フィレンツェだより
2008年1月7日



 




ジョット「フランチェスコの死」
バルディ礼拝堂「聖フランチェスコの物語」から



§サンタ・クローチェ教会

1月5日にサンタ・クローチェ教会に行った.拝観はこれで3回目となる.拝観のポイントは少しずつ変わってきているが,それだけ見るべきものが多い教会ということがいえるだろう.


 中央祭壇のあるアルベルティ・アレマンニ礼拝堂には現在大きな足場が組まれている.金沢大学の宮下孝晴教授のコーディネートにより,アーニョロ・ガッディのフレスコ画「聖十字架の物語」の本格的な修復が進行中だ.ニッコロ・ジェリーニの多翼祭壇画「聖母子と聖人たち」以外のものは,垣間見ることも難しい.

写真:
堂内の風景
中央奥が中央礼拝堂


 この祭壇画の上に大きな十字架型の「キリスト磔刑像」がある.もとはチマブーエの作品が置かれていたが,現在見られるものは,代わって置かれたフィリーネの親方の作品とされている.フィリーネの宗教芸術美術館で見た「玉座の聖母子と聖人たち」,アッシジのサン・フランチェスコ教会聖具室にあり,公開されていないが垣間見ることができた「聖母子と聖人たち」,フェッラーラの国立絵画館にある「洗礼者ヨハネ」の作者とされる画家だ.

 「キリスト磔刑」は,絵の場合,十字架の両脇で聖母と福音史家ヨハネが悲しんでいて,十字架の下にマグダラのマリアがしがみついて泣いていることが多い.同様に,中央祭壇に掲げられる十字架型の磔刑像の場合も,十字架の両端に聖母とヨハネが描かれていることが多い.

 この磔刑像にも聖母とヨハネが描かれていて,聖母の顔は確かにフィリーネで見た「玉座の聖母子と聖人たち」の聖母を思わせるが,実際には,現在は足場に妨げられてよく見ることができない.聖母やヨハネの顔までわかるのは,写真豊富なサンタ・クローチェ教会の英訳版ガイドブック(以下,ミケレッティ本)のおかげである.

写真:
キリスト磔刑像
フィリーネの親方


 中央祭壇の修復完了が待たれるが,私たちの滞在中はもちろん無理だろう.いつの日か,またフィレンツェを訪れた時に,じっくり拝観させてもらいたい.



 中央祭壇の左側は,今回も「祈る人のため」のコーナーになっており,観光客が入らないようにロープが張られていた.

 このコーナーの中に,ベルナルド・ダッディの「聖ラウレンティウスの殉教」のあるプルチ礼拝堂,マーゾ・ディ・バンコの「聖シルウェステルの物語」のあるバルディ・ディ・ヴェルニオ礼拝堂,ドナテッロの「キリスト磔刑像」があるバルディ礼拝堂がある.こちらからはドナテッロの木彫の磔刑像が遠目に見えるだけで,マーゾのフレスコはまったく分からない.

 ここは多分,いつ来ても一般の人に公開されないのではないかと思う.残念だが,教会は信者のものだから仕方がない.マーゾの作品は,他所で殆ど見ることができないので,いつの日か是非見たいものだと思う.

写真:
ロープの向こうの礼拝堂


 堂内の板絵,カンヴァス画は右側壁の奥から見ていくと,作者が今のところわからないものもあるが,(後日:帰国後,2012年にイタリア・アマゾンで入手したTimocy Verdon, ed., Alla Riscoperta delle Chiese di Firenze, 3. Santa Croce, Firenze: Centro Di, 2004に拠って,作者が分かったので,補うが,この本で分かったものは*印をつける.「ペテロの否認」と思った絵は「エッケ・ホモ」だったが,私たちの思考・学習過程なので,消去しない.2013.6.16)
 ・「イエスのエルサレム入城」(チーゴリ)
 ・「ゲッセマネの祈り」(*アンドレア・デル・ミンガ
 ・「キリスト笞刑」(*アレッサンドロ・デル・バルビエーレ
 ・(「ペテロの否認(?)」ではなく)「エッケ・ホモ」(*ヤコポ・コッピ
 ・「ゴルゴタへの道」(ヴァザーリ)
 ・「キリスト磔刑」(*サンティ・ディ・ティート)となり,
 左側壁はファサード側から
 ・「キリスト降架」(ナルディーニ)
 ・「キリスト復活」(サンティ・ディ・ティート)
 ・「エマオの饗宴」(サンティ・ディ・ティート)
 ・「トマスの不信」(ヴァザーリ?)
 ・「キリスト昇天」(ジョヴァンニ・ストラダーノことヤン・ファン・ストラート)
 ・「聖霊降臨」(ヴァザーリ)
 の順で,左壁面奥から右壁面奥まで,一連のキリスト受難の物語になっている.

 サンタ・クローチェはフランチェスコ会の教会だが,同修道会の教会によく見られる2つの翼廊と身廊からなるT字型の単廊式といわれるタイプではなく,T字型だが,三廊式のようだ.

