交ぜの人間の歴史として学ぶべきことが多いように思われた. ![]()
アラチェリ教会のファサードの前の広場から見えるローマの街の眺めは絶景の名に値するが,ここにはローマという古代から現代まで連綿と続く大都市の歴史や伝説が眠っている. サン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ教会 階段を降り,マルケッルス劇場の遺構を横目に見ながら,テヴェレ川の方に向かうとやがて「真実の口」(ボッカ・ディ・ヴェリタ)広場に出る.このあたりには古代神殿などの考古学的遺跡がいくつもあり,拝観を予定していたサンタ・マリーア・イン・コスメディアン教会(以下,コスメディアン教会)もここにあった. 広場に行く途中,少し横に入ると,やはり拝観を予定していたサン・ジョルジョ・イン・ヴェラブロ教会(以下,ヴェラブロ教会)がある.そこに差しかかったときは,まだ昼休みの時間帯だったので,後回しにするか,場合によっては後日を期するつもりだった.ところが,近くにある古代遺跡の一つジアーノ門の写真を撮るために後ろに回ったら,その奥にあるヴェラブロ教会の扉が開いているのが見えたので,チャンスを逃さず,拝観させてもらうことにした.
![]() ローマの教会というと堂々たるバロック風ファサードという先入観ができてしまっていたが,今回のローマ行では,トラステヴェレのいくつかの教会や,ドムニカ教会,サンティ・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会など,建物の古さには個々に違いがあるものの,簡素な前廊(ポルティコ)のついたファサードで,煉瓦色の石の質感が美しい質素な鐘楼のある教会を見ることができ,むしろこの簡素なたたずまいが,本来のローマ固有の教会の建て方だったのだろうかと思った.
古代にはローマ帝国の,現在はイタリア共和国の首都であっても,ローマですらこの国では一地方であり,カトリック教会という大きな組織の傘下にあるにもかかわらず,地方地方で教会の建て方に特徴があるのは本当におもしろい. もちろんベルニーニやボッロミーニという大芸術家が設計や装飾を担当したバロック教会も良いのだが,私には古風なローマ様式(と勝手に思っているだけかも知れないが)の教会が好ましい.
![]() 天蓋の下の祭壇に今でもその聖遺物を見ることができる.果たして,この頭骨が龍を倒してカッパドキアの王女を救い,信仰に殉じた英雄の頭であろうか.ヴェラブロは古代ローマの地区名ウェーラーブルムに由来する. 誰もいないひっそりとした堂内に,なぜかショパンの練習曲が流れていた. 扉のところに本と絵葉書が置いてあり,4ユーロの喜捨でガイドブックを入手した.比較的立派な英語版もあったが,写真が良いのでイタリア語版を選んだ.堂内の全てのラテン語碑文の転写とイタリア語訳までついているという優れものである. 伝カヴァッリーニのフレスコ画(上から4つ目の写真)は,キリストを中心に左に聖母マリアと白馬を連れたゲオルギウス,右に鍵を持ったペテロと甲冑をつけ,槍と楯を持ったセバスティアヌスが描かれている.教会のガイドブックと英語版ウィキペディアははっきり「カヴァッリーニ作」という立場だし,午前中に見たサンタ・チェチーリア・イン・トラステヴェレ教会の「最後の審判」に描かれた人物と顔がよく似ているようにも思えるが,何とも言えない.私は良い絵だと思う.
![]() 3世紀初頭にできたこの門のレリーフは比較的保存状態が良く,セプティミウスと皇后ユリア・ドムナの姿を見ることができる.父親の死後,兄とともに共同統治の帝位についたゲタはカラカラに殺され,その姿もここから削り取られたそうである.
サンタ・マリーア・イン・コスメディアン教会 コスメディアン教会のポルティコには有名な「真実の口」がある.古代ローマの泉の装飾とも,井戸の蓋とも言われているが,もともとが何だったかはよくわからないようだ. これが何の神を表しているかも,メルクリウス(ギリシア神話のヘルメス),ファウヌス(ギリシア神話の牧神バーン),河神,オケアヌスと諸説あるようだ.伝説の根拠は調べがついていないが,ポピュラーになったの1953年の映画「ローマの休日」以来のことだろう. 今年50歳になる私が生まれる5年も前の映画なのに,未だに若い人たちもこの「真実の口」で写真を撮るべく行列をするのは大変な影響力だ.並んでいる人のかなりの割合が日本人で,私も関西弁の礼儀正しい4人の若者たちのためにシャッターを押してあげた.うまく撮れていると良いが.
「真実の口」の前で写真撮影の後,堂内に入ると見事なコズマーティ様式の床装飾が目に入る.暗いのでよく見えるわけではないが大変立派なものだと思う. 後陣とその両隣の礼拝堂にフレスコ画あり,現在はブックショップになっている聖具室に行くと,額装された古風なモザイクの断片「聖母子」がある.ヴァティカンのサン・ピエトロ聖堂の旧教会の祈祷堂にあったものとのことだ.玉座の聖母子に東方三賢人の一人の手が貢物を捧げているのが見える.「三王礼拝」の絵柄だったのだろう.ブックショップで5カ国語の説明が書かれたガイドブックを3ユーロで購入した.
![]() そこから,古代の大競技場チルコ・マッシモ(キルクス・マクシムス)を見て,サンタナスタージア教会を拝観し,サン・テオドーロ通りからパラティーノの丘(モンス・パラティヌス),フォロ・ロマーノの風景を見ながらカンピドリオの丘まで行き,丘を降りて夕食を済ませ,宿に帰った. 途中,偶然クローチフィッソ(磔刑)祈祷堂を拝観できたが,立派なフレスコ画がたくさんあった.中心的な画題は「聖十字架の物語」のようだった.描いた画家たちの名前もわかるが,煩瑣になるので,私の今後の学習項目として,ここでは紹介しない. この日も充実のローマ観光を果たし,宿でよく眠ることができた. |
フォロ・ロマーノ 中央にセプティミウス・セウェルスの凱旋門 |
![]() ![]() ![]() |