フィレンツェだより |
サン・ジョヴァンニ祈祷堂 サリンベーニ兄弟のフレスコ画 |
§ウルビーノの旅(後半) −教会その他篇−
それでも彼はフィレンツェにいたこともあるらしい.ドメニコ・ヴェネツィアーノというヴェネツィア出身の,やはり天才肌の画家と,サンタ・マリーア・ヌオーヴァ病院に付属するサンテジーディオ教会の仕事をしたらしい.残念ながら,これは現存しない. フィレンツェだけでなく,マルケ州のウルビーノ,エミリア・ロマーニャ州のリミニ,フェッラーラなど,当時モンテフェルトロ家,マラテスタ家,エステ家など有力な領主の宮廷があった都市に自分を売り込んでいたようだ.これにはフィレンツェの建築家で芸術理論家レオン・バッティスタ・アルベルティのサポートがあったかも知れない. ローマでも仕事をしたが,彼のフレスコ画は削り取られて,今残っているのは,その上にラファエロが描いた絵だ. 彼の作品の最古のものが何かはわからないが,現存する作品で彼の令名を高める契機になったのはアレッツォのサン・フランチェスコ教会のバッチ礼拝堂のフレスコ画「聖十字架の物語」(1452-456年頃)であるのは間違いないだろう.アレッツォには,ドゥオーモに「マグダラのマリア」のフレスコ画も残っている. ペルージャの国立ウンブリア美術館にあるサンタントーニオ祭壇画もこの時期に描かれたのかも知れない.トスカーナ南部からウンブリアにかけて彼が大きな影響を及ぼしたことは,コルトーナ出身のルーカ・シニョレッリが彼の弟子とされ,人によってはペルジーノの師匠に同定する場合もあることでもわかる.
![]() 引退した後ばかりではなく,最も活躍していた時期にも(母の死が契機だったらしいが),故郷に長期間住んでいた.ピエロの作品がサン・セポルクロや近隣のモンテルキ(母の故郷)にあるのはそのためである.父が死んで母に育てられ,母と故郷は彼にとって心の支えであったろう. サン・セポルクロには現在残っているフレスコ画の他に,板絵もかなりあったらしいが,持ち運びができるそれらは諸方に四散してしまった.歴史の経緯でやむを得ない事情もあったに違いないが,ピエロの再評価は19世紀も半ばを過ぎてからのことである.
フランドルの影響 ウルビーノに残っている2点のピエロの作品がいつ描かれたかは,議論の対象になっているようなので,確実な情報を得ることはできないが,ウルビーノという町が彼の作風に大きな影響を与えたという説には説得力があるように思われる. このことを考える重要な手がかりとなる作品が,国立マルケ美術館にある. 昨日報告したように,パオーロ・ウッチェッロの「オスティアの奇跡」は,今回その真価を理解するに至らなかったが,これは元来祭壇画下部のプレデッラとして描かれた作品で,ウッチェッロが描かなかったため他の画家によって描かれた祭壇画の上部部分も,この美術館にある.ヘント(ガン)のユストゥス(ジュスト・ダ・グァント)という画家による「使徒たちの聖体拝領」という作品である. 「オスティアの奇跡」もオルヴィエートの「ボルセーナの奇跡」同様,聖体拝領にまつわる物語であるが,愉快な話ではないので,ここでは触れないが,プレデッラに見られる「反ユダヤ主義」を緩和する役目を果たしている上部の絵を描いた画家がフランドル出身の人だったことの意味は,重要なものに思われる. 1460年代,フェデリコ公の統治下の最盛期のウルビーノにピエロが,このフランドルの画家と同時に滞在していたことには,もしかしたら大きな意味があったかもしれない.
