フィレンツェだより |
シニョリーア広場とランツィの開廊 サン・ピエール・スケラッジョ教会前から |
§執筆中の鑑賞活動
ローマ悲劇はギリシア悲劇ほどの傑作があるわけではないが,期待せずに読めば,それなりに面白い.特に修辞的な言葉の力は,確かにある時代には影響力を持ったというのはわかるような気がする. 固有名詞の扱い(ギリシア神話の登場人物なのに,ラテン語名にして,さらにそれをカタカナで表記する)や,ギリシア悲劇との関係をわかりやすく説明するというのは,けっこう難しいように思える. このシリーズの方針として,原文を引用し訳文を添えることになっているが,それほど多くは無い紙幅でどこを引用するかということも頭を悩ます.結局,引用の一部は割愛し,全体の分量を縮小することになりそうだ. ![]() 特別企画は,9月27日から12月15日までの木曜日の午後と土曜日の午前中に,ボナコッシ・コレクションとサン・ピエール・スケラッジョ教会跡の無料ガイド付き見学を実施するというもので,1回につき20人限定,要予約ということだった. 私たちの予約は,木曜日の2時45分からボナコッシ・コレクション,同日4時15分からがサン・ピエール・スケラッジョ教会跡の見学という順番でとれていた. ボナコッシ・コレクション ボナコッシ・コレクションは,1955年に亡くなったアレッサンドロ・コンティーニ・ボナコッシが,美術史家で批評家としても有名なロベルト・ロンギとバーナード・ベレンソンの助言を得て収集したもので,1969年に寄贈されて国有財産になり(グローリア・フォッシ,松本春海訳『ウフィッツィ美術館 公認ガイドブック』,1998,p.154),現在ウフィッツィ宮殿の専用展示室に収められている. 絵画35点,彫刻12点の他,焼き物,家具などの展示もある.入口は通常の入口とは別にランベルテスカ通りにあり,普段は非公開になっているようだ. 「公認ガイドブック」に紹介されているのはサッセッタの「雪の聖母の祭壇画」のプレデッラの一部と,ヴェロネーゼの「ジュゼッペ・ダ・ポルトと息子アドリアーノの肖像」だけだが,14,15世紀の作品でサッセッタの他に印象に残る作品も複数あったし,ヴェロネーゼの絵は今回展示されていなかった. ![]() 特にプレデッラは「雪の聖母の奇跡」からローマにサンタ・マリーア・マッジョーレ教会が創建される物語が描かれ,絵画技法的にブランカッチ礼拝堂のマザッチョやマゾリーノのフレスコ画の影響が見られるということで,ガイドの若い男性も熱弁をふるった. しかし,このシエナ派の画家の絵を見てまだ感動したことのない私には,はす向かいにあったアーニョロ・ガッディの三翼祭壇画「玉座の聖母子と聖人たち」が良かった. 鶸と思われる鳥が幼児イエスの手にとまっており,聖人たち中では右端のミニアスが立派だった.聖母の顔にやはりこの人らしい特徴があるのだろうと思った.上品な聖母だ.確かに技法は斬新かも知れないが,聖母子だけ比べれば,アーニョロの方がずっとサッセッタより良いと思った. ドッチョ風の聖母を描いたウゴリーノ・ディ・ネーリオの「聖母子と聖人たち」もあった.ダ・シエナという別称もあったので,多分シエナ派の画家なのだろう. ドゥッチョの作品とされる「聖母子」もあり,これは良かった.真作かどうかはわからないが,いかにもドゥッチョが描いたような聖母で,個性は,抱いている幼児のキリストの手足や衣に出るようだ.この「聖母子」が見られただけでも幸せな気持ちになる. ジョヴァンニ・デル・ビオンドの板絵「洗礼者ヨハネの物語」も印象に残る作品だった.中央の大きなヨハネはヘロデ王を踏み敷いており,大天使ミカエルのような姿に描かれためずらしい作品に思えた.彼の生涯を描いた周囲の絵では斬首の場面が生々しい. ドメニコ・ディ・ニッコロ・デーイ・カーリ(1363-1453) 「受胎告知」の木像は天使と聖母の2体からなるもので,細身の可愛らしい彫像だった.
