フィレンツェだより
2008年2月8日



 




満開のミモザ
花屋の店先に春



§エンポリ遠足(前篇)

エンポリ(第1音節の「エ」にアクセント)に行きたいと思ったきっかけは,スコローピ教会の前の露店の古本屋で出会った本だった.


 80年代に出た,立派な造本のサンタンドレーア参事会教会美術館の大判カタログで,いつもなら購入費用よりも,日本に送る費用と手間のことを考えて,この大きさの本は買わないところだが,安かったのと,「エンポリ」という名前に抱いていたイメージに反して,中世末期からの立派な宗教画の写真が多かったこと,何よりも,マゾリーノの剥離フレスコ画「ピエタ」が最重要作品として取り上げられていることがあって,思い切って買ってしまった.

 その後,ウェブページなどで調べていくうちに,このマゾリーノの絵を見てみたいという思いが募り,とうとう,帰国前に一度行ってみようと決心した.

 しかし,何しろ矢継ぎ早に大きな旅行の日程が決まり,さらに先日,ヴェネツィア行の大業(私たちにとって)を成し遂げたばかりだ.“エンポリへは日帰りで行けるから,もう少し後で,合間をみて”と思っていた.

 フィレンツェは,日本より1カ月ほど季節が早い.このところ少しずつ暖かくなってきて,春の気配が感じられるようになっているが,空模様の方は,曇り勝ちで,一日中雨という日もある.外出には少し消極的になってもいた.



 昨日(2月7日)は,朝から久しぶりの青空だった.「これは外出しないわけにはいくまい,どこに行く?」と相談が始まり,すぐに懸案だったエンポリ遠足が決まった.

 しかし,エンポリで,ほとんど唯一の観光ポイントともいうべきサンタンドレーア参事会教会美術館の開館は,午前中と,昼休み後の4時から7時までだ.いくら近いとはいえ,もう午前中の訪問は難しい.

 午後の開館に合わせて家を出ることにして,トレニターリア(イタリアの国営鉄道)の時刻表をインターネットで調べて,2時57分フィレンツェ発,3時29分エンポリ着のローカル線(しかないのだが)が適当と見定めた.

 そうなると出発までたっぷり時間がある.落ち着いて昼食をとり,幾つかの用事を済ませてから,テコテコ歩いて駅に向かった.

写真:
サンタンドレーア参事会教会
のロマネスク・ファサード


 通常はピサ方面行きの電車で,場合によってはリヴォルノ行きになるようだが,昨日乗った電車はカッラーラ行きだった.

 リフレーディ駅でピストイア,ルッカ方面の路線と別れて,アルノ川沿いをピサの方に向かう.アルノ川はピサの先でティレニア海に流れ込むが,既に大都市フィレンツェを通過した後なので,決して美しい流れとは言えない.

 山,森,畑の風景は,それなりの風情があるが,所々に集合住宅と工場が見える.しかし,これも現代の工業先進国であるイタリアの産業を支えるものだから,やむを得ないだろう.ともかくエンポリはフィレンツェから近い.ローカル線の各駅停車(実際には飛ばされる駅もあるようだ)で30分弱で着いてしまうのだから.


エンポリという町
 エンポリという名前は,私たちにとってはフィレンツェで活躍した画家ヤコポ・キメンティの通称としておなじみだ.本人はフィレンツェで生まれ,フィレンツェで亡くなっているが,お父さんがエンポリの出身らしい.

 観光的には,ルネサンスの大芸術家レオナルドの故郷ヴィンチ村に行くときにバスに乗り換えるところとして知られているかも知れない.

 また,今季はほとんど最下位だが,セリエAにエンポリF.C.というチームがあり,1部リーグに上がれるほどの財力を持ったチームの拠点ということになる.

 エンポリに対しては,歴史のある古い町というよりも,新興工業都市のイメージを持っていた.しかし,それは誤解だったように思う.近郊には工場があるが,市中は落ち着いた小さな地方都市という感じだった.町の規模が小さいのに,中国食材店や中華料理店があるのは,中国からの移住者が多いのかも知れない.

 古代ローマ時代にはフィエーゾレやフィレンツェとピサを結ぶアルノ川沿いに位置する水上交易の港町で,その語源もイン・ボルトゥー(港で)というラテン語に由来するらしいが,古典文献に言及は見当たらない.

 8世紀には城壁に囲まれた中世都市となったが,12世紀の終わりにフィレンツェの支配下に入った.フィレンツェの教皇党と皇帝党の争いに巻き込まれた歴史を持つようだ.

 エンポリは現在もフィレンツェ県に属しているが,今季のセリエAのチームで,県庁所在地以外に本拠地があるのはエンポリだけだそうだ.現在,同じトスカーナ州のチームとしてはフィオレンティーナは4位だが,シエナとエンポリは最下位あたりを低迷しているので,来季もセリエAかどうかはわからない.

