フィレンツェだより
2008年2月9日



 




エンポリの街
夕暮れ



§エンポリ遠足(後篇)

美術館に入れないでいる間にちょっとした発見があった.


 下の写真は教会に隣接する美術館の外観だが,教会のファサード同様,プラート産の緑大理石とカッラーラ産の白大理石でできている.入り口が2つあるのが見えるだろうか.右側は美術館への入口で,灯の見える左側の入口は教会への通路(近道)になっている.

 実はこの通路からガラス越しにマゾリーノの絵を見ることができる.たまたま教会から出てきたシニョーラが,この扉を開け放して行かれたので,それに気づいた.

写真:
美術館と教会の鐘楼


 待っている間,ガラス越しに不満足な角度から,照明もなく暗い部屋にある絵を見つめていた.もし係員がそのまま来なかったら,これだけであきらめて帰ることになるところだった.しかし,どうにか無事,1人3ユーロの入館料を払い,ようやく美術館に入って,目の前で明かりのついた状態で見ることができた.

 マゾリーノの「ピエタ」は,受付後ろの最初の部屋にあった.昔は洗礼堂だった場所だ.すばらしい絵だ.マザッチョのような天才ではないかも知れないが,美術史上の大変動の時代をしっかり生き抜いた画家だろう.

写真:
美術館を出た後,通路の
ガラス越しに撮影
(館内は撮影禁止)


 マゾリーノの作品の他には,やはり私が好きなフラ・パオリーノの剥離フレスコ画で,金色の後輪以外は色が落ちてしまった「聖母子」,ゲラルド・ディ・ヤコポ,通称ロ・スタルニーナの剥離フレスコ「洗礼者ヨハネ」と「聖ペテロ」があり,それぞれ味わいがあった.無名の画家たちの作品もあった.

 奥の部屋は彫刻系の作品が展示されていて,それぞれ興味深かったが,美術館の説明ではティーノ・ディ・カマイーノ,後で購入したガイドブックに拠ればジョヴァンニ・ピザーノの作品である「聖母子」,ベネデット・ブリオーニ工房の色落ちした彩釉テラコッタ「聖母子と聖人たち」が傑作に思えた.

 作者の実力を考えると傑作とは言い難いかも知れないがミーノ・ダ・フィエーゾレ作とされる「聖母子」もあった.ベルナルド・ロッセリーノ作とされる洗礼盤も大きくて見事なものだった.



 マゾリーノの「ピエタ」をじっくり鑑賞して,2階に上がった.ここはまた,床面積から考えると,中世末期からルネサンス絵画の宝庫と言っても過言ではない.フィリッポ・リッピの小さいが見事な「玉座の聖母子と聖人たち,天使たち」が多分最も有名な画家の作品ということになるだろう.

 ロレンツォ・モナコの作品が2点,ロレンツォ・ディ・ビッチの作品が2点,ニッコロ・ディ・ピエトロ・ジェリーニの複数の作品,ロッセッロ・ディ・ヤーコポ・フランキの作品が1点,フィレンツェでおなじみの中世末期からルネサンス初期の画家たちだ.

 私が良いと思ったのは,アーニョロ・ガッディの「聖母子と聖人たち」,ビッチ・ディ・ロレンツォの「玉座の聖母子と寄進者」だった.アーニョロの作品はウフィッツィのボナコッシ・コレクションにあったものの方が見事だが,こちらはガイドブックに写真があるおかげで,何度も確認できて,逆にもう一度見たいと言う思いが募ってくる.

 ビッチの作品では他に「福音史家ヨハネと聖レオナルド」もあったが,特に上述の「玉座の聖母子と寄進者」によって,ロレンツォ・ディ・ビッチ,ビッチ・ディ・ロレンツォ,ネーリ・ディ・ビッチの3代では,2代目が最も優れている,少なくとも私の好みには合うという感想を新たにした.

 他にも初めて名前を聞く画家の作品や,作者名がわからない中世風の祭壇画が幾つもあり,どれもそれなりに味わいのある作品だった.

 ルネサンス期の絵では,フィリッポ・リッピの前述の作品もあり,これはリッピの作品でもごく初期のもので,彼の画家修業についてはよくわからないらしいが,マザッチョもしくはその周辺の画家の影響が見られるかも知れないということで,大変貴重なもののようだ.

 しかし,何と言ってもフランチェスコ・ボッティチーニの作品が複数見られることが,この美術館の一つの特徴だろう.フィレンツェ出身で,コジモ・ロッセッリ,ヴェロッキオのもとので学び,ネーリ・ディ・ビッチの工房にいたとされる.