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ベルニーニの彫刻「聖ラウレンティウス」など,絵画の他にも興味を引かれる作品はあったが,このコレクションの特徴として,少数だがスペイン絵画の良い作品があるということがあげられるだろう. フランシスコ・デ・スルバラン「修道院長アントニウス」,エル・グレコ「聖ペテロ」(弟子の作品の可能性が高いそうだ),ゴヤの「闘牛士の肖像画」,ベラスケス「セビリャの水売り」など,どれも見事だった.最後の作品は同じ題材の絵がロンドンのナショナルギャラリーにあるようだ.スペインの大画家もカラヴァッジョ風の絵を描いたのかと目を見張った. 最後にティントレットの「アテナとアラクネ」,「ヴィーナスとアドーニス」というギリシア神話に題材をとった2枚の絵を見ることができた. ともかくまとまった作品数があり,どれも大傑作とまではいかないものの,相当魅力的な作品ばかりなので,私のように単純に傑作が見たい場合も,研究的なアプローチをしている人も,見る機会があれば,是非見たほうが良いコレクションだと思う.
![]() サン・ピエール・スケラッジョ教会跡は,ウフィッツィ美術館の入口をヴェッキオ宮殿側に少し寄ったところにあり,ボナコッシ・コレクションのある建物からは少し歩く.教会はウフィッツィができたときに,その建物の中に取り込まれた.通常は公開されていないので,普段は教会跡の扉は閉まっている. 結局,ほとんどの人が最初から両方見学する予定で,ガイドも同じ青年だったので,皆で一斉に移動し,何も問題はなかった. サン・ピエール・スケラッジョ教会跡 サン・ピエール・スケラッジョ教会跡には,アンドレア・デル・カスターニョの剥離フレスコ画,「古代の3人の女性とフィレンツェの6人の名士たちの肖像」がある. この作品がサン・ピエール・スケラッジョ教会跡にあることは,ウフィッツィの公認ガイドブックにも載っているので知っていたが,現在は非公開ということは知らなかったので(探せばどこかに情報があったのかも知れないが),ウフィッツィに行く度に探し回り,見られない理由がわからないまま残念に思っていた.
これらの剥離フレスコ画は,もとはカルドゥッチ家の別荘にあったもので,その様子はデジタル復元図に見られるように,壁一面に横一列に並んでいたもののようだ. 現在は,3つの壁に分けて展示されており,入口の真向かいの壁に3人の女性像(シビュラ,エステル,トミリス),左側の壁に戦士の姿の3人の名士(ピッポ・スパーノ,ファリナータ・デーリ・ウベルティ,ニッコロ・アッチャイオーリ),右側の壁に3人の文人(ダンテ,ペトラルカ,ボッカッチョ)の絵が飾られている. これらの巨大な人物像に3面から迫られるのは壮観だった.まだサンティッシマ・アヌンツィアータ教会とサンタ・マリーア・ヌォーヴァ病院のフレスコ画を見ていないので,何とも言えないところもあるが,これまでフィレンツェで見たカスターニョの作品の中で一番立派なものだと思った.個人的な思い入れも少しあるかもしれないが,ペトラルカ像の見事なのには感動した.
1450年頃の作品と言えば,ミケランジェロ(1475年生まれ)はもちろん,レオナルド(1452年生まれ)も生まれていない.一方でペトラルカが死んで(1374年)すでに80年近くが経とうとしている.盛期ルネサンスに向けて,フィレンツェがもっとも活気があった時代だと想像する. 若きロレンツォ・デ・メディチが暗殺されそうになり,弟のジュリアーノが死んだパッツィ事件が1472年,そういえばボナコッシ・コレクションで見たカスターニョの「聖母子と聖人たち」の両端には,幼いパッツィ家の子どもたちが描かれていた.もともとパッツィ家の所有だったトレッビオ城の礼拝堂にあったもので,描かれたのは1445年頃だそうなので,パッツィ事件の30年近く前だ.この子どもたちの運命は一体どうなったのだろうか.