 よく見られる三廊式の場合は,2つの柱列によって身廊と左右の側廊に分かれており,側廊にあるいくつかの礼拝堂(サイド・チャペル)に祭壇画が飾られていることが多い.壁面と簡単な祭壇だけでも「礼拝堂」という場合もあるのかもしれないが,サンタ・クローチェ教会では,左右壁面に板絵,カンヴァス画が置かれているコーナーを「礼拝堂」とは言っていないようだ.少なくとも私たちが頼りにしているミケレッティ本でも「礼拝堂」とは言っていない.

 これらの絵のある場所は礼拝堂(カペッラ)ではなく,祭壇(アルターレ)と呼ばれているようだ.このアルターレの間に,左壁面にはマルスッピーニの墓碑(デジデリオ・ダ・セッティニャーノ),ガリレオ・ガリレイの墓碑,右壁面にはミケランジェロの墓碑(ヴァザーリ監修),マキアヴェッリの墓碑,ダンテの記念碑,レオナルド・ブルーニの墓碑(ベネデット・ロッセリーノ),ロッシーニの記念碑がある.

 その中の「ヴィットリオ・アルフィエーリの墓碑」は,パラティーナ美術館,ローマのボルゲーゼ美術館にも作品がある19世紀イタリアを代表する彫刻家アントニオ・カノーヴァの作である.

写真:
ヴィットリオ・アルフィエーリ
の墓碑(左奥)
手前柱には説教壇


 アルフィエーリという人に関しては全く知らなかったが,先日スコローピ教会前の露店の古本屋で,イタリアの劇作家によるギリシア悲劇の翻案『アンティゴネ』を迷った末買い,作者について調べたら,この人だった.18世紀イタリアを代表する文人で,ギリシア劇やセネカ劇を先行作品とする悲劇も何作か書いているようだ.

今,彼について詳しく勉強する余裕はないが,ギリシア悲劇とセネカの影響を受けた作家の一人として記憶にとどめておきたい.「イタリア悲劇の開祖」とまで言われているらしい.


 1803年に亡くなっているので,シェイクスピアの死後187年後,ジャン・ラシーヌの死後104年後である.「イタリア悲劇」は必ずしも他国に先行してたわけではないようだ.喜劇作家のゴルドーニは1793年死去,現在はオペラの台本作家として名を残しているメタスタージオの死は1782年なので,時間差のある同時代人と言えるだろう.

 アルフィエーリの墓はミケランジェロとマキアヴェッリの墓の近くにあるが,この位置が,この劇作家への評価の高さを反映しているかどうかは断言できない.しかし,ベネデット・ロッセリーノの「聖母子」,ベネデット・ダ・マイアーノの「説教壇」という彫刻系の傑作の傍で,大変よく目立つ位置にある.少し遠いが,ドナテッロの「受胎告知」も同じ壁面にある.



 カステッラーニ礼拝堂のアーニョロ・ガッディのフレスコ画とミーノ・ダ・フィエーゾレのタベルナコロ,バロンチェッリ礼拝堂のタッデーオ・ガッディのフレスコ画「聖母マリアの生涯」とジョットと弟子たちによる多翼祭壇画,マイナルディの板絵「腰帯の聖母被昇天」も3度目の鑑賞を果たした.

 ジョットたちの祭壇画は,晩年の1328頃年の作品だからだろうか,大天才の作品としては翳りが見えるように思える.これは勝手な推測だが,かつて工房にいた有能な弟子たちも独立して親方となり,それほどの才能には恵まれていない弟子たちの助力を得て完成させた作品なのかもしれないと思う.

 これを描いた直前の1325年頃には,同じサンタ・クローチェのバルディ礼拝堂(同じ名前の礼拝堂が左翼廊にもあってややこしいが,右翼廊の方のバルディ礼拝堂)に「聖フランチェスコの物語」を描いており,こちらは世紀の大傑作だし,バロンチェッリの多翼祭壇画の後にも,ボローニャのサンタ・マリーア・デーリ・アンジェリ教会の多翼祭壇画(現在,ボローニャの国立絵画館蔵),ホーン美術館の「聖ステパノ」といった傑作も描いているので,決して才能が枯渇したのではないだろう.天才は死ぬまで天才だったが,「偉大なホメロスも時には居眠りをする」(ホラティウス『詩論』)というところだろうか.豪華絢爛で目を奪われる作品ではあるが.

 ペルッツィ礼拝堂の「洗礼者ヨハネの物語」と「福音史家ヨハネの物語」は剥落が激しくて,残念ながらその真価を理解するに至っていないが,「聖フランチェスコの物語」は何度見ても,感動を新たにする.



 サンタ・クローチェは,フラッシュを焚かなければ写真可なので,今回は美術館ではメモを取る代わりに,作者名を記したプレートも写真に収めてきた.したがって,今回はミケレッティ本に言及のない作品も,美術館のものに関してはいつ頃の誰の作品かほぼ把握できた.

 それらについては,聖具室,メディチ家礼拝堂,パッツィ礼拝堂とともに,次回に続く,ということにしたい.明後日,朝からボローニャに行って来るので,多分その翌日以後になると思う.





カステッラーニ礼拝堂(右)
バロンチェッリ礼拝堂(左)