 彼の作品はフィレンツェではアカデミア美術館,ウフィッツィ美術館,サント・スピリト教会で見ることができ,ヴェネツィアのフランケッティ美術館にも「幼児イエスの礼拝」が収蔵されている.ボッティチェルリと殆ど同年の同時代人であり,彼やその弟子のフィリピーノ・リッピの影響を受けたと思われるが,一定以上に評価された画家と言えよう.

 彼は,アントニオ・ロッセリーノの大理石の彫像「聖セバスティアヌス」を中央に置く祭壇飾りでも,両脇の美しい天使と,プレデッラの「聖セバスティアヌスの物語」を担当している.このタイプの祭壇飾りもタベルナコロ(壁龕)と称するらしく,「聖セバスティアヌスの壁龕」という名称になっている.中央の彫像は失われているが,両脇に「聖アンデレと洗礼者ヨハネ」を配し,プレデッラが「聖アンデレの殉教」,「最後の晩餐」,「ヘロデの饗宴と洗礼者ヨハネの斬首」になっている「秘蹟の壁龕」もあり,これは息子であろうラファエッロ・ボッティチーニとの共作になっている.

 フランチェスコ・ボッティチーニ作とされる「奏楽の天使たち」,ラファエッロ・ボッティチーニの「イエスとサマリアの女」も見られた.父親フランチェスコの作品では「受胎告知」が綺麗な絵だった.

 コジモ・ロッセッリ作とされる「幼児イエスの礼拝」とヤコポ・デル・セッラーイオの作品とされる「幼児イエスの礼拝」および「聖母子と聖人たち」が見られたが,これらは真作とするにはそれぞれの画家の本領が発揮されていないものに思えた.

 フィレンツェのサン・マルコ美術館などで作品が見られるジョヴァンニ・アントニオ・ソリアーニ(「玉座の聖ブラシウス」)やプラウティッラ・ネッリ(「聖カタリナの神秘の結婚」)の作とされる絵も1点ずつあったが,これらも真作かどうかはともかく,すごく良い絵というほどでもなかった.

 エンポリの「聖トマスの不信」もあり,もし参事会教会のフレスコ画が真作でなければ,父の故郷に唯一残る作品ということになるが,彼らしい端整な絵というだけで,特に感動を呼ぶような作品ではない.

 このコーナーでは,フラ・パオリーノに帰せられる「被昇天の聖母と聖人たち」,ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノの作とされる褪色が進んだ「玉座の聖母子と聖人たち」が良かった.少なくとも私の好みに合った.

 前者をフラ・パオリーノ作と推定したのは,高名な美術批評家のバーナード・ベレンソンだそうだ.ジョヴァンニ・バッティスタ・ヴォルポーニ,通称スカラブリーノ作とされることもあり,必ずしもフラ・パオリーノの作品と確定されているようではないようだが,スカラブリーノはフラ・パオリーノと同じピストイア出身の画家で影響関係は否定されていない.

 ピエール・フランチェスコ・フィオレンティーノに関しては,今のところ15世紀後半に,フィレンツェに記録のある画家ということしかわからない.ゴッツォリやバルドヴィネッティの影響が見られるということだが,それに関しては,そうかなと思うしかない.



 この美術館にある作品の作者名を推定も含めてたどっていくと,ロレンツォ・モナコ(彼自身はカメルドリ会のサンタ・マリーア・デリ・アンジェリ修道院の修道士だが,弟子かも知れないフラ・アンジェリコはサン・マルコにいた)から始まって,フィレンツェのサン・マルコ修道院および同教会と関係の深い画家が多いように思える.

 ただの偶然かも知れないし,何か理由があるのかも知れないが,それはわからない.エンポリという町がフィレンツェの支配下にあり,サン・マルコ系の画家たちがフィレンツェで活躍した時代が長いことを思えば,それは当然かも知れない.

 イタリアの地方都市に行くと,「地元の画家」に必ず出会えるが,エンポリには地元出身の有力な画家が少なかったこともその一因かも知れない.フィレンツェとエンポリの間にシーニャという町があり,「シーニャの親方」の作とされる作品があった他は,父親がエンポリ出身というエンポリことヤコポ・キメンティの絵が1点見られるだけだ.

この美術館に収蔵作品はないが,大物の「地元出身の画家」がいる.ポントルモだ.彼は,エンポリ近郊の村ポントルメの出身で,本名ヤコポ・カルッチ,通称ポントルモと称される.