 人口も5万人には届かないので,私が抱いていた新興産業に支えられた中堅工業都市というイメージは誤解のようだ.むしろ織物やガラス工芸が盛んとのことだが,それについても今回,確信は得られていない.


町の中心部へ
 予定通り,3時半前にエンポリ駅に到着した.駅前のロータリーからローマ通りを北上し,すぐ左に曲がってヴェルディ通りを西進,右折してレオナルド・ダ・ヴィンチ通りを北上すると,ファリナータ・デーリ・ウベルティ広場に出る.ここに司教座があればドゥオーモかカテドラーレと呼ばれるべき中心教会であるサンタンドレーア参事会(コッレジャータ)教会がある.

 ファリナータ・デーリ・ウベルティは,13世紀フィレンツェ皇帝党の中心人物で,モンタペルティの戦いで教皇党を破り,フィレンツェを陥落させたが,フィレンツェを完全破壊しようとした皇帝党連合軍に抵抗して,フィレンツェを守った一代の英雄だ.

 彼の死後,教皇党が復権し,彼は墓を暴かれ,異端の罪で遺体は死後火刑に処された.

 しかし,フィレンツェを破壊から救ったことは,それなりに評価されたのであろう.後にアンドレア・デル・カスターニョが肖像画を描き,それは現在,ウフッツィ美術館のサン・ピエール・スケラッジョ教会跡にある.

 彼が活躍した場所の一つが,エンポリであったらしい.ウベルティは,ダンテの『神曲』「地獄篇」にも登場する.

写真:
ファリナータ・デーリ・
ウベルティ広場



サンタンドレーア参事会(コッレジャータ)教会
 教会はすでに開いていた.荘厳な雰囲気を感じさせる堂内には,古いフレスコ画や祭壇画が残っていたが,情報がないので,後で買ったガイドブックを読むまで誰の作品かはわからなかった.

 唯一,説明のあった絵が,柱に描かれたフレスコ画「聖ヨセフ」で,作者はヤコポ・ダ・エンポリとあった.父の故郷である町の教会のために,フィレンツェで活躍した画家が絵を描いていたことになる.

 エンポリ作とされる絵は,礼拝堂の右側の柱にあるが,左側の柱には教会の名のもとになっている聖アンデレのフレスコ画あり,作者は初めて聞く名前で,ニコラ・ボガーニ,エンポリ出身の人らしいが,いつの時代の人かはわからない.

写真:
サンタンドレーア参事会
(コッレジャータ)教会堂内


 「聖ルチアの殉教」の剥離フレスコ画が印象に残った.フランチェスコ・フィオレンティーノに帰せられる作品とのことだ.ファサード裏にはフレスコ画「十字架を背負うキリスト」があったが,作者はラファエッロ・ボッティチーニに帰せられるとのことで,いずれも,もし真作であれば,美術館で見ることになる画家の作品の可能性がある.

 中央祭壇の三翼祭壇画はロレンツォ・ディ・ビッチの「玉座聖母子と聖人たち」で,聖人たちはマルティヌス,アンデレ,アガタ,洗礼者ヨハネだった.

写真:
剥離フレスコ画
「聖ルチアの殉教」



サンタンドレーア参事会教会美術館
 教会を辞して,右脇の通りからプロポジトゥーラ広場に入口がある美術館に向かった.火曜日から日曜日の間,午後は4時から7時まで開館しているはずだが,扉は閉まっており,「現在,訪問者の皆さんをサント・ステーファノ教会に案内しています」という断り書きがノッカーにぶら下がっていた.

 管理担当者が少なくて,よくあることなのかも知れないと思って待っていたが,太字で「すぐ戻ります」(トルニアーモ・スービト)と印刷してある割には,どうも「すぐ」に戻ってくる気配はない.断り書きにあった近くのサント・ステーファノ教会に行ってみた.

 サント・ステーファノ教会にはマゾリーノの絵がいくつか残っているので,拝観の価値は十二分にあるのだが,現在は特別展やコンサートの時以外には開かないという情報を得ていた.参事会教会に行く途中,試しに寄ってみて,情報通り閉まっていることは確認済みだった.

 念のため,再度行ってみたが,やはり開いておらず,誰かを「案内」している様子はまったくなかった.これで,要するに担当者がまだ昼休みからもどっていないのだと納得した.

 結局30分以上待って,多分アルバイトの学生さんだろう,若い女性が息せき切ってかけつけて,美術館の扉を開けた.その人は感じの良い人で,とくに悪びれた風もなかったので,イタリアではよくあることなのだろう.

 で,めでたく入館でき,照明をつけてもらって,美術鑑賞が可能になった.行って良かった.待った甲斐があった.

 どう甲斐があったかは「明日に続く」としたい.





ヤコポ・キメンティ(通称エンポリ)
「受胎告知」(部分)
サンタ・トリニタ教会ストロッツィ礼拝堂