ユストゥスは,「アルノルフィーニ夫妻の肖像」(1434年)で有名なヤン・ファン・アイク(エイク)の兄フーベルト(この人の描いた「ヘントの多翼祭壇画」の「神の仔羊」は宗教音楽のレコードジャケットによく見られる)の弟子にあたる画家らしいが,当時フランドルの芸術がイタリアでも尊重され,影響を与えたらしいことが,この画家を通して少しわかったように思えた. 音楽に関しては,イタリアはフランドルの影響を受けたことは知識としては知っていたが,実は絵画のルネサンスに関しても,フランドルは重要な位置を占めていたことに今更ながら気づかされた. ジョヴァンニ・サンティ ピエロとユストゥスの関係は明確にはわからないが,明らかにユストゥスの作品を模した絵を残した画家がいる.ラファエロの父ジョヴァンニ・サンティだ. サンティは,ヴァザーリ『画人伝』の「ラファエロ伝」に拠れば,「大した才能はない画家だが,立派な知性を持った人物」であるとされ,画家としては全く評価されていない. しかし,「ピエロ・デッラ・フランチェスカの弟子で,フィオレンツォ・ディ・ロレンツォの影響を受け,メロッツォ・ダ・フォルリの助手を務めて,ウルビーノの宮廷画家となった」(英語版ウィキペディア)と聞くと,やはり画家としても成功した人物だと思う. フィオレンツォはペルージャで私たちがその実力に目を見張った,ペルジーノの先達にあたる画家で,メロッツォはまだその作品を鑑賞するに至っていないが,ヴァチカン美術館にも展示されている芸術家だ. 彼はボローニャからペーザロに行く途中にある大きな町フォルリ(最後の「リ」にアクセント)の出身であり,エミリア・ロマーニャ南東部,マルケ,トスカーナ南部,ウンブリアと続く,フィレンツェとはまた違う絵画史の流れがあったことを思わせる.
![]() 確かにラファエロの作品に関してはコピーばかりだが,写真ではなく,それなりの画家が描いたコピーで,本物の凄さを際だたせる意味でもプロの画家が描いた模写というのは意味があるように思ったし,地元の画家たちの作品もかなりの点数見られた. しかし,なによりも父であるジョヴァンニの作品が何点か見られたのは良かった.その中に,ジョヴァンニが国立美術館にあるユストゥスの「使徒たちの聖体拝領」から「ペトロにホスティア(聖体)を授けるキリスト」の場面を模したとされる絵がある.
![]() その中にユストゥスの名はないが,フラ・アンジェリコ,ギルランダイオ,ボッティチェルリ,レオナルドなどフィレンツェの画家の他に,ピエロ・デッラ・フランチェスカ,ウンブリアの画家たち,フェッラーラの画家たち,ヴェネツィアの画家たちに混じって,2人のフランドルの画家の名前を挙げている(ヤン・ファン・アイク,ロヒール・ヴァン・デル・ウェイデン).
ジョヴァンニの作品では,日本語ウェブページでも賞賛されていた「受胎告知」が良いと私も思った.もともとはセニガッリアのサンタ・マリーア・マッダレーナ教会の祭壇画だったのが,1809年フランス共和国軍に奪われ,それ以来同ミラノのブレーラ絵画館にずっとあったが,イタリア政府の肝いりで1965年にこの博物館に展示されることになったとのことだ. 国立美術館にある「ブッフィ祭壇画」(玉座の聖母子と聖人たち)もウルビーノのサン・フランチェスコ教会の礼拝堂のために描かれたものということなので,宮廷と教会から注文をもらえる,当時は成功した画家であり,文人だったことになる. ラファエロの父方の祖父サンテ・ディ・ペルッツォーロは,公爵領の小村コルボルドーロ(ここでジョヴァンニは生まれた)から家族を連れて,1450年にウルビーノに出て,1456年に家を購入して,ここに板絵の下塗りや金箔塗りを専門とする工房を開いて,繁盛したらしい.息子のジョヴァンニは,この環境の中で職人の技を磨き,画家,詩人としての道を切り開いた. ここで,1480年にジョヴァンニはマジーア・ディ・バッティアスタ・キアーラと結婚し,3年後の1483年4月6日午前3時にラファエロは生まれた.両親と叔父の死後,この家の所有権はラファエロのものとなったが,彼の死後は様々な経緯と改築,修復を経て現在に至っている.