![]() 下の写真は「最後の晩餐」の上部にあるフレスコ画で,左から「復活」,「磔刑」,「埋葬」である.剥落は残念だが,味わいのある作品だ.
ドォーモには「ニッコロ・ダ・トレンティーノの騎馬像」という立派なフレスコ画もある.この日見た名士たちの肖像がかつてあったヴィラ・カルドゥッチにも「イヴ」や「聖母子」などのフレスコ画が残っているようだし,ベルリン,ロンドン,ワシントンの美術館にもこの画家の作品があるようだ.とても見尽くすことはできないが,機会があるごとにこの画家には注目したい. ヴェネツィアでも仕事をしているようだが,作品が残っている場所の一つが有名なサン・マルコ聖堂(モザイク「聖母の死」)だ.やはり当時も高く評価された画家のひとりだったと言えよう. 「サプライズ!」 サン・ピエール・スケラッジョ教会跡の次の部屋には,グゥットゥーゾの「ポンテ・デッランミラーリオの戦い」,カーリの「サン・マルティーノの戦い」という20世紀の大きな絵が飾ってあった. これらの絵に特に興味を引かれたわけではないが,学芸員の青年が少しの情熱の衰えも見せずに熱く雄弁に語り続けるので,前者にはジェリコーやドラクロアの影響がというような話に思わず耳を傾けてしまうし,後者に関してはこれが描かれた20世紀前半がパオーロ・ウッチェロやピエロ・デッラ・フランチェスカが本格的に再評価された時代で,彼らの絵の引用が見られるのだと言われると,なるほど,なるほどと見入ってしまう.
福山さんから,カスターニョの作品以外にウェブページの情報に出ていない「サプライズがあります」と言われていたので,楽しみにしていたが,教会跡の扉が開いた瞬間,一番奥の部屋の突き当たりに大きな剥離フレスコ画が見え,この絵を写真で知っていた私は,「そうだったのか!」とワクワクしながら入った. しかし,カスターニョの大傑作はあるは,傑作とは言えないかも知れないが,ガイドが圧倒的な情熱で語る20世紀の大作はあるはで,数えても僅かしかない作品群を全て見て,ボッティチェルリにたどりつくのにだいぶ時間がかかった. ポンテ・アッレ・モッセ通りの寓居から中央駅に行く途中のスカーラ通りに旧スカーラ病院とその付属教会がある.市が立てた説明板にもあるように,このフレスコ画はもとはここにあったものだ.
ウェブ・ギャラリー・オヴ・アートの写真を見ると,中央部の剥落が激しく,今回見せてもらった作品はかなり修復したものであることがわかる.師匠フィリッポ・リッピの影響を思わせる聖母も立派だが,そこから独自の世界に羽ばたいて行く事を表明しているかのような大天使ガブリエルが見事だ.
