フィレンツェだより
2007年4月23日



 




メディチ・リッカルディ宮殿
(フィレンツェ県の県庁でもある)



§メディチ・リッカルディ宮殿

今週は妻も学校に慣れてきたせいか,それほどは疲労しなかったから,空き時間にどこか行こうと提案があり,近くのメディチ・リッカルディ宮殿に行くことにした.


 地方自治の仕組みがよくわからないので,日本のように,県(プロヴィンチャ)が市(コムーネ)に対して上位の関係にあるのかどうかわからないが,フィレンツェはフィレンツェ県のコムーネのひとつであると同時にフィレンツェ県の県庁でもあるそうだ.現に役所はメディチ・リッカルディ宮殿の中にあるようだし,県議会の議場もフィリッポ・リッピの絵がおいてある部屋の隣にあって公開されている.

 県の表記に関しては,プロヴィンチャの他に,英語のprefectureにあたるプレフェットゥーラという文字もあちこちに見えたが,プロヴィンチャが地方自治体であるのに対し,プレフェットゥーラは中央政府の直轄機関とのことだ(『小学館 伊和中辞典』).

 さらに広い地域を管轄する州(レジョーネ)もあるのでややこしい.フィレンツェはトスカーナ州に属している.

写真:
メディチ・リッカルディ宮殿の中庭
バンディネッリ作の立像がある


 ヴェッキオ宮殿が市庁舎で,メディチ・リッカルディ宮殿が県庁というのはすごい話だが,日本とは気候やその他の条件が違い過ぎて,単純な比較はできないだろう.

 15世紀にコジモ・デ・メディチ(老コジモ)が建築を依頼し,17世紀後半にリッカルディ家が購入したので,メディチ・リッカルディ宮と呼ばれるらしいが,堂々たる建物でありながら,質素な趣もたたえていて,先日のストロッツィ宮もそうだったが,後に大公国になるとはいえ,王侯貴族ではなく商人が実権を握っていたフィレンツェ共和国時代の特色が出ているのかも知れない.

写真:
ジノーリ通りに面する小庭園
オレンジの鉢植えが並んでいる


 ここで見られるものはフィリッポ・リッピの小品「聖母子」(マドンナ・コル・バンビーノ)と,礼拝堂のベノッツォ・ゴッツォーリのフレスコ画「東方三博士の騎馬行列」(別画像)に尽きると言っても良いだろう.そういう意味ではフィレンツェにしてはうまみの少ない場所だ.

 現在は「フィレンツェからバレンシアへ」という特別展をやっていて,スペインから借りてきた宗教画の展示をしていて面白かったし,「東方三博士の騎馬行列」の,場面を指差すと英語とイタリア語で解説してくれるハイテク大モニターを備え付けた解説コーナーなど,工夫はしているようだ.ということは,少ない目玉で5ユーロの入場料は申し訳ないということだろうか.

 県議会の行われる「四季の間」には大きなタペストリーがあり,これも見るべきもの一つに数えられるかもしれない.これから議会が開かれる予定なのか,議席にはミネラルウォーターのペットボトルが置いてあった.

写真:
中央にリッピの作品
向かって左隣に役所
右隣は議会


 リッピの聖母子は佳品だった.美しいというよりは可憐な農民の娘のように見える聖母が印象に残る.

 肝心の礼拝堂は,英語ガイドブックによれば,狭いので15人が15分ずつしか見られないとあるのに,私たちは最初2人だけでゆっくり見られて幸運だった.

 大作の「東方三博士の騎馬行列」には,当時のメディチ家の主要人物(老コジモ,ピエロ,ロレンツォ・イル・マニーフィコの三代に,ロレンツォの弟でパッツィ事件で暗殺された貴公子ジュリアーノ)が描かれている.

 三博士(三賢王)のうちの1人が,冒頭に掲げたポスターに使われていて,これはロレンツォの肖像とされているが,あまりにも美青年にしてしまって,画家も気が引けたか,ハイテク大モニターの英語解説によれば本物によく似たロレンツォも別に小さく描き込まれているようだ.

 「ルーカ・ジョルダーノの間」は,天井画も壁画も大したものとは思えなかったが,ラテン語の標語が一杯の鏡張りの大広間で,それなりの雰囲気があった.

写真:
「ルーカ・ジョルダーノの間」


 カヴール通りに出て,帰る途中で右側に見えたホテルの壁に,「この家にしばらくの間,私は滞在した ジョアッキーノ・ロッシーニ」と読めるプレートがあった.

 「滞在した」(ディモーロ)というあたりが,私には自信がないので,ロッシーニがかつて住んだかどうかわからないが,ラテン語で「欲するままに」(アド・ウォートゥム)と彫られたプレート(上部)もあったので,写真に収めた.サンタ・クローチェ教会には彼の墓もあったし.



後日談:5月14日
 上のように書いたが,フィレンツェ大学の中嶋浩郎先生のご教示により,現在形の1人称・単数の「ディモーロ」(私は滞在する)ではなく,遠過去の3人称・単数「ディモロ」(「ロ」にアクセント)(滞在した)であることが判明した.

 現地に行って確かめると,「ロ」の上にアポストロフィのような点が打ってあり,アクセント記号(アッチェント・グラーヴェ)として使われていると思われる.したがって,ロッシーニが主語で,彼が滞在した,と書いてあると考えるのが正解というわけだ.

 中嶋先生によれば,ロッシーニがカヴール通りに住んだのは確かだが,この家ではないらしい.「アド・ウォートゥム」に関しても,先生は興味深い話をお教えくださったが,それに関しては,いつか先生のご著書に出てくるときのお楽しみということにしよう.





ロッシーニの旧居?
カヴール通りのプレート