もちろん,当時そのままではないだろう. ![]() 才能が輩出したウルビーノ ウルビーノおよびその近郊から出た有名な芸術家の中に,ジローラモ・ジェンガ(c.1475-1551年)がいる.彼の作品をシエナで見たので,ウルビーノ出身でよその土地で活躍した芸術家だと思ったが,2人のウルビーノ公爵,グィドバルド・ダ・モンテフェルトロとフランチェスコ・マリーア・デッラ・ローヴェレ1世に雇われて,特に後者には困難な時期も忠実に仕えたらしい. ジェンガは建築家としても有能で,フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニとルチアーノ・ラウラーナがフェデリコ公の時代に手がけて未完のままになっていたドゥカーレ宮殿を完成させたのも彼とのことだ. この画家の作品は「アエネアスの亡命」をシエナで見ているので,ルネサンス絵画の古典文学受容という点からも興味深く思っていたが,それほど重要な芸術家とは思っていなかった.しかし,弟子として,フランチェスコ・メンゾッキ,ラファエッリーノ・デル・コッレ,アーニョロ・ブロンズィーノ,ドッソ・ドッシの名が挙げられると見る目が変わってくる. ブロンズィーノ,ドッシはフィレンツェやローマで活躍した大物であり,メンゾッキ,デル・コッレの作品はウルビーノの美術館や教会で見ることができる.前者はフォルリ,後者はサン・セポルクロの近くのコッレ出身とのことで,「地元の画家」とは言えないが,エミリア・ロマーニャ南部,マルケ,トスカーナ南部,ウンブリアを活躍の場とする,一連の画家たちの流れにいると言えるだろう. ![]() ヴァザーリの「ラファエロ伝」に拠れば,彼はラファエロの遠縁にあたり,教皇庁にラファエロを紹介したのは彼で,ミケランジェロが鍵をかけて誰も入れなかった制作中のシスティーナ礼拝堂を,留守中にこっそりラファエロに見せ,ラファエロの画風が変わるきっかけを作ったのも彼だとしている. フェデリコ・バロッチ しかし,ウルビーノ出身でラファエロに次ぐ画家ということになると,何と言ってもフェデリコ・バロッチ(1528-1612年)であろう. ローマのボルゲーゼ美術館にある「アエネアスの亡命」は以前から知っていたが,実物を見たのは先日ローマに行った時が初めてだし,その他の作品に関してはウフィッツィで見られる作品(「民衆の聖母」など)以外全く知らなかったが,今回この画家の作品をまとめて見ることができた. 最初の師匠とされるバッティスタ・フランコはヴェネツィアの画家だが,彼はウルビーノで仕事をしており,その作品はドゥオーモ博物館で見られる.バロッチはその時期の弟子ということになる.その後,バロッチはローマに出て,ジローラモ・ジェンガの息子で建築家のバルトロメオ・ジェンガ,タッデーオとフェデリコのズッカーリ兄弟など,ウルビーノとその周辺の出身の芸術家たちの教えを受けた. 主としてローマで活躍し,最終的にはウルビーノで死んだようだが,ローマにいる時もウルビーノ公(フランチェスコ・マリーア2世)の庇護を受けていたので,かなりの点数の作品がウルビーノで見られる. 国立マルケ美術館,ドゥオーモ,ドゥオーモの隣のアルバーニ教区博物館で相当の点数が見られるが,国立美術館にある「聖母子と聖人たち」,「無原罪の御宿り」,「聖フランチェスコの聖痕」,「聖母被昇天」は傑作だと思う. ドゥオーモの礼拝堂にある「最後の晩餐」は1日目の夕方行った時は,お祈りの最中だったので遠慮し,翌朝拝観した. 教区博物館にはバロッチの作品は2点(「猫の聖母」,「聖ヒエロニュモス」)だけだが,彼以外の画家の絵がたくさんあり,なかなか見応えがあった.グィド・レーニの剥離フレスコ画「マグダラのマリア」,リベラーレ・ダ・ヴェローナの「聖なる会話」など地元以外の画家の作品も,ティモテオ・ヴィーティ,ジローラモ・チャルディエーリ,フェデリコ・ズッカーリなど「地元の画家」や「地元出身の画家」の作品も見られた. サン・フランチェスコ教会の祭壇画「アッシジの贖宥」もバロッチの作品とされるが,朝8時に拝観に行った時,お祈りが始まりそうだったので,遠くから見ただけだった.