 ポントルモの絵が1点だけエンポリにあるようだ.ポントルメのサン・ミケーレ教会にある「福音史家ヨハネと大天使ガブリエル」がそうだ.1519年の作品で,ポントルモとしては初期だが,すでにサンティッシマ・アヌンツィアータ教会のフレスコ画「エリザベト訪問」を描いた後で,サン・ミケーレ・ヴィスドミニ教会の「聖母子と聖人たち」やウフィッツィ美術館にある「老コジモの肖像」とほぼ同時期,大家とは言えないが,新進気鋭の天才画家が故郷の教会に作品を描いたことになる.もちろん,私たちはポントルメに行っていないので,この作品は写真で見ただけだ.

 ポントルモ作品の写真が出ていた本が,

 Rosanna Caterina Proto Pisani, Empoli: Itinerari del Museo, della Collegiata e della Chiesa di Santo Stefano, Firenze, 2005

で,その他に同じ著者による

 Museo della Collegiata di Sant' Andrea a Empoli, Firenze, 2006

と一緒に美術館で購入した.スコローピ教会前の露店で買った,エンポリへと私を誘うきっかけとなった本は,すでに日本に送ったので,上記2冊を参考にした.

 これらの本に拠れば,今回拝観できなかったサント・ステーファノ教会にも,マゾリーノのフレスコ画(「聖母子と天使たち」など)が残っている.

写真:
サント・ステーファノ教会
エンポリ


 他にもベルナルド・ロッセリーノの彫刻「受胎告知」,ビッチ・ディ・ロレンツォの祭壇画「エンポリを疫病から守るトレンティーノの聖ニコラウス」,フランチェスコ・フリーニの「ロザリオの聖母」などがあるようなので,機会があれば拝観したいが,今回はマゾリーノの「ピエタ」を見ることができただけで満足だ.

 この美術館の作品はウェブ・ギャラリー・オヴ・アートやごく一般的なガイドブックでは見られないものが多いが,それらの写真を見られるページがあるので,興味のある人は参照してほしい.

 エンポリは,フィレンツェに数日滞在し,時間に余裕のある方にはおすすめである.エンポリの町にも好印象を持って帰ってきた.フィレンツェ近郊の小さな町では,サン・ジョヴァンニ・ヴァルダルノ,フィリーネ・ヴァルダルノに次いで好きな町になるだろう.美しい夕暮れを見ながら,帰路に着いた.

写真:
エンポリ駅前で



エンポリ生まれの作曲家
 エンポリ出身の大芸術家がもう一人いる,作曲家のフェルッチョ・ブゾーニだ.音楽家の両親を持ち,主としてトリエステで育ったようだが,生まれはまぎれもなくエンポリだ.

 今日は,土曜日恒例のペルゴラ劇場コンサートの日で,プログラムは,チェリストのマリオ・ブルネッロとピアニストのアンドレーア・ルッケシーニの演奏で,ブラームスとラフマニノフのチェロ・ソナタの他に,シューマンとバッハ.バッハの曲をチェロとピアノの曲に編曲したのがブゾーニだ.

 という予定でテコテコ歩いて出かけたのだが,このブルネッロのチェロは来週のプログラムで,行ってみたらピアノ・リサイタルだった.

 今日はいつもよりずっと混んでいて,パルコ席もガレリア席も売り切れ,何とかプラテア席は買えたが,ほぼ満員で,客層もいつもと違うように思えた.ラファウ・ブレハッチ(と読むそうだ)というポーランド出身,22歳のピアニストを私は全く知らなかったが,2005年のショパン・コンクール優勝者とのことだ.

 コンクールにはあまり関心がないが,ショパン・コンクールの開催は5年に1度で,優勝者に古くはポリーニ,アルゲリッチがいて,日本人最高の2位になったのが内田光子と聞くと,なるほどすごいコンクールなのだと思う.2005年は直近のコンクールで,2000年の優勝者はリ・ユンディ(ユンディ・リー),その前の2回は優勝者がなく,さらに前の85年の優勝者がブーニンと聞いて,当時の日本のブーニン騒ぎを思い出すと,偶然とは言え,今日のリサイタルを聴けたのは幸運だったと思う.

 前半でモーツァルト,ドビュッシー,シマノフスキを演奏し,後半がショパンの「24の前奏曲」,アンコールもショパンだった.ブラーヴォの嵐の中に,僅かだが執拗なブーイングも混じっていた.いつもとは違う雰囲気に若干とまどったが,もちろん演奏は良かったと思う.私にとっては,という限定つきだが,前半のシマノフスキが分りやすくて良かった.ショパンを聴くのは体力が要る.

 という訳で,エンポリ生まれのブゾーニが編曲した曲の感想は来週である.





夕闇に包まれてゆく
エンポリ駅で