ズナイダーのヴァイオリン・リサイタル 11月25日,ペルゴラ劇場のズナイダーのヴァイオリン,クーレックのピアノによるコンサートの演目は,それぞれヴァイオン・ソナタでベートーヴェンの8番,シューマン2番,バッハ2番,ベートーヴェン10番の予定だった.プログラムの組み立てからいって,バッハというのは最初から違和感があったが,実際に聴いてみると,とてもバッハとは思えない曲だった,曲目変更ではなく,広告の冊子を作る際の手違いではないだろうか.演奏されたのは通称ブラームスの「スケルツォ」と言われている曲である. 「スケルツォ」は,当時大ヴァイオリニストだったヨアヒムに献呈した共作のヴァイオリン・ソナタの第3楽章で,第1楽章はアルベルト・ディートリッヒ,第2・4楽章はローベルト・シューマンが作曲したものだ.曲全体としてF.A.E.ソナタというのは,ヨアヒムのモットー「自由だが,孤独」(フライ・アーバー・アインザームFrei aber einsam)の頭文字をとったものだそうだ.私はこの曲を初めて聴いた. ベートーヴェンの8番と10番という選曲がすばらしかった.シューマンとブラームス,それを包み込むベートーヴェンというコンセプトの演奏会だったと思うが,それを支えたのはピアノのクーレックだと思う.天才ヴァイオリニストを支える,名人ピアニストと言っては褒め過ぎかも知れないが少なくとも,あの日の演奏会はそういう感想を抱いた.先日のカヴァコスはストラディヴァリウス,今回のズナイダーはアマティ,私の耳で名器を聞き分けるのは難しいが,素晴らしい音と演奏だと思えた. オペラ「運命の力」 劇場職員のストライキ(これは全国規模のものだそうで,スカラ座もストだったそうだ)で,予定していた初日公演が中止になり,12月1日に振り替えてもらったオペラ「運命の力」がまた良かった.こんな荒唐無稽な物語を説得力をもって感動させるのは音楽の力としか言いようが無い. 呪われた運命の3人が出会うところで,「これが運命の力」かと納得させる音楽が聞こえる.歌手も良かった.初日に予定されていたメインキャストではなく,言ってみれば2番手の歌手になるのかも知れないが,ドン・アルヴァーロを歌ったフランチェスコ・ホンは若く,張りのある声で素晴らしかった.若いのだから抑制はいらない.しばらくはどんどんあの声をきかせてほしい,高音が朗々と聞こえてこそオペラのテナーだ. 韓国系と聞いていたし,いかにも東洋人というその容姿を見ていると,他人とは思えず,見守る親のような気持ちで聴衆の反応が気になったが,「よくやった」という感じの若手を育てる歓声だったと思う.一部にはブーイングもあったのかもしれないが,少なくとも私の耳には入らなかった. レオノーラのキアーラ・アンジェラは抑えに抑えて,最後に聴かせた.多分,達者な歌手なのだろう.カルロを歌った,バリトンのマルコ・ディ・フェリーチェも良かった.イタリア・オペラのバリトンというのは,大事な役どころが多いように思える.でも,やっぱりホンだ. ネット検索してみたところ,ドイツ語のウェブページ(ウムラウトが文字化けして,完全にはわからないサイトもあるが,文字化けしないサイトもあった)に多少の情報があり,「ランメルモールのルチーア」のエドガルド,「ボエーム」のリドルフォ,「トスカ」のカヴァラドッシ,「トゥーランドット」のカラフ,「トロヴァトーレ」のマンリーコ,「リゴレット」のマントヴァ公爵などを既に歌っているようだ. キャリアは積んでいる人のようなので,私が親のような気持ちで聴くと言うのも変だが,1972年生まれの35歳,決して若くはないかも知れないし,アジア人がイタリアの一流の劇場で,主役級の役をもらえるというのは並大抵のことではないだろう.30歳を既に越した2003年と2004年のコンクール入賞歴を見ると,天賦の資質をたゆまぬ努力でキャリアを積んできたのだなと,感動を禁じえない. 声は努力しても得られない.間違いなく神が与えてくれた強靭な美声を武器に,これからもどんどん活躍して欲しい.幕があがって最初は,恋人役のソプラノ歌手と並んだときに子どものようにしか見えなくても,歌が立派なら聴衆は納得して賞賛を惜しまない.イタリア・オペラは良いなあ,やっぱり. ![]() それに倣って今回の「運命の力」の予習を,やはり日本語版ウィキペディアでしっかりさせてもらった.専門家が見たら不満も有るのかも知れないが,音楽に関しては,日本語版ウィキペディアからは素人には十分以上の情報が得られる.鑑賞の助けになった.心から感謝したい. |
テアトロ・コムナーレ 今回の「運命の力」はマチネ公演 |
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