その他に見られた作品 サン・ドメニコ教会のファサードの扉上のリュネットにはルーカ・デッラ・ロッビアの彩釉テラコッタ「聖母子と聖人たち」があるが,これはコピーで,オリジナルは国立美術館で見られる. ![]()
![]() このウルビーノ出身の彫刻家の作品はその部屋の天井にもあった.漆喰(ストゥッコ)による細工装飾である.彼の漆喰による細工装飾作品は,サン・ジュゼッペ祈祷堂でも見ることができた. サン・ジョヴァンニ祈祷堂,サン・ジュゼッペ祈祷堂 サン・ジョヴァンニ祈祷堂と近くのサン・ジュゼッペ祈祷堂は,ガイドブックにウルビーノの観光ポイントとして紹介されているので行ってみることにしたが,あまり期待はしていなかった. ラファエロの生家見学の後,坂道を登って,アルボルノツ要塞のある丘の公園に行き,眺望を楽しんでから,一気に階段の下り坂を下りて,両祈祷堂のあるバロッチ通りに出た. しかし,開くはずの10時になっても扉は閉まったままだ.他にも2人の人が所在なさげに待っている.しばらく待って,あきらめかけた頃,10分以上遅れて係員が走ってきて,まずサン・ジョヴァンニ祈祷堂の鍵をあけてくれた. 両方ともそれぞれ1人2ユーロの拝観料を取るが,どちらもそれ以上の価値があった. ![]() ザカリアとエリザベトの光輪が四角い(四角いのに「輪」は変だが)のが面白かったし,ある程度まとまった分量が見られたのが良かった.祝福するザカリア,荒野に旅立つ幼いヨハネ,自然の風景や,登場人物の描き方など,様々な点で興味深かった.
![]() ブランダーニのストゥッコによるプレゼピオももちろん良かったが,祭壇も立派で,左右の壁面には「聖ヨセフの物語」の一連の大きな絵がかけられた立派な教会のような祈祷堂だった. 私たちと一緒に鍵の開くのを待っていた青年は,オルガン奏者を目指している若者のようで,私たちが入ったときは熱心にバッハの曲を練習していた.
居心地の良い町,ウルビーノ ウルビーノの坂道を歩いていて,「ルネサンスの町」を体感するまでには至らなかったが,自然に恵まれ,昔の風情が残るこの町に,わずか一泊だが滞在して,多くの素晴らしいものを見て,色々のことを考えさせられた. 中心の広場から坂を降りた,城壁のすぐ傍のホテル・ボンコンテも古風な味わい深い宿だった.丘の縁に建っているので,窓からの眺めも良かった.
夕食を食べたラ・トラットリア・ディ・レオーネの定食が手頃な分量で食べやすく,うまかった.4分の1ボトルを頼んで味わったマルケ州産のサンジョヴェーゼのワインも良かった.何と言っても店の主人が感じの良い人だったし,落ち着いた清潔な感じが嬉しかった.
![]() ただし,ペーザロとの往復のバスは要注意だ.バス乗り場はペーザロの駅を右に少し行ったところにあるが,まず駅舎と同じ建物にあるバールでチケットを買う.急行(ラピーダ)と普通(ノルマーレ)があるが,急行もほぼ1時間おきに出ているので,それに乗ったほうが良いだろう. バス会社のホームページの情報はあまりあてにならないので,余裕を持ってペーザロに向かい,バス会社の係員か,乗り場に並んでいる(急行は1番手前)人に聞くのが良いだろう.私たちも事前の情報収集が十全でなくて不安だったが,係員や他の乗客の方に親切に教えてもらって,無事直近のバスに乗ることができた.それでも40分は待ち時間があった. 私たちの乗った1時55分発の2階建てバスは,ペーザロからウルビーノ方面に帰宅する高校生で満杯になったし,帰路のウルビーノを1時55分に出るペーザロ行き(これは2階建てではなかった)には,これまた大学生がたくさん乗りこんできて,座れない人もでるほどだった.観光シーズンともなればどれほどの混雑になるのだろう.ともかく時間の余裕を持ってバス停に行き,ギリギリに駆け込まない方が良いだろう. 3時45分ペーザロ発のインターシティに乗り,ボローニャでユーロスターに乗り換えて,7時前にフィレンツェに無事帰還した. |
丘の上で 遠くには雪をいただくアペニン山